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“Current Car Market” (03-21-2022)

2022-03-28 20:46:05 | Megu's Sports

★Megu's Sports

・It seems that I can’t catch a break recently… まだまだ息抜きが出来ない2022。

ひとつ問題が片付いたと思ったら、また何かが起こる。今回は、インターネットでもなく、コンピューターでもなく、携帯でもない。車。車は、アメリカ生活で必需品と言っても良い。車がなくて生活できる都市は、指で数えられるほど。San Francisco Bay Areaでは、サンフランシスコ市内に住んでいる人で、車を持っていない人はかなりいる。TitleMaxと言うWebsiteによると、車を持っていない人の率が、一番高いのは、Philadelphia(70.5%)で、San Franciscoは2番(70.1%)。一方で、車の所有数/世帯では、トップ10のうち9都市が、カリフォルニア。(https://www.titlemax.com/discovery-center/planes-trains-and-automobiles/u-s-cities-with-the-highest-and-lowest-vehicle-ownership/#:~:text=San%20Francisco%2C%20California%20%E2%80%94%2070.1%25

Philadelphiaが、車少数の最も少ない都市は、New YorkかBostonだと思ってたので、Philadelphiaが一番とは意外。公共交通機関が発達していると言うだけでなく、社会経済・生活水準のレベルの影響かもしれない。

・今までの私の愛車は、2018 Volkswagen Tiguan。購入してから4年11ヶ月。走行距離83000マイル。昨年の6月、車をスタートしたら、どうも音がおかしい。で、チェックエンジンライトが点灯。レッカー車を呼んで、いつも使っているメカニックのところまで、引っ張ってもらった。VWのWarranryが、6年または60000マイルだと思っていたので、その時点での走行距離が68000マイルだったから、ディラーではなく、メカニックに直してもらおうと。たいてい修理は、ディラーよりもメカニックにしてもらったほうが安いので。五日間かかって、修理完了。Fuel Injectorの一つが漏れていたと。車を取りに行った翌日、50kmほどドライブしてSanta Cruzへ。その途中に、ガソリンが漏れ出した。その状態では、車を運転して帰れないので、Santa CruzのVWディラーまでなんとか乗っていった。VWディラーによると、修理のミス。後で学んだんだけど、VWのWarranryは、6年または72000マイル。で、本来、VWディラー以外のメカニックが手をつけたらWarranryではカバーされないと。だけど、Santa CruzのVWディラーは、Warranryで修理してくれた。これを、メカニックに報告したら、修理代を全額払い戻ししてくれた。しばらく、車の問題なく乗っていたんだけど、12月にまた、ガソリンが漏れて、車がスタートしなかった。一年で2度目;生涯3度目レッカー車に乗ることに。今度は、私が車を買ったSunnyvaleのVWディラーへ。彼らもまた、修理ミスを発見。またしばらく問題なく、今年2月に80000マイルの点検。その1ヶ月後、またまた車のスタートに問題があり、チェックエンジンライトが点灯。怖々SunnyvaleのVWディラーまで、乗って行って、降りたらガソリンの匂いが。今回の修理は7600ドルだと。ここで学んだこと:Warranryをよく知っておくことが、大切。

と言うことで、修理にお金を費やしすぎているので、車を買い替えようと。オプションは、VWディラーで、トレードイン(下取り)してVWを買う;VWディラーで、車を売って、他で車を買う;他のディラーでトレードインして、車を買う。VWで、一度Taosをテストドライブした後、トヨタとスバルに行ってみた。Supply Chainの問題で、トヨタのディラーには、在庫がない。テストドライブする車もない。新しく入ってくる車は、全部予約制。自分の好きな色が入ってくるとは限らない。スバルは、在庫が少ないながらも、テストドライブする車があり、私の好みの色もあった。トヨタもスバルも、MSRPから4000ドルほどのマークアップ。どこのディラーでも新車はマークアップがあり、中古車も値段が高い。この車がない間、レンタルカーを使っていたけど、ずっとレンタルするわけにもいかず、新車の在庫も少なく、故障を連続経験した後、中古車を買うのに気が引け、初めて、車のない生活に対する危機を感じ出して。車の値段の高さにも、感覚が麻痺してきた感じもして。で、 2022 Subaru Crosstrekを買うことにした。高い買い物なので、手続きにはやはりドキドキしますね。でも、一度決心した他、ちょっとストレスが減った気が。カリフォルニア、車社会。アメリカ生活25年。改めて、車の必要性を感じましたね。

 


“ブログ 雑感”    ‘22-3-22

2022-03-21 22:10:08 | Massy's Opinion

★Massy’s Opinion

さて、このブログを書き始めたのが、‘05-6である。早いもので、もう17年に成る。

初めの時は、会社勤めの間にやってきた事、考え方、等折在るごとに書いて居たが、どうせかくなら、昔から書いて居たように、そして、保存できる様にしようと考えたからである。

僕は、昔から文章を書くことが好き、成蹊中学に入った時から日記を書くようになった。

読書も好き、これは、高井戸小学校の5年、6年の担任だった佐藤良夫先生の教えが大きい。

成蹊中学の3年の頃、朝鮮戦争が在った。その時に戦争の事を作文で書いたら凄く褒められたが、新聞記事的だと言われた。犬が好きで、犬は良く作文の題材に成ったが、或る時、「犬は裏切らない...」という作文を書いたらこれも凄く褒められた。その代わり親友のY君から「お前、親友だろー、犬の方が親友なのかよ?」と文句を言われた。結構、あの頃受けた友人からの批判はそれ以降、物を書く時の心構えの中には、大きなウエイトを占めている。本当に「Tennssee Waltz」見たいな事も在ったが彼の会社が日立電線だったので日産と系列が一緒でサラリーマンを辞めてからも一緒に沖縄へ行ったりしたものだ。

ブログを始める時、色々考えたが、将来、残る物だからプロバイダーはシッカリした所を使おう」と考えて、NTT系の「ブログ人」を使った。それが同じNTT系の「Goo」と一緒になり、今度、テンプレートが変更になり、「Massy-Academy」もプレートを変えざるを得なくなった。

我ながらよく今日まで続いたもんだと思うが、これには、「Megu’s Sports」の応援が本当に大きい力に成っている。矢張り、「継続は力なり...」「努力は続けるもの...」と言う事か? 僕の目標の設定の仕方は、80%主義...健康の為に10000歩けと言うけれど、これは60歳まで...今の僕は一日3500歩、又は、室内バイクを30分踏む事を必達目標にしている。 無理は避けて、休みなく...と言う事だ。

*努力の大切な事は、高校2年の夏休み、20日間一人でバットスイングを一日400本と5キロのランニングをやった事、8月の新チームの練習で凄く当たって、レギュラーに成れた。今は高校生でも一日1000本位のスイングをしているらしい。体感した事は、その後の人生でも本当に役立った。ブログを書き始めてから色んな友人が出来た。一番の友人は朝日新聞大株主の上野克二さんだ。彼のブログは「人生のエンドピン」と言う本に成っている。住まいは大阪の芦屋、僕の「通行区分の世界統一」を読んで、「一度お会いしたい」とメールを頂いた。「本当に上京されるの?」待ち合わせ場所は、「六本木の国際文化会館」と言う事でお会いする事にした。その時に集まったのが、皆慶応、上野さんと弟の信三さん、JAFの自動車ラリーの審判長をしていた福井さん、読書会でご一緒する排気ガスの研究をされて居る山口先生のメンバーである。皆さん野球、音楽が好き、上野さんは肺がん、うつ病をやられてそのリハビリにブログを始めたとの事、処が、正にPDCAを実践されている人で、その後、オーストラリアを5000KMのドライブをして来たが、その計画の緻密さには驚かされた。そして、上野さんに勇気づけられて、今日まで続けられて居る。Megumiの書いた物も東北大学の医学部の教授にリハビリテイションの考え方がとても参考に成ったとお褒め頂いた。水泳コーチの田村栄子さんの「育てるを読んで」の一文も良く見てくれる人が多い。それやこれやで、見て頂くことはとても有難い。今度のテンプレートの変更は、手間が掛かるけども、当分従来通りに頑張って行く事にしよう。


“Documentary 箱根路 3” '22ー3ー15

2022-03-14 22:14:23 | Massy's Opinion

★Massy’Opinion

*部長宅 大泉学園へ

部長宅は大泉学園である。今では想像もつかない様な田舎の中の一軒家。日産自動車で課長待遇、社宅住い、確か200坪位の土地で、60万位と聞いていた。事故が夜11時半位、兎に角、前記の様な手配をして、箱根を出たのが夜中の1時半位だったろう。品川車両庫に新車を入れて、車を乗り替え、H君と二人で部長宅に向かった。朝4時半位に大泉学園に着いたが早すぎたので車の中で一眠りして、部長宅に向かった。お宅には車が無かった。「おい、部長帰って居ないな」と話している内に犬が吠えだし、奥さんが出て来てしまった。「朝早く済みません。チョット事故がありまして...部長に報告に参りました」「済みません、今日は帰って来ていないんです。多分、品川だと思いますが...」「そうですかそれでは会社の方で...」と言ってお宅を辞した。「おい、H君如何しよう?」「なんか品川に彼女がいるとか...僕一度送らせられた事がありますよ」「それじゃそこへ行って見ようやっぱり早く報告した方が良いよな...」「そうしましょう」と言う事で立会川の団地迄戻った。団地の2階にMと言う名前の家があった。思い切って戸を叩くと若い顔見知りの人が出て来た。その人は部長の甥でメーカーのサービス課に勤めている人だった。「M部長いらっしゃいますか?」部長は凄く驚いた顔をして、浴衣の儘出て来た。「なんだね、君たち...」「実は昨日吉原へ車を取りに行きまして、その内で一台が崖から落ちまして...」

と事情を手短に話した。「君、O君は如何したんだ...」「無事でした、車は多分全損でしょう」「それで、O君は如何した?」その車が動けるので「自分で運転して来いと言いました」

「バカ!如何してそんな可哀そうな事をしたんだ...」デッカイ声で怒られた。僕は、お詫びに来たし、後始末もうまくいつたし、あんなに怒られるとは思わなかった。「人の命を何と思って居るのだ。車はお金で解決が付く、命はお金では買えないぞ...」「ああ、その通りだな...O君大丈夫かな」と心配に成って来た。それにしてもあんな勢いで怒られたことは無い。「あの人は情に厚い良い人だな、一生懸命尽くそう...」と思った。

*始末

其の後、事故現場の様子は、お巡りさんが来たのが午前3時過ぎ、ディーラーナンバーを交換するのも間に合った。R君は2時間チョットで小涌谷~生麦を往復して呉れたのだ。「うん、これで陸送中の事故あっかいで保険処理出来る」それにしても、警察は夜中に「いやいや現場検証に来たんだな」この事件を振り返ると「こう言う事故が在った時、矢張り会社の決め事(出張手続き)は守らないといけないな」と反省、それにしても、本人も無事で良かった。トラックを止めてロープ買ったのも、以前の経験が生きていたな。人の命は大事なものだ。幸いO君も軽い打撲で済み、会社に出勤出来たし、数年後、社内結婚をした。今は如何しているか?音沙汰もない。遠いい昔の事だ。回数も解らない位、箱根路を超えて良く吉原通いをしたけれど、310型ブルーバードの1号車をメーカーの車両課のブル担当者と箱根越えをして来た時の初めてのニーアクションの乗り心地も忘れられない。霧が深い夜、湯河原に下りた事、車輛庫の凄くまじめな男がアルバイトの吉原帰りの時、人をはねた事件、渋谷営業所の時は、凄くまじめな男が人を撥ねて死亡させ、これは休日の時だった。裁判に成ったが、上申書を書いて年老いた彼の父親を証人に出す等して、最高の弁護体制を敷き示談、無罪にし、保険会社からも褒められた。2件とも被害者は路線バスを降りて、バスの正面から反対側に道路を横断しようとした落ち度もあったのである。それから7~8年後、僕の従弟から結婚式の招待状を貰った。当日、目黒の雅叙園に行き、トイレに行ったそこで渋谷営業所の彼と出会った。「おい、なんだよ今日は...」「僕の結婚式ですよ」「おおそう言えば、新郎側は君と同じ姓だよな。僕は、新婦側からの招待だよ。そう言えば新郎はN君と同じ名前だな。いや、驚いた君、未だ一人だったの?」「そうなんですよ」「驚いた...君と親戚だな...よろしくな...」って云う様な事もあった。さて、色んな事を想い出してきたが、本論に戻そう...吉原から2時間45分で品川に帰って来たのが、最高タイムだった。兎に角、1965年から75年位の時代には様々な事件や体験をした。新車が盗まれて、転売されそのグループを追いかけて突き止め、車台番号打刻の改ざん変更手口を知った事も有る。普通では出来ない経験を沢山した。しかし、全て問題なく乗り越えて来られた。すべて幸運と感謝に尽きる。

 


“Documentary 箱根路2”    ’22-3-8

2022-03-07 22:17:15 | Massy's Opinion

★Massy’Opinion

*時代背景 1962年頃 ブルーバード310型 1959年発売

1955年頃から、国産自動車が乗用車に力を入れ始めた。ダットサンの復活である。」と同時に日本の戦後最高景気が本格的に成って来た。僕が大学卒業した年が1957年。就職をしようか?野球をやれる所へ家を継ごうか?親父は何にも云わなかった。六大学は立教長島を始め、そうそうたる連中が居て人気絶頂の時代。4年の秋までは殆ど就職先きは考えて居なかった。或る日、練習を終わると稲葉監督に呼び出された「増田、就職どうするんだ?」と聞かれて、「出来れば野球出来る自動車会社へ行きたい。そこで3年位野球やって後は、家の稼業を継がなくては...一人っ子ですから...」稲葉監督は「川崎トキコ」の監督をして居たので「川崎地区のいすゞに話してやろ」と言って呉れた。幸い学校推薦は通るし...第2志望で東京日産に志望を出した。処が、試験日がいすゞより先に成り、「2次試験は受けなくてよいからいすゞを断って来い」と言う事になり東京日産に入社を決めた。初任給は12800円その年は大卒30人位採用した。配属は業務部業務課で男子は6人女子1人だった。業務課と、車両受渡課の二つの部署だった。業務課が仕入れ等、メーカーとの折衝、営業所への配車、受渡課は現車の配車が中心の仕事だった。

・メーカーには車両受渡課があり、出来上がった車は、工場回りのテストコースを一回りして受渡課の置き場に置かれて行く。其処からディ―ラー迄の引き取りは、昔の話で「先方引き取り」と「ディーラー渡し」と言うのがあり、ディーラーはどちらか選べた。殆どが「先方引き取り」で陸送屋のプールに運ばれる。当時、吉原工場は昼夜3交代のフル操業だった。陸送屋も手が足りず、奥の方へ入ってしまった車は中々出て来ない。要するに業務課の要望通りに出荷されないのである。ドライバーは殆どが「運転手組合」の所属で社員は4人位と少ない。結局、組合の運転手も高い日当の方に行ってしまう。当時の吉原から東京までの陸送代は陸送会社に一台2750円ディーラーが払い、その内、運転手には1000円の手当にガソリン券15リッター(1リッター、35円位)だった。大体、距離は、吉原~東京品川迄が120kmくらいだった。リッター10キロ位走るので、巧く走れば、10リッター位で済む。毎日、会社が終業すると、新橋発6時10分発の鈍行に乗り、吉原駅に向かうのである。吉原着は10時頃、確か、運賃が610円、入場料が90円位、入場料で乗車し、検札が来ないとそのまま吉原まで行き、吉原駅の手前で列車が速度を落とすところがある。そこで飛び降りて運賃を節約するのである。会社の正規の手続きでは,近地出張で稟議を挙げて、手続きが大変、手当は900円で陸送屋のアルバイトで行けば1000円殆ど変わらない。一応、次長には話して置いたが、ある時期は、週に3日位吉原へ行ったものである。

*日産吉原工場

昔の話で、うろ覚えであるが、当時、吉原工場は、月産10000台、当時はダットサンが人気最絶頂で工場は3交代8時間労働で深夜業迄あり、月産3万台位生産したことも有った筈だ。自分の会社へ引き当てられた車をプールから引き出すのが大変だった。それでも昼休みには、車を寄せ集め、広場を造り、ソフトボールをやった。当時受渡課の課長が大の野球巨人好きで、勿論、僕は狩り出される。面白かったし、工場の人達には、直ぐ覚えられた。僕の自動車会社に入った大きな希望は、新車の出来立てのオフライン車を運転する事だった。当時のG検査課長にお願いして一度だけマッサラのメータ―0mの車を運転させて貰ったことがある。新車は何とも言えない特有の匂いがして、気持ちの良い物である。

*沼津口から小涌谷へ。箱根越え...

当時、業務課には33年入社のH君、34年入社のS君、N君(W大自動車部)、35年S君(青学自動車部主将)K君、Y君(慶応弓道部、自動車部)E君(青学)高卒O君等の課員が居た。大体、皆、此の吉原行の残業メンバーである。工場の車置き場から、納期を急がれている車を探し出し、陸送に移る訳である。吉原の町は、本当に田舎町で、工場の前にストリップ小屋が建てられて居た。白河と言う酒屋があり、ガソリンスタンドは沼津よりにあり、夜12時頃まで営業していた。そこで、ガソリンを15l入れて沼津口より箱根越えに入る。僕は、何時も隊列を守る様に云って、先頭はH君に頼み、僕は一番後ろを走った。何かあると困るからである。車は吉原から沼津まで走ると俄然エンジンの調子が良くなる。

当時の箱根路東海道は今の様にガードレールもない左右一車線ずつの2車線である。街灯なんか勿論ついて居ない、真っ暗である。道の脇は直ぐ崖である。運転は対向車の前照灯を目掛けて走る。これで一番怖いのは3輪車とのすれ違いである。ライトは1個で真ん中について居る。傍まで行くと対向車の車幅が「わっ」と広がって来る。兎に角、当時の箱根は怖い道だった。特に夜は霧が多い。ハンドルを持って居ると自然に早く帰りたくなりスピードが出てしまうのである。元箱根で全員の異常が無いか?一休み、車を止めて、確認をする事にしていた。その時、O君の車が、追い越して行ってしまった。元箱根から又登りに成り、隊列を守らず走り去るO君の車を僕が追いかけた。小涌谷のカーブを切ると崖下から、灯が煌々と輝いている。僕は、「ああ、やったな...」と体中がぞくぞくと寒気がした。其処まで行くと、崖の下からライトが煌々と上を向いて照らしている。あの時の記憶は60年近く前のことだが未だに鮮明に脳裏にこびりついている。直ぐ車を止めて、崖下を覗くと6メーター位下の太い木に車が引っ掛かっていた。車は、助手席側のドアーが樹の幹に引っ掛かって止まっていた。多分スピードを出し過ぎてカーブを曲がり切れなかつたのだろう。直ぐ崖を下りて現車の傍に行く運転台にO君は頭を押さえてハンドルの上に追いかぶさって居た。「おい、O君と肩を叩くと顔を挙げて、幸い無事そうだった。車も火を吹いたりしていない。フロントガラスは滅茶滅茶。その内に上の街道に仲間の車が止まって車列が出来る。皆、驚いて口も利かない。

さて、その時に僕が考えた事。兎に角、崖の上の街道迄、車を出さなくては...街道を通るトラックで引張って貰おう。車の弁償は如何しよう?確か、70万位だな、O君に弁償させるのは無理だな。隊列を組んだ仲間たちが次々に止まって、車から降りて来る。皆、声も出ない。「おい、トラックを止めて、事情を話し、ロープを持って居るか?聞いてくれ...」幸いに壱台目に来た5トン積みのトラックが良い運転手さんで、ロープを持って居た。早速、ロープで結んで、本当に幸いにそんな深い所でなかったので、5~6人で事故車を支えながら崖から上の道へ引き上げた。昔、500円でロープを買った経験から、トラックの運転手さんには、1500円払った。次に考えた事は、「この山の中に止めて置いたらしようがない。何とかもっと山ノ下の湯本辺りまで牽引するかどうか?後の処理は如何しよう...」「ディーラーナンバーは会社の名義だからこれはまずいな...」運航の範囲が都内ときめられている。そうだ、陸送会社に頼んで陸送中の事故にして貰おう。警察に届けておかないと、保険処理も出来ないな。そんな事を考えた。後から、何時も陸送屋のアルバイトをしている連中も現場に来る。何しろ15台位のダットサンがライトつけっ放しで、周囲は煌々と明るく成っている。事故車は幸いにもヨタヨタ自走が出来る。運転していたO君も運転は出来る様だ。ああ、一段落だ。何時もアルバイトをしていて陸送屋に顔が利く、R君に「横浜生麦のT陸送に行ってナンバーを借りて来てくれ、警察が来る前でないと拙いから急いでな」2台は事故車の伴走をして呉れ。と言う段取りをつけた。さて、それから、H君と部長の家へ謝罪と報告に行こうと言う事にした。   (次週に続く...)