イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

「高僧伝 釈迦」読了

2015年09月04日 | 読書
松原哲明 「高僧伝 釈迦」読了

日本には様々な仏教の宗派があるが、やはりその原点となる釈迦の教えというものも知ってみたいと思いこの本を手にした。

釈迦の考えの原点は、「人は生まれて必ず死ぬ。」という当たり前といえば当たり前のことだ。
死んでしまうと何もかもなくなってしまうのにその間にどのように生きるべきかということにあまりにも無頓着である。使命感もなく生きることはあまりにももったいないと考えた。

人が生まれるのは、“因縁”であり生きることは苦悩に満ちている。そして必ず死ぬ。因縁と苦悩を解決する、もしくは折り合いをつけることで人生を意義のあるものにすることができる。
釈迦が体系付けた苦悩の半分は自分の思いのままにならないことがあるということだが、それは自分の責任ではなくその境遇は因縁が原因であるとした。
あの人より貧乏なのも過去の因縁、あの人よりも頭が悪いのも過去の因縁。(あの人よりも魚が釣れないのは因縁ではなくて僕の腕が悪いから・・・。)要因を外部に求めることであきらめ、納得することができる。
あきらめることで苦悩を乗り越えよう。それを含めおいて今を生きよう。

この本には書かれていないが、過去からの因縁、永遠に続く命の広がり、時間の流れ、万物は我と同根という悟りから真言密教の考え方の一部が生まれ、あきらめること(=無心、無欲になること。)からは禅宗、釈迦の民衆を救いたいという考えは尊く、それを理解できない人は度しがたい。というちょっと排他的な考えからは日蓮宗、生まれる前の過去があるのなら死んだ先の未来がある。その一番いいところは浄土だ。そこへ行こうという浄土宗。すべては釈迦の教えの部分部分を掘り下げて考えに考えた教えであると思うと日本人というのはこのころから工夫と研究が好きな民族だったのだと思えてくる。

そんなことはさておき、この本はこんな釈迦の生涯の物語をいくつかの経典をもとに綴られている。その物語は人々の心を救いたいという気持ちでいっぱいだ。そして、実はあきらめて生きるのではなく人々の役に立ってこそ生きる意味があるのだと説いている。
もう、軽く半分以上終わってしまっている僕の人生はまったく人の役に立つものではなく、これからも人の役に立つようなことができるスキルもなければ布施をするような財力もない。いったいどうすればいいのかと相変わらずたじたじとなってしまうのである。


晩年に釈迦が弟子に与えた七法のなかにはこんなものがある。
一には、事少なきを楽しみて、為すこと多きを好まざるなり。
二には、靜黙を楽しみて、多言を好まざるなり。
三には、睡眠を少なくして、昏昧あるなきなり。
四には、郡党のために、無益のことを言わざるなり。
五には、無徳をもって、自ら称誉せざるなり。
六には、悪人と伴党とならざるなり。
七には、閑静なる山林を楽みて、独処するなり。

こんな生き方ができれば、人の役に立たなくても心穏やかに生きることができるとは思うのだが、これもまた、難しいものだ。


しかし、釈迦って本当にこういう顔をしていたのだろうか・・・。
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「火花」「スクラップ アンド ビルド」読了

2015年08月23日 | 読書
又吉直樹、羽田圭介 「火花」「スクラップ アンド ビルド」読了

 芥川賞作品を2編しか読んだことがない人間が芥川賞について書くのもなんだが、芥川賞作品というのは、感動させてしまったり共感されたりしてしまうともらえないのではないかと思う。
主題があってもそれは単にレトリックを完成させる材料であるだけだ。
この2編も漫才師や、老人の介護問題というのはたまたま著者の身近にあったものであっただけであって漫才師の苦悩や老人介護の先行きなどは大きな問題でははいはずだ。読む人によって、その時々の精神状態によってさまざまに感じ取ることができる、まるで能面のような作品に仕上げる。それが芥川賞だと思う。
 しかし、読む人すべてにその人だけの感想を持たせるということは多分これほど難しいものはないということもなんとなくだがわかるような気がする。
「ここで泣いてくださいね~。」って書くほうが絶対たやすいことは間違いない。

 そんな小説を書くためにはきっと法則というか、作法がきっとあるのだという前提で書かれたのが、「火花」という作品なのではないだろうか。
導入部の言い回し、章が変わるたびに挿入される情景描写はたしかにTHE芥川賞と思えるようなフレーズだ。
 マキタスポーツというタレントが、「絶対売れるJ-POPを作る法則」というものを発表していたが、どんな業界でもそんな法則が存在するのだろう。
 選考する人たちも、文芸春秋も、ある意味商売だから話題作りもしたいし、買ってほしいしというなかでは、だれもが納得できる法則で書くことができる有名タレントが出てきてそれにホイホイ乗りました。というのが本音ではないだろうか。だから少しは権威も保たねばならないというところでもう1作品受賞させたのが第153回芥川賞ではなかったか・・・。

 しかし法則だけではいけない。もうひとつ、「人間はこんなときこんな心の動きをしてしまう。」ということを、今までの誰もが考え付かなかったけどこれは多分きっとこんな心の動きってあるんだろうなということを書ききらなければならない。
 作法は勉強できても心の動きは勉強できない。ここが常人とはちがうところなのだろう。漫才師という職業はある意味、そこをもっとも得意とする人々の集団なのだと思う。人を笑わせるということは人を感動させるより難しいし、アドリブでの切り返しなんかでも相手の心のうちを読みきらないとお金をもらえるレベルにはならないだろう。(だから美人女優と結婚できたりするんだろうな。私のことをわかってくれるのはこの人だけ!ってなことになるんだ。きっと)すごい人間観察力だ。
 その中の一握りの人たちがテレビに出ることができる。週に1回はテレビで見るような芸人さんは又吉でなくてもだれでも一流の小説を書くことのできる才能を持ち合わせているということだ。あとは作法を知っているかどうか。そこが又吉のすばらしいところだと僕は考えた。
 師の作品を読みつないでいくと、受賞作というのは師でさえも後の作品に比べると物足りなさを感じる。又吉直樹はこれからどこまですごくなるのかはわからない。しかし、せっかく、「小説家で食っていってもいいよ。」という切符をもらえたのだから、芸人が書いたから売れたのではなく間違いなく小説家かとして売れているのだというような作品をものにしてもらいたいものだ。
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「荒野の釣師」読了

2015年08月15日 | 読書
森秀人 「荒野の釣師」読了

「荒野」とは、ヘラブナ釣りを主とする著者が釣り堀の対極として呼ぶ野釣りであって、そのなかでも有名なポイントばかりを釣り歩くのではなく自ら新しい釣り場を開拓したそんな場所をそう呼んでいる。
そしてそんな荒野に身を置き、釣果は二の次でたとえば全力を尽くすことに意義を覚えたり、魚との対話を重んじる。
ウォルトンの「釣魚大全」の訳者でもある著者ならではの見解だ。愛は惜しみなく奪うが、何も与えたまわない。そういうことだろう。
それが釣りへの愛ということなのであろう。そうでなければ眠い目をこすりながら寒い屋外に出て行く気にもならないということだ。

釣りとは「瞑想的人間のレクリエーション」である。とウォルトンは大全のなかで書いている。そして、静かなることを学べとも。
しかしながら僕は妄想的人間だ。魚は釣れなければ困る。それもコストをかけずに簡単に。クーラーがいっぱいになるまで・・・。
こういう本を読むたびに本当に魚釣りが好きなのかどうかということも自分でわからなくなる。釈迦は欲望がすべての苦悩の元であると説いている。それならば魚を釣りたいという欲望を捨てるほうが心穏やかでいられるはずではないのか・・・。
しかし、あの不意に襲ってくる魚のアタリを一度味わってしまうともうダメだ。これは麻薬のごときものなのかもしれない。すべてのものを捨て去ってもそれに溺れてしまう。

だから愛があろうがなかろうが、柳生一族の陰謀の名セリフ、

「裏柳生口伝に曰く、戦えば必ず勝つ。此れ兵法の第一義なり。
人としての情けを断ちて、神に逢うては神を斬り、仏に逢うては仏を斬り、然る後、初めて極意を得ん。
斯くの如くんば、行く手を阻む者、悪鬼羅刹の化身なりとも、豈に遅れを取る可けんや」

てな具合に、悪魔に魂を売り払ってもいつでもどこでも魚を釣ることができるような釣師になりたいと切に願うのだ。

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「伊勢丹・ストーリー戦略」読了

2015年08月05日 | 読書
川島 蓉子 「伊勢丹・ストーリー戦略」読了

この本に書かれてあることなんか当たり前のようにわかっている。多分、この業界に身をおいている人々ならそれが理想であると全員がわかっている。
じゃあ、なぜそれができないのか?
それは企業風土なのか、情熱なのか、無能なのか、それらのすべてなのか・・・。
すでに決まってしまっている序列というものは間違いなくある。あのような売り方ができるのは多分大都市圏で1店舗だけだろう。新宿には高島屋、小田急、京急、マルイも入れれば5店舗あるが、セールのこの時期に商品を山盛りで売っていないのは伊勢丹と高島屋だけだ。この地域での高島屋は負け組みとされているからこの商圏では伊勢丹だけが店頭にワゴンを1台も入れずにセール期間を戦える。
長く維持してきた伝統がなせる業だろう。だから客筋もいい。昨日、くしくもこの店の周りを歩いていたが、駐車場から出てくる車はほぼすべてが左ハンドルでしかも女性が運転している。こんな客だから売り上げを維持し、投資もできる。
それを他の百貨店が真似できるはすがない。伝統というものはそんなものだろう。
ウチも昨年、そんな真似をしようと日本で一番大きな店を作ったが、はたして役員ほか幹部の方々のどれくらいのひとがそれを成功させることができると考えていたのだろう。
仕掛けを太いものに替えてもそこに泳いでいる魚がいままでと変わっていなければ食ってくるはずがない。釣り人は魚を求めて移動することができるがお店の場所を移動させることができない。新しい伝統を作ろうとしても中期計画だ四半期の利益だとあおられたらじっくり取り組むこともできない。そもそもマーケティングというものがわかっていない集団がどれだけ集まっても顧客のニーズを満足させることはできないのだ。

“社畜”という言葉があるそうだ。「勤めている会社に飼い慣らされてしまい自分の意思と良心を放棄し奴隷(家畜)と化したサラリーマン。」という意味だそうだ。本社からやってきた経営者の方々はそんな社畜をうまくコントロールしてくれるのだろうか。
僕には関係ないと思っている僕もまったくの社畜になってしまっている。
マーケティングや経営の勉強(らしきもの)をすればするほど僕は経営者にはなれないと思うようになった。だからこれ以上の出世というものも期待できないし希望する資格もない。まあ、今の部長クラスでもどれだけの人が経営やマーケティングのことがわかっているのかは疑問だ。そもそもそれだけ優秀な人々の集団であるならば配当も昇給もきちんとされているはずなのだから。
幸いなことに、こんな社畜でもリストラもされずになんとか会社にしがみつかせてくれるというのはある意味いい会社に雇われている。
役員から恐ろしいことを求められるくらいなら、出勤前に魚釣りに行き、心の中で評論家ぶって会社の現状を無責任に憂いているほうが面白いというものだ。
ただ、少しだけの矜持をもちながら・・・。

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「地獄の思想」読了

2015年08月02日 | 読書
梅原 猛 「地獄の思想」読了

地獄の思想と聞くと、「悪いことをしたら死んだ後、地獄に堕ちて、エンマ様に舌を抜かれるのだ。」という子供の頃に聞いた話を思い浮かべるが、天台宗の基本の考え方ではそれは心のおりなす世界のひとつであるという。天台宗第三の祖智(ちぎ)によればその世界は地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人界・天界・声聞界・縁覚界・菩薩界・仏界の十在るという。その中のひとつが地獄というものだ。要は死後の世界ではなくて現実世界のなかで感じたり置かれたりする状態である。
日本の仏教宗派の開祖のほとんどは延暦寺で学んだ僧侶であるから、この十界をどう解釈するかで、「悪いことをすると地獄に堕ちる。」という考え方が生まれ、子供や学のない大人に道徳みたいなものを教えるのに好都合だからこうなったと考えるべきだろう。

もともと、釈迦が教えた仏教の思想は、生きるということは苦しむことだ、そしてその原因となるものは欲望である。そこから逃れるためにはその欲望を捨て去るしかない。そのために修行をしなさい。というのがおおまかな内容で、死後の世界についての言及はなかったそうだ。
ただ、その内容がネガティブというか楽しそうではなかったことが、地獄というものを生み、因果や輪廻という考え方と相まってだんだんと僕達が子供の頃に聞いたかたちになってきた。

人の心の中にある世界。確かに苦境に立たされれば地獄を見たと感じ、人をうらやみ、また恨むと自分が畜生になった気持ちになる。なるほど、そういう気持ちを行ったりきたりするのが人生なのかもしれない。
そして著者はその思想が日本人の心にどのように影響したかを分析している。
“生の暗さを凝視する”ことを愛することになったという。それが古来から存在した命を賛美する自然信仰、初期仏教の唯識論と相まって深く豊かな精神論を育んだという。
後半は源氏物語、平家物語、能、太宰などを例にとりながら日本人の心に受け継がれてきたこの精神の流れを立証しようとしている。

多分、クールジャパンというものもこの流れを汲んでいるから外国人からものすごく魅力的に見えてしまうのだろう。アメリカンコミックにはない、底の底のほうに何かが隠れているのかもしれないストーリーはやはり日本人にしか思いつくことができない物語のような気がする。
仮面ライダーは修羅の世界。カラフルな戦隊ヒーローは人の心の裏と表を浮き彫りにする太極の世界に見えなくもない。輪廻の世界を描いたストーリーもあったりする。

この本は宗教の本ではないので、それを知ることによって人はどう生きるべきかということは書かれてはいない。少しだけわかるのは自分が悲観主義者だと思うのは自分がペシミストなのではなく、この国自体がそうなっているのだからもう少し気楽に物事を考えればいいのではないかということだ。
どうすればいいのかはやっぱりわからないままなのではあるのだが・・・。


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「おくのほそ道」読了

2015年07月07日 | 読書
松尾芭蕉/角川書店編 「おくのほそ道」読了

正式には、「奥の細道」ではなく「おくのほそ道」だそうだ。学生時代の古典の授業でそんなことは習ったのだろうか。何も記憶がない。
毎月読んでいる雑誌に、「おくのほそ道」を自転車で踏破するという連載があり突然読んでみたくなったのだ。

教科書では冒頭の1章しか習わないからそれ以降を読むのは初めてだ。
もっと堅苦しいのかと思いきや、景色を愛でるのは当然ながら歩くのがしんどいとか虫がすごくて寝られないとか、毒を吐きながらの旅路でもあったようだ。
また、この旅は古の短歌に詠まれた名所を訪ねる旅でもあった。俳句というのは短歌を否定したところから発達したと思っていたが、そうではなかったようだ。むしろリスペクトしている。

古い歌の風景を訪ね、行く先々で旧知の人々の歓待を受ける・・・。“古人も多く旅に死せるあり。”というある意味決死の旅であったようだが、これぞ旅の醍醐味と思える。
半径3キロの生活に慣れきってしまっている僕のようなものでもこんな旅にあこがれる。

17年くらい前だろうか、1週間ほど山形県に滞在したことがある。“岩にしみいる蝉の声”の立石寺や“あつめて早し”最上川など、たくさんの俳句が読まれた場所があったのだが、その頃は「おくのほそ道」と山形県に何の関連も思い浮かばなかった。庄内竿を博物館に見に行っただけだった。今思えばもったいないことをしたものだ。そばと山菜は美味しかったが・・・。
食べるものといえば、「おくのほそ道」には食べ物に関する文章がないなと思ったが、1箇所だけしかないそうだ。芭蕉は食べることに興味がなかったのか、それとも禅宗を学んだ芭蕉にはすでに食欲というものは無駄なものとなっていたのだろうか。自然の中に在っても食べられるものかそうでないものかにすべてのものを振り分けてしまっているこの頭では、やはりこの心境には近づけそうもないようだ。

俳諧とはただ俳句を作るだけではなく、生き方そのものを指すのだと解説に書かれていた。それは禅宗につながる“乞食”の心である。俗欲を捨て去ったものだけが味わえる旅の心であったのだろう。
芭蕉が亡くなったのは51歳。今の僕と同じ歳だ。いつになったらそんな心境にたどり着けるのやら・・・。


今日は七夕。新潟県の糸魚川に到着した頃だ。旧暦とはいえこの旅と同じ季節にこの本を読めたということは僕にとってはうれしいことだ。
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「サバの文化誌」読了

2015年07月04日 | 読書
田村 勇 「サバの文化誌」読了

今年はサバがよく釣れるので、もっとサバの勉強をしようとこんな本を探してみた。
何年か前、よく行く古本屋で見かけたことがあったがけっこうな値段だったものだから買うのをやめたのだ。最近、ネットで探してみると1円の値段がついていた。これもサバの豊漁の賜物だろうか、それとも僕のサバへの愛が出会いをもたらしてくれたのだろうか。

文化誌というくらいだから、人々の生活とサバとのかかわりを綴っているわけだ。
お盆のころに刺し鯖というものを贈答品として使ったというのがお金やその他の物品に変わっていったということ。唯一仏前に供えることができる生臭物であること。などなど、遠い昔から日本人の生活になじんできたエピソードがちりばめられている。サバへの愛がますます深まるのだ。
サバ街道は若狭から京都というのが定番だが、その元祖は紀州や熊野から大和への道であったらしい。紀伊半島のほうがオリジナルだというのは郷土への愛もますます深まるのだ。
ついでに言うと、関サバより加太で釣れるサバのほうがはるかに美味しい。(はずだ・・・。関サバは食ったことがない・・・。)

漁法についてもいろいろ書かれているが、チョクリ釣りの記述がない。この言葉自体何を意味するかも知らないのだが、非常に局所的な漁法なのだろうか。それならそれで大切に守っていかなければならない貴重な文化なのかもしれない。


そして、サバの文化誌があるのなら、ボラの文化誌というのも誰か書いてはくれないだろうか。
ボラという魚も人が住んでいる海の近くで大量に獲ることができる魚だから貴重な蛋白源として存在していたのではないだろうか。カラスミはボラのタマゴだし「トドのつまり」や、「イナセ」などという言葉はボラが語源だ。そもそも出世魚だというのが人々の暮らしのそばにあったという証ではないだろうか。
ボラという魚は僕の魚釣りの原点のひとつだ。
小学生のころ、父親に連れられてボラの吸い込み釣りに行くのが楽しくて仕方がなかった。小さい子供の腕力にはあまりにも大きな獲物だった。そんなものを釣ってしまうと魚釣りが好きになってしまうのは当たり前だ。
昨今は“臭い魚”とレッテルを貼られてしまっているのが悔しくて仕方がない。
なんとか復権してもらえる方法はないものだろうか・・・。


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「仏像は生きている」読了

2015年06月09日 | 読書
田口 汎 「仏像は生きている」読了

タイトルからすると仏像観賞の紀行文かと思って買ってみたが、どうして仏像が創られるようになったかという歴史的な解釈を試みている本であった。
しかし、どうも論点がぼやけているというか、僕の期待したような内容ではなかった。
せっかくだから、偶像崇拝を禁じているキリスト教やイスラム教とはどういう思想で異なった方向に進んでいったのかとか、それがその国の文化にどういう影響を及ぼしたかみたいなことを論じてもらいたかった。

インドの僧侶の間には東へ広がって花を咲かせるのだという伝承が広がっていたそうだ。まさに日本がその終着点で、多分、多彩な仏像を彫ったり拝んだりする文化の延長線上にクールジャパンと言われるようなフィギュア作りやオタク文化みたいなものがあったりするのかもしれないとひそかに思ったりしているのだが、そんなところまで言及してくれていたらなおさら読み応えがあったのではないかと思うとちょっと僕にとっては残念な内容であった。
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「 遺伝子の川」読了

2015年05月29日 | 読書
リチャード・ドーキンス 垂水 雄二 訳 「 遺伝子の川」読了

本書は生物を遺伝子の川の流れのほとりでたたずむだけの存在であると表現している。遺伝子だけがとうとうと未来へ受け継がれてゆくのだ。生物はそれをただ眺めているだけでそこに留まるのみだ。
それも効率的に最小限のエネルギーでかつ非情なほど。死に行くもの、未来に残れないものにはなんの慈悲も与えない。選ばれた遺伝子のみが流れを下ってゆく。
ヒトはある意味、その流れのなかでも最高傑作のひとつなのかもしれない。

そして地球上での生物の躍進を星の一生になぞらえる。恒星は最後を迎えるとき、大爆発を起こして次の星を作るための材料を宇宙に拡散させる。多様な遺伝子の大爆発、そしてその次の究極の目的は宇宙への拡散である。
DNAはその正確な複製能力からデジタルデータであると考えられる。
人類はその一歩を踏み出している。ボイジャーにはほんの少しだが、地球にはこんなことができる生物が生きているのだというメッセージが搭載されているのだ。
「遠く宇宙をへだてたところで、彼らは語りかけるに値する文明として最高潮に達したもうひとつの生命の大爆発が大昔にあったことを知るだろう。」という言葉で本書は締めくくられている。

もし、遺伝子が本格的に宇宙へ飛び出すことを望んだとき、DNAがその役割をになうのだろうか、それともシリコンウエハーのような別のものが肩代わりするのだろうか。遺伝子はデジタルデータだ。どこかで再生できればそれでいいと考えるとデータを載せるメディアは高分子の有機物でも無機物でもかまわないとは思えないだろうか。
もし、DNA=有機物=人間が運び屋となるしかないのであれば科学はもっと進歩しなければならないだろう。その段階のなかで核エネルギーでさえも利用する必要があるのではないだろうか。
しかし、情報だけを送り出すのであればそれほどのものは必要ではないだろう。
もうすでにコンピューターの上で人格を再現することは可能になっているそうだ。人工知能はその人がWEB上に書き込んだりアップしたりした情報を集めてその人格を再現できるらしい。30年後にはほぼ完璧に再現できるとか。
コンピューターに乗せかえられた僕の人格は他人から見たら僕なのかもしれないが僕自身からみたら僕ではない。僕というものは一体何なのだろうか。
遺伝子はそんなことは一向に気にしないのだろうか。本書のように情報だけが大切なのだろうか。

ヒトを選ぶのか情報を選ぶのか。それもきっと遺伝子が決めるのに違いない。あと30億年もすると太陽は最後のときを迎えて膨張を開始し、地球の軌道以上の大きさになるのだそうだ。
そのときには遺伝子はどんな決断をしているのだろうか・・・。

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「禅とは何か-それは達磨から始まった-」読了

2015年05月13日 | 読書
水上 勉 「禅とは何か-それは達磨から始まった-」読了

本書は、達磨から始まった禅が中国での隆盛と衰退をたどり、日本に渡って巨大教団として発達し大きくなってしまったゆえに始まった頽廃、そしてそれに反旗を翻した高僧たちの生き方を紹介している。
高僧たちはどんな生き方をしたかは書かれていても、禅的な生き方とはなにかということについては、「こうだ、こうしなさい。」という指針は残念ながら書かれていない。
ただ、人間の大半、それもほとんどの人たちはグローバルな世界で生きるということは無理なはずだから手の届く範囲で生きるべきなのだと高僧たちの生き方を読んで思う。

気候や風土は土地々でどこも違う。そこの場所に合った生き方だから数百年の長きにわたって人は生き延びた。科学が発達し風土をねじ伏せ、大量生産でどこでも同じ生活をやりなさいとなってくるとどこかで無理がくる。

もちろん、どこかでの交わり、つながりは必要だろう。しかしそれはほんの希なことでいい。そして細い細いつながりでいい。遠くのことをうらやむとその地に合った生き方がしづらくなる。だから遠くから流れてくる人は希人として貴重な情報源として大切にするもののそれは特別(自分たちとは違う人)として扱ってきたのだ。むしろ、やっぱり自分が住む場所が一番だと再認識するための対象だったのかもしれない。
グローバルをローカルとして捉えることができるような人というのは世界でもほんの数人だろう。スティーブ・ジョブズかザッカーバーグくらいか・・・。それ以外のグローバルな経営者と言っているような人たちはただ大量発生したバッタみたいに世界中の市場を食い荒らしているだけのように思う。中国を食い荒らし、インドからアフリカに行ってほかに食い荒らすものがなくなったあとはいったいどうするつもりなのだろうといつも思ってしまう。

正法というものなどは体得することはできるはずもないが、道元が師匠から、「国王大臣には近づくなかれ」と説かれたというのはなんとなくわかるような気がする。何かに仕えて生きるというのは自分の心にバイアスをかけることと同じだ。
無為自然、任運騰々と生きることが禅的な生き方だとするのなら組織の枠に嵌っていては実現はむりだと思う。都から遠く離れてひっそりとひとりで生きることだ。

日本中に同じショッピングモールが建設されどこに行っても同じ生活が展開されその延長に人口の集中による疲弊と集落の崩壊が迫っている。乞食(こつじき)のような生活はしたくないが、最低限のインフラが整っていればそれでいいのではないか。基準は自分の食べ物を自分で捕って帰ってくることができる範囲だ。

もうすでにパンドラの箱は開けられてしまったか。
禅的な生活だけがこの箱を再びもとに戻すことができるような気がする。

はたしてこれが正しい考え方なのか、グローバルな世界で生きることができない無能なサラリーマンの負け惜しみなのかはわからないが、少なくとも水上勉は前者の生き方を推奨しているように思うのだ。
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