場所:水軒沖
条件:中潮 7:18満潮
釣果:ボウズ
今日が連休の最終日だ。小船も船底塗装をしてから乗っていないのでせっかくなので今日も釣りに出ようとした。
ダメ元で夜明け前後で青物狙いだと考えていたのだが、午前3時前に起きるとけっこう風が吹いている。それも西からのようだ。これでは船を出せないと思いまた布団に潜り込んでしまった。
次に目を覚ました時刻が午前6時過ぎ。今日はどうしても水軒に行きたいのでルアーのセットをバイクに積んで家を出る。もはや水軒に行くという目的だけであり、この時間からでは魚が釣れる確率は東京オリンピックを中止にするというのと同じくらいであるのでクーラーボックスも持たずに出発だ。
船に乗せたルアーも100均で買ったメタルジグだけ。もう、魚を釣るというよりもエンジンを回すためであるというのがあからさまだ。
しかし、この100均メタルジグ、100円と思えないほどよくできているなと思う。
一文字の切れ目を通って沖に出ようとしたが、かなりうねりがありそうだ。ここは大事を取って青岸方面へ。しかし、まだ濁りがひどい。ここはダメだと諦めて新々波止の先端へ。
ここもうねりがあるがなんとか船の上には立てる。数回メタルジグをキャストしているうちに紀ノ川からの濁り水が攻めてきたのでこの場所を断念。
波の中をゆっくり移動し、沖の一文字と新々波止の交差点へ。ここでだめならすぐに退散だ。
さて、メタルジグをキャストしようとしたらテトラの横で魚が跳ねた。経験上ではこの跳ね方はボラではない。よし!とその方向にメタルジグをキャスト。すぐに魚がヒットするほど世の中は甘くはないが、一度だけ竿先に重みを感じた。これが魚だったかどうかはわからないが、アシストフックをつけておけばよかったと悔やまれる。
そんな時間を過ごして午前8時で終了。
今日、水軒にどうしても行きたかった理由はこのあとからだ。
まずは大きい方の船の給油とスタンチューブの再調整、それと水漏れを修理した生け簀の樋の確認だ。スタンチューブは少しだけ絞めこむだけで終わりで、生け簀の樋も今のところ水漏れは確認されなかった。
そして今日のメインの目的は梅の実の収穫だ。叔父さんの家には1本だけ南高梅の木がある。去年はさっぱり実が成っていなかったが今年はたくさん実が成っているらしい。せっかく梅の木があるのに叔父さん宅ではまったく利用しておらず、僕が使わせてもらっている。そろそろ採り頃ではないのかと昨日見てみると、確かに大きな実がたくさんできていた。明日も休みなので採りに来ますと伝えておいたのだ。
森に暮らすひまじんさんのお宅もそうであるが、庭にひとおり食材が揃っているというのはなんと心強いというか生活が豊かになることかと思う。これは人それぞれの価値観によると思うけれども、僕にとってはうらやましくてしかたがない。
釣りのジャンルとして、「賄い釣り」というものがあるそうだ。その名のとおり、昼食なり夕食なりの食材を釣りに行くという意味であり、よく考えたら僕の釣りのスタイルも限りなくそれに近い気がしたりしているのだが、野菜もしかり、身の回りでそういうものが調達できる生活は豊かな生活だと感じるのである。百貨店で無駄と思えるような価値に対してお金を払うのを豊かな生活というのではないのである。
僕にとっての豊かさの象徴は収穫用コンテナなのかもしれない。
2,5キロの実を収穫して午後から梅酒作りだ。今年も二瓶仕込むことができた。
これはまったくプラシーボ効果なのだと思うけれども、梅酒を飲んだ翌日は血圧が上がっていないのか、立ちくらみをすることが少ないような気がしている。だから梅酒は僕の命の綱になっているのだ。
半年もすると少し色づいて飲むことができるようになる。さて、今年の出来栄えはどうだろうか。
昔から、塩梅というくらいで、梅の実は調味料として使われていたそうだ。梅の実は青い頃は青酸性の化合物を含んでいるらしい。ほかにもたくさん木の実はあろうに、そんなものをあえて食材として使ったのはなぜだろうかとふと思った。
いろいろ考えていると、梅の花は早春の頃、どの花よりも早く咲く花だ。奈良時代では花というと桜ではなく梅の花を指したくらいで、人々が春の到来を待ちわびながら見る花であったことだろう。
その花の実なのだからきっとなにか生命力の源であるようなことを連想したのではないかと思ったりする。それがたまたまクエン酸の効果で美味しい調味料になったのではなかったのだろうか。
言ってみれば、梅酒も梅干しも春の山菜の延長線上にある食材ではなかったのだろうかと、今日の釣行記はまったく魚釣りとはかけ離れた内容になってしまったのである。
条件:中潮 7:18満潮
釣果:ボウズ
今日が連休の最終日だ。小船も船底塗装をしてから乗っていないのでせっかくなので今日も釣りに出ようとした。
ダメ元で夜明け前後で青物狙いだと考えていたのだが、午前3時前に起きるとけっこう風が吹いている。それも西からのようだ。これでは船を出せないと思いまた布団に潜り込んでしまった。
次に目を覚ました時刻が午前6時過ぎ。今日はどうしても水軒に行きたいのでルアーのセットをバイクに積んで家を出る。もはや水軒に行くという目的だけであり、この時間からでは魚が釣れる確率は東京オリンピックを中止にするというのと同じくらいであるのでクーラーボックスも持たずに出発だ。
船に乗せたルアーも100均で買ったメタルジグだけ。もう、魚を釣るというよりもエンジンを回すためであるというのがあからさまだ。
しかし、この100均メタルジグ、100円と思えないほどよくできているなと思う。
一文字の切れ目を通って沖に出ようとしたが、かなりうねりがありそうだ。ここは大事を取って青岸方面へ。しかし、まだ濁りがひどい。ここはダメだと諦めて新々波止の先端へ。
ここもうねりがあるがなんとか船の上には立てる。数回メタルジグをキャストしているうちに紀ノ川からの濁り水が攻めてきたのでこの場所を断念。
波の中をゆっくり移動し、沖の一文字と新々波止の交差点へ。ここでだめならすぐに退散だ。
さて、メタルジグをキャストしようとしたらテトラの横で魚が跳ねた。経験上ではこの跳ね方はボラではない。よし!とその方向にメタルジグをキャスト。すぐに魚がヒットするほど世の中は甘くはないが、一度だけ竿先に重みを感じた。これが魚だったかどうかはわからないが、アシストフックをつけておけばよかったと悔やまれる。
そんな時間を過ごして午前8時で終了。
今日、水軒にどうしても行きたかった理由はこのあとからだ。
まずは大きい方の船の給油とスタンチューブの再調整、それと水漏れを修理した生け簀の樋の確認だ。スタンチューブは少しだけ絞めこむだけで終わりで、生け簀の樋も今のところ水漏れは確認されなかった。
そして今日のメインの目的は梅の実の収穫だ。叔父さんの家には1本だけ南高梅の木がある。去年はさっぱり実が成っていなかったが今年はたくさん実が成っているらしい。せっかく梅の木があるのに叔父さん宅ではまったく利用しておらず、僕が使わせてもらっている。そろそろ採り頃ではないのかと昨日見てみると、確かに大きな実がたくさんできていた。明日も休みなので採りに来ますと伝えておいたのだ。
森に暮らすひまじんさんのお宅もそうであるが、庭にひとおり食材が揃っているというのはなんと心強いというか生活が豊かになることかと思う。これは人それぞれの価値観によると思うけれども、僕にとってはうらやましくてしかたがない。
釣りのジャンルとして、「賄い釣り」というものがあるそうだ。その名のとおり、昼食なり夕食なりの食材を釣りに行くという意味であり、よく考えたら僕の釣りのスタイルも限りなくそれに近い気がしたりしているのだが、野菜もしかり、身の回りでそういうものが調達できる生活は豊かな生活だと感じるのである。百貨店で無駄と思えるような価値に対してお金を払うのを豊かな生活というのではないのである。
僕にとっての豊かさの象徴は収穫用コンテナなのかもしれない。
2,5キロの実を収穫して午後から梅酒作りだ。今年も二瓶仕込むことができた。
これはまったくプラシーボ効果なのだと思うけれども、梅酒を飲んだ翌日は血圧が上がっていないのか、立ちくらみをすることが少ないような気がしている。だから梅酒は僕の命の綱になっているのだ。
半年もすると少し色づいて飲むことができるようになる。さて、今年の出来栄えはどうだろうか。
昔から、塩梅というくらいで、梅の実は調味料として使われていたそうだ。梅の実は青い頃は青酸性の化合物を含んでいるらしい。ほかにもたくさん木の実はあろうに、そんなものをあえて食材として使ったのはなぜだろうかとふと思った。
いろいろ考えていると、梅の花は早春の頃、どの花よりも早く咲く花だ。奈良時代では花というと桜ではなく梅の花を指したくらいで、人々が春の到来を待ちわびながら見る花であったことだろう。
その花の実なのだからきっとなにか生命力の源であるようなことを連想したのではないかと思ったりする。それがたまたまクエン酸の効果で美味しい調味料になったのではなかったのだろうか。
言ってみれば、梅酒も梅干しも春の山菜の延長線上にある食材ではなかったのだろうかと、今日の釣行記はまったく魚釣りとはかけ離れた内容になってしまったのである。