ポール・ナース/著、竹内 薫/訳 「WHAT IS LIFE? 生命とは何か」読了
著者は2001年にノーベル賞を受賞した遺伝学者だ。
酵母菌の細胞周期という、細胞が分裂をおこして姫細胞を作り出す行程を研究する中で、cdc2と名付けた遺伝子が細胞周期の主要な制御因子であることを発見したことでノーベル賞を受賞した。
このタイトルはどこかで見たことがあると思ったら、シュレーディンガーが同じタイトルの本を書いていて、著者もそのオマージュとしてこのタイトルをつけたそうだ。それほどに、「生命とは何か」ということを語るのは難しいということだろう。
著者が生物学の興味を持ったのは、12、3歳の頃にヤマキチョウが飛ぶところを見たからだそうだ。その複雑で完璧に作られた蝶の姿を見て、生きているっていったいどういうことなんだろう?生命って、なんなんだろうと思ったという。僕などはチョウチョを捕まえても口のストロー引きちぎるくらいしかやらなかったが・・。
生命とは何かということを定義する方法はいろいろな人がいろいろなことを考えだしてきた。
著者が最初に学校の授業で得た答えは、「ミセス・グレン(MRS GREN)」だった。生物が示す、運動(Movement)、呼吸(Respiration)、感覚(Sensitivity)、成長(Growth)、生殖(Reproduction)、排泄(Excretion)、栄養摂取(Nutrition)の頭文字の語呂だった。イギリスでもこういうことを覚えるのに語呂合わせを使うようだ。
しかし、これは、生物の「行為」をうまく説明しているが、生命とは「何か」について満足のゆく説明にはなっていない。
ノーベル賞を受賞した遺伝学者のハーマン・マラーという人は、「進化する能力を有するもの」と考え、シュレーディンガーは、「遺伝的形質と情報」をということを強調した。そして、物理学者らしく、そこには「物理法則を超えた法則」があると考えた。生命の起源に関する科学的理論の最初の提唱者だというJ・B・Sホールデンというイギリスの生物学者は、「この問いに答えるつもりはない。」と言ったそうだ。インド国籍も持っていたひとらしいがなるほどインド的な回答だ。
そんななか、著者は、「細胞」「遺伝子」「自然淘汰による進化」「化学としての生命」「情報としての生命」に分けて考えながら、「生命を定義する統一原理」を目指すというのがこの本の趣旨である。なかなか大それたというか、壮大なテーマだが、文体や内容は難解なものではなく、こういう一般向けの科学本に普通に書かれているような内容であった。だから、多分、統一原理というものが導き出されているのかどうかというとどうなんだろうと思うところがある。
この、”統一原理”というものが一体何を示しているのかというところにもよるのだろうが、僕が思うのは、ただの有機化合物であったものが、生命としていろいろな人たちが考えてきたような定義(代謝をして、遺伝というシステムで子孫を残し、もっというなら意識というものを持って生命とは何かということを考え始める。)を始めるようになったか。エンジンで言うなら、最初にセルが回ったのはいったいなぜか、何がセルを回したか。それを知ることが統一原理を知るということではないのだろうかと思うのだ。
細胞の中で起こっている様々な化学反応というものは相当詳しくわかってきている。免疫や胚が分化して様々な器官を作っていく過程もそうだが、個々の反応がわかっていてもそれがどうやって制御されて体のなかで自動的に制御されながら活動しているのかということはほとんどわかっていない。(胚の分化というのは、分化させるためのホルモンの濃度の違いで様々な器官に分かれていくそうだが、それでもそこまでしかわかっていない。)DNAの配列がわかり、分子の操作でそれを人工的にその配列を再現できたとしても、そこから生命としての活動を誘発することはいまだかつてできてはいない。
酵母菌の細胞周期と人間の細胞の細胞周期というのは使われている遺伝子の化学的構成からみるとほとんど変わりはないそうだ。進化の過程の差と比較してこれほど変わらないということから、著者は、『今日地球上にある生命の始まりは「たった1回」だけだったのだ。』と考える。おそらく、その最初の1回、これが本当に、ある細胞(その時はだただの有機化合物にすぎなかったはずだが。)ひとつだけに訪れた1回だけなのか、その辺にあったたくさんの有機化合物に同時に訪れたのか、そしてそれはどんな一撃だったのか、それを知りたいと思うのだ。
生物が発生したかというはっきりした証拠は地球ができて5億年後くらいというものまでは残っているそうだ。著者がいうには、そこから生命の起源を推理するのはあまりにも昔すぎて不可能だとも言っている。
もう、そこまで言われるとはやりこれは神の仕業に違いないというしかないのだろうか。宇宙の始まりもしかりで、最初のことはわからないがそれを理解し手を加えることもできる。これは、超文明の残骸からテクノロジーは得られたが原理はわからないというSFの世界と同じようなものなのだろうか。
おそらく著者はそういうことをすべてひっくるめたのだろう、最後の章でこういうことを書いている。
『化学的かつ情報的なシステムとして進化したわれわれは、なぜ、どのようにして、自らの存在に気付くようになったのか。想像力と創造力がどのようにして発生したかを理解するために、われわれは想像力と創造力を総動員する必要がある。』そして、そう考え続けることが、我々の、『存在が本当は何を意味するのかを掘り下げてくれるだろう。』というのだが、まさしく、「人間は考える葦である。」という哲学の言葉に行きつくのである。
科学は詰まるところ、哲学に戻っていくようだ。
著者は2001年にノーベル賞を受賞した遺伝学者だ。
酵母菌の細胞周期という、細胞が分裂をおこして姫細胞を作り出す行程を研究する中で、cdc2と名付けた遺伝子が細胞周期の主要な制御因子であることを発見したことでノーベル賞を受賞した。
このタイトルはどこかで見たことがあると思ったら、シュレーディンガーが同じタイトルの本を書いていて、著者もそのオマージュとしてこのタイトルをつけたそうだ。それほどに、「生命とは何か」ということを語るのは難しいということだろう。
著者が生物学の興味を持ったのは、12、3歳の頃にヤマキチョウが飛ぶところを見たからだそうだ。その複雑で完璧に作られた蝶の姿を見て、生きているっていったいどういうことなんだろう?生命って、なんなんだろうと思ったという。僕などはチョウチョを捕まえても口のストロー引きちぎるくらいしかやらなかったが・・。
生命とは何かということを定義する方法はいろいろな人がいろいろなことを考えだしてきた。
著者が最初に学校の授業で得た答えは、「ミセス・グレン(MRS GREN)」だった。生物が示す、運動(Movement)、呼吸(Respiration)、感覚(Sensitivity)、成長(Growth)、生殖(Reproduction)、排泄(Excretion)、栄養摂取(Nutrition)の頭文字の語呂だった。イギリスでもこういうことを覚えるのに語呂合わせを使うようだ。
しかし、これは、生物の「行為」をうまく説明しているが、生命とは「何か」について満足のゆく説明にはなっていない。
ノーベル賞を受賞した遺伝学者のハーマン・マラーという人は、「進化する能力を有するもの」と考え、シュレーディンガーは、「遺伝的形質と情報」をということを強調した。そして、物理学者らしく、そこには「物理法則を超えた法則」があると考えた。生命の起源に関する科学的理論の最初の提唱者だというJ・B・Sホールデンというイギリスの生物学者は、「この問いに答えるつもりはない。」と言ったそうだ。インド国籍も持っていたひとらしいがなるほどインド的な回答だ。
そんななか、著者は、「細胞」「遺伝子」「自然淘汰による進化」「化学としての生命」「情報としての生命」に分けて考えながら、「生命を定義する統一原理」を目指すというのがこの本の趣旨である。なかなか大それたというか、壮大なテーマだが、文体や内容は難解なものではなく、こういう一般向けの科学本に普通に書かれているような内容であった。だから、多分、統一原理というものが導き出されているのかどうかというとどうなんだろうと思うところがある。
この、”統一原理”というものが一体何を示しているのかというところにもよるのだろうが、僕が思うのは、ただの有機化合物であったものが、生命としていろいろな人たちが考えてきたような定義(代謝をして、遺伝というシステムで子孫を残し、もっというなら意識というものを持って生命とは何かということを考え始める。)を始めるようになったか。エンジンで言うなら、最初にセルが回ったのはいったいなぜか、何がセルを回したか。それを知ることが統一原理を知るということではないのだろうかと思うのだ。
細胞の中で起こっている様々な化学反応というものは相当詳しくわかってきている。免疫や胚が分化して様々な器官を作っていく過程もそうだが、個々の反応がわかっていてもそれがどうやって制御されて体のなかで自動的に制御されながら活動しているのかということはほとんどわかっていない。(胚の分化というのは、分化させるためのホルモンの濃度の違いで様々な器官に分かれていくそうだが、それでもそこまでしかわかっていない。)DNAの配列がわかり、分子の操作でそれを人工的にその配列を再現できたとしても、そこから生命としての活動を誘発することはいまだかつてできてはいない。
酵母菌の細胞周期と人間の細胞の細胞周期というのは使われている遺伝子の化学的構成からみるとほとんど変わりはないそうだ。進化の過程の差と比較してこれほど変わらないということから、著者は、『今日地球上にある生命の始まりは「たった1回」だけだったのだ。』と考える。おそらく、その最初の1回、これが本当に、ある細胞(その時はだただの有機化合物にすぎなかったはずだが。)ひとつだけに訪れた1回だけなのか、その辺にあったたくさんの有機化合物に同時に訪れたのか、そしてそれはどんな一撃だったのか、それを知りたいと思うのだ。
生物が発生したかというはっきりした証拠は地球ができて5億年後くらいというものまでは残っているそうだ。著者がいうには、そこから生命の起源を推理するのはあまりにも昔すぎて不可能だとも言っている。
もう、そこまで言われるとはやりこれは神の仕業に違いないというしかないのだろうか。宇宙の始まりもしかりで、最初のことはわからないがそれを理解し手を加えることもできる。これは、超文明の残骸からテクノロジーは得られたが原理はわからないというSFの世界と同じようなものなのだろうか。
おそらく著者はそういうことをすべてひっくるめたのだろう、最後の章でこういうことを書いている。
『化学的かつ情報的なシステムとして進化したわれわれは、なぜ、どのようにして、自らの存在に気付くようになったのか。想像力と創造力がどのようにして発生したかを理解するために、われわれは想像力と創造力を総動員する必要がある。』そして、そう考え続けることが、我々の、『存在が本当は何を意味するのかを掘り下げてくれるだろう。』というのだが、まさしく、「人間は考える葦である。」という哲学の言葉に行きつくのである。
科学は詰まるところ、哲学に戻っていくようだ。