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'23-2-28 “必ずできる、もっとできる ~自分を変え、選手を変え、組織を変える(大八木弘明)”

2023-02-27 22:23:03 | Megu's Sports
★Megu’s Sports

駒澤大学陸上競技部、2023年箱根駅伝総合優勝。大八木監督、4月で退任。総監督としてエリート選手のコーチをするとのこと。この大八木監督が書いた本が出たので、興味があって、注文してみた。
いつも駅伝を見て思うことは"各大学の監督達、練習に関わっている”のか、“大舞台だけに出てきて、監督のふりをしているのか”。何でこんな、質問が出てくるかって?私は、大学時代、専修大学水泳部に所属。専修大学女子水泳部は、オリンピック選手もいる一部の強いチームとして知られていた。監督はいたけど、出てくるのは新入生歓迎会、壮行会、インカレなどのみ。コーチは、4年間在籍のうち、常に練習に来ることを試みたことが2−3回あったけど、継続しなかった。ほとんどが、選手主体の経験に基づいた、見様見真似のトレーニングだったから。
本を読んでみると、大八木さんは、成功・失敗はあったが、監督になってから、ずっとチームと一緒にいる。練習を毎回見ている。選手とチームのことを考えている。監督としてのキャリア。監督の奥さんは、寮母として、栄養士の資格を取り、食事の管理をしているだけでなく、選手達に栄養学のセミナーなどをしている。選手の食事をInstagramを使用したり、本を出版して、選手の食事を紹介(@kamameshi)。この奥さんとの二人三脚が、成績の上がり下がりのあった中でも、チーム作りの土台になっているようだ。また、大八木監督は、タレントのある選手、それを見る目・伸ばしていく才能、他のマネージメントスタッフに恵まれていると、彼自身も認めている。周りの人達に対する、感謝の気持ち。
本の中に、例で一般入試で2020年度に主将になった 神戸駿介選手のことが書かれている。大八木監督をgoogleで検索していたら、神戸選手の記事を見つけた(https://number.bunshun.jp/articles/-/856199)。彼の陸上部での生活を振り返ったもの。レベルは違うけど、自分と同じような感じ。私は、高校でインターハイに行けるほどの能力はなかったけど、水泳の強い大学で競技を続けたいと思った。指定校推薦で青山学院を狙ってたんだけど、外れる。指定校推薦に引っかかることをあてにしていたので、ろくに受験勉強をしてなかった。なので、高校3年の秋になってから、ようやく受験勉強し始めた。青山学院、専修などの当時水泳が強かった大学のなかで、偏差値の高い法学部と、低い文学部の受験をしようと。運が良いことに、専修大学の法学部に合格。そして、大学登校1日目に、水泳部に入れてくださいと言いに行った。専修大学女子水泳部では、毎年インターハイで決勝に残った選手3名がスポーツ推薦入学をしていた。私は、初の一般入学の部員。常時、練習を見ていた水泳部の監督に挨拶に行ったら、“マネージャーやらないか”って言われた。それでも、練習には強い自分は、これだけレベルの差がある、他の選手にもついていける。1ヶ月程経つと、みんなが認めてくれる。3年生になった時点では、自分を含めて4人いた同期のうち、2人は練習に出てこなくなり、もう一人は、オリンピック選手でスイムクラブで練習。学校で練習しているのは、私一人となった。そんなことから、先輩から、翌シーズンの主将になってと。そうしたら、練習にもきていない同期から、“一般で入った選手には、下が付いてこない”とか言われ。でも、先輩が決めたんだから。4年生最後のインカレ。自分では、点が取れるわけじゃないけど、4年間のうちで一番良いレースができ、後輩が、頑張ってくれたおかげでインカレ優勝。“恵さんだから、ついていけました”って何人かの後輩が言ってくれたのを覚えている。
この本を読んでみて、大八木監督のような存在がいたら、また、このような環境にいたら、選手として、大学生活どうなっていたかなって思う。途中で、選手もいなかっただろう。監督が言っているように、レベルの高い選手は個性も強い。いくら少数なチームでも、指揮官なしで、チームをまとめるのは、大学生にとっては、難しい。監督、50人もよくまとめたなと思う。Old Schoolな監督が、伝統・日本の昔からの体育会根性を捨てて、選手にアプローチするようになったのは、難しいのは、よくわかる。変化を拒まない指揮官がいてこそ、駒澤大学陸上競技部、強くなったわけだ。読みながら、大学時代を思い出した。つくづく共感することは、個人を見て、その人に合った、その人を伸ばせる対応をする。これは、学生や選手だけに限らず、どの環境にいても大切なこと。





‘23-2-20 “昔と現代のトレーニング方法の違い”

2023-02-20 22:39:06 | Massy's Opinion
★Massy’s Opinion
*僕の経験: 
さて、88歳を無事に過ぎて、良く生きて来たものだと思う。色々、振り返る事が多いが、本当に良い先輩と人間性に優れた先輩に出会った事に感謝しかない。太平洋戦争も機銃掃射に会ったり、東京大空襲に会ったりしながら、富士山を眺め、富士山の大事な役割も知ることが出来た。何時も米軍の飛行機は我が家の西北の方から東京の中心に向かって来る。機銃掃射は殺されるという感じより、グラマンの操縦士が良く見えた事にある種の感激を持つようだった。屹度あの時の操縦士は、子供だと解ってワザと離れた畑を撃ったのかもしれない。あの頃は、警報が解除に成れば柏の宮公園で草野球だ。近所の子供たちが10人位集まってくる。
自分自身成蹊中学に入って、直ぐ野球部に入った。当時は、学制改革のすぐ後で、旧制高校の野球部と一緒の練習で、高校の後、中学生の練習で硬球から軟球に変わると言う様な練習だった。まあ、球拾いから自分達の練習と云う様な具合。練習前のランニングは高校生と一緒。
まあ、くたびれて暗く成る迄...帰りは高校生と一緒、駅前のラーメン屋で一杯35円のラーメンが美味かった。家へ帰れば、直ぐ風呂に入って寝る。と言う毎日。野球のトレーニング何て全然やらなかった。慶応高校に入ったら、部員が60人もいる。さすがこれが慶応の野球部かと驚き、これは並の事じゃレギュラーに成れないな、と外野の土手の上で球拾いに明け暮れた。そして、やっと自分で野球の練習をしなければ、と言う気に成った。2年の夏休み7月10日から自宅で練習を始めた。
午前中9時から永福町迄往復約5kのランニング、バットスイングを400本。
片手ぶり、右、左各50本水平振り、インコース高めを100本、真ん中ベルトの高さ100本、アウトコース低目を100本の400本である。此れには、一振りずつ丁寧に振るので、2時間掛かった。これで、午前中、一杯掛かってしまう。この頃は、スイングバットもなく、バットに鎹を4本打ち込んでスイングバットにしていた。バットはアメリカ製のルイスビル製のバットを1350円で買った。日本のバットは確か300円位だった。8月1日からの夏練習に行った時、本当にバットが良く振れた。アメリカ製は音が金属製の様なキーンと云う音がする。直ぐ監督の目に留まり4番に抜擢された。この時ほど、努力の大切さを身に染みて感じた事は無かった。此のバットは、当時、一緒に球拾いをしていたK君に貸したら、詰まって折ってしまった。後日、本人に聞いたら、すっかり忘れていたのでガッカリした。
この夏休みは、小学校の級友に山中湖へヨットを乗りに行こうと誘われた。女の子二人と男の仲良し3人である。散々、迷ったが練習のプランを立てたので断腸の思いで断った。処がそのヨットは運悪く突風に会い、転覆し、女の子は二人死んでしまった。忘れられない年だった。その後、秋のシーズンは、トスバッティングの返球の上に、ジャンプして降りてしまい捻挫をしてしまった。守備練習はしないで、バッティングだけで良いという特別扱いでシーズン終わりを迎え、余り痛いのと如何も少し変形している様なので医者に行ったら「骨折が固まっている」と言われた。それ以来、スキーもスケートもコートバンの靴も履かないようにしている。大学の時は、1年の時に滑り込みの練習をさせられたが、珍しく阪井監督に褒められた。それで、もう1回と思ってやったら、ベースの近くで滑り、右足首を骨折してしまった。慶応病院へ入院したが、野球の骨折の模範的な例と言う事で、入院後から退院するまで階段教室の一番下でモデルとして使われた、骨折の事、リハビリの事マッサージのン仕方等、5月1日の入院から6月28日の退院まで、ミッチリと医学部の学生と同じに勉強させられたのである。この時に、覚えたマッサージは後の野球部生活で投手陣には藤田(元巨人軍監督)さんを筆頭に随分、重宝がられた物である。殆どのピッチャーは肘を痛がっていた。今は皆、ジョーブ手術を若いうちからしてしまうのだろう。随分と変わって来たものだ。
*ワイフの症歴
部品屋からコーヒ―・ショツプに転業して、10年位経った頃か、ワイフが股間節が痛むと言い出した。幸い僕の骨折で慶應病院へ入院していた時にインターンだった先生が開業して居たので、相談に行ったら、「股関節は慈恵の連中が熱心にやって居るよ」と云うので調べたうえで慈恵に行った。整形外科部長の藤井先生は巨人軍の槇原投手の膝関節を手術した先生だった。しかも僕は慈恵で生まれたのである。それで全部慈恵でお世話に成る事にした。叉、縁は恐ろしい物で藤井部長先生は、住まいが浜田山、犬がゴールデン・レトリバーと言う事でスッカリ仲良くなって仕舞った。20年後の再置換も慈恵でズットお世話に成っている。当然、リハビリの事も随分話しあった。娘の恵は人と同じ様な就職は嫌だと、渡米してトレーナーの道を進みだした。
*Megumiの出会い
恵は、FootHill Collegeと言う専門学校に入ったが其処で出会った先生が、MR,Garyと言うアメリカの女子陸上チームのチーフトレーナーを勤めた人。殆ど毎年日本の大學に教えにる。僕と気が会い、我が家へ泊ったりしている。恵はサンタクララのプールで泳いでいて、東京オリンックの水泳チームの監督だったMr,シーハンに可愛がられ我々夫婦も1週間HomeStayさせて頂いた。恵は渡米してから、本格的にトライアスロンを始めたがironman raceを年間5レース位やって居る。小さい女の子で目に付くのか?仕事パーソナル・トレイナーにも役立っているのか?日本からアメリカへこの分野の勉強に行く人はサンノゼへ行く人が多い様だ。日本での著名人も又学校の先生方にも知り合いが多く成っている。
*stic 5回目のシンポジウム(Sporttech Inovetars Consortium)
5回目のオンラインセミナーが開かれた。タイトルはVRに関する事。コロナ騒ぎでVRの利用が各方面で取り沙汰されている。この方面でも例外で無くVRで遣る場合の考え方などが主題にされて居た。最近では、歯医者でも病院でも待合室のテレビは、テレビ画面か映像が掛かっている。5回目のシンポジウムでは、室内のトレーニング用のバイクが大きく写されていた。病院のリハビリ室なんかには全くピッタリだと思った。ゴルフの練習場では狭い室内や売り場の試打室には大分前から設置されている。病院のリハビリ室は未だ余り設備されているのは見た事がない。病院は治療まで、リハビリは専門の所で、と言う風な考え方なのかも知れない。僕にもこの辺りの考え方は、如何あるべきなのか良く解らない。
唯、幾つかの他人より豊富な経験からは、リハビリと言う事は「治療後はこれで終わり」と言う事はない。ズット長く続けなくてはイケないものだと思う。

初めに書いたように僕の高校時代は、僅か20日間の一日400本のスイングで効果が在った。大学時代、阪井監督は夕食後、寝る前に「素振り100本やれ」と言って居た。同期の阪急へ行った中田君はコーチ時代に「一日3000本のスイングをキャンプ中にやれ、そうすればお前は3割打てるぞ」と言って居ると言って居た。投手は、昔は、一日200球位投げていた。今は精々50球位、勿論、ある時期は投げ込みをするだろうが。兎に角、練習方法が変わって来た。先ず、体、全体、要するに「体幹」鍛えることに最重点を置いた練習方法に変わって来ている。

‘23-2-14 “日産・ルノー問題”

2023-02-13 22:48:23 | Massy's Opinion
★Massy’sOpiion
自動車界も何か、すっかり元気がない。トヨタ一強で、そのトヨタもあまり元気のよい話も聞かない。半導体不足とか納期が掛かるとか...中古車の市場では、高値が続いているとか...断片的なニュースしか解らない。
昨年、日野市のモーニング?・フォーラムで与えられた議題は、「自動車業界の真実...」と言うテーマだった。ゴーン問題も事務局から言われたが、極く簡単な事しか、喋らなかった。
今、朝日新聞でこの問題を連載しているが、何か僕には、迫力が感じられない。丁度、僕が日産特販の社長を遣らせて頂いた、‘91年から’99年迄、「日産の最後の戦い」と思って、8年の長きに亙り、陣頭指揮を遣って、対トヨタの失地回復を考えて来た。限られたスペースで深みのない文章に成るだろう。しかし、将来貴重な物に成るかも知れない。

企業は。何の業界でも戦いだ。勝敗はシェアーで決する。いい例がトヨタのジャパンタクシーだ。いま、タクシー業界では殆どこの車に成っている。しかも、価格は20年前の2倍の価格である。正にトヨタはタクシー車が収益車種に成っているだろう。1957年この社会に足を踏み入れ、様々な業界を見て来た。そしていつも僕の回りには野球が付いて回る。一番初めに後楽園でプロ野球を見たのが、巨人・阪急戦何となく阪急が好きになり、ネット裏で見ていたのだが、隣りのお兄さんが阪急の良いプレーにすると拍手をする。大体、後楽園で関西のチームを応援するなんて少ない訳だ。何となく話をするようになった。「阪急フアンですね...」「僕も江戸っ子なのに、ヘソ伝(山田 伝センターハワイから)が好きで...」なんて言う会話だ。「僕は、日産なんです...」「へっ、僕の兄貴日産ですよ...研究所に居るんです」(確か、布施さんと言ったかな)色んな話が弾んだ。その中で「僕は伊勢丹の企画室に居るんです...新規店舗の開設をやって居るんです。だからその土地の不動産の新規申請をいつも見て居るんですよ。」と言う話をして呉れた。この話は、今でもよく覚えて居る。先行指標だ。これは、中古車部長時代には、販売所造りにとても役にたった。僕は、昔は日産が圧倒的に強かった頃から、クラウンが出始めてブルーバード、セドリックがドンドン負けて行く様を目の当たりにして居たので、何とかトヨタに取られたシェアーを取り戻そうと、マツダを使って居るユーザーをターゲットにした。幸い以前は日産を使って呉れた会社なので顔の繋がりは在った。業界の組合や会は色々あるが皆顔出しをした。営業マンには、週1回の曜日と時間を決めて顔出しをするようにと、当時は、タクシ―会社でも従業員対策費野球が盛んだったので、月1回の野球試合と、ゲームが終わったら相手チームと「握手する事」を指示した。勿論、僕も出場する。これは、業界では評判が良かった。代替えは車の調子、耐用年数等で代替えが起きる。一斉代替何て言うのは中々出来るものでは無い。この商売は時間が掛かるのである。3年で100台規模の会社を3社しか受注出来なかった。1度失ったシェアーを取り返すのは本当に時間が掛かる物である。 

香港は、1990年代タクシーが2万台あった。その昔は、日本から中型車の中古を買って使っていた。殆ど日産セドリックである。それが95年位からトヨタのクラウンに変わってしまった。香港政庁が排気ガス対策でLpg化をしようと30台のテストをすることに成った。何とかそのシェアーを取り返そうとして、営業活動をして、この内15台は受注する事が出来た。当時、香港のLpgスタンドはオーストラリア製の注入バルブを使っていた。 トヨタは新車でオーストラリア製のバルブに合わせたが、日産はメーカーが純正に固執した。最終的には全部、トヨタ車に成ってしまった。

1950年代日本のメーカーはヨーロッパのメーカーから製造技術を学ぶ為、日産はワーゲン、いすずはヒルマン、日野はルノーと提携した。その時のルノーは主力が4CVと言う小型車だったが良い車だった。後発の日野はタクシーに売り込もうとしたが、小型車の料金に全長が足りず、前後のバンパーとボデイーの間にエプロンを付けて寸法を間に合わせたが、ユーザーに受け入れられず、早々に撤収して、トラック専門メーカーに成った。

日産は小型車料金に合わせる為に、クルーと言う小型車を作ったが、此の売込みにはタクシー会社の主だった所を工場に招待し、試作の段階で試乗させたり、かってない売り込みを遣った。この車は後部座席のドアーの幅が左右で異なる、後部左側のドアーは右側より5cm幅の広い車だった。今のトヨタのタクシーキャブは此れを取り上げて左側の後部ドアーはスライド式、右側は従来通りのドアーである。これは、それまでの自動車では無かった車だった。

ルノーは日本では良い販売店が見つからず、タバカレラ貿易、三井物産、キャピタル、日英と10年毎にデイ―ラーが変わっている。日本との関係の上では、日産の株主は願ってもない話だった筈だ。しかし、ルノー自体がフランスの自動車メーカーが経営不振で再編成されて、「公団」になった訳で、官僚的な体質だった。今度の持ち株比率の対等は、ルノー自体が経営不振で日産の株の保有が出来なくなった為だろう。ルノー―保有の日産株28%がどこに持たれるかに依って日産の将来は左右されるだろう。日本が世界と競争して行くうえで産業の形が如何言うものが良いか、政府の態度が明確に解らない。通産省も運輸省も外国の状況は良く解って居ない。企業の再建も国家の再建も同じ...ゴーンのコストカットは不動産の売却と簡素化した組織の作り直し、要するに縮小しかなかった。アメリカ、カリフォルニアのガソリン車規制は2035年と言われているが、産業用車両を含めた原動機の実態を良く見つめ直す事が必要だと思う。今この原稿を書いて居る時、「ルノー・日産・三菱連合でインドに進出」と言う記事が知らされた。2045年と言う。カリフォルニア規制のガソリン車禁止が2035年一体自動車業界はどうなるのだろう?人口の多い国、輸出の為に海の近い国、が発展するのは間違いないだろう。

’23-2-7 “Diary 193 “

2023-02-06 22:00:07 | Massy's Opinion
★Massy‘sOpinion
*1-5 ニューハート 検診
昨年6月末 ペース・メーカ―を入れて、早や6ケ月を経過、指示された検診の日。
指定された13時に病院に行く。 ・血圧測定 自分で遣る。機器は、使い慣れた物。
レントゲン、心電図を取り、14時予定通り施術したK先生の部屋へ...兎に角、良く合理的に設計された病院である。 事前に取ったデータが診察室に全部回されてくる。それを見ながら先生が説明をして呉れる。自分では、多分、順調だろうなと思って居たが、特に異常なし、順調とのこと。矢張り、御宣託を聞けば、一安心。僕よりもワイフの方がホットした見たい。ペースメーカ―のモニターが家のベットサイドに置かれているが、異常値の場合、「先生の処(病院)へ届くのですか?」「そうです」と言う事。素晴らしいシステムだ。今度は7月ペースメーカーのチエックがあるからもう少し詳しく聞いて見よう。
*1-11 Jazz Bird   ShimacoOshimaカルテット
スケジュールが変わって11日に成った。お店休みの日でスタッフは居なかった。ママが1人。お客はいつものシマコの常連でほぼ満席。ドラムの佐々さんの関係か?スエーデン大使夫妻が来る。奥様がジャズのプロ級のアマ。3曲ほど歌った。最後はダンシングツーチークツウチークで大使とduet 凄い盛り上がり...とてもいいライブだった。
*1-27 選抜発表 旧友と渋谷鳥ぎん
春の選抜出場の発表日、テレビで見ようと楽しみにして居たが、それよりも楽しい大学同級アメラグのK君から、「ボートのW君と渋谷で会わない?」と言う誘い。いつも電話で長っ話をしているだけなので、一つ返事で会う事に...場所は、「鳥ぎん」14時から16時半迄、久しぶりによく飲んだ。話が合うと言うのはいいものだ。お互いに、コロナで足止めを食い友人も少なくなり、気の置けない仲間で、選抜のニュースは、スマホでキャッチ、又盛り上がり長居をしてしまった。帰り道、買いたい物が在ったので、ロフトに寄って来る。大分人でも戻って来たような感じがした。
*1-28日吉倶楽部総会Web
昨日のお祝い、選抜出場を見越しての「日吉倶楽部総会」執行部の皆さん、三田倶楽部の総会とダブルで日程調整、ご苦労様でした。僕は、Webで参加...チョット参加者が少なかったな。天野会長本当にご苦労様。新しい形のクラブの運営、定着を祈って居ます。これで、春の大学も広瀬新キャプテンの下、いい野球、いい集中を見せて欲しい。
*1―30 日本橋 砂場 旧友と会食
又、今日もアメラグのk君から、室町の砂場で昼飯を...葉山からレスのY君が出て来るから...と誘いが来た。勿論、即答。Y君は、硬式テニスのOGを声掛けて4人で昼のみ。
高校野球の話が聞きたいとの事。矢張り、高校野球の甲子園出場は、OBに与えるインパクトは大きい。寄付も応援をお願いする。暗い世の中、我々、スーパーOBには希望を持たせてくれる。久しぶりの日本橋、5年振り位かな?三越より神田より室町には、未だ昔の風情を残した一角があるアナゴ専門店もある。ヤッパリ 昔は良いよな...
*P,S 去年の“Diary”を読み返してみた。基本的には、”Diary”日にち毎に出来事を書く事にしているが去年は、日にち毎に成って居ない。それだけコロナが真っ盛りだったと言う事。今年は、人の集まりが多く成っている。春遠からじ...ウクライナが早く片着くといい。