☆Massy’s Opinion
☆最近新聞紙面を賑わしている問題
ルノー・日産の株主総会で、フランス政府が所有株の権利が2倍になるような提案を出して、可決したようだ。ゴーンさんが強いリーダーシップを持っている日産・ルノー連合は勿論、政府に反対である。この詳細な動きはまだ僕の耳にも目にも入って来ない。水面下を含めた動きは箱根の大涌谷のように地下で動いている筈だ。要するに地下では今までに色んな動きも在ったのだろう。僕は、ゴーンさんは「相当強い政府の支持」を得ていたと思っていたのでこんな事が起こるとは全然知らなかったし、考えもしなかった。然し、最近の日産の動きを見ていると海外では其れなりの成績を上げている様だが、僕に言わせれば日産石原社長時代の海外進出論の恩恵に浴している様に思えてならない。
☆公団時代のルノー
第二次大戦後、日本の自動車メーカー各社が大戦前に戻って世界の風潮の遅れまいと乗用車の生産に舵を切った。そして、日産はオースチン、日野はルノー、いすゞはヒルマンと業務提携し部品のノックダウンによるアッセンブリーから乗用車の生産に乗り出した。当時、日産はダットサンと言う小型車も作っていたが、中型車のオースチンを作り始めたのである。トヨタは提携をせずクラウンの充実をじっくりと進めてきた。それより少し前の時代にフランスでは自動車メーカーが乱立していた時代があり、プジョウを除いたシムカ、シトローエン等が合併してルノー公団になった訳である。従って、今でも政府がルノーの株を持っているのであり、ヨーロッパは我々が考えているよりある意味では封建的であり、官僚的である。日産がルノーと合併した時も「官僚的な会社同士で合併して巧くいくのかな?」と言う声も一部には大分あったし、僕自身もそう考えていた。
☆当時国内では
いろんな資本が外車ディーラーの販売権を持っていたが、終戦直後は新橋から赤坂見附の大通りの両側に新橋側から、フォードのニュエンパイアー、キャデラック、シボレーのヤナセ、ハドソンの安全自動車、オールズモビールの東邦モータース等の他に中古車を扱う店とかが店を張り、日本のデトロイトと言われていた。当時は日本の自動車業界の幕開け時代で日産のダットサン110型と言う860ccサイドバルブ・エンジンの車で、自動車時代の幕が開けたと言えよう。外車との提携をせずに力を蓄えていたトヨタはダットサン・ブルーバード対抗にコロナを市場に出し販売網の強化に乗り出した。世に言うB・C戦争の始まりで、誠に熾烈な販売戦だった。技術提携の名残で、いすゞの販売店ではヒルマンを売り、日野ではルノーを売ったが大型トラックと一緒では販売先もサービスも異なるのでやがて乗用車から撤退した。1968年頃ルノーの輸入元はタバカレラ貿易と言う会社がやっていたが、一部タクシー等には売れていたが日野の撤退と同時に三井物産が輸入権を取って、日野のルノー販売の人員も引き取った。(後で来た話だが、三井物産は、Representative of Renault=ルノーは公団だから、公団の代理店と言うステータスが欲しかったと聞いた)。ルノーでは東京に支社を作り偶々、僕の大学野球部時代の友人T,U君が副支社長として赴任して来た。「日本の自動車市場を勉強したい」と言う事で、彼に頼まれて随分勉強をさせたものだが、「いったい日本の市場で何%のシェアーが欲しいんだ?」と尋ねたら「10%...」「無理ですよ。日産・トヨタで90%ですから...」と答えた覚えがある。
僕の居た東京日産は当時最盛期で3500人くらいの従業員で月販3500台位の恐らく自動車の小売店としては世界一最大だったろう。前記の流れの中で、オースチンを売っていたキャピタルモーターと言う子会社があったが、オースチンが製造中止で売る車が無くなり、片方では三井物産がデーラーセットするわけでは無くルノー契約期間の10年が過ぎても売れるわけではなく、次のディーラー探しをしていたので、僕の友人T,U君をキャピタルの社長に紹介して、輸入権のチェンジをしたのである。この会社でも10年ルノーを売ったけれども結局思う様には売れず、最後は日英自動車に販売権は移った。この間、僕は随分色々と調整役をやったが、ディーラーは多くの車種を扱えた方が有利だからである。然し、この間T,U君を通じ、ルノーの東京支社長のD氏と付き合ったが、「大きく考えて、小さくスタートするんだ」と言う言葉は印象的で、僕はその意味を「着眼大局着手小局」と言い換えて使っている。この交渉の過程で、ルノーの総裁が親会社の東京日産へ表敬に来ることなったが、早速、日産自動車の秘書室から「ストップしてくれ」と言う指示が来た。勿論、日産自動車にも表敬に行くことに成っていた。何と言う小さな腹の事か。その電話をして来た人は未だお元気だ。(でも、そんなに重要だったとは思っていないだろう)結局、東京日産の六本木本社で会わずに確か帝国ホテルで表敬を受けた。
☆ゴーン体制以降
マスコミでは、日産の窮状と新しいリーダーに焦点が移って行ったが、思いも掛けずレバノン人、ルノーからの人ではなくやや畑違いのキャリアーの人だった。今ここで彼が取って来た「コミットメント」に代表される方針事は書く必要性は無いだろう。企業の再建は・増資・遊休固定資産の売却・コストカット・人員整理しかない。コストカットでは車種を減らし、関係会社の資産売却から始まり、片一方では、車種を減らし多くの古い顧客を無くして来た。日産のあれだけ古い歴史と組織を変えていくのには、相当に芯の強い人で無いと、出来ないだろう。結局、企業再建に約20年近い年数を使った事になる。電気自動車、水素自動車等のアドバルーンを揚げているが、芯になり売れる車が無い。日本国内の報道では余りルノー本体の事は解らないが、ゴーンがルノーの社長を兼務するようになった時既にルノーの販売は伸びが止っていたのだろうと思う。さて、前記したルノーの日本における販売チャンネルの事など、ゴーンさんは勉強しようとも思っていなかった。彼の取り巻きにもそう言う歴史的な事実をご進講する人間は居なかったと思う。実は、僕の友人のT,U氏なんか貴重な人材だった筈だ。でもその時、既に彼は「外国人に使われるのは嫌だ」と言って、「その代わりにお前を推薦するよ...」と言っていた。その時あるレポートを彼が書いて、「何処宛に出そうか?」「ルノーの東京事務所が良いんじゃないの...未だ日産の中では誰が秘書をするか解らないよ」と言うやり取りを僕とした事がある。結局、そのレポートはゴーンには届いていなかったか?何のアクションもなく時は過ぎていった。この所、日産の中では人材が流動化している。僕はルノーとの提携は持ち株比率は対等がベスト最低でも60対40位であるべきだと思っている。兎に角、日本政府の国際感覚も乏しいしこの20年近い間に日産と言う大きなブランドを失ったと思う。
☆最後に
今まで書いて来た事は事実であり、今この事にタッチしていたのは、T,U君と僕と昔の総裁の表敬訪問にストップの電話を掛けてきたT氏だけだ。只、T氏は受け取り方が全然違い事務的に考えている筈だ。一時期でも50年前に日本最大(当時)のディーラーとルノーが関係があったことを知っている人は居なくなった。当時のキャピタルモーターの社長は引退後一切野球界とは縁を切った人だったが、プロ野球が前期、後期の2期制だった時代の阪急ブレーブスの選手で一度首位打者を取った事のある佐賀商出身の人である。ルノーのT,U君は甲子園9回連続出場した時代の小倉高~慶応である。僕は、T,N氏が社長をするときに「俺と一緒に部長でやってくれないか?」と誘われたが、諸般の事情でお断りをした。3500人も居る社員の中から指名された訳でその事に対する「感謝」の気持ちと九州生まれ同志の「野球の選手」と言う事で信頼関係は大丈夫と思い、お礼の意味も含めて両者を引き合わせたのだ。今度のフランス政府とルノーの問題がどうなるか?日産の労働組合が如何動くか?日産の歴史の中では組合問題は切り離せないが、日産労組の動向も見守るべきだし、日本の労働者の考え方の良い見本に成るだろう。