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“Diary 182”    ‘22-3-1

2022-02-28 21:40:56 | Massy's Opinion

★Massy’s Opinion

・2.15日吉倶楽部 Web総会

日吉倶楽部の総会も遂にオンライン開催に成った。OBも大人数に成って、会場の設営やら準備も大変。幹事の皆さんご苦労様ですが、確り準備をして下さい。我々世代に成ると、正直な処、オンライン総会の方が良い。最近では懇親会のビールも出ないし、幹事は年々変わった方が良いだろうし、唯、「意見がキチンと言える」仕組みは考えて置いて欲しい。最近の若いOBは事務力も優れているし、日吉倶楽部は他校のOB会と比べても、断然優れていると思う。天野会長会社でも評判は良いようだし良い前例を作って欲しい。何と言っても慶応義塾のOB会の核だと思うから...お疲れ様でした...

・2.16 第3回コロナワクチン

杉並区は如何もコロナ対策はスピードのある方ではない様だ。それでも今回3回目は割合に順調にワクチン接種は終わった。我々、高齢者は罹病するか、しないかはともかく、予防の手立ては充分にして置きたい。2月中盤は北風がとても冷たかった。その為か如何か解らないが、注射の後遺症か、注射した左腕は当然痛かったが、医師の言う通り3日間は特に体を動かさないようにしていたが、体調は何かダルく4日位はしっくり来なかった。   最近は、ピークアウトの兆しも見えて来た様だが早く収まって欲しい。

・2.21慶応Web 読書会

演題「中国情勢と日米中関係」

講師国分 良生氏(前防衛大学校長 慶応大學名誉教授)

樫の会と読書会の合同のオンライン会議、Zoomの使い方も参加者皆さん慣れて来て、約60名位の参加か?ウクライナ問題に最近のマスコミだが、中国も大きな問題だ。さすがに参加者も多かった。中国も資本主義が行き過ぎて、この辺で一度、熱を冷まさないと谷間は大きく成るだろう。Zoomの会議だと質疑や顔見知りの方々と話をすることが出来ない。   「お元気ですか?」と言う声掛けをしたいが顔を見るだけで終わってしまう。

・2・24 国会とウクライナ問題

テレビを見たが、岸田さん本当に「新しい資本主義」どう考えて居るんだろう。ワクチン問題に振り回されて、結局従来と変わり映えしない。野党も冴えない...    

途中のニュースでロシアのウクライナへの侵攻が伝わって来た。最近のニュースでは、ロシアの侵攻準備が可成り時間を掛けて進められている事は知って居たが、プーチンは準備が整ったところで仕掛けのタイミングを計って居たのだろう。武力による戦争は絶対に良くないが、作戦は見事と言わざるをえない。果たして、如何いう形で決着をつけるのか?長引かずに決着をつけて欲しい物だ。それにしても、日本は本当に力が無くなって来た。歴史的に見ると100年に一度は大きな戦争が起こる様だ。今度は、本当に「新しい資本主義」

世界の中の「格差」を無くすように、伸び切った資本主義をサイズダウンする事が必要だ。「資本」「経営」「労働」の三部門の中の格差圧縮。

・資本分野 規模別法人税の設定

・経営分野 経営者の処遇、給与、設備投資

・労働分野 年功序列型賃金、ベースアップの排除、職務給の採用

何方かこんな論議をして、国際化の先端を切り、日本の存在感を強めたいものだ。

・2.28

この前、「偲、慎太郎...」と言うブログを書いたが、普段電話も掛かって来ないクラスメートから「葉山、懐かしいよな...」「へえ、ブログ読んで呉れてるの?」「偶にな...」と電話が在った。

 

 

 


“Year of Tiger” (02-15-2022)

2022-02-21 21:29:29 | Megu's Sports

★Megu’s Sports 

Lunar New Year (旧正月)が、2月1日に始まりました。今年は、水寅の年。母ちゃんが、歳女。2022年に入って、6週目。アメリカのサイトだと、私にとっては良い年のようで、日本のサイトを見てみると、そこそこらしい。とりあえず、今のところ、Up and Down が、続いてますね。安定を好む私にとって、すでに息抜きが欲しくなっているところ。

Downのほとんどは、テクノロジー。インターネットのコネクションが2度なくなり。この辺りのインターネットプロバイダーは、以前からモノポリーのようなもの。多くの人がXfinityを使用。1度目は、自分で買ったモデムを使っていたので、Xfinityのモデムをレンタルすることに。私が使っていたのよりは、最新で速いので。モデムを変えたら、インターネットのトラブルは解決。3週間ほど、調子が良かったんだけど、またインターネットのコネクションが無くなる。50%のセッションがVirtual。家から仕事することが多いので、インターネットが無いと大変困る。で、この時は5日間、インターネット無し。初め、また、モデムを変えに行く。でも、ダメ。20回テックサポートに電話;テクニシャンが2度訪問。1度目のテクニシャンは、何もせず。ようやく5日目、2度目のテクニシャンが来て、ようやくインターネットが復活。このおかげで、携帯のプランをWifi Hot Spotが使えるプランに変更。いつまたインターネットが無くなるかわからないので。で、この5日間、Unsecuredのネットワークを使っていたせいか、Debit Cardが乗っ取られたので、カードを変更。ストレスも溜まるし、時間もかかる。

さらに、今週初め、今、このブログを書いているMacBookのスクリーンが突然ダメージ。落としたわけでも無いのに。5年半使っているので、仕方ないけど、急に不機能になって欲しくなかったんですけど。仕方がないので、急遽、MacBook Proを購入。MacBook Airにすれば良かったなんて、ちょっと後悔気味。ということで、ラップトップを変える前に、このブログを描き終えようと。

これほどテクノロジー・インターネットに頼っている生活。スマホもコンピューターも、インターネットも無い時代、どうやって生活していかのかなって思わない?

Up…今年の初め、90歳のクライアントが亡くなったり、腰痛でブレイクを撮り始めたクライアントがいたりで、クライアントのRoasterが、減ったのです。これが、ビジネスで、難しいところ。クライアントがやめるかな・やめないかなという空気を感じても、実際にいなくなるまでは、新しいクライアントをスケジュールに入れられない。一方で、一足先に探し始める。運良く、以前に一緒に働いていたトレーナーからの紹介があったり、昔のクライアントが戻ってきたり。そして、パンデミックのおかげで、できなかったFeeの値上げを実行。クライアントからの反発もなく、逆にクライアントの一人が、値上げしなよって言ってくれた人もいて。

出だしが、ちょっとBumpyな2022年。全部がdownじゃなくて、upもある。アメリカの占いのような年になるのか、日本の占いのような年になるのか。We shall see…!

 


"Documentary 箱根路1”    ‘22-2-15

2022-02-14 22:22:45 | Massy's Opinion

★Massy’s Opinion

*三保敬太郎君との事

・忘れもしない1957年5月初めの休日。僕は、東京日産と言うディーラーに入社した。初任給は12800円で勤務先は赤阪溜池の新築の本社。奇麗なショールームがあり、後に映画の撮影にも随分使われた。三保君は前回の“偲!慎太郎”のイントロにも書いてあるように、兎に角、売れに売れていて、大学では会った事が無かった。免許証は僕の方が少し早く’56年12月には取っていた。敬タローは何処に就職するのかと思って居たら、TBSに入って、演出部に配属されていた。或る日「会社を見に来いよ」と呼び出された。6階受付のデスクに奇麗なお嬢様が居て、名前を言って呼んでもらう。本人が出て来る。「おいミッチャン、さすがテレビ局、奇麗な女の子がいるな。」「あの子H,Sと言うんだよ」「相変らず早いな...話ってなんだよ?」「俺、免許取ったから車欲しんだ新車は買えないから中古車でいいんだ。」「それじゃ親父の会社に話してやるよ。だけど金はチャンと払って呉れよ」「ミッチャンバンドのプレイヤーとして出演するときのギャラはどうなるの?」「それはプレイヤーとしてギャラを貰うのさ」「それじゃ他の社員は、やっぱり君には一目おいているね、別扱いだね?」そんな話で、日之出自動車の営業の人に紹介した。どうせ彼は、チョット派手めな車を欲しがるのだろう...当時の車事情は、國産はダットサンに代表される小型車しかなく、殆どの中古車は、駐留軍人が置いていく自家用車で5年以上使った車、帰国するのに運賃が掛かるので安くても日本に置いて行くのをブローカーが買い集めて居た物である。当時の修理工場にはそう言うブローカーが沢山出入りしていた。

米車はフォード、シボレーの全盛時代だった。フオードは1949年式からフラッシュサイドと言って、ドアーの下にステップの無いモデルがヒットしていた。大卒の初任給が12800円ラーメン一杯35円の時代である。その車の値段は25万と言う。今で言えば7~8年使った車が25万円と言う感じである。とても、我々には手の出る車ではない。今で言へば8年物の車が250万と言う感覚だろう。色はボデーがクリーム、屋根が濃い目のツートン4ドアーであった。

・「初めての給料を貰ったら箱根へドライブに行こう。男二人じゃ詰まらないから女の子を連れて行こう」と言う事に成った。当日、敬タロー君はあのTBSの受付のH,S嬢を連れて来た。僕は当時付き合っていた赤坂の子を連れて行った。行きは三保君が運転をすることにした。芦ノ湖畔でお昼を食べたが、三保君は「おい、金払っておいてくれ...」あゝ、又始まったなと思い僕が4人分払った。財布には給料丸々と併せ20000円位しかなかった。芦ノ湖から三国峠へ出て、熱海へ行くコースもあるが、まあ初めてなので早雲山まで行って帰って来よう。と言う事にして、三保君がハンドルを持った。ハラハラしながら僕が助手席に乗り、女性は二人後部座席である。当時、箱根ドライブなんて若僧がする遊びではない。勿論、車もそんなに走っていない。その内に晴れていた空が曇りだし、早雲山に着いた頃には雨が降り出して来た。箱根特有の天候の急変だ。素早く車を降りて、運転を僕に変わる。スターターを回して、走り出すと、何か「こすり合わせる様な金属音」がフロントからし出した。段々、大きくなる。「おい、ミッチャン...何か音がするな?」「うん聞こえるな...」 如何もファンがラジエターをこすっている様だ。僕は、結構、車に乗って居るし大体の見当は付く。「やばいな、この車、エンジンやラジエターが駄目になったら、価値が無くなってしまうな」「さて、こんな山の中で止めたらどうしよう。帰るのにも雨降りの中、傘もないし、女の子如何しよう?」兎に角、車は止めよう。雨は益々強く成って来る。連れの女の子も、さすがに心配になって来て、「マスコウ、如何したの?」と言い出す。三保君は「やばいな...俺、如何したらいいか全然解らないよ」当たり前だよ免許取ったばかりで、殆ど初めて乗った車なんだから...幸い下り坂で黙っていても車は動いている。兎に角,牽引して貰うにも、も少し山を下らないとな...エンジンは掛けられないし、今度は、エンジンが掛けられないので、下りでエンジンブレーキも掛けられない。ブレーキが利かなく成ったら如何しよう。と不安ばかりが募って来る。当時のフォードはワイパーのモーターが独自について居るのではなくエンジンの回転に連動して動くように成っていた。下り坂をワイパーも使えず、全くの機能なしでブレーキを焼きつかせないように神経ピリピリにして下り坂を降りて来た。途中でバスが止まっていた。こんなところでバスが止まって居るなんて?と思いながら3メーター位の後ろまでくっ付いて止まった。暫く待っていたが、動く気配はない。道路は2車線今ほど整備はされて居ない。バスの運転手さんに「動かないんですか?」と聞いたら、「リア―ーシャフトが折れたらしく動かないんで、今、迎えを待って居るんだ」こちらの事情を話して,5m位動かして貰い、「ミッチャン左の後ろから押せよ。俺はハンドルを切るから...」と言って、やっと無事にバスを追い越すことが出来て、又下り坂を利用した無エンジンで坂を下った。宮の下まで来ると道が平らに成る、又、降りて押しながら下った。疲れた所へ一台の310型売り出したばかりのブルーバードが来た。ナンバーを見ると覚えのあるナンバー、クラリオンの小山田さんに(当時営業部長、後社長)特別に引き当てをして納車した車でよく記憶をしていた。部長も手押しをしている変な車を見て、車を止めて降りて来た。「なんだ、増田君何しているの?」事情を説明したら、車をのぞき込んで「なんだ君女ズレでかっこ悪いな…」「助けて下さいよ…」と云ってもロープもない。一軒あった駄菓子屋見たいな店に飛び込み、「ロープ、ありませんか?」と聞いたら「あるよ」と言う返事、10メタ―位のもの1本で500円位だった。それこそロープをもつかむ思い。いやーあの時は本当に有難かった。310でフォードが引っ張れるか解らないが、兎に角、車を結んで引っ張って貰った。本当に有難かった。湯本の駅の先まで引っ張って貰った。小山田さんにお礼を言いここ迄なら親父の会社から迎えに来て貰えるだろう。早速、まだ4時頃だったので親父の会社に電話して。事情を話し、やっと牽引して帰れるめどがついた。「東京から3時間半は掛かるだろう」ミッチャンは「俺は電車で帰るよ。女の子が普通の家の子だからな」「しょうがないな」連れの彼女に話をして、金はないし腹が減ったけれど車の中で待って居た。やっと迎えが付いたのは8時半頃だった。車は34年型のA型フォード、僕が大学1年の足を折った時、迎えに来てくれた車と一緒。「良くヒロちゃん、降りて来られたね」「あんな所まで女ズレで行った何て言ったら怒られるもの...」「いつも悪いね。僕は連れが居るから電車で帰るから」兎に角、無事に東京へ帰る事が出来た。後日談だがクラリオンがTBSでピンクムードショウと言う夜の番組を始めた。クラリオンガールはアイドルの登竜門として人気番組に成った時、三保君は、未だTBSの演出部に在籍して居たのである。此のミッチャンのフォードは後に第一京浜道路の工事中の四角い工事場所の真ん中にすっぽりと入って居た。又、工事中の所へ突っ込んだらしい。その後三保君は、赤いMGAの乗り換え、それを当時ジャズ評論家のいそのてるをさんが買い、奥さんが事故を起こして廃車にしたそうだ。これは8年位前に自由が丘のライブで磯野さんの奥様と会った時に聞いた話。そんな彼が日本グランプリにフェアーレデイーに出たのだから驚きである。レースのライセンスも取り、兎に角、自動車にのめり込んで、遂に「ポルシェは飛んだ」なんて言う映画も作った。原信夫の#&bでピアノを弾いていた西真樹さんと言う人が居るが、僕が或るライブで話をした時に「三保さんは本当の天才ですよ。僕は彼の編曲をした直筆の譜面を持って居ますよ。僕の宝ですよ」と言って居た。晩年、僕が渋谷の営業所長の時、昼間所長室のソファーで寝かしてくれと言って来た。個人の事務所を持って居たが秘書の女の子は彼が事務所を閉めた時、僕のワイフが喫茶店をやって居たので、2年位使ったが、彼女はお母さんが敬タローフアンだったので新聞広告で募集を見て応募して来たと言って居た。同期のスチールギターで有名なlionが、「ミッチャンは自動車にのめり込み過ぎたな...惜しい男だよ」と振り返って居た。僕は高校の時、代返をしてやったのに優等生になられたで本当に悔しくて随分勉強をしたが、いい刺激材だった。高校3年でクラス替えがあり別れてしまったが、当時、経済学部には塾高で語学だけ80点以上の組がドイツ語のG組とフランス語のN組の二組在った。僕はN組だったが、三保君はM組だった。殆ど学校で会ったことは無かった。「無限」、「ジュリアナ東京」、「スコッチハウス25」とか人を集める企画力は凄かった。色んな話があるがこの位にしよう。此の「箱根事件」は忘れられない事件だった。何しろ早雲山から手押しで湯本迄下りたのだから..。

 


“偲ぶ 慎太郎...“ ‘22-2-8

2022-02-07 22:39:21 | Massy's Opinion

★Massy’sOpinion

*慎太郎 刈り

僕の頭は小さい時から所謂、「坊ちゃん刈」だった。桐生へ疎開した時もそのまま。小学校5年で浜田山に帰って来た時もそのまんま。成蹊へ入ると旧制高校風の所謂、蛮から時代の風俗の坊主頭、今で言えば「いじめ」で上級生から呼び出しを受け、坊主頭にさせられた。慶応へ入ると坊ちゃん刈も沢山居て直ぐ又長髪にした。野球部に入った確か夏、所謂、「スポーツ刈」に渋谷道玄坂上の「坂本美容室」で刈り上げて貰った。此の美容室は評判が良く仲間が10人位通っていた。隣が女性用の美容室で、その仲間の中には、そこの女の子と結婚した奴もいた。一度、何か野球試合の大会で負けて、全員丸坊主にさせられた事がある。慎太郎の「太陽の季節」が芥川賞を貰って有名になり、当時、慎太郎の頭がこのスポーツ刈りで一躍「慎太郎刈」が大流行に成った。社会人に成って、当時、新橋の銀座よりの角に「ㇽピノ」と言うバーがあったが、学生時代ラグビー部の先輩に、連れて行って貰った事がある。其処の「オーナーママ島田さん」は、後の日産社長石原さんの日産経理課時代の部下だったOGで、僕の事を「日産の慎太郎」と言って贔屓にして呉れた。その後、銀座7丁目に引っ越したが、そのビルが大学野球部の先輩、加藤さんのビルだった。約60年に成る随分長い付き合いに成った。僕のボトルの番号は「57041」僕の職番だった。

*イントロ 三保敬太郎

戦後日本が最も元気だった高度経済成長の時代、ある天才ジャズピアニストがショウビジネスの世界で大いに活躍を遂げた。音楽界だけに留まらず、俳優、タレント、映画監督、エッセイスト、レーシングドライバー等々、どの分野でも一流だった才人である。ほかにもスキーはオリンピック候補級の腕前、自前でアイスホッケーのチームを持つなど多趣味で知られた人物であった。その名は、三保敬太郎。しかしながら豊かな才能を持ち過ぎた者の宿命であろうか、1986年に51歳という若さで世を去ってしまう。彼は、1934年10月17日生まれ。存命であれば88歳裕次郎と僕と同年生まれである。或る時、日産自動車の川又社長当時の秘書室長Yさんから、「君、三保君と友達だったね、僕は三保君のお父様に面接を受けてコロンビアに入ったんだよ」と言われて、初めて敬太郎君の父上が偉い人だったんだなあと判った。43歳で日本コロムビアの社長を務めたこともある実業家の三保幹太郎を父に持つ敬太郎は東京に生まれ、幼稚舎から大学まで一貫しての慶応ボーイであった。7歳からピアノを始め、高校時代にはピアニストの守安祥太郎に師事。16歳でバンド、クール・ノーツを組んでプロのジャズピアニストとなる。慶應義塾大学を卒業した翌年TBSに演出部員として入社した。1961年には2度目の芸術祭奨励賞も受賞している。彼は、高校2年の時バンドを組んでから夜の仕事をし出した。学校は遅刻するばかりその内、「代返をして呉れ」と言う事になり、僕は午後野球の練習に行きたいので、交換条件を結んだが、当時、彼はモテモテで朝方迄遊び歩いていた。それでも彼はその年、優等生に成っている。これは僕に取っては凄い刺激になった。或る夏、別荘か借りたのか知らないが、葉山の森戸海岸に部屋があり其処へ遊びに行ったクラスメートが「三っちゃ凄いよ、部屋に行ったら衣紋掛に女のストッキングが何本も掛かって居るんだ...」その後の話はご想像に任せるが、その当時の葉山は豊かな自然に恵まれた海岸だった。逗子、葉山、鎌倉に住んで居た慶應の連中は我々都内に住んで居る者には一種の憧れの的だった。兎に角、敬太郎との話は忘れもしない社会人で初めて給料を貰った次の日に箱根へドライブに行ったが、此の事は、次の機会に書くことにしよう。

*太陽の季節

慎太郎が「太陽の季節」を発表したのは、大学2年の時、僕が高校3年の時である。裕次朗の名前は「大きい奴がいる...」と言う事で聞いてはいたが学校では2度位しか見た事はなかった。しかし、三保の事で書いたが、湘南方面から来る奴は、遊び人が多く僕らの様に練習に追われる連中は、湘南方面から来る奴らが何か流行の先端を行って居るようで羨ましくて仕様が無かった。「太陽の季節」を読んでみるとまさしく校内で聞いて居た様な話ばかり...「これは弟の裕次郎がやって居いる事を題材にしたな」玉突きで賭けをして、負けて自殺する話、興奮した性器で障子を破る話、なんて上記した敬太郎の話から類推できるだろう。慎太郎が旧来の小説の書き方よりダイナミックに青春の様々な行為を表現したのは、「何か兄貴が弟のやって居る事羨んで書いている」様な気がしたものだ。当時とすれば、よく出版社も取り上げたものだと思う。

*夢の湘南 長者ヶ崎

さて、僕には色んな友達がいる。先ず、野球の友達、中学、高校、大学と本当に仲良しが多くいた。遊びの友達、野球の練習が無い時は、銀座で待っていてくれる。居場所は靴磨きの伯母さんに言づけて置いて呉れる。仲間の中には裕次郎の真似をして、ハイカラ―なÝシャツを好ん着る奴もいた。遊び仲間の話は、「おい葉山へ行きたいな...そして、三保や裕ちゃん見たいに思いっきり軟派して見たいな...」大学3年の時である。「葉山で部屋を一夏借りようよ」と言う話に成って、森戸、一色は高いから...と言う事でその先は安いだろうと言う事になり、長者ヶ崎で探した。そしてある石屋さんの8畳一間を蚊帳付き、お風呂は五右衛門風呂、布団は4人分と言う事で、7月ひと月借りる事にした。確か、6万円だったように思う。東京の友人に話をすると、「泊めて呉れ」と言うのがグループで来る。兎に角、当時の長者ヶ崎の海は奇麗、慶応の広告研究会の海の家と普通の海の家の2軒だけ建っていた。静かな海岸だった。泊りに来たい連中からは、「一泊3000円取る」と言う事にした。借主の4人では、その金は釣り道具の箱の中にしまって手を付けないように約束した。殆ど一月の内20日位は、多い時には14人位の日もあり,雑っ子寐で太陽の季節や敬太郎の様な艶っぽい話には縁遠いい状態だった。それでも、海は透き通って居るし、朝日夕日は本当に奇麗、これだけは「太陽の季節」並みだった。7月の31日ひと月の夏が過ぎて、毎晩やって居た花札の勝った者から釣り道具箱を開けて配当金の分配をしたら、確か、65000円位に成っていて里帰りするK君は岡山までグリーン車で帰った。この時のことが忘れられず、翌年も同じ石屋さんにお願いして7月一月夏の葉山暮らしをする事になった。長者ヶ崎は、本当に忘れられない海岸である。「僕らの太陽の季節」だった。

*その後の石原兄弟

「立場が人を造り、人が立場をつくる」と言う格言がある。太陽の季節以降、石原兄弟は、兄は作家、弟は俳優と言う役割でしっかりと大きなタッグを組んで一時代を築きあげた。やっぱり第一作が芥川賞を受けたのは慎太郎には大きな自信に成ったのと同時に人間としての視野を大きく持つことが出来たのだと思う。その陰にあったのは、「狂った果実」等一連の映画を作った水の江瀧子プロデュサーの眼力によるところが大きいだろう。何と言ってもネームバリュウは大きい。キャッチフレーズも「慎太郎刈」もいい。次から次えと続くヒットソングも大きい。

慎太郎が政界に出て、次から次えと役割を変えながら、話題と時代のアクセントを作り出したのは本当に立派なものだった。僕は裕ちゃんとは付き合いはなかったが、同級生で、ボート部に居た奴が、裕ちゃんのスタントマンに成った。彼から結構いろいろな話を聞いた。

一方、敬太郎君は身近に付き合っていた。敬太郎君は裕ちゃんとは付き合って居ない。大橋巨泉が「11PM」で有名になったが、あのテーマソングは敬太郎君の作曲である。巨泉は裕ちゃんと仲が良かった様である。しかも、「栄光えの5千キロ」も日産の華やか時代の大作、敬太郎君もダットサンフエア―レデイーで日本グランプリに出て居る。お互いに敵愾心があったとは思わない。「縁」なのかな?不思議でならない。

石原兄弟は色んなことをやりながら勉強もした。敬太郎は全くの天才?気の向くままに何でもやった。でも、一度彼の家へ遊びに行った時、下駄箱の上にダンベルが置いてあった。ピアノを弾くためか何か解らないが、屹度、努力をして居たんだろう。皆居なく成ったが、「時代が変わったなあ」と言う想いが強い。数人の友人から「おい...慎太郎も死んじゃったな...寂しいな」と電話が掛かって来た。伸晃君も随分応援したが、石原兄弟が大きすぎたのか?今一つ自分の個性が出て来ない。石原ファミリーも一時代の「大輪の花」だったのか?