★Massy’Opinion
*時代背景 1962年頃 ブルーバード310型 1959年発売
1955年頃から、国産自動車が乗用車に力を入れ始めた。ダットサンの復活である。」と同時に日本の戦後最高景気が本格的に成って来た。僕が大学卒業した年が1957年。就職をしようか?野球をやれる所へ家を継ごうか?親父は何にも云わなかった。六大学は立教長島を始め、そうそうたる連中が居て人気絶頂の時代。4年の秋までは殆ど就職先きは考えて居なかった。或る日、練習を終わると稲葉監督に呼び出された「増田、就職どうするんだ?」と聞かれて、「出来れば野球出来る自動車会社へ行きたい。そこで3年位野球やって後は、家の稼業を継がなくては...一人っ子ですから...」稲葉監督は「川崎トキコ」の監督をして居たので「川崎地区のいすゞに話してやろ」と言って呉れた。幸い学校推薦は通るし...第2志望で東京日産に志望を出した。処が、試験日がいすゞより先に成り、「2次試験は受けなくてよいからいすゞを断って来い」と言う事になり東京日産に入社を決めた。初任給は12800円その年は大卒30人位採用した。配属は業務部業務課で男子は6人女子1人だった。業務課と、車両受渡課の二つの部署だった。業務課が仕入れ等、メーカーとの折衝、営業所への配車、受渡課は現車の配車が中心の仕事だった。
・メーカーには車両受渡課があり、出来上がった車は、工場回りのテストコースを一回りして受渡課の置き場に置かれて行く。其処からディ―ラー迄の引き取りは、昔の話で「先方引き取り」と「ディーラー渡し」と言うのがあり、ディーラーはどちらか選べた。殆どが「先方引き取り」で陸送屋のプールに運ばれる。当時、吉原工場は昼夜3交代のフル操業だった。陸送屋も手が足りず、奥の方へ入ってしまった車は中々出て来ない。要するに業務課の要望通りに出荷されないのである。ドライバーは殆どが「運転手組合」の所属で社員は4人位と少ない。結局、組合の運転手も高い日当の方に行ってしまう。当時の吉原から東京までの陸送代は陸送会社に一台2750円ディーラーが払い、その内、運転手には1000円の手当にガソリン券15リッター(1リッター、35円位)だった。大体、距離は、吉原~東京品川迄が120kmくらいだった。リッター10キロ位走るので、巧く走れば、10リッター位で済む。毎日、会社が終業すると、新橋発6時10分発の鈍行に乗り、吉原駅に向かうのである。吉原着は10時頃、確か、運賃が610円、入場料が90円位、入場料で乗車し、検札が来ないとそのまま吉原まで行き、吉原駅の手前で列車が速度を落とすところがある。そこで飛び降りて運賃を節約するのである。会社の正規の手続きでは,近地出張で稟議を挙げて、手続きが大変、手当は900円で陸送屋のアルバイトで行けば1000円殆ど変わらない。一応、次長には話して置いたが、ある時期は、週に3日位吉原へ行ったものである。
*日産吉原工場
昔の話で、うろ覚えであるが、当時、吉原工場は、月産10000台、当時はダットサンが人気最絶頂で工場は3交代8時間労働で深夜業迄あり、月産3万台位生産したことも有った筈だ。自分の会社へ引き当てられた車をプールから引き出すのが大変だった。それでも昼休みには、車を寄せ集め、広場を造り、ソフトボールをやった。当時受渡課の課長が大の野球巨人好きで、勿論、僕は狩り出される。面白かったし、工場の人達には、直ぐ覚えられた。僕の自動車会社に入った大きな希望は、新車の出来立てのオフライン車を運転する事だった。当時のG検査課長にお願いして一度だけマッサラのメータ―0mの車を運転させて貰ったことがある。新車は何とも言えない特有の匂いがして、気持ちの良い物である。
*沼津口から小涌谷へ。箱根越え...
当時、業務課には33年入社のH君、34年入社のS君、N君(W大自動車部)、35年S君(青学自動車部主将)K君、Y君(慶応弓道部、自動車部)E君(青学)高卒O君等の課員が居た。大体、皆、此の吉原行の残業メンバーである。工場の車置き場から、納期を急がれている車を探し出し、陸送に移る訳である。吉原の町は、本当に田舎町で、工場の前にストリップ小屋が建てられて居た。白河と言う酒屋があり、ガソリンスタンドは沼津よりにあり、夜12時頃まで営業していた。そこで、ガソリンを15l入れて沼津口より箱根越えに入る。僕は、何時も隊列を守る様に云って、先頭はH君に頼み、僕は一番後ろを走った。何かあると困るからである。車は吉原から沼津まで走ると俄然エンジンの調子が良くなる。
当時の箱根路東海道は今の様にガードレールもない左右一車線ずつの2車線である。街灯なんか勿論ついて居ない、真っ暗である。道の脇は直ぐ崖である。運転は対向車の前照灯を目掛けて走る。これで一番怖いのは3輪車とのすれ違いである。ライトは1個で真ん中について居る。傍まで行くと対向車の車幅が「わっ」と広がって来る。兎に角、当時の箱根は怖い道だった。特に夜は霧が多い。ハンドルを持って居ると自然に早く帰りたくなりスピードが出てしまうのである。元箱根で全員の異常が無いか?一休み、車を止めて、確認をする事にしていた。その時、O君の車が、追い越して行ってしまった。元箱根から又登りに成り、隊列を守らず走り去るO君の車を僕が追いかけた。小涌谷のカーブを切ると崖下から、灯が煌々と輝いている。僕は、「ああ、やったな...」と体中がぞくぞくと寒気がした。其処まで行くと、崖の下からライトが煌々と上を向いて照らしている。あの時の記憶は60年近く前のことだが未だに鮮明に脳裏にこびりついている。直ぐ車を止めて、崖下を覗くと6メーター位下の太い木に車が引っ掛かっていた。車は、助手席側のドアーが樹の幹に引っ掛かって止まっていた。多分スピードを出し過ぎてカーブを曲がり切れなかつたのだろう。直ぐ崖を下りて現車の傍に行く運転台にO君は頭を押さえてハンドルの上に追いかぶさって居た。「おい、O君と肩を叩くと顔を挙げて、幸い無事そうだった。車も火を吹いたりしていない。フロントガラスは滅茶滅茶。その内に上の街道に仲間の車が止まって車列が出来る。皆、驚いて口も利かない。
さて、その時に僕が考えた事。兎に角、崖の上の街道迄、車を出さなくては...街道を通るトラックで引張って貰おう。車の弁償は如何しよう?確か、70万位だな、O君に弁償させるのは無理だな。隊列を組んだ仲間たちが次々に止まって、車から降りて来る。皆、声も出ない。「おい、トラックを止めて、事情を話し、ロープを持って居るか?聞いてくれ...」幸いに壱台目に来た5トン積みのトラックが良い運転手さんで、ロープを持って居た。早速、ロープで結んで、本当に幸いにそんな深い所でなかったので、5~6人で事故車を支えながら崖から上の道へ引き上げた。昔、500円でロープを買った経験から、トラックの運転手さんには、1500円払った。次に考えた事は、「この山の中に止めて置いたらしようがない。何とかもっと山ノ下の湯本辺りまで牽引するかどうか?後の処理は如何しよう...」「ディーラーナンバーは会社の名義だからこれはまずいな...」運航の範囲が都内ときめられている。そうだ、陸送会社に頼んで陸送中の事故にして貰おう。警察に届けておかないと、保険処理も出来ないな。そんな事を考えた。後から、何時も陸送屋のアルバイトをしている連中も現場に来る。何しろ15台位のダットサンがライトつけっ放しで、周囲は煌々と明るく成っている。事故車は幸いにもヨタヨタ自走が出来る。運転していたO君も運転は出来る様だ。ああ、一段落だ。何時もアルバイトをしていて陸送屋に顔が利く、R君に「横浜生麦のT陸送に行ってナンバーを借りて来てくれ、警察が来る前でないと拙いから急いでな」2台は事故車の伴走をして呉れ。と言う段取りをつけた。さて、それから、H君と部長の家へ謝罪と報告に行こうと言う事にした。 (次週に続く...)