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<「アフリカ野球友の会」 神宮進出!>

2006-04-25 23:03:28 | Massy's Opinion
さて、皆さんご存知ですか?「キャッチ・ボールで世界を平和に!」と言うスローガンでアフリカに野球を広めようと言う「NPOアフリカ野球友の会」 代表 元ガーナ、ナショナルチーム監督 友成晋也氏が立ち上げた組織である。その活動の柱の一つが在日アフリカ人による「草野球チームの結成」である。

在日アフリカ人は留学生を含めれば沢山居るが、野球の面白さを教えるのは並大抵ではない。殆どの人が働いており友の会のメンバーがアフリカ人の集まりそうな所、アフリカ料理店や教会へ出向いて勧誘して来て、野球をやらせ、面白さを解らせる訳である。

昨年までは三井上高井戸グラウンドで月一回のペースで練習をしていたが、グラウンドの閉鎖で使えなくなってしまった。今年のグランド探しで僕は神宮外苑の軟式野球場を推薦した。・地の利の良い事、・知名度があり、アフリカ人にも解りやすいことが主な理由である。幸い球場事務所側の好意でほぼ月一回の予定が決まり、23日が最初の練習日だった。生憎、霧雨の天候だったが集まりもよく、推薦した僕としてはホッとした。練習はいつも通り子供達も参加して守備練習は三ヵ所でやるような状況だった。

丁度、23日は神宮球場でヤクルトVSベイスターズのプロの試合があり、昼間は6大学のリーグ戦がある併用日だった。こう言う日はプロの選手はヤクルトの室内練習場と軟式野球場でウオーム・アップをやる。珍しい顔ぶれの草野球チームなので目立ったのだろう。ベイスターズのクルーン投手が近付いてきて、キャッチ・ボールをしていた一人のアフリカン、フィリップさんにコーチをしだした。アフリカンはあんまりクルーン投手の「価値」が解らない。野球を知らないのだから...。日本人は皆、大喜び...ほんの短い時間だったが、神宮で練習を出来たことの嬉しいハプニングだった。フィリップさんに「You have to pay 100dollers for coaching」「おオッ、高いよ...そんなお金ないよ...」「その位、youはlucky gayね」「又、next time のpracticeにきてね」 きっと次回5月7日の練習も多くの人が集まるだろう。
(詳細はhttp://www.catchball.net/

兎に角、人を集めるには、・場所を定めること ・定例化すること・日程を事前に知らせることが僕の労働組合、水泳、犬、野球クラブ造りの経験から、成功への絶対条件だ。
その意味では、新しいホームグランドで上々のスタートが出来て、今年は良いシーズンに成るだろう。

今いろんな人達が発展途上国に野球を広げようと、三角ベースとか古い道具を集めるとか発展途上国に適した野球伝道の面白い活動をしている。参考までに僕の知っている範囲でアドレスを記して置こう。
・ネパール、 http://www.occn.zaq.ne.jp/nepalbaseball/
・ジンバブエ、http://www.geocities.co.jp/Athlete-Olympia/6155/
・ミヤンマー http://www.11card.jp/myanmar/index.html




<新会社法の時代>                ‘06-4-18

2006-04-18 22:22:20 | Massy's Opinion
平成17年6月 「新会社法」が成立し、いよいよ来5月から施行される。わが社は7月決算であるから、今度の税務申告までには新法に適用するようにしなければならない。株式会社と言ったって極細企業である。しかし、従来の旧法では株式会社、有限会社、合資、合名会社の区分があったが、一応、株式会社が、設立から上場までの可能性を含めて一番格上とされていた。第二次大戦中、増田商会は企業統合令で日の出自動車株式会社と合併させられ、資本金35万円であった。第二次大戦終了後、復員してきた叔父が増田商会を再開したが、数年で病没しその後、叔母さんを生活させる為に、親父は増田商会を株式会社にした。そして、生活資金としてその株式を叔母さんから買う形にした。
 ・確かこの1952年当時株式会社の 最低資本金は50万円であった。
          ・1987年の商法改正では、最低資本金は200万円になり、
          ・1995年の商法改正により最低資本金は1,000万円に成った。


増田商会は商法改正の都度増資をしてきている。振り返ると、創業1931年会社設立1952年と言うことは現在、創業以来75年、会社設立後54年と言う月日が過ぎている。この間、部品商では手形商売に振り回されたので、現金商売の喫茶店を2軒、老後を考えて、利は薄くとも、撤退時に負担の掛からない、チケット・ショップ、麻雀屋への貸し店舗、等いろんな商売をやってきた。しかし、お客様に恵まれて、一度の預金不足も勿論不渡りも出さずに今日までやって来た。親父は1964年に急逝したが、増田商会は母や妻の協力で時代に即して何とか乗り越えてきた。此れは基本的に唯ひとつ「親父の作ったものを潰してはいけない」と言う強い思いが皆にあったからである。先日ある友人に「増田商会なんて、潰して、新規に会社作ったら...」と言われて愕然とした。「うん、今の時代そんな考えもあるのかな?」「いや、違う努力の仕方、責任に対する考え方の違いかな?」

さて、「新会社法」でこれからの会社は、「株式会社」が「資本金は1円」から設立できるようになる。勿論、株式の公開、非公開等による区別はあるにしても、「信用」「暖簾」「取引の歴史」が世間からどう判断されるようになってくるのだろうか?そして、金融機関の「与信基準」にはこう言う点がどう加味されるのだろうか?「成長の無い会社はダメ」と言うのか?「成長は売上なのか?利益なのか?」小沢さんが言っている「格差社会是正のセフティーネット」とはこんな「銀行与信の考え方」を変えることも含まれるのでは無いだろうか?零細企業が生きやすくして欲しいし、ホリエモンみたいな経営者に騙されない社会にしたいものだ。

いずれにしても、「新会社法」で役員の改選登記も期間が延びるし、今でも印鑑証明なんか自分で取れるようになっているので、極細企業は会社運営の手間が省けて有り有難い。世の中の反応がどうでるか?見守りたい。


<Diary Ⅱ>            ‘06-4-11

2006-04-11 17:36:23 | Massy's Opinion
3月年度末、4月年度始め 異常気象が続くが、桜も散って春も終わり。民主党の代表選やら、高速船が鯨にぶっかったり、何か世の中リズムがおかしい様だ。
昨年、11月のブログでDiaryを書いたが、最近の出来事を書いてみよう。

>‘05/11/29 “Megu’s Advice“でシアトル留学希望のH,M君の事を書いたが、もう、彼の出発時期が来た。「誰かシアトルに知っている人は居ないか?」と考えていたら、会社時代に知っていたK,O嬢が定年で退社して「4月から半年シアトルに行く」と言う、メールが来た。彼女のお姉さんがシアトルに住んでいることは知っていたが、まさかそんなロングステイーをするとは思はなかった。早速、電話で事情を話し、H,M君を紹介方々、3人で旧交を温めた。 偶々、幸運にもK,O嬢のお姉さまは約25年位現地で不動産業(www.kohtoku.com)を経営されているとの事。H,M君始めての海外旅行、しかも幼い子供と親子三人の留学、不安で一杯。増して、2年間位は瞬く間に過ぎてしまう。僕は人の紹介には「ミスマッチ」をしない様に特に注意しているが、こんな幸運は滅多に無いと思う。H,M君はもうじき渡米して、住居を探す訳だが多分条件に合った住居が直ぐ見つかると思う。正直な所、24ヶ月の留学のうち6ヶ月位の時間は節約できただろう。「人のつながり」、「タイミング」、「初め良ければ終わり良し」きっといい留学になるだろう。出来れば6月位に僕も行ってみたい。

*‘06/3/30 若大将加山雄三が学生時代、「ランチャーズ」と言うバンドを組んでいた。そのメンバーの中の二人コージとロクチャンは僕と職場スポーツを通じて特に付き合いが長い。皆、定年になり又、「Country Crops」と言うバンドを組み、ライブ活動を始めている。お店は今人気の「麻布十番」Cozy-Circleと言うライブハウスである。毎月最終木曜日仲間に誘われてもう3回行ったけれど、何時も満員。予約をしなければ入れない。年齢層は高いが兎に角一杯。お店のママに「何時もこんなに入るの?」って聞いたら、「いつも入ればいいんですけれど、このバンドの日だけですよ...」特にコージ、歌が巧くなった。キット練習しているんだろう。毎日出演したらこんなにお客は入らないかも知れない。しかし、ミュージッシャンも自分でお客を持たなければダメだ。

*’06/3/31 フラのまなぶチャンの生徒の一人からTELがあり、「先生のバースデイパーテイーをやるから先生に内緒で顔をだして欲しい」との事。急な話だがお祝いでもあり出かけることにした。全員で10人、ご夫婦が一組、と言うことは女性が8人男性が2人。まあ、賑やかな事、よく飲み、よく食べる。日本舞踊が衰退し、社交ダンスは可なり根強いファンがいるが、フラダンスが今凄くはやっている。フラ流行の理由を常々考えていたので色々聞いてみた。「動きが緩やか」「太極拳」みたい、「衣装代が割合に安い」「一人でも手軽に出来る」「何か、ハワイの明るいイメージ」等。
「ヒロチャン、あたしの足触ってみて...硬いでしょう」「フラのお陰よ」「ストレッチしているのと一緒」要するに「手軽にいろんな楽しみ方が出来て、奥が深い」と言うことらしい。因みに僕の同級生(元レスリング部)がフラをやっているのをTVで見て驚いた。二次会のカラオケでは「乱れ髪」にフラの振りがついた。

*’06/4/1 早いもので3ヶ月に一回の龍飛会があつた。場所も来ているお客の顔ぶれも同じだけど此れもほぼ満席70人位。最近では、元プロ野球の選手なんかも現れる。
大体、龍生さんの学校系のファンが多い。メジャーなジャズ歌手も3人参加して賑やかだった。ミュージッシャンも「場所を借りて自分で客を呼ぶ」と言う活動に成って行くのか?ライブハウスの経営は本当にむずかしい筈だが、人は集まる。

*’06/4/3 三井倶楽部にて「現代日本の政治と経済を考える樫の会」の観桜会に出席。
少し、格調の高い会なので行儀の悪い僕には堅苦しい。幸い若いといっても50代の野球ファンが居て、先方もホットした感じで、スモールグループで懇談ができた。

*’06/4/8 六大学野球始まり、慶応の応援に...延長サヨナラ勝ち!中味は兎も角、新監督で何よりのスタート。

*’06/4/9 ‘05-10-17<留学生Part2>に書いたMr,T,S君が上海から来日、奥さんと日本に留学していた娘さんと表敬に来てくれた。娘さん、交換留学で長崎の大学で2年学び、4月からJTB中国広島に就職したとの事。キット「日本で何か有った時には...」と言うことで尋ねてくれた。’00に僕たち夫婦がMr&MrsSehonの所へMeguのお世話に成ったお礼に行った時の事を思い出した。何処の国も親の気持ちは同じ...

*‘06/4/9 前に尋ねてきたラオスからの留学生MR,M君。中古車販売の会社に就職内定したのだけれど、「身元保証人」を要求されたらしい。仕事柄、金銭債務の保証の意味もあると思うし当然の話なのだが、本人は納得出来ないらしい。「身元保証」だけなら「学校の先生に頼んだら...」と言ったが、アルバイトばかりしていて授業に出ていないと此れも難しいだろう。その後、どうなったか?

結構忙しい10日間だった。今月末にはシアトルからニュースが入るだろう。




<strong><お店探し>            ‘06-4-4</strong>

2006-04-04 20:30:13 | Massy's Opinion
僕の大伯母さん(=お婆さんの妹)は昭和19年まで赤坂で「料亭小満津」と言う店をやっていた。始めた時期は知らないが多分昭和7~8年だろう。京橋にあるうなぎの白焼きで有名なお店から暖簾分けをして貰ったと聞いていた。僕の生まれ住んでいた芝区の御成門から市電に乗り赤坂溜池まで行く。よくお婆さんに連れられて遊びに行ったもので、その記憶は鮮明に残っている。

間口の広い玄関、引きつめられた油石の床、入り口に盛られた盛り塩、(お清め)夕方には半被を着た下足番の叔父さんが、綺麗に掃除をして来客を待つ。

お帳場があり、従業員の出入りは板場の脇の出入り口からである。お帳場には大女将(お婆さんの母親)が長火鉢を前にして座っている。芸者衆が入ってくると、大女将の前で三つ指を突いて「お母さん、今日は有難う御座います」と丁寧に挨拶をする。そんなやり取りを大女将の膝の上で僕は眺めていた。次の間付の広い客間、当時の住み込み店員と一緒の狭い自分の家からは比べるまでもなく、その上、皆が可愛がってくれるので「小満津」へ行くのが楽しかった。

大伯母さんからは結構色んな事を教わった。「大きくなってこう言うお店に来るように成ったら、礼儀を良くなければいけませんよ」先ず「靴は履くときの向きに向けて脱ぎなさい」「私たちは一目でお客様がどんな方か?解ってしまうのですよ」「良いお客さんにならなくてはいけませんよ」と言われた。「靴の脱ぎ方」は今でも守っている。「下足番のおじさんの仕事を思いやる」(手間を掛けない)優しさを意味していたのかも知れない。

さて、本題に戻ろう。僕は船橋聖一と言う作家がとても好きだ。高校生の当時、「雪夫人絵図」「芸者小夏」等が代表的だろうか?その時代ニューファッションに挑戦したのが女子大生物の「白い魔魚」(朝日新聞連載)だろう。女を描かせたら濡れた筆致がなんとも言えない。

1957年=23歳の時である。1954年(昭和29年)に発行された「風流抄」と言う船橋聖一の随筆集を古本屋で見つけて買ってきた。その中に「鰻はタレ次第と言うが、わさび醤油で食べる白焼きは京橋の小満津がうまい」と言う一小節があった。この時、「ああ此れが大伯母さんの言っていた本家なのだなあ」と一塩の懐かしさを覚えた。もう、時代は変わり、京橋も街が変ってしまい当時の事を知る人も居なくなってしまった。

2002年7月「週間現代」に「本当にうまい店」と言う欄で「うなぎ」を取上げ、その中に「小満津」と言う店の名前が出ていた。この屋号はとても珍しいので、「新しい人が使う訳はない」「誰か所縁の人だろう?」と思っていたが、その内、月日が過ぎてしまった。昨年はお袋も亡くなり時代も変わるので、去る3月末、思い切ってお店に電話をし、場所を確認し夫婦で出掛けていった。インターネットで調べ、タクシーで行ったが、一発で店の前に着いた。

「お客さんがいらしてご注文を頂いてから、焼くので時間が掛かりますよ」僕らが一見で来た理由を喋ると手をやすめなくてはいけない。簡単に「小満津の所縁の者です」と言い酒を頼んだ。出てきたお猪口が薄手の上品な物(昔の小満津が思いだされる様な)、酒の温度も人肌、付け出しの肝がいい味。出てきたうな重はたれの具合、焼き方も焦げている所が無く、満遍なくふっくらと焼けていて本当にうまかった。

帰りしなにご主人と少し話が出来たが、「京橋の小満津には曾祖父が居た」そうだ。
そして、大伯母さんは晩年2度くらいお店に寄ってくれたらしい。要するに、大伯母さんとこの店の曾祖父は京橋時代の同僚で「暖簾分け」をして貰った様だ。昔は商店が暖簾を大事にしていた。それだけ自分の仕事に「自信を持っていた」のだと思う。大伯母さんも戦後、赤坂でお店を再開した時期があったが、10年位で辞めてしまった。その時、居抜きで店を売却したが、暖簾はコマツでも文字は「小松」で「小満津」は売らなかったのである。今の時代、マンネリ打破でドンドン暖簾を変えてある意味で表現は悪いがお客様を騙してしまう。こう言う「古い良さ」を引き継いで行くのは「売手であり買手」なのだろう。老舗がんばれ...又行くよ...