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“How do you spend your weekend?” (10-22-2019)

2019-10-28 11:37:19 | Megu's Sports

★Megu'sSports

・数週間前のこと。週末に、“予定”が入っていた。土曜日, ‘Family Friens’との夕食。日曜の午後、コンドミニアムを購入した時の売り手の不動産屋とゴルフ。Sounds not too bad, right?  誘っていただいて、ありがたいのですが、“楽しみ”にしている予定というよりも、”お付き合い”って感じ。土曜の朝、良い天気の下、トレーニングライドしながら、気が重くなってきた。

土曜日のディナー。友達の家にて。彼らとあう時、外食と家でのご飯と、だいたい半々。外食すると、大抵がチャイニーズか日本食(彼らは、日本に長く住んでいた中国人)。チャイニーズは、重いし、この辺の日本食、イマイチ。どっちかって言ったら、家めしを好む。一方、家に行くと、彼らの娘の育ちぶり、育た方を見ていると、もどかしくなる。まあ、子供がいない私がいうのも、なんですが。ライフスタイルも、そう。典型的な、ベイエリアに住んでいる、“外国人”。せっかく、多民族国家・エリアにいるのに、付き合ってるのは中国から来た中国人。で、自国の言葉を話している。娘の学校も、場所柄、ほとんどが、中国人とインド人。彼等の娘は、週一のダンス以外は、体を動かすことなし。アメリカ人・ヨーロッパ人の子供がいる、スポーツ・チームに入れればいいのに。子供って、アクティビティから社交性学ぶんだから。彼らは、私のことを家族の一員として見てくれるので、その点は感謝してるんだけど、会うと、いつも”意見“が出てきてしまう。

日曜日の午後のゴルフ。不動産屋、駐車場のことなどで問題があった時に、色々アドバイスをもらった。春ごろから誘われていたので、“レースシーズンが、落ち着いたら”って言っていた。で、その時がきたので。” 9 whole/Best Ball”ならいいよ、って。そうでないと、私、ゴルフしないので、時間がかかるから。Tee Timeが、12時半で時間がないので、自分の予定していたトレーニングをするには、スケジュールを前もって、週の初めの方に、調整することになる。不動産屋、I know him well enough, but not so well. “Small Talk”(社交的なたわいのない会話)は、できるけど、あまり好まない自分。そんなによく知らない人と2時間過ごすと、疲れる。ゴルフの後、“何か食べに行く時間はあるか”って誘われたけど、“やることがあるので“って断った。2時間で充分。アウトドアが好きなんだけど、ゴルフで外に居た割には、満足感が得られるどころか、不満足感にかられる。海に行けたのになあとか。せっかく、いい天気なのになあとか(このエリア、ほとんど天気はいいんだけど)。

・家に帰ってきたら、友達が近所の山に散歩に行こうっていうので、夕方、日が沈む前に歩きに行った。これが、機嫌を変えるのに助かった。気がしれる友達、Nature, and Sunset。ほとんどの週末、自分の好きなことやっているので、たまに“付き合い”があっても、いいんだけど。だけど、週末って、精神的にリフレッシュして、次の週をいいムードで向かえるようにする時間。このような、”Obligation”(=付き合い)が、たまにあると、自分の時間により感謝ができる。でしょ?

 

 

 


“ミャンマアー PrJ Part 2 “ ’19-10-22

2019-10-22 08:12:25 | Massy's Opinion

★Massy’sOpinion

・ヤンゴン空港 

空港からオフイス迄 セドリックの寄贈した車が迎えに来た。ヤンゴンの空港はまるで砂漠の中見たい。ホテルは建築中で、工事がストップしている。滑走路から空港の建屋まで、日本のリムジンバスの中古車が使われていた。勿論、今から25年も前の話。結構いろんな海外の空港を見ているが、空港には、その国の経済力が表れている。空港に出迎えに来ていた車は、我々が今度のプロジェクトで寄贈したセドリックのストレッチリムジンだった。一見してVip待遇と言うのが解った。前回も書いたが、今度のタクシ―中古車の輸出で、一番考えたのはショックアブソバ―の交換だ。何しろ、当時は一台分4本替えると30万位掛かってしまう。何か「当てつけられたのかな?」と感じながら、乗った。処が全然そんな感じはしなかった。道路が悪いので、振動は当たり前なのである。

何か、おとぎの国へ来たような感じで政府の事務所に着いた。もう昔の事で、よく覚えて居ないが、偉い人(将軍級、大臣?)に先ず今回のプロジェクトで車両がご要望の台数だけ、無事にヤンゴンに着いたことにお礼を言った。言葉は全然通じないが、顔色で凄く感謝して貰ったのだけは良く解った。一人、佐官級の人が専任で付いてくれた。政府の事務所の中や、会議室の座り方は中国風であった。会話は仲介商社のT氏がミヤンマー語と英語、本当に英語の所々は解ったが...先ずは玄関前にセドリックが止まって居ると全然中古車には見えない。堂々としていて一安心だった。

 ・ホテル バイヨーク?

表敬訪問後ホテルに案内されたが、新築のホテルである。大きな湖の畔にある確か3階建てだったかな?ヤンゴン市内には、古いホテルで一番なのはラッフルズが他に一軒ある。

湖が見渡せる良い部屋だった。翌朝起きて湖を眺めて居たら、女の人が一人全裸で水浴びをしていた。食事は味が如何も口に合わない。香辛料が強いのだ。専ら、滞在中はサンドイッチとコヒーばかりがホテルでの食事だった。今から7~8年前にヤンゴンに行った人の話では、このホテルは火災にあって再建築されたらしい。

 ・超Vip待遇

まあ、当時のミヤンマーでは、国際交流も少なく、「Visit Myanmar」(ミヤンマー観光年計画)を翌年に控えて、我々がお客様の第一号みたいで、移動は全部セドリック運転手付き、テレビには出るし、新聞にはNissan Motorsのpresidentと出るし、幾らdealerだと説明しても理解して貰えない。その内に、米国のミゾリー州の団体から、ColaかPepsi Cola忘れたが「国交がないのに余り変な動きをするな」とか良く解らないクレームが入ったり、「世界の情報網は早いな」「我々はミヤンマーからの要望に応えているだけなのに...」と思ったりしたが、余り、大ごとにはならなかった。

・朝からの説明会

翌日、ミヤンマーのタクシー外車の工場で今回の納品車の説明会が開催された。約60人位の人が集まった。ポイントは、LPG車だと言う事。兎に角、現地には初めてなのだから...それと、中古車だと言う事、日本には法定で定められた整備はしてある事等の説明だ。冒頭の挨拶は僕がしなければ成らない。T氏に通訳を頼んだが、「社長ご自分でどうぞ...」にやにや笑って取り上げて呉れない。僕の英語力は充分わかって居る筈なのに...仕方ないから腹を決めて、女の人は居ないから「Gentlemen Good Morning...」た。次の多少詳しいLPGの仕組みに成ると戸惑ってしまう。すると一人日本語の判る年配の人が手助けを始めて呉れた。聞くところによると戦時中毎日新聞の記者をされて居た経験があると。本当に大助かりで午前中一杯の説明会は終わった。集まった人たちは、目を輝かして非常に友好的な雰囲気だった。僕も、中国、台湾等数回LPG車の講習会を経験しているが、一番友好的、勿論言葉の問題もあるが、「人の好さを充分に感じされる」説明会を参加者のお陰で拙い言葉ながら何とか無事に出来た。

 ・市内中心地 政府指定の整備工場見学

翌日は、政府指定の整備工場を中心にヤンゴン市内の自動車関連会社を見学した。「SKT」と言う整備工場に一番で行ったがそこは400坪位の工場で、社長は30代半ば位の白人で医学生だったとか、リフトが3台あり洗車場もあった。こう言う工場へ行くと直ぐ、部品庫を見る。其処の配置、部品の並べ方、で工場のレベルが解る。此処では、外販用の部品カウンターがあり,エアーフイルターや電球が置いてあり、日産の純正部品箱と似ているパッケイジニ成って居た。作って居るところを聞いたら、香港、台湾、シンガポール等だと言って居た。今回、我々が入れた車は全部ここで整備する様だった。社長はシンガポール生まれで、自動車の商売は、「Good Business」と言っていた。その他、トヨタ,スズキ、ホンダのディーラーを覗いてきたがトヨタが一番新しくスズキ、ホンダは閑散としていて半分閉店の様な感じがした。

途中で新型セフィーロに出会ったが。「何処から入ったんですか?」と聞いたら、偉い外交官がシンガポールから入れた様だ」と言う話だった。

 ・観光その他

仏教国だけあって、坊さんの托鉢には度々遭遇した。政府の人にも何人もあった。スポーツの話、日本の事情等の話の中で、野球を薦めたが、「お金が掛る。サッカーの方がボールが一つで済む」この辺は、隣国タイとは随分経済力が違うのだろう。海岸沿いは、Difence(防衛庁)の管轄に成るらしく、「マグロも沢山居るし、船もある、良い漁猟長はいないか?」と大臣に聞かれた。街の中には矢張り中心区がある多くの人出で混雑していたが、高価なものはない。丁度、80年代の中国の様だった。

 ・シンガポール経由 帰国

折角、遠くまで行ったのだし飛行機の都合もあって、シンガポールへ廻った。こちらは全くヤンゴンとは違う近代化都市である。世界は広いな...と痛感した。日本食が食べたくなって、全日空ホテルの「天海」に行った。お店に入ると、「築地直輸入のマグロが入荷しています」と広告が出て居た。同行者と「なんだいこれは!昨日この辺でマグロが取れると言って居たよね?」「?この辺で釣れた物を築地へ持っていって、又、ここ迄持ってくるの?」「それにしても、物の流通と言うのは大変なものだな!」今度の仕事は、面白かったな。色々勉強になったしな。その後、ミヤンマーから幹部がお礼に来日した。このプロジェクトを組む時、メーカーの国内営業は、賛成、海外営業は中古車を入れて、日産の評判を落としたら後の輸出の妨げになると反対。色んな議論があった。この幹部連中の迎い入れにはメーカーに動いて貰わないと格好がつかない。そこで、担当副社長に談判に行った。しぶしぶ了解して会談の日程を決めた。当日輸出部では部屋を用意して、お土産にニコンの高価なカメラを準備してくれた。これで、東京見物を案内して、喜んで帰国して貰った。

 ・このプロジェクトから13年後

たまたま、このプロジェクトに参加したメンバーの中の一人が、ミヤンマーに行って来た。そして、「未だ、あの時の車が動いてますよ。エンジンはガソリンに代わって居ましたがね。 屹度、中国か韓国の物でしょう。色は昔の儘ですよ」と言う話を聞いた。多分、走行キロは120万キロ位に成って居るだろう。最近、東京のタクシーでも75万キロ迄使っている様だ。

僕は、八王子営業所長の時、八王子教習所の代替えと新設の教習所のオープンの時、250台の一括受注をして3月31日の約束の日にキチンと納車した。もうこんな大口商談だの未来指向を探索するようなプロジェクトは組めないだろう。特に八王子の社長とは初めてゴルフをして兎に角、一生懸命にやろうと思った。予想外に80台のスコアが出たら「もうお前から車は買わないぞ」と言われたが、仕事はキチンとやれた。良く動いて呉れた仲間のお陰である。

                            

         ・サービス工場

         ・繁華街の部品屋


“ミヤンマーPrj Part 1”   ‘19-10-22

2019-10-14 22:14:51 | Massy's Opinion

タクシ―中古車350台輸出の思い出

★     Massy’sOpinion

・輸出中古車概況

僕が、東京日産の中古車部長を命じられたのは、1984年で、今から約40年位前の事である。海外旅行に始めて行ったのが、香港、マカオ、広州でこれが1981年、決して早い時期に行った訳ではない。然し、日本車の評判が海外にも知れ渡り、旅行中に船のボーイに「三菱の部品は手に入らないか?」と聞かれたことがあった。「何年式?どの部品?」と聞いても、「解らない...ただ友人が自動車屋をやって居てそれがあると儲かる...」と言うような話で、人づての話である。この種の話が、自動車の素人が聞いて帰国して、話を持って歩く。そして、話は針小棒大に伝わって来る。こんな時代から今では中古車輸出が年間150万台にもなろうとして居る訳で、特にIT化の著しい発展で人づての話がダイレクトに接触できる時代に成ったので、余計に大きなビジネスになって来ている。主たる市場は、発展途上国、要するにお金のない国であり、一方,中古車の発生は業界用語である「裾物」と呼ばれる年式の古い車でこの車を幾らかでも高く売れれば経営上大きなメリットに成る。これは、本当にあった話だが、僕の直接の上司はメーカーから来た人で、当時、アメリカ日産の社長に成った、有名人片山さんから国内の部品商でこういう部品は手に入らないか?という要望があった。そして、僕の親父がまだ部品商をして居たのを知っているので、「お前の所で、こういう部品手に入らなか?」と聞かれた。「えっおかしな話だな、片山さんが要望しても手に入らない部品が手に入る訳けは有りませんよ」メーカーは生産計画を3ケ月単位で組むので、緊急には在庫が無いので、急ぐアメリカのデイ―ラー間に合わないが、日本の部品商で在庫があればその方が少しでも早く間に合わせられると言う事だったのである。この様な経験が僕の中古車輸出に関する知識を人より豊富に持てた一因かもしれない。今朝、中古車の輸出を起業した慶応卒の若い人が書いているブログに「起業したけれど、儲からないので1年で辞めた」と言う記事が載っていたが、中々素人には馴染まない業界である。

・このミヤンマーへのタクシーの中古車を350台も纏めてこなせるところは、先ずないだろう。又、自動車業界で2度と出来ないことだと思う。当時の僕の中古車輸出の経緯を記録してみよう。実は、’91年に僕が日産特販の社長を任命された時にある条件を付けた。それは、日産自動車の中で中古車部に居た人、他にも日産と三井物産の合弁会社の立ち上げに関わった人、の2名を部下に付けて貰う事をお願いした。僕と専務の永田さん(鉄山の息子)皆、日産オークションを手掛けたメンバーである。‘93年には、此のスタッフが揃った。当時のミヤンマーは、ガッチリとした軍事政権、一応民主主義の形も取って、スー・チーさんが、抵抗運動を続けていたが、多民族国家で安定はして居るものの東南アジア周辺国とは可成り経済格差が生じていた。基本的には豊かな自然に恵まれた仏教国で対日感情は素晴らしくいい国である。当時のミヤンマー政権は’97年に経済振興のために「Visits Myanmar」と言う観光客誘致を計ることを決めたのである。其の為の交通手段として、「ヤンゴン市内にタクシーが必要だ」と言う事になったのだ。情報も乏しいし、予算も解らない。話はタクシー会社、芸能事務所等自動車素人の人からも飛んでくる。ミヤンマーの人には直接は、接触が出来ない。その内に個人でミヤンマーのコンサルチングをやって居るT氏と出会い話を進めることに成った。その人は、オリベッテイの香港所長を経験して成蹊大学出だった。永田専務とk君が話を詰めて呉れた。僕の東日時代の中古車部長の経験から輸出の商売は金銭の取引が一番のポイントである。増してや350台解体寸前の車でも在庫する場所、仕様の選択、整備の状況等細部に亙り決めねばならない事が有る。この過程の中で、T氏の顔を立てるようにセドリックのハイヤー上がりのストレッチリムジンを1台寄付させた。金額的には10万程度の簿価の物である。勿論、定期整備はキチンとやったがショックアブソバ―はさんざん考えたがコスト面で限度もあり、交換しないで出した。

 ・さて、次は輸送の問題だ。御存じのように輸出の取引には、CiF(=Cost,InsuranceAnd Freight)とFob(=Free On Board)と言う方法がある。又、為替の問題もある。僕は、東日時代から・日本円決済・FOBの取引を絶対条件としている。厳密に言えば、Free on board (甲板の上、渡し)ではなく、埠頭渡しである。Cifでやった場合、現地の何処の港ヘ搗けるのか?先方での荷揚げ後の保管は?と言うような事が起こる。そして、輸出に伴う通関業務は所謂「乙仲」業者に依頼をする方が安全である。この仕事も、全く同じ方法を取った。毎月、200台位のタクシー車を売って居ても下取り車は一台一台走行キロも使った年数も異なるし当然下取り価格も異なる。もう一つネックになった事は、ミヤンマーは「左ハンドル」である。前回のレポートに書いたように改造は出来るが、納期、価格面で先方の要望に合わない。

この点は一番交渉の中で時間が掛かった問題だった。最終的には政府が特認事項とすることに成った。次はミッションの問題だ。国内では殆どがオートマである。先方の希望は道路事情等からマニュアル・ミッションである。

・当時、僕は「経過損益計算書」と名付けた東京、神奈川のタクシーの時系列でのお客様の簿価の推移が解る様なプログラムを作り、お客様の使っている車両の管理をしていた。リースをしたのと同じ様なものである。そこで、350台の価格、仕様等の車両の代替を促進させたのである。輸送は、結局ミャンマーの政府がその他の物資を輸出入に使っている船を使う事にした。そんなに大きな船ではなく一回で30台位しか詰めない大きさである。船賃は新車でも、中古車でも変わらない。混載であるから、ダンプの中古車の荷台にまで、載せたりした。燃料はLPGの儘、使うと言う事にした。当時、ヤンゴン市内に2ケ所位LPGスタンドがあった。

・最終仕様は、右ハンドル、LPG、タイヤバッテリーは新品、整備は6ケ月点検済み 鈑金の必要のない車。塗色はその儘、会社名は消す、「右ハンドル」と言う事にした。

勿論、シートの破れ等は無いもの輸出検査の基準には合格する様に仕上げた。

(次回続く)

 


“読後感 永田鉄山と昭和陸軍” (祥伝社新書)    ‘19-10-8

2019-10-07 11:28:28 | Massy's Opinion

★Massy’s Opinion

僕は、「永田鉄山」の名前が出てくると、先ず著者は誰なのか?出版は何処なのか?調べたりして、買って読んでいる。今回も週刊誌を見て、アマゾンで購入した。

著者 岩井秀一郎氏 余り知らない。「屹度、若い人だろうな」と思った。

案の定、若い人1986年生まれ現在33歳。矢張り、こう言う時代物を書く人が何歳か?と言うのは、結構、その本の評価に繋がるだろう。若い人はそれだけ勉強しなくてはならない。

体感を書くのはやさしいが...

・最近、令和の新時代に成り、時の経過の速さと時代ギャップの大きさに驚くばかり。

僕が自動車輸出の話をしても、戦後の日本の自動車事情から話さないと、今の問題点が理解して貰えない。研究者、学者の先生方も研究をするには、読書量が決め手に成って行くようだ。その意味では、この本は、著者が随分色々な資料を調べられた事が良く解る。又、鉄山将軍は長野の生まれ、著者も同郷の様だし、そんなことも筆を走らせた一因かも知れない。

 読後感を書く前に僕の背景、周辺の状況(偉い軍人の子息に知り合いが多い)を記そう。多くの学友、会社での同僚、仕事で親しくなった人達、の中に特に「永田鉄山」に係る人も居るのである。最近、この混迷の時代に歴史を振り返ることが、大事とこの時代の本を読むことも多い。そして、この4人は何れの諸氏も背筋が真っすぐで、スラーッとして姿勢が良かった。其の生まれを感じさせる雰囲気の持ち主ばかりであった。

明石元紹 慶大31年卒 明石元二郎男爵 陸軍大将 台湾総督1864年生の孫

      著書「今上陛下つくらざる尊厳」(Blog, massy‐academy ‘13-12-17参照) 

永田忠昭 神大31年卒 永田鉄山 陸軍中将 軍務局長1884年生の子息 没(本書5頁永田家の系図参照)

枝  誠  慶大31年卒 枝 台湾総督府幹部(階級役職不明) の子息 没

有末満夫 成蹊大32年卒 有末精三  陸軍中将  1895年生 子息

      著書 父上 有末精三(元陸軍中将)「政治と軍事と人事」昭和57年8月15日芙蓉書房)

(晩年の自伝的著作だが、900ページの及ぶ書である。80歳位から全部ペンで原稿を書かれたそうだ。この本には、当時の陸大の外国語教育、その他レベルの高さ、厳しさ、が良く書かれている。勿論、鉄山の秘書をされていたので、当時の事情も細かく書かれている。有末中将は、「中沢中佐を鉄山に紹介した事を申し訳ないことをした」と言われて居たそうだ。此れは子息の満夫君から聞いた話である)

 ・僕は、永田忠昭さんとは彼が横浜日産モーターの中古車部長の時から、日産オートオークションを通じて、親しく付き合って居た。‘91年当時、「日産特販」(現在日産販売)の社長を命じられた時に彼が専務で、コンビを組むことに成った。彼の父上の事は、周りの者も知っていてが余り、大っぴらには話はしない。然し、僕は、コンビを組む以上キチンとお互いの事を知っておかなくてはいけないと思い、二人で身の上話をじっくりとした。そして、父君の事を聞いたのである。彼が生まれて1歳に成る前に悲劇が起こったので、「自分は生後1歳足らずで、何も解らなかったですよ」「唯、母親には感謝しています」と言って居た。色々、父上の周りの人が生活環境を整えて呉れた。と言う事であった。一時期は学生運動に走った事もあったそうだ。社会人に成ってからは全くそういう考えは無くなったと言って居た。社長∼専務と言うのは、野球のバッテリーと一緒。「頭脳明晰」「良し、悪し」がハッキリと解る人物だった。

「デイ―ラーの在り方」「自立経営の為には...」等僕の考え方には全くの同意見。本当に良いキャッチャ-役を遣って呉れた。僕は、部下の教育には色々な手段を使う。営業所長の時、何時もサービスのフロントに出て居た。そこで、伝票を見ていて、字を奇麗に書かなくてはいけないなと感じ、セールスにペン習字をやらせた。何処へ行っても同じ事を繰り返した。「日産特販」でも同じ、今度は、社長が言うのだから、社内騒然...永田専務が僕の所へ来て、「社長、困りました。私は生来の悪筆で...」「しようがないな 何時も文章は書いているじゃないの。悪筆でもペン習字に取り組む姿勢は持っていてよ。仕上げはワープロでもいいよ」「解りました...」と言う事が有った。兎に角、日産最後の戦いと思って、ミヤンマーと中国に向けプロジェクトを組んだが、恐らくミヤンマーへの「タクシーの中古車350台の輸出は永田さんが居なければ出来なかったろう。(詳細は別途書こう)

僕は、彼を知るために鉄山の本は随分読んだが、癖のある字は親譲りだなと思った。姿勢の良いのも親譲り、人に対しても優しいのも親譲り...会社を退任してから古本屋で、「有末精三中将の「政治と軍事と人事」と言う本を見つけた。900頁に及ぶ厚い本である。僕の中学時代の野球仲間の父親だ。偉い軍人だと言うのは聞いていたが、その本の面白い事。大変時間は掛ったが、読み切った。そして、有末君に電話して、「おい、君の父上は凄いな...本面白かったよ。処で、僕は鉄山の息子さんが専務だったんだよ」「ええ、そうなの…あの本は親父は原稿用紙に自分で書いたんだよ」「一度、永田さんに会いたいな…」と言う話になった。その後、お互いに退職しているし、機会が作れぬまま永田さんは病に倒れて亡くなってしまった。当時の陸大の教育は、語学は英、仏、露、等5ケ國語だったらしい。有末中将の著書は当時の諸情勢が非常に客観的に詳しく書かれており、この頃の時代背景が本当に良く解る。僕は東京日産(ディ―ラー)に昭和32年に入社したが、当時、日産自動車(メーカ)には昭和3~4年生まれの人で陸士や海軍士官学校で終戦を迎え、復員して大学に入り、卒業して日産自動車に入った人が沢山居た。僕は、その人たちと随分仕事をしたが、皆素晴らしい基礎学力の人達だった。時の陸軍、海軍の幹部候補生は皆、凄い勉強をしたんだと思う。改めて思い出すと、肉体的遺伝と家庭的遺伝がこれらの人を作り上げたのだと思う。彼らが居たら、今日の日産問題は起こらなかっただろう。元に戻ってこの本は著者が凄く色んな本を読んで書かれて居るのはもう時代が違うので良く解るが、有末中将の著書を読んでいたらもっと時代背景や、当時の人達の基礎学力の高さとその中で誰もが認めた「永田鉄山」の偉さが浮かんでくると思う。鉄山の墓は青山墓地にあったが縁者も居なく成り,生地の長野へ移された。読後感からは少し離れてしまったが、日本にこういう時代もあった。こう言う人も居た、と言う歴史は大事にしたいと思う。僕は、最近政治家や大企業のリーダーたちを見ていると本当に情けない。関西電力の幹部は給料全額返済して後始末をすればいい。なん%カットなんて駄目だ。それならば辞任だ。国会の推移を見よう。著作を読んだのでこんな事を想い出した。こう言う歴史物を調べる、そして著書にして後世に伝えて行くことは大切なことだと思う。

 

 

P,S

先日、「成蹊の同期会があるからぜひ来てよ」と机が隣だった女の人から電話があった。

2~3日後「Yちゃん嬉しいね、年をとっても女の子からのお誘いは...」と電話したら、「今日私のお誕生日よ。知って居たの?」「知らないよ、それはおめでとう」と言う出会いがあった。  今日この原稿を書いて居たら、上記した海軍幼年学校から京大を卒業した僕の一番好きな兄貴分で福岡日産の社長、会長を11年もした人の奥さんからお電話を頂いた。何時も福岡へ行くとお宅へ泊めて貰った仲。昨日は、秋田日産の元社長していた、三浦君が夫婦で、娘さんが慶応藤沢の高校に入ったので...と挨拶に来た。何で、今週はこんな昔の人とご縁があるのだろう?皆、今の時代に飽き飽きして、昔が懐かしくなったのかも知れない。

 

 

 

 


“Diary 153” ’19-10-1

2019-10-01 00:03:39 | Massy's Opinion

   Massy’s Opinion

・9・1 豊川お参り

例月通りのお参り。 ワイフも何時も通りグルーッと一回りのお参り、その間、菊家の大女将と世間話... 冷やしタヌキを食べて帰りは神宮を一回り出かける機会の少ないワイフにショーウトドライブ。

 

・9・4 銀座BRB& JazzBird  表参道 。

シマコ大島君と新しいBRB知らないと言うので、野田支配人に紹介する。大島君何時ものカルテット。ピアノの回りは、シマコの子分?常連のシンガー達。僕の後ろの席に女性の二人組。フアーストステージの一曲目が「枯れ葉」。すると後ろの女性が大きな拍手。バンドのメンバーも驚くようなタイミングの良さ。僕は、後ろの席に行って。「あなたたちjazz好きなの?」「何時も来るの?」「インターネットで見て面白そうだから...始めて来た」一人は既婚、一人は日本の薬会社に勤めている。大学の友人と言う事。

ライブハウスはあゝ言う出会いが面白い。9月だから「枯れ葉」の季節で...と大島君「いやShearingのSeptember in the Rain だろう」でも、あの拍手が無かったらあの日のライブは随分様子が変わったろう。

 

 

男性 日本のデンジル・ベスト-=佐々 (ドラム)

女性右側 沙 莎 と同級生

 

 ・ 9・7 政克さん 納骨 理性寺

追悼加藤政克君のブログにアップした政克ちゃんの49日が済み、納骨の段取りとなった。自宅は市が尾で、遠いいので葬儀には行かなかった。加藤家の菩提寺は西永福の理性寺、歩いても3000歩位。集まった人は兄弟と彼の長男と孫。本当に身内だけ読経して、納骨、お清めの昼食。身内以外は僕だけ...献杯と挨拶を頼まれる。丁度、ブログに書いてあったので、概略を話しして、献杯をした。実はご仏前の中に小学校5年生の時の柏の宮公園で野球をやって居た時の写真があったが、それをコピーして入れて置いた。

 ・9・9 慶四会 於 新宿 さがみ

恒例の会合。もう最後と言いながら又、集合の号令が掛かる。総勢5名療養中が3名。

2時間位談笑。初めは17人だった筈。PC使っている人は僕だけ...そんなものかな?

 ・9・10誕生日 健康診断 結果

満85歳の検診、僕はこの15年位。尿検査、心電図、血液検査(psa含み)肺レントゲンしかやらない。もう今年は止めようかと思っていたが、ワイフが煩い。やれば結果がやはり気に成る。でも幸運にも尿酸が増えているだけで、再検査の指摘はなし。毎朝、毎晩、血圧、体温計っているので大体見当はつくがそれでもドクターの診断に安心。

 ・9・11 Megumi SFC へ 帰米

今回はRacecationも可成りハードなので心配したが無事にSFCに着いたと連絡があり一安心。

 ・9・19 安蓮社 墓参

どうしてもお彼岸に墓参とワイフは云う。神谷町へ行く用事があるので、「蓮社には彼岸前でも良いじゃないか?」と説得して墓参をして来た。

・9・23 大森墓参

ワイフの実家の墓参はお彼岸に成って出掛けた。このお彼岸の墓参は、交通安全週間に当たるので運転には、とても気を遣うので、運転が疲れる。宅配便の運転手さん本当に疲れるだろうな。

 ・9・21六大学野球 対東大

僕は、東大の野球部が好きなんだ。結構、何時も苦戦させられる。然し、無事連勝で勝ち点1。まあ、秋のシーズンでメンバーも変わって居ないし頑張ってくれるだろう。

 9・28六大学野球 対立教森田投手が好投して驚いた、昨年暮れから投手陣の進歩には感心して居たが、本当に皆良くなっている。打撃も柳町がチョットメンタル的にきついのかな?何時ものネット裏の顔ブレで結局4試合応援した。この2週間調子を維持して欲しいな。帰りに渋谷の「鳥ぎん」へ寄ったが隣の席の3人組が如何も慶応らしい話をしていた。声を掛けて見ると、相撲部のOBで100周年行事の打ち合わせだと言う。僕らの同期の相撲部では一人の中尾君が頑張って居た。「失礼な話、未だ相撲部あるの?」

と聞いたら、あるそうだ。TBS,三菱商事だとか...日吉倶楽部の会長や副会長の世代。熱く現役のサポートを議論していた。みんな後輩思いは、僕らと一緒...

P,S

いよいよ明日から消費税改正。街の話を聞いても「兎に角、何でも買い溜めしよう。」と言うような空気に感じられる。従来から「外税」「内税」ある訳だし先ずココカラよく理解して対処しないと...巷の景気がどうなるか?政府は年末までには回復するだろうと見ているのでは...商売では、「在庫は儲けのカス」と親父はよく言って居たが、この50年、兎に角量を追う拡大型で進んできた世の中、もっと生活や考え方を変えて行かないと駄目だろう。「ムダ造りが」経済を支えて来たのだ。