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<strong><</strong>留学生 Part3>    ’05-10-24

2005-10-24 14:45:06 | Massy's Opinion
Part1、Part2と東京へ留学に来た人たちとの交流を書いた。今度は日本からアメリカへ行くことについて書こうと思う。身近な娘、Megumiのケースである。
・大学4年で水泳部の活動も終わった頃から、就職活動をしたり、進路について考えていた様である。「アメリカへ留学したい」と言い出した。「英語を習いに行くのなら、日本で充分だよ。何か具体的な目標があるなら考えるけれど...」と僕は応えた。取り敢えず僕のLosに居る友人のお宅へ約3週間位行かせることにした。そして、西海岸を回りながら色々考えたのだろう。どうしても「スポーツに携わりたく」そんな関係の方向を探したのだろう。行き着いた所が、「Sport Medicine Foot Hill College」である。そして、N,A,T,A「=National Athletic Trainer」の資格を取りたいと言う。具体的な話なので「No!」と言うわけには行かなくなってしまった。「お金どの位掛かるの?」「年300万位出来るだけ節約するから、2年くらい...」「当たり前だよ。ホームステイでなければ駄目」と言うことで、留学を許可せざるを得なくなってしまった。
・N,A,T,Aの受験をするまでに色んな資格が必要で、随分時間も掛かったが、その間も水泳を続けていた。そして、Los Altosのプールでアル&デラ,シーハン夫妻(東京オリンピックのアメリカ水泳チームのマネージャー)に目を掛けられお世話に成るようになり、学校で受けられないことを教わった。夫妻が「Meguのパパに会いたい」と言うことで、‘00年の夏訪米し、約2週間夫妻の家のコテージに泊めてもらった。そして、BayArea周辺の学校、Meguの出場するマスターズ・スイミングの試合、Megu のトレーナー実習場、名門ゴルフクラブ、中古自動車販売場、修理工場等をジックリと見て、アメリカ生活を身近に体験し実りの多い旅だった。
・元オリンピック水泳選手のデラさんはMeguの練習を見て「小さい子が、キチンと泳いでいる」ので目に留めてくれたのだろう。スポーツは兎に角、世界共通の言語であり練習はその人のHistoryに成るのだろう。
*Megu の留学で感じたこと
・共稼ぎの多い向こうの家庭、特に子供も小さい家でのホームステイはベービーシッター的になってしまう。(食事の時間が自由にならない)
・留学の目的を決める事は大事だが、アメリカと日本の制度の違いは詳しく解らない。
同じような目的を持って留学している、又はした先輩を見付けて話をよく聞く事が大事だ。アメリカで資格をとっても日本で使えるとは限らない。
・一つの資格を取るのにも時間が掛かる。大学は入りやすく卒業するのは厳しい。
・良い人に出会う事が、本当に大事。
・兎に角お金は掛かる。色んな奨学金を調べて活用する事が良いだろう。日本へ来る留学生も利用している人が多い。
・こんなことからMeguの卒業論文は「A Guide for Future Japanese Athletic Trainers:An Informative Brochure」と言うタイトルである。生活費の実録も書かれているが、兎に角、自動車と家賃が高い。
*Mr.K,M君 
高校時代、野球部のエースだったが、肘を痛めて夏の予選は不完全燃焼。
上の段階で野球は無理とトレーナーの道を選んだ。高校卒業後、英語の勉強に一年掛け、その間、ヤクルトでバッティング・ピッチャーのアルバイトをして、アメリカでの一年分の費用、約300万位の貯金をしていた。ある日父親と我が家へ訪ねてきた。親も「実際に如何なのか?」心配なわけである。「NATAの受験をするまでに5年位掛かる。アメリカでは日本のように自由にアルバイトは出来ない」と説明すると驚いていた。親もこの長期留学に掛かる経済的負担は理解して置かないといけない。K,M君は「フレスノ大学で学内の施設で働き、体力的には入れるならば野球部に入りたい」と明確なプランを持っていた。将来はきっとプロ野球チームの数少ないATCトレーナーになるのではないかと楽しみにしている。
スポーツは上の段階を目指しながら何時かは自分で能力の適性を判断する時が来る。スポーツに携わりたく、トレーナー志望の若い人が多いので驚いているが、日本のスポーツ界の環境も変らなくてはと痛感している。




<strong><留学生 Part2> '05-10-17</strong>

2005-10-17 10:17:02 | Massy's Opinion
* その後の留学生
・Mr.C,H,Sマレーシアから 

Mrs.A,T,Mが「私の日本語学校の友達で、同じ、クアラルンプール(K/L)から来ている男の子が居るのだけれど、アルバイトさせてくれませんか?」と言って来た。Massyは基本的に「女ばかり、レジ、フロアー、カウンター内の差別をつけずに人を使う」ことにしていたが、忙しくも成ってきていたので、始めて「男の子を使おうか」と面接をした。住まいを聞いてみると「身元引き受けもしてくれる」とので来日し「日本語学校の寮にいる」しかし、寮とは名ばかりで、「8畳の部屋に12人くらい詰め込まれている」と言うことだった。この話を聞いて可哀相になり、自宅にホームステイさせようかと考えた。最大のネックは明治生まれの僕の母親に了解を取ることであった。何しろ、外国人であり食事、生活習慣もわからない。「食事、風呂は別、寝るだけ」と言うことで説得をした。幸いMr,C,H,Sは中国系なので、兎に角「おばあちゃんを大事にしろ...」と言い含めた。2年ほど居たが、立命館大に入学、無事卒業して、日本人と結婚して、今、香港で働いている。在る時、Mr,Cが「オーナー、おばあちゃんにお年玉をこんなに貰った」と3万円持ってきた。「孫のMeguに3千円なのにおかしいな」どうもこの頃から勘違いが始まったらしい。
・Mrs.K,W 台北から、そしてお母さんの来日
その後、矢張り2年くらい家にいたが、親が帰国をしろといって来ても、全然本人は帰国しない。在る時、「娘が心配で母親が迎えに来る」と言う。僕も「無理に引留めているみたいに思われるのは困るな」「まあ、しょうがないな」と思っていた。共稼ぎの僕らは、昼間は母親だけの留守番である。言葉の問題もあるし...どうなるんだろう?と心配をした。結局、妹と二人で来日し、同じ部屋で1週間暮らして行った。最後は僕らの事を理解して安心したのだろう...台湾料理を作ってくれるし、帰りには「謝、謝」の連発で帰っていった。MS、KWも学校を卒業して帰国し、結婚して、もう女の子供が6歳くらい、昨年は「桜とデイズニーランド」を見に来て1週間泊まっていった。
・その他上海から Mr.T,S 学校の先生から立大へ来て、日本語を学ぶ。帰国後、旅行会社の日本部長として働き、一昨年、12年ぶりで「ママに会いたい」と家を訪ねて呉れた。僕が上海を訪れた時、連絡ミスなのに3時間も空港で待っていてくれた。  
福建から Mrs.S,O 夫婦で勉強に来ていたが、Massyが休みの時にはティツシュ  配りをしている所を見かけたことがある。福州市へ旅した時、連絡したら夫婦でスーツを着て、子供を抱いてホテルへ来てくれた。「オーナー、私達5階建ての家を建てて、今内装を工事中...」驚いてしまった。皆、シッカリした目標を持って、日本へ留学して来ていた。今はミャンマーからのMr.Y,T北京からのMr.C,Zが何れも日本の大学を出て、東京で働いているが月に一度くらい家に遊びに来る。
・ 考えてみれば、留学は発展途上国からより発展している国へと行くのが当たり前、当然経済的には大変な負担になる。それだけに真面目な子達は良く働いて勉強している。 (続く Part 3へ)  




<strong><留学生 Part1>  '05-10-10</strong>

2005-10-09 22:25:07 | Massy's Opinion
* 海外に興味もった経緯 Mrs.A,T,Mとの出会い 
今から50年くらい前、僕が中学生の頃第二次大戦後、アメリカの文化が溢れてきた。
その中に、「True Story」と言う雑誌があったが、いろんな心を打つ物語や意外性のある物語が載っていた。そんな時代アメリカに誘われた興味がやがて海外への興味となった。そして、これからの話も全部「True Story」である。
* 初めての外国人を雇う
20年くらい前、「Massy」と言うコーヒーショップを広げた時、店員を募集したら、マレーシア人の応募者がいた。店のテーマは「女を売るな、コーヒーを売れ」「家庭的なサービス」「清潔」とした。「家庭的なサービス」とは「お客様と必ず一言、言葉を交わせ」である。来日間もない彼女は日本語学校に通っていて言葉もたどたどしい。
★専務「オーナーどうしようか?姉さんと一緒に来たんだけれど...姉さんと一緒に飯倉のマンションに住んで、姉さんは上智大学だって...」
★僕「身元がシッカリしていればな...マレーシアから来てマンション、しかも飯倉...使ってみたら...」
と言うことで採用した。日本語学校に1年半行って、大学に行く予定だった。
12月の或る日、僕が店により地下鉄で帰ろうとすると「オーナー、オーナー...」とTanが追いかけて来て、「オーナー学校で伊豆へ旅行に行って来ました。これ私のお土産...」
と言って、温泉饅頭のビニールパックに包まれた小さいのを一つ真っ赤な顔をして、差し出してきた。「ええ?」普通なら多分10個くらいがパックに成っている内の一つである。すかさず僕は「有難う」と貰って別れた。キットお小遣いも無かったのか...
* 入国管理局の女の人一年半過ぎて大学受験にになった。そして、長期留学の為、保証人が必要になり「オーナー誰か保証人に成ってくれないかしら?」と言われた。僕も留学生の保証人は初めての事、年収600万以上の人と言うことで、頼まれたが、正直な所金銭の保証なのか?よく解らないので、勉強の為も含めて、入国管理局に出向いた。そして、窓口のベテランらしい女子の事務員に、、「僕の一年チョッとの付き合い、向こうの親との面識も依頼もある訳ではない」と経緯を話して率直な所断りたいと言う考えを話した。その女子事務員が「留学生、巷間言われるような悪い子ばかりではないですよ。真面目な子も多いので、出来るだけ力に成って上げて下さい」と言われた。そして、「経済的な保証ではなく、身元の保証だけだ」この一言はとても印象的だった。良く親戚縁者の保証人に成って、「えらい被害を蒙った」と言う話を聞くが、保証の範囲はよく確認する事が必要だ。結果的に彼女は奨学金の資格を取ると同時に保証人も他の人に依頼してきた。
* 大学入学と勉強の仕方
中央大学に入学した後、身寄りよりも無いので単位の取り方を教えた。土曜、日曜日には「ご飯を食べにおいでよ」と言って、日本の話、学校の仕組み等話してあげた。Megumi も丁度、高校一年位、兎に角、A,T,M嬢は「マレーシア語、英語、広東語」が出来る。Meguの勉強にもなるだろうと考えもした。兎に角彼女は真面目に良く人の話しを聞いた。
* 良い成績に驚く...
一年過ぎて、成績表を持ってきたが、「C」は日本語だけ、「オーナー、日本の学校おかしいよ。私、日本語で答案書いて、Aがこんなにあるのに、日本語のCは解らないよ」と言う。もっともな話で返答に困った。「君の日本語は学問とすれば、ヒアリング、スピーキング、ライティングとあるだろう。スピーキングは未だおかしいよ。そう言う意味ではCだよ」と説明したが、内心良い成績には驚いてしまった。そんな事で卒業し帰国した後、勉強の成果を発揮して日本大使館始め語学力が生かせる職場で働き、結婚し2児の母親としてママゴンをしている。昨年、富士山と雪をご主人に見せたいと二人で日本にきて、僕の家に一週間泊まっていった。彼女との出会いがその後の多くの留学生との交流の始まりであった。(続くPart2へ)






<strong><Letter To Mr, K,K No,2>                ‘05-10-3</strong>

2005-10-03 11:34:27 | Massy's Opinion
*前回、貴君へのLetterで「さおだけ屋はなぜ潰れないか?」の紹介をした。昨日乗った電車のつり広告に又、大きな広告が出ていた。キット200万部位売れるのだろうか?「僕と同じような事を言っているよ」と話したが、少し説明をしよう。今から約30年前、高度成長期の真っ只中、日本が明るい夢を見ていた時代である。経済の牽引車は「自動車」僕はその最前線に居たわけ...当時から、メーカーは台数、台数の追いかけっこ...販売会社の目標は朝から晩まで「台数」月も、年も台数ばかり。価格競争が始まり、「利益はドンドン下がっていく」「生産性の低いセールス」の問題が大きくなる。 >「利益を挙げろ」「台数を売れ」お客様は幾らかでも「安く買おう」とする。要領の悪いセールスはますます売れなくなりやる気を無くしていく。そこで、僕は「売上だけは絶対あげろ...何を売ってきてもいい」と言う指示をした。お客様に真面目に会っているセールスは整備であれ、保険であれ、中古車であれ何かの情報を持ってくる。この時に、「八百屋や、魚屋は何故潰れないのか?」その理由は「経済成長率に見合った売る上げは絶対に必要なのだ」「仕入れに見合った掛け目をして売値を決める」原価を教えて、(当時の上司から怒られた)「さあ、自分の給料は稼いで来い」と言う指示にした。八百屋や、魚屋、花屋は市場からセリで仕入れをし、その価格に20%位を掛けて、その日の売値を決めている。新車はメーカーの希望小売価格があるって、そこからの値引き競争になってしまう。魚屋も八百屋も最近ではスーパーと言う流通形態の変化で店数が少なくなったが、要するに、
・「定価ー値引き=売値」と 
・「原価+粗利 =売値」
の商売の仕方の例題に使ったのである。「さおだけ...」の方は周辺利益を取り込むことの例題だと思う。そして、短いフレーズで解りやすくテーマ付けすることが人を動かすには大事である。
*さて、話題を変えよう。「日本には文武両道はいない」Marty Kuehert著 早川書房を読んだ。偶々講演を聴く機会があり、楽天のGMに就任した時に、トレーナーにもMeguの友人のATCを採用したし、僕はアメリカ流の球団経営になるの...「マネー・ボール」スタイルと期待をしていた。残念ながら三木谷オーナーもプロ野球業界流の経営になってしまうのだろう。精々、3年はKuehert氏にやって欲しかった。孫、三木谷、堀江氏等は100年に一度生まれるラッキーマンだろう。しかし、長い目で見るようになったとき、矢張り保守的に成らざるを得ないのだろうか?今、スポーツ界の指導者を目指す人、特にスポーツ界の日米格差を考える人には、若し、読んでいなければ是非一読をすすめたい。