★Massy’s Opinion」
僕は、「永田鉄山」の名前が出てくると、先ず著者は誰なのか?出版は何処なのか?調べたりして、買って読んでいる。今回も週刊誌を見て、アマゾンで購入した。
・著者 岩井秀一郎氏 余り知らない。「屹度、若い人だろうな」と思った。
案の定、若い人1986年生まれ現在33歳。矢張り、こう言う時代物を書く人が何歳か?と言うのは、結構、その本の評価に繋がるだろう。若い人はそれだけ勉強しなくてはならない。
体感を書くのはやさしいが...
・最近、令和の新時代に成り、時の経過の速さと時代ギャップの大きさに驚くばかり。
僕が自動車輸出の話をしても、戦後の日本の自動車事情から話さないと、今の問題点が理解して貰えない。研究者、学者の先生方も研究をするには、読書量が決め手に成って行くようだ。その意味では、この本は、著者が随分色々な資料を調べられた事が良く解る。又、鉄山将軍は長野の生まれ、著者も同郷の様だし、そんなことも筆を走らせた一因かも知れない。
・読後感を書く前に僕の背景、周辺の状況(偉い軍人の子息に知り合いが多い)を記そう。多くの学友、会社での同僚、仕事で親しくなった人達、の中に特に「永田鉄山」に係る人も居るのである。最近、この混迷の時代に歴史を振り返ることが、大事とこの時代の本を読むことも多い。そして、この4人は何れの諸氏も背筋が真っすぐで、スラーッとして姿勢が良かった。其の生まれを感じさせる雰囲気の持ち主ばかりであった。
・明石元紹 慶大31年卒 明石元二郎男爵 陸軍大将 台湾総督1864年生の孫
著書「今上陛下つくらざる尊厳」(Blog, massy‐academy ‘13-12-17参照)
・永田忠昭 神大31年卒 永田鉄山 陸軍中将 軍務局長1884年生の子息 没(本書5頁永田家の系図参照)
・枝 誠 慶大31年卒 枝 台湾総督府幹部(階級役職不明) の子息 没
・有末満夫 成蹊大32年卒 有末精三 陸軍中将 1895年生 子息
著書 父上 有末精三(元陸軍中将)「政治と軍事と人事」(昭和57年8月15日芙蓉書房)
(晩年の自伝的著作だが、900ページの及ぶ書である。80歳位から全部ペンで原稿を書かれたそうだ。この本には、当時の陸大の外国語教育、その他レベルの高さ、厳しさ、が良く書かれている。勿論、鉄山の秘書をされていたので、当時の事情も細かく書かれている。有末中将は、「中沢中佐を鉄山に紹介した事を申し訳ないことをした」と言われて居たそうだ。此れは子息の満夫君から聞いた話である)
・僕は、永田忠昭さんとは彼が横浜日産モーターの中古車部長の時から、日産オートオークションを通じて、親しく付き合って居た。‘91年当時、「日産特販」(現在日産販売)の社長を命じられた時に彼が専務で、コンビを組むことに成った。彼の父上の事は、周りの者も知っていてが余り、大っぴらには話はしない。然し、僕は、コンビを組む以上キチンとお互いの事を知っておかなくてはいけないと思い、二人で身の上話をじっくりとした。そして、父君の事を聞いたのである。彼が生まれて1歳に成る前に悲劇が起こったので、「自分は生後1歳足らずで、何も解らなかったですよ」「唯、母親には感謝しています」と言って居た。色々、父上の周りの人が生活環境を整えて呉れた。と言う事であった。一時期は学生運動に走った事もあったそうだ。社会人に成ってからは全くそういう考えは無くなったと言って居た。社長∼専務と言うのは、野球のバッテリーと一緒。「頭脳明晰」「良し、悪し」がハッキリと解る人物だった。
「デイ―ラーの在り方」「自立経営の為には...」等僕の考え方には全くの同意見。本当に良いキャッチャ-役を遣って呉れた。僕は、部下の教育には色々な手段を使う。営業所長の時、何時もサービスのフロントに出て居た。そこで、伝票を見ていて、字を奇麗に書かなくてはいけないなと感じ、セールスにペン習字をやらせた。何処へ行っても同じ事を繰り返した。「日産特販」でも同じ、今度は、社長が言うのだから、社内騒然...永田専務が僕の所へ来て、「社長、困りました。私は生来の悪筆で...」「しようがないな 何時も文章は書いているじゃないの。悪筆でもペン習字に取り組む姿勢は持っていてよ。仕上げはワープロでもいいよ」「解りました...」と言う事が有った。兎に角、日産最後の戦いと思って、ミヤンマーと中国に向けプロジェクトを組んだが、恐らくミヤンマーへの「タクシーの中古車350台の輸出は永田さんが居なければ出来なかったろう。(詳細は別途書こう)
僕は、彼を知るために鉄山の本は随分読んだが、癖のある字は親譲りだなと思った。姿勢の良いのも親譲り、人に対しても優しいのも親譲り...会社を退任してから古本屋で、「有末精三中将の「政治と軍事と人事」と言う本を見つけた。900頁に及ぶ厚い本である。僕の中学時代の野球仲間の父親だ。偉い軍人だと言うのは聞いていたが、その本の面白い事。大変時間は掛ったが、読み切った。そして、有末君に電話して、「おい、君の父上は凄いな...本面白かったよ。処で、僕は鉄山の息子さんが専務だったんだよ」「ええ、そうなの…あの本は親父は原稿用紙に自分で書いたんだよ」「一度、永田さんに会いたいな…」と言う話になった。その後、お互いに退職しているし、機会が作れぬまま永田さんは病に倒れて亡くなってしまった。当時の陸大の教育は、語学は英、仏、露、等5ケ國語だったらしい。有末中将の著書は当時の諸情勢が非常に客観的に詳しく書かれており、この頃の時代背景が本当に良く解る。僕は東京日産(ディ―ラー)に昭和32年に入社したが、当時、日産自動車(メーカ)には昭和3~4年生まれの人で陸士や海軍士官学校で終戦を迎え、復員して大学に入り、卒業して日産自動車に入った人が沢山居た。僕は、その人たちと随分仕事をしたが、皆素晴らしい基礎学力の人達だった。時の陸軍、海軍の幹部候補生は皆、凄い勉強をしたんだと思う。改めて思い出すと、肉体的遺伝と家庭的遺伝がこれらの人を作り上げたのだと思う。彼らが居たら、今日の日産問題は起こらなかっただろう。元に戻ってこの本は著者が凄く色んな本を読んで書かれて居るのはもう時代が違うので良く解るが、有末中将の著書を読んでいたらもっと時代背景や、当時の人達の基礎学力の高さとその中で誰もが認めた「永田鉄山」の偉さが浮かんでくると思う。鉄山の墓は青山墓地にあったが縁者も居なく成り,生地の長野へ移された。読後感からは少し離れてしまったが、日本にこういう時代もあった。こう言う人も居た、と言う歴史は大事にしたいと思う。僕は、最近政治家や大企業のリーダーたちを見ていると本当に情けない。関西電力の幹部は給料全額返済して後始末をすればいい。なん%カットなんて駄目だ。それならば辞任だ。国会の推移を見よう。著作を読んだのでこんな事を想い出した。こう言う歴史物を調べる、そして著書にして後世に伝えて行くことは大切なことだと思う。
P,S
先日、「成蹊の同期会があるからぜひ来てよ」と机が隣だった女の人から電話があった。
2~3日後「Yちゃん嬉しいね、年をとっても女の子からのお誘いは...」と電話したら、「今日私のお誕生日よ。知って居たの?」「知らないよ、それはおめでとう」と言う出会いがあった。 今日この原稿を書いて居たら、上記した海軍幼年学校から京大を卒業した僕の一番好きな兄貴分で福岡日産の社長、会長を11年もした人の奥さんからお電話を頂いた。何時も福岡へ行くとお宅へ泊めて貰った仲。昨日は、秋田日産の元社長していた、三浦君が夫婦で、娘さんが慶応藤沢の高校に入ったので...と挨拶に来た。何で、今週はこんな昔の人とご縁があるのだろう?皆、今の時代に飽き飽きして、昔が懐かしくなったのかも知れない。