イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

「WHAT IS LIFE? 生命とは何か」読了

2021年08月30日 | 2021読書
ポール・ナース/著、竹内 薫/訳 「WHAT IS LIFE? 生命とは何か」読了

著者は2001年にノーベル賞を受賞した遺伝学者だ。
酵母菌の細胞周期という、細胞が分裂をおこして姫細胞を作り出す行程を研究する中で、cdc2と名付けた遺伝子が細胞周期の主要な制御因子であることを発見したことでノーベル賞を受賞した。

このタイトルはどこかで見たことがあると思ったら、シュレーディンガーが同じタイトルの本を書いていて、著者もそのオマージュとしてこのタイトルをつけたそうだ。それほどに、「生命とは何か」ということを語るのは難しいということだろう。
著者が生物学の興味を持ったのは、12、3歳の頃にヤマキチョウが飛ぶところを見たからだそうだ。その複雑で完璧に作られた蝶の姿を見て、生きているっていったいどういうことなんだろう?生命って、なんなんだろうと思ったという。僕などはチョウチョを捕まえても口のストロー引きちぎるくらいしかやらなかったが・・。

生命とは何かということを定義する方法はいろいろな人がいろいろなことを考えだしてきた。
著者が最初に学校の授業で得た答えは、「ミセス・グレン(MRS GREN)」だった。生物が示す、運動(Movement)、呼吸(Respiration)、感覚(Sensitivity)、成長(Growth)、生殖(Reproduction)、排泄(Excretion)、栄養摂取(Nutrition)の頭文字の語呂だった。イギリスでもこういうことを覚えるのに語呂合わせを使うようだ。
しかし、これは、生物の「行為」をうまく説明しているが、生命とは「何か」について満足のゆく説明にはなっていない。
ノーベル賞を受賞した遺伝学者のハーマン・マラーという人は、「進化する能力を有するもの」と考え、シュレーディンガーは、「遺伝的形質と情報」をということを強調した。そして、物理学者らしく、そこには「物理法則を超えた法則」があると考えた。生命の起源に関する科学的理論の最初の提唱者だというJ・B・Sホールデンというイギリスの生物学者は、「この問いに答えるつもりはない。」と言ったそうだ。インド国籍も持っていたひとらしいがなるほどインド的な回答だ。
そんななか、著者は、「細胞」「遺伝子」「自然淘汰による進化」「化学としての生命」「情報としての生命」に分けて考えながら、「生命を定義する統一原理」を目指すというのがこの本の趣旨である。なかなか大それたというか、壮大なテーマだが、文体や内容は難解なものではなく、こういう一般向けの科学本に普通に書かれているような内容であった。だから、多分、統一原理というものが導き出されているのかどうかというとどうなんだろうと思うところがある。
この、”統一原理”というものが一体何を示しているのかというところにもよるのだろうが、僕が思うのは、ただの有機化合物であったものが、生命としていろいろな人たちが考えてきたような定義(代謝をして、遺伝というシステムで子孫を残し、もっというなら意識というものを持って生命とは何かということを考え始める。)を始めるようになったか。エンジンで言うなら、最初にセルが回ったのはいったいなぜか、何がセルを回したか。それを知ることが統一原理を知るということではないのだろうかと思うのだ。
細胞の中で起こっている様々な化学反応というものは相当詳しくわかってきている。免疫や胚が分化して様々な器官を作っていく過程もそうだが、個々の反応がわかっていてもそれがどうやって制御されて体のなかで自動的に制御されながら活動しているのかということはほとんどわかっていない。(胚の分化というのは、分化させるためのホルモンの濃度の違いで様々な器官に分かれていくそうだが、それでもそこまでしかわかっていない。)DNAの配列がわかり、分子の操作でそれを人工的にその配列を再現できたとしても、そこから生命としての活動を誘発することはいまだかつてできてはいない。

酵母菌の細胞周期と人間の細胞の細胞周期というのは使われている遺伝子の化学的構成からみるとほとんど変わりはないそうだ。進化の過程の差と比較してこれほど変わらないということから、著者は、『今日地球上にある生命の始まりは「たった1回」だけだったのだ。』と考える。おそらく、その最初の1回、これが本当に、ある細胞(その時はだただの有機化合物にすぎなかったはずだが。)ひとつだけに訪れた1回だけなのか、その辺にあったたくさんの有機化合物に同時に訪れたのか、そしてそれはどんな一撃だったのか、それを知りたいと思うのだ。
生物が発生したかというはっきりした証拠は地球ができて5億年後くらいというものまでは残っているそうだ。著者がいうには、そこから生命の起源を推理するのはあまりにも昔すぎて不可能だとも言っている。
もう、そこまで言われるとはやりこれは神の仕業に違いないというしかないのだろうか。宇宙の始まりもしかりで、最初のことはわからないがそれを理解し手を加えることもできる。これは、超文明の残骸からテクノロジーは得られたが原理はわからないというSFの世界と同じようなものなのだろうか。
おそらく著者はそういうことをすべてひっくるめたのだろう、最後の章でこういうことを書いている。
『化学的かつ情報的なシステムとして進化したわれわれは、なぜ、どのようにして、自らの存在に気付くようになったのか。想像力と創造力がどのようにして発生したかを理解するために、われわれは想像力と創造力を総動員する必要がある。』そして、そう考え続けることが、我々の、『存在が本当は何を意味するのかを掘り下げてくれるだろう。』というのだが、まさしく、「人間は考える葦である。」という哲学の言葉に行きつくのである。

科学は詰まるところ、哲学に戻っていくようだ。
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水軒沖釣行

2021年08月28日 | 2021釣り
場所:水軒沖
条件:中潮 3:29干潮 9:35満潮
釣果:タチウオ1匹

今日は小船のローテーションの日であるのと、またまた最近は休日のたびに釣りに出ているという状況と、大きな船で若干のメンテナンスをしたいと思って朝一だけの釣りを計画した。
普通なら禁断の仕掛けを持ってタチウオ釣りというところなのだが、今のところ型も小さいしこればっかり持って帰っても冷蔵庫の在庫が増えるばかりなのである。それに対して、渡船屋の釣り客の釣果を見ていると、若干盛っているのだろうというところはあるけれども大きなサイズのタチウオが釣れている。これはきっとルアーでやると大きなやつがかかる可能性があるはずだと、今日はルアーマンに徹してみようと考えた。
朝は暗いうちに出て、スズキを狙ってみてからタチウオを釣ってみようと考えていたのだが、今日も出遅れてしまい、おまけに悪い癖で海面に漂う電気ウキを捜索していると青岸の灯台のところのたどり着いたころにはすっかり明るくなってしまっていた。
これではスズキは無理なのでせっかくくくっていたトップウォータープラグを切ってワインドに変更した。

今日はおとといとは打って変わって朝だけはしのぎやすかった。ちょっとだけ空気が入れ替わった感じがする。暑さは続くが季節は着実に進んでいる。
小さいながらタチウオが釣れているという情報はすでに出回っているらしく、おまけに土曜日ということで10艘ほどの船が出ていた。ほとんどの船は定番の引き釣りをやっているが、最近では今日の僕みたいなルアーをキャストしている船も見ることがあるようになってきた。これも時代なんだろうな。多分僕たちはかなり邪魔になっているのだろうと思う。それは申し訳ないが許してくださいませ・・。



そして、釣り客を乗せているらしい釣り船もよく見る。あの船はこの時間だけ格安で乗客を乗せているのだろうか、それともこれからまた沖に向かうのだろうか、あれで商売が成り立つのだろうか、いつも気になってしまう。ここで時間を食うと沖での朝一の時合を逃すのではないかと思うのだ。

ルアーを海底まで落としてからフォールとリフトを繰り返してアタリを待つ。これが正しいやり方かどうかというのは定かではないが、テレビで見る人たちがこんなことをやっているので真似ているだけという感じだ。
アタリは間もなく出た。しかし小さい。指4本サイズのタチウオならかなり引くはずなのだが簡単に上がってくる。ルアーで大きいサイズのタチウオを釣るという目論見はあっけなく崩れ去ってしまった。その後もアタリはあるものの小さい物ばかりだ。幸いにしてルアーで掛かる魚は傷が浅いので放流しても大丈夫だ。
結局、取り込んだのは1匹だけ。慣れないことをしてもダメだという結果に終わってしまった。
それに、この釣りはコストもかかるようだ。数回のアタリしかなったのにワームはズタズタになってしまい、おまけに尻尾はすぐに切れて使えなくなる。



今日は2本使ったのだが、このワーム1本あたりのコストは約80円。僕がいつも使っている仕掛けは建築の基礎作りの現場で使う水糸を使っているのでコストはほぼ0円に近い。鉤が切れるか切っ先が鈍るまで使える。加えて効率も悪い。もちろん、効率やコスト以外の部分で楽しむのが「魚釣り」であって、効率とコストを重視するならそれは「漁」になってしまうというのはわかっているけれども、やっぱりなんだか違和感を覚えてしまう。今日のような釣りは年に1、2回でいいやと思うのである。
その後、ツバスは釣れないだろうかと新々波止の赤灯台付近に移動してみたがまったくアタリはなく、お日様が顔をのぞかせてきたのを機に今日の釣りは終了。

 


午前6時過ぎに港に戻り、大きい方の船のスタンチューブの追加と、艫についている部品の加工をやってみた。暑くなる前にこういうことをやってしまおうというのも今日の釣りのスケジュールを決めた理由だ。
この部品、元来が、何のためのつけられているのかというのを前のオーナーさんも説明してくれていなかったのであるが、僕は塩ビのパイプを突っ込んで係留用のロープのずれ止めに使っていた。数日前の強風の際、それがどこかへ飛んで行ってしまったのでもっと強力なものを作ってみようと考えたのだ。構想では、3センチほど出ているステンレスの丸棒にネジの溝を切ってそこに長いナットを取り付けてみたかったのだが、ダイスが食いこまずまったく歯が立たない。1100円で買ったダイスのセットではやはりステンレスのような硬い素材にネジを切るのは不可能だったようだ。
この話には続きがあって、それではナットのほうのねじ山を潰してしまって差し込み式にしてやろうと考えた。ナットは構造材として使えればいい。あとは接着剤でくっ付ければなんとかなるだろうと考えたのだが、これも甘かった。10㎜のドリルでねじ山を潰しにかかったのだが、角度がずれたか、途中でドリルをはじかれレバースイッチを握っていた人差し指をねん挫してしまうし、ドリルの回転が止まらずコードをチャックに巻き込み切断してしまった。僕は左利きなのもので、レバーを握ると連続回転させるためについている小さなスイッチを人差し指の根元で押さえることになって無意識に連続回転の状態になってしまうのだ。(あのスイッチは本体の左側に付いているのだ。まったく左利きの人のことを考えてくれていないである。)
こういう作業はきっと、ボール盤を使ってしなければならないような作業だったに違いない。
怖くて途中でやめてしまったので今回の企みは失敗に終わり、断線とねん挫だけが残ってしまった。人差し指はきちんと曲がらず、力も入らないのでキーボードを打つ文字は誤字だらけになってしまう。
ドリルのコードをなんとかしなければと本体のカバーを外そうとしたのだが、今度はカバーのネジがひとつだけ緩まない。多分、父親も何かしようとして失敗したのだろう、このネジのねじ山はすでに半分潰れていた。無理やりドライバーをねじると完全につぶれてしまった。こういう時のために、アマゾンでインパクトドライバーを使ったネジ外しというのを買っていたのだが、これも送料込みで200円ほどの値段だったのでまったく使い物にならない。誰かは忘れたが、道具は高いものを買っておけと言われたことがここにきて身に染みるのだ・・・。

企みは失敗ばかりではなく、結局作動状態が不安定なバイクのブレーキスイッチを交換してみたのだが、こっちは10分ほどであっけなく終わってしまった。この時は人差し指も健在だったのと、事前に交換方法を調べられるだけ調べていたというのも奏功した。
きちんとした道具を使うことと事前の準備が何事にも必要であるというのが今日の釣行の教訓なのである・・。


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水軒沖~加太沖釣行

2021年08月26日 | 2021釣り
場所:水軒沖~加太沖
条件:中潮 8:15満潮 
潮流:5:46転流 8:58上り1.7ノット最強
釣果:タチウオ13匹 真鯛1匹


今日からスマホを持っての釣行だ。そして、あいにくカメラを持ってくるのを忘れてしまったので今日のブログの写真はすべてスマホで撮った写真である。スマホのカメラ機能というのは相当高性能だとは聞いていたが確かにかなりのものだ。
かと言って、これからの写真を全部スマホでまかなうかというと、それは絶対にない。もともと、機械類に対してはけっこう興味を持っている方で扱いなんかも説明書を見ながらいろいろやってみてやりすぎて壊してしまうなんてこともあったし、パソコンについてもヘボい職場ではあるがそこそこ詳しい方の部類の人間であるとは思われている。だから、スマホについてももっと親和力があるのだろうと思っていたが、まったく逆だ。いまのところ拒絶反応しかない。カメラについても、どうすんのよ、これ。と、真っ暗な船の上でひとしきり悩んでしまう始末だ。
自分が思っているほど大した能力はないということだ。グァム島に行った時も、英会話ぐらいそこそこできるはずだと思っていたら、レストランの予約の時間変更さえも依頼できなかったことを思い出した。

前回もタチウオが好調だったのでこれを保険として加太へ鬼アジを釣りに行こうというのが今日の計画である。

前回よりも早く出港。


悲しいかな、夜景は圧倒的にスマホのほうがきれいに撮れてしまう・・。


海保の巡視艇の係留場所からすこし進んだところからスタート。青岸の灯台の手前辺りにさしかかったときに最初のアタリが出た。今日も魚は多い。最初から5連だ。しかし型は小さい。ほとんどが佃煮サイズだ。今日は加太へも行くので小さいものでまだ生きて返せるものはすべて放流するつもりだ。最初の5匹で取り込んだのは1匹だけ。
その後もアタリはどんどん続く。魚も多いのか、船の後ろで水面上で跳ねているし、1匹は船べりに乗り上がってきた。思わずつかもうとしたがさすがにそのまま海に落ちていってしまったが・・。
かなり引くので今度こそ大きい魚かと思っても複数のタチウオが掛かっているのでよく引くだけだ。大きくて指3本、そんなところだ。すっかり明るくなってもまだアタリは続いているが加太へも急がねばならない。



結局取り込んだのは13匹。おそらくこの3倍は放流したであろう。

動きの遅い船に鞭を入れ加太を目指す。今日も上り潮なので田倉崎の前くらいで釣りができれば幾分かでも燃料を節約できる。幸いにして四国沖ポイントから少し離れた漁礁に小さいけれども船団が出来ている。そこからスタート。



潮はゆっくり北西方向に流れている。
いきなり小さなアタリがあって魚が乗ったがすぐにバレてしまった。しかし、アタリがあるのはいいことだ。ただ、魚探の反応はいまいちだ。

今日は結局、アタリは3回しかなかったのだが、最初のアタリはハリス切れ。前回と同様、横に素早く走るような引きだったのでサゴシか何かだろと思う。アジではない。そのあとは根掛かりで仕掛けをひとつロスト。これはクッションゴムの所から切れてしまったのだが、1.5㎜ではやっぱりこういう釣りでは細かったようだ。追加で買っていた2㎜のクッションゴムに取り替え再スタート。次のアタリははっきりとしたアタリであった。アジにしては引きが強いし、サバにしては走らない。いったいなんだろと思っていたが、途中からはこれはきっと真鯛じゃないかと思い始めていたらやっぱり真鯛であった。それもまあまあの型だ。サビキでもけっこう釣れるものだ。これでサビキで釣った真鯛は累計2匹になった。

その後、根掛かりをして鉤が曲がってしまったので枝素を取り替えなければならないのだが、あいにく5号の枝素の分しか予備を作っていない。まあ、なんでもいいかと思ってそれをつけたのだが、次のアタリはこの鉤に来たようだ。かなり引くのでこれはきっとメジロクラスの青物だと思ったが、根掛かりをしたとき、ドラグを締めて仕掛けを切り、そのまま緩めることをしていなくて一気に走られ仕掛けの元から切られてしまった。枝素のほうが太いので幹糸ごと切れてしまったのだ。クッションゴムの弾力でも耐えられなかったようだ。
う~ん、残念。

手持ちの仕掛けは5号の枝素の分しかないので仕方なくそれに取り替える。
仕掛けが太いからか、時合が過ぎたか、まったくアタリがない。移動をしようと思ってふと後ろのほうを眺めてみると菊新丸さんらしき船が見えた。傍まで移動して確かめてみると確かに菊新丸さんだ。



様子を聞くとあまり芳しくない答え。でも僕よりもたくさん釣っている。
その後ほぼ同じところを流していると彼から電話が入った。スマホに替えて初めての通話だ。えぇ、どうやって電話に出るの・・・?こういうことは当たり前のことなのかもしれないのでショップのひとも教えてくれなかった。周りが明るいから液晶も見づらく、よくよく目を凝らしてみると、ここをスライドさせて通話と書いてあるアイコンがあった。なんとか電話に出ると、この場所にある漁礁はこの季節ならイサギなんかも釣れるんだけどねとのこと。やっぱりその話しぶりからは今日はあまりよくないということがうかがわれる。

それからはもう少し同じところを流してみたがやっぱりアタリがなく、バイクの修理もやりたいので午前8時半に終了。

夏の暑さがまた戻ってきてしまった。今日はすこぶる暑い。夜明け前でも蒸し暑さは半端ではなかった。船の上でもまったく涼しさは感じられず、幸いにして船が南を向いていてくれていたので自身はオーニングの影に入ったまま釣りを続けられたが、これが直接太陽の光を浴びていたらこの時間まで釣りをすることができなかったのではないかと思うほどだった。



バイクのブレーキスイッチのその後だが、今日になってまた復活してきた。港に行くまでに信号待ちでブレーキを握ってみるとランプがときおり点灯するようになっていた。もう少し握ったり放したりしているとなんだか正常に戻ってきた。帰りの道中では普通にエンジンが始動する。
あれまあ、いったいどうなっているんだろう。微妙なところで生き永らえているようだ。とりあえず部品だけを引き取ってもう少し様子を見ることにした。
しかし、これはまた、次に乗るときにはエンジンがかからないんだろうな、きっと・・。


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「これでおしまい」読了

2021年08月25日 | 2021読書
篠田桃紅 「これでおしまい」読了

釣りに行く日の朝は大体、テレビをつけたまま新聞を読んでいる。早朝のNHKでは曜日は知らないが(調べてみると毎週土曜日だった)、「あの人に会いたい」という番組を放送している。たまたま見た日が著者の放送だった。まったくどんな人かということを知らなかったのだが、映し出される水墨画で書かれた大きな作品には驚きを覚えた。大体こういう作品はあんまり意味が分からなくてこういうのを前衛的っていうんだね・・。くらいにしか思わないのだが、著者の作品については斬新を通り越してすごいと思った。
ただ、その時は、ああ、こんな人がいたんだなと思うだけだったが、同時に読んでいた新聞をめくっていると、この本が広告に載っていた。これはきっと篠田桃紅という人をもっと知りなさいという何ものかのお告げに違いないと思い借りてみた。図書館の蔵書を調べてみるとけっこうな数の予約が入っていて、放送は6月26日であったようだが、直後に予約して約2か月後にやっと順番が巡ってきた。

例によってプロフィールをウイキペディアで調べてみると、
『篠田 桃紅(しのだ とうこう、本名:篠田 満洲子、1913年3月28日 - 2021年3月1日)は、日本の美術家、版画家、エッセイスト。映画監督の篠田正浩は従弟にあたる。
日本の租借地だった関東州大連に生まれる。5歳頃から父に書の手ほどきを受ける。その後、女学校時代以外はほとんど独学で書を学ぶ。1950年から数年、書道芸術院に所属して前衛書の作家たちと交流を持つが、1956年に渡米。抽象表現主義絵画が全盛期のニューヨークで、作品を制作する。文字の決まり事を離れた新しい墨の造形を試み、その作品は水墨の抽象画=墨象と呼ばれる。アメリカ滞在中、数回の個展を開き高い評価を得るが、乾いた気候が水墨に向かないと悟り、帰国。以後は日本で制作し各国で作品を発表している。

和紙に、墨・金箔・銀箔・金泥・銀泥・朱泥といった日本画の画材を用い、限られた色彩で多様な表情を生み出す。万葉集などを記した文字による制作も続けるが、墨象との線引きは難しい。近年はリトグラフも手掛けていた。
海外では昭和30年代から美術家としての評価が高かったものの日本では海外ほどの評価を得ることができないままであったが、2000年代に入り新潟県新潟市や岐阜県関市に篠田の名を冠するギャラリーが相次いで開館した。
2015年、『一〇三歳になってわかったこと』が45万部を超えるベストセラーになる。
2021年3月1日、老衰のため東京都青梅市の病院で死去。107歳没。』

となっている。
この本の構成は、篠田桃紅の人生観を本人が語った短い箴言のような形のものと、本人が歩んだ人生の記録が交互に収録されている形となっている。人生の記録については別の人が書いているようで、また、おそらく原稿が出来上がってから亡くなったのだろうからこの本には亡くなったことが書かれていない。

自分自身の価値観で生きてきた人らしく、その人生観にも辛辣なものが多い。
22歳の時には自由に生きたいと思い得意の書道を教えるようになる。
「自由とは、自分の生き方を自分で決めることである。誰かからの影響を受けてお手本のようにやっているというのはずうずうしすぎる。」
「あの人があのときああ言ったから自分はああしたというのは借り物の人生である」。
「人生は自らに由(よ)ることで自分のものになる。」
と言い切れるのであるからやっぱりすごい信念と自信を持っているのだろうが、こういう人はおそらく数十万人にひとりというような人なのである。残念ながら・・。
しかし、そういう人は孤独でもあるようだ。桃紅は孤独についてこう言っている。
「人は結局孤独である。」
「人という字は支えあってはじめてひとになるというが、文字の成り立ちはひとりのひとがひとりで立っている絵からである。」
だから、他人からの評価をまったく気にすることはなく、自分の作品に対する表彰は一切受けなかったそうである。唯一受けた賞は自分の本業とは関係がないという理由で自身の著作に対する日本エッセイスト・クラブ賞だけだったそうである。
そんな人の人生は満足であったかどうかというと、
「人生に満足はない。望みの五分通りか八分通りかどこかでああよかった思えることが人生を世渡りする上での上手なコツである。」
といい、
「名誉とか肩書とか、社会的なものに価値を見出している人はいっぱいいる。そういう人からは私は尊敬されないでしょう。そんなこと、ちっとも構やしない。」
と、あくまでも自分の価値観で生きてきた印象だ。

確かにこんな生き方は自分の価値観と矜持を自分の思いのとおりに持って生きられるのだろうが、その大元である、自らに由って生活できるかどうかという時点で僕は破綻している。
サラリーマンというのは、特に潰しが効かないほど何の能力もないサラリーマンは会社自体が生命維持装置である。そんな中では「自らに由る」などとは考えることさえもできない。もともと、僕だけでなく、大半の庶民は、自主的思考とそれに伴う責任負担よりも命令と服従とそれに伴う責任免除を好むものである。そうやって社畜となり生活の糧と自由を交換する。だから、それを逆手に取って、あんたに全面的に服従してやるから全部責任取ってねと言いながら後ろを向いているというのがせめてもの反抗なのである・・。
なんとも情けない人生であったかとあらためてうなだれるしかないのである・・。

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水軒沖釣行 そしてガラケーを捨てる・・

2021年08月23日 | 2021釣り
場所:水軒沖
条件:大潮 6:18満潮
釣果:タチウオ20匹 ツバス3匹

前回の釣行が8月11日だったので12日ぶりの釣行になる。この期間、驚くほどの雨が降った。お盆の時期はともかく、梅雨時期や台風のシーズンでもこんなに長く雨が降ったというのは記憶にない。ほぼ毎日雨が降っていたという印象だ。
最近は旧約聖書の物語を引き合いに出してときたまブログを書いているが、この大雨もノアの箱舟の物語の再現ではないかと思えてくる。ご存知のとおり、この物語は堕落した人間を地上から一掃するために神様が大洪水を起こしたというものだ。被害を受けた地域の人たちが堕落していたから被害を受けたのだということを言っているのでは一切なく、僕自身がこの雨を経験して、電車は止まるしバイクで走っていてずぶ濡れになってしまったりして、自分の身に危険がおよびこれは尋常ではないと思ったからだ。

バイクというと、セルがふたたび回るようになっていた。左の後ろブレーキのブレーキスイッチが不良であるというところまでは突き止めていたのだが、多分、この長雨の湿度のせいだろうか、接触不良が解消されたようなのだ。これはありがたいと思っていたら、雨が上がって湿度が下がってきたらまたダメになってしまった。
途中の顛末は後半に書きたいと思う。



ということで、今日は久々に休日と晴れが重なった。風も穏やかなようである。ただ、先に書いたバイクの部品調達ともうひとつやりたいこと(それはタイトルでおわかりいただけると思うが・・。)があったのでダメもとでタチウオを釣りに行こうと決めた。いくらダメもととはいえ、今回が4度目の正直だ。いい加減に釣れてほしいと思っている。

通勤途中に見る紀ノ川の濁りはまだ解消される気配もなく、漂流物も気になり、少し明るくなってから出港しようとは思っていたのだが、昨日の横浜市長選挙の結果のニュースを見ていたらそれがあまりにも遅くなってしまった。港の出口を出た時には完全に明るいと表現できるほどに明るくなってしまっていた。



急いで船を走らせようと思うのだが、港内の漂流物が気になるのでそこはゆっくりと青岸方面へ船を進める。
事実、帰りの道中ではロープの切れ端のようなものも浮かんでいて、こんなものを巻き込んだら一巻の終わりである。



海保の巡視艇が停泊している岸壁辺りから仕掛けを流し始めるといきなりアタリが出た。それも5連で魚が掛かっている。小さい型だが、1匹だけは指4本を超えるくらいの大きさのものが混ざっていた。今日は調子がよさそうだと思っているとそのとおりで、アタリはどんどん出る。ほとんど船は動いていない。流し始めると直後にアタリが出るのだ。
その後40分ほどの間に20匹の釣果。大きいのは1匹だけだったが、数のほうは出遅れたことを考慮に入れると十分だろう。だから、あと、20分早く港を出ていればあと10匹以上は追加できていたのかもしれない。
この時点で時刻はまだ午前6時にもなっていない。叔父さんのところもサツマイモの収穫を終えているのでそんなに朝早く行ってもまだ寝ているだろうと思い、禁断の仕掛けを取り出して新々波止の南側へ移動。ここで赤灯台から仕掛けを流すといきなりアタリ。ツバスが2匹一荷で掛かってきた。ここも調子がいい。そしてツバスは大分大きく成長してきていた。その後またすぐにアタリ。
さすがに明るくなりすぎてしまうと何のアタリもなくなってしまい釣りの方はこれで終了。

港に戻りスクリューの掃除。多少はフジツボの付着はあるが、それほど大したことはなさそうだ。



これで推力が1割以上も減るのだろうかと思うがやっぱりスクリューというのはそれだけデリケートであるということなのであろうか。
小船にいたっては2週間以上エンジンを回していないし、これだけ雨が当たっていると始動するかも不安なので試しに運転をしてみた。ちからさんの情報では台風12号が温帯低気圧に変わった後、前の9号のような動きをするかもしれないから注意したほうがいいという知らせがあったので、一応台風並みの準備もして今日の釣りは終了。

叔父さんの家ではいよいよハバネロが色づき始めた。さて、どうやって食べてやろうかと楽しみが増えてくる。



魚をさばいて午前中にバイクの部品屋へ。一応自分でやってみようとYouTubeを見たりいろいろなサイトを調べてこうやって交換するのだと理解したつもりだが一抹の不安はある。まあ、途中で挫折したらいつもオイル交換をしてもらっているバイク屋さんに泣きつこうと思っていたら、その部品屋のカウンターでばったり会ってしまった。半分気まずいなと思いながら、これこれこういうわけで部品を買いに来ましたと説明すると、ああ、それならブレーキレバーを外してそこから引っこ抜くと外れるよ。セットするときは溝が切ってある部分にポッチを合わせてねと親切に教えてくれる。多分そうやるんじゃないかなと思ってはいたがあまり自信はなかったので心強いアドバイスをもらえた。親切な人だ。マリン〇ーム〇〇の従業員ならウチで買わない奴には何も教えてやるもんかという差別意識をムンムンさせているが大違いだ。

そして午後、今日の最大のミッション、スマホを買うということを実行するのだ。来年の3月には3Gの電波が止まるので早く買い替えねばと思っていたのだが、面倒くさいのと、奥さんは奥さんでうわべ上はギリギリでいいという構えだ。お昼ご飯を食べた後少し言いにくそうに、「スマホ買いに行かないか?」と言うと、すぐに、「行こ、行こ、」となった。どうやら彼女も早く買い替えたかったが、どういうわけか自分から言ったら負けと思っていたようで、僕が言い出すのをひたすら待っていたようなのだ。これはあれだな、黒暗森林の理論と似ているのだな、きっと。
そういうことでふたりしてauショップへ。これが疲れた。もとも格安スマホにの乗り換えるつもりだったのだが、ガラケー乗り換えだとauのほうが安いとか、このカードを作るとポイントが付くとか、電気の契約をするとどうだとか、もう、わけがわからん。結局、本体がタダだというのと当分は乗り換え割りを適用してもらったほうが安く済むというのでauのままで契約。2時間半もかかってしまった。
家に帰ってWi-Fiの設定や電話帳の移設の作業をしたのだが、これがまたひと苦労だ。電話帳の移設は手数料が1000円というので自分でやることにしたのだが、Bluetoothの接続がうまくいかない。何度か失敗しながら二人分の移設を完了するとタチウオの下ごしらえをするのを完全に忘れてしまっていた。
急いでチーズの上にのせてしっぽのチーズ焼きを作ってあとは奥さんの天ぷら待ち。
何をスマホごときで大騒ぎをしているのかと思われるかもしれないが、なんともドタバタした1日であったのだ。



しかし、このスマホ、電車が不通になったときには情報収集に便利だろうがおそらくそれ以外には何も使わないのだろうなと思う。もう、複雑すぎる。ついてゆけない。これも歳をとったせいかもしれないが、もう、何もかも面倒だ。今のままで十分なのだ。新しいものもことも必要ない。相変わらずブログの写真はコンデジを使うつもりだし、ショートメールの使い方だけはショップで教えてもらったので今夜の夕食は食べませんという連絡しかしないのでこれさえあればそれでいい。LINEというのは現代日本人の必需品らしいが、それは入っていなさそうで目下のところどうやってインストールするのかがわからない。若いころは説明書を首っ引きで眺めてなんでもかんでもやってみたけれども、もとより最近の機械はそれさえもなく、直感で操作できるのだと言われても錆とカビで覆われた直感など何の役にも立たない。
電波が途絶えたガラケーも見た目は傷ひとつない。もったいないものだ。どうしてそれを使い続けさせてはもらえないのだろうか・・。もったいない。


最近はプラごみ問題というのが話題になっていて、今日のニュースでもコンビニで配っているスプーンやフォークも有料になるとやっていたが、今日の海面にはこんなものが漂っていた。



きっと昨日タチウオ釣りをしていた釣り人が捨てたものだと思うが、せめてトレーは持って帰れよと思う。釣れなかった腹いせにトレーごと捨ててしまったのだろうか。
しかし、こんな沿岸部でこんなに大きなイワシ付けてタチウオは釣れるのかと疑問にも思うが、それはさておき、こんなことをしているからどんどん海が汚れていくのだ。僕も人のことは言えないが、できるだけごみを流してしまわないようにと気にはしている。だから船の上にもごみ箱を置いている。
いつも電気ウキばかりを拾っていてはダメだろうと思って回収したのだが、その直後に海面を漂う今日2本目の電気ウキを発見した。トレーを回収するために引き返していなければこの電気ウキは拾えなかった。こういうのを捨てる神あれば拾うものにも神ありというのかどうかはわからないが部品屋でバイク屋さんに出会ってアドバイスをもらえたのも拾う神様の祝福だったのかもしれない。
うん、ゴミを拾うときっといいことがあるというのは新しい定説になるのかもしれない。


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「新装 アニミズムという希望―講演録 琉球大学の五日間」読了

2021年08月21日 | 2021読書
山尾三省/著 山極 寿一/解説「新装 アニミズムという希望―講演録 琉球大学の五日間」読了

この本もタイトルが面白そうだと思い手に取ってみたのだが、読み始めてから著者の名前を見てみて、この人の名前に見覚えがあると気付いた。
僕はかつてアウトドア雑誌というものを2冊買って読んでいたのだが、そのうちの1冊が「OUTDOOR」というタイトルだった。隔月刊で、もうひとつの雑誌「BE-PAL」に比べるとちょっと硬派な感じの内容であり、そのなかで連載記事を書いていたのがこの人であった。連載内容がどんなものであったか、確かに屋久島に家族で移住した人だということ以外は思い出せないが、連載の執筆者の中で、遠藤ケイとこの人はかなりストイックな生活をしているなというのとこんな生活はかっこいいと思いながら読んでいたことを思い出した。名前だけでも記憶に残っていたというのは、自分でも気が付かないほどこの人に何か印象深いものを持っていたのだと思う。

もういちどプロフィールを調べてみると、
『1938年10月11日 - 2001年8月28日)は日本の詩人。東京市神田区神田松住町(現・東京都千代田区外神田)生まれ。
東京都立日比谷高等学校卒業、早稲田大学第一文学部西洋哲学科中退。1960年代の後半にななおさかきや長沢哲夫らとともに、社会変革を志すコミューン活動「部族」をはじめる。1973年、家族と、インド、ネパールへ1年間の巡礼の旅に出る。1977年、屋久島の廃村に一家で移住。以降、白川山の里づくりをはじめ、田畑を耕し、詩の創作を中心とする執筆活動の日々を屋久島で送る。1997年春、旧知のアメリカの詩人、ゲーリー・スナイダーとシエラネバダのゲーリーの家で再会。ゲーリーとは、1966年に京都で禅の修行をしていた彼と会ったのが最初で、そのとき、ふたりは1週間かけて、修験道の山として知られる大峰山を縦走している。ゲーリーがアメリカに戻り、三省はインドへ、そして屋久島へ移住したため、長い間交流が途絶えていた。三省は、ゲーリーの近年のテーマがバイオリージョナリズム(生命地域主義)であることを知り、自分が20年来考え続けてきた、「地球即地域、地域即地球」というコンセプトとあまりに近いことに驚いたという。2001年8月28日、屋久島にて胃癌のため死去。』
となっている。
この本は、1999年に琉球大学の講義内容を編集して2000年に出版されたものを復刊したものだそうだから、著者はその後すぐに亡くなったということになる。

講義内容は、自身が書いた詩をもとにして、人はどう生きてどう死んでゆくべきかということをアニミズムという言葉もひとつのキーワードとしながら進められている。
そして、プロフィールにも書かれているが、「バイオリージョナリズム(生命地域主義)」という考えが考え方の大きなベースとなっている。

アニミズムというと、僕自身は八百万の神々ということで、森羅万象のものすべてにひと柱ずつの神様が宿っているという考えだと思っていたのだがそれは少し違っていて、著者の説明では、『森羅万象に「アニマ」が宿っているという考え方を「アニミズム」という。アニマとは、生命、精霊、霊魂のことを指す。』となっていて、神が宿っているのではなく、生命や精霊、霊魂が宿っているという考えだそうだ。アニメーションの”アニ”も同じ意味だそうで、確かに絵が動いているというのは魂が宿っていると思える。
そしてそこに神を見出すのは自分自身の心であるというのが著者の考えだ。
『生きていく上で、神と呼べるものを持てるか持たないかということは、とても大事なことである。古くから継承されてきた間違いのない世界というものを自分のものにすることが出来れば、それだけで確かな人生を送れる。』というのである。
そして、この考え方がバイオリージョナリズムに発展してゆく。バイオリージョナリズムというのは、「里山資本主義」「脳と森から学ぶ日本の未来」などに書かれているものとほぼ同じで小さなコミュニティの中で生活を完結させるというものだ。
従来、ひとの生活圏というものは山や川などの自然地形によって区切られていた。そういう地形が人の往来を妨げるからだ。そしてその中で生活するひとがひとつの集団(著者が言う「部族(tribe)」)を形成して社会が成り立っていた。それに戻るべきであるというのである。

山尾三省がほかの2冊の著者と違うのは、それが経済面だけではなく、精神面でもそうあるべきであるというところだ。古くから伝えられているものを守りながらそこに自分の神を見出す。古くから伝えられていることを身をもって知るということはすなわち生まれ育った場所で最後まで暮らしてゆくということと同義である。
生活するということは、生きて働いて死ぬことである。著者はそこへも言及してゆく。
生きることとは。
生きることとはその意味を探し、見出すことである。かつては無限の成長が当たり前とされていた時代には生きることの意味というものは容易に見つけることができた。しかし、有限な資源の中で無限の発展はありえないとわかった以上、それができなくなった。『生きることに積極的な意味を見出せないとすれば、それを見出すということが仕事である。』という風に考え方を変えなくてはならないという。逆にいうと、それだけでいいとも受け取れる。
そして、働くということとは。
ここでは、シーシュポスの神話の例を挙げ、『不条理という視線から見るのではなく、生命に与えられた小さな喜びの相から見ていくならば、大岩を担ぎ上げて登っていくという行為そのものが喜びのためのひとつの労働として転換されてゆく。』というのである。
シーシュポスは、永遠の罰を受けて大きな岩を山の頂上に運んではそれを麓まで落とされるということを永遠に繰り返すのだが、著者はその不条理な労働の中にも、岩を担ぎ上げた後に見る頂上からの景色に感動し、麓に下る途中に受ける風に爽快感を感じるのではないだろうかというのである。
死ぬということとは。
『旅の終わりというのは、自分が死ぬという、この個体が死んでいくのが旅の終わりになる。そのときに一人できっちりと孤独に死んでいくというのも死に方だと思うが、やはり家族がいたほうがいい。妻なら妻、夫なら夫、子供なら子供、最も親しい者達その中で死んでいくというのが願わしいのじゃないかなと思う。』と答える。
まあ、妥当な考え方だなとは思う。

そして、その家族はどうしてその家族になるべくしてなったのかということを、親和力という必然性で説明している。この言葉はゲーテの著作のタイトルだということだが、元の言葉はドイツ語で「ヴァールヘルヴァントシャフテン」で、日本語に直訳すると「選びとられた血縁性」となるらしい。それが意訳されて「親和力」となっている。自然界でも同じ現象があり、著者はアゲハチョウの幼虫は特定の植物の葉しか食べないという食性を例に挙げ説明をしている。それと同じように、赤の他人が結婚し家庭を持つという結果も、何らかの親和力が働い必然としてそうなっているのだ。だから「家族」というひとつの部族が形成され、そういった人たちに看取られながら死んでゆくということがバイオリージョナリズムなのであるというのだ。

以前に書いた感想では、ふと奥さんを見た時、「この人なんでここに居るのだろうと思う時がある。」と書いたが、一方では、この人以外に僕の奥さんですと言われてもそれはそれでまったくしっくりいかないなとも思っている。相手が新垣結衣なら話は別だが・・。
そして、家族であっても、親和力を保てない間柄になってしまったとき、一方はそこを出て旅に立つのだろうなと、そんなことを思った。しかし、それはごくわずかの例外であるのに違いない。
「おかえりモネ」の今週のテーマもそのようなものらしく、温暖化が原因か、気象災害が突然増えてきた危険な場所であってもそこを捨てて新しいところで住むことはできない。それは土地に縛られているということではなく、それぞれが生きてきたすべて、それはきっと家族であり部族であり自然であり、そういったもののすべてがそこに留まらせようとする。そういうことは僕にもすごく腑に落ちる。
僕は生まれたところを離れてわずか5キロほどのところに住んでいるだけだがそれでもこういうことを痛感する。だから水軒というところに惹かれてしょっちゅう行ってしまうし、そこにずっと根付いて生活している叔父さんたちの生き方に憧れているのであると思うのだ。いっそのこととんでもなく遠くに離れて、船も持っていなくて何の縁もなくなってしまえばここでいう親和力がなくなってしまえばそれはそれですっきりして別の場所であたらいい親和力を作り出せるのかもしれないが・・。若いころというのは、逆にそういうものをしがらみと言いそれを嫌って外に出ようとするものなのだろうが、僕は残念ながらそういうことを思ったことがなかった。だからまあ、性格的に言ってそのときはただの引きこもりになってしまうのがオチなのではないかとも思ってしまうが・・。

こういうことを読んでいると、旧約聖書のバベルの塔の物語を思い出す。思いあがった人間に対して神が制裁を加えるという話で、ざっとあらすじを書いてみると、ノアの末裔である人々が東のほうからやってきて、シヌアルの地に天にも届く巨大な塔を建て始めた。それを見た神は、同じことばを使い、一致して事に当たると、人間はこれだけのことをやすやすとやり遂げてしまうのだ。この分だと、これからもどんなことを始めるか、わかったものではない。地上へ降りて行って、彼らがそれぞれ違ったことばを話すようにしてしまおう。そうすれば、互いの意思が通じなくなるだろう。」と言って塔を破壊し、お互いの言葉を通じなくしてしまい世界の各地に人々を散らした。というものだ。
この物語にはいろいろな解釈があるらしいが、僕が勝手に解釈すると、世界のひとが一か所に集まるような世界の中では人は幸せに生きてゆけない。だから神は言葉を異にし、人々を別々の場所に留まって生活をさせるようにしたのではないかと思うのだ。著者のいうバイオリージョナリズムを強制的に実践させたんじゃないかと。
グローバリゼーションが進み、人が再び集まり始めた時、神は今度はコロナウイルスを世に放って人々の往来を制限し始めたのに違いないと思うのだ。東京オリンピックはバベルの塔だったのだろうかと思う時がある。
それならば、この惨禍は遠い昔からの定めであり、小さな世界で生きるということが人として幸せに生きる十分条件として存在しているのであると言えるのかもしれない。
僕は若干自虐的ではあるが、半径10キロで生活をしているなどとこのブログで書いたりしているが、実はそれは正しい生き方のひとつであったのかもしれないのだ。

この講演は22年前に行われたものであるが、つい最近におこなわれたものと言われてもまったくわからない内容に思う。解説の山極寿一も、「今やっと、三省さんの時代が来た。三省さんがかつて語った言葉に真摯に耳を傾け、それをひとりひとりが実行する時代になった。そう心から思う。」と書いているが、本当にそう思う。自分が幸せかどうかというのは人それぞれで異なるはずだ。しかし、なにかよりどころがなければならないと語るのがこの本の本質である。唯識哲学の中で語られる阿頼耶識という考えからすると、世界の万物はその阿頼耶識という鏡に映し出された映像に過ぎないのだそうだ。この時代、技術革新のおかげで遠くに行かなくても情報だけは手に入る。実態は別として、世界の万物の意味の捉え方は自分の中の映像であるのなら、自分の阿頼耶識の求めるものだけをそこから得ることで十分な幸せを感じることが出来るのかもしれない。そういう意味でも確かに、「三省さんの時代が来た。」といえるのではないだろうか。
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「ここはとても速い川」読了

2021年08月16日 | 2021読書
井戸川射子 「ここはとても速い川」読了

著者は兵庫県在住の国語科教諭で詩人だそうだ。初めて出版した詩集が中原中也賞を受賞したということなので相当才能のあるひとなのだろう。特に私家版の著作で受賞するというのは稀なようである。そのひとが初めて書いた小説がこの作品らしい。
タイトルになっている作品と、もうひとつ。「膨張」という作品が収録されている。
8月は小説を読む月になり、これで3冊目になった。

「ここはとても速い川」は児童養護施設に暮らす少年が主人公だ。文体が変わっていて、各章の最後が体言止めになっていたりしたのでこの作家はどんな人なのだろうと調べてみたら上記のようなプロフィールであった。本を読んでいる途中では先入観を持たないようにそういうことを調べないようにしているのだが今回は先に調べてしまった。「膨張」の主人公はアドレスホッパーという、定住する家を持たずに移動しながら生活する女性である。
どちらの主人公も、一般的な人の目から見ると境遇としてはあまり幸福ではないひとのように見える。(アドレスホッパーの女性はそういう境遇に望んで身を置いているのではあるが)しかし、主人公たちはその境遇を、不幸とも思っていないし逆境にもめげず生きていくという風でもない。
特に大きな事件が持ち上がるという風でもなく、「ここは・・」のほうは主人公の年下の友人が施設を去るまでの半年間あまりの物語。少年は一般家庭の友人とも交流し、普通の子供が経験するような小さな冒険と出会いと別れが描かれる。アドレスホッパーの女性も職がなく住所不定になっているのではなく、塾講師という職業を持ち、実家とも交流を保っている。唯一少し普通と違うことといえば、それもすでに昔に普通の感覚なのだろうけれども、同性愛者の傾向があるということくらいだ。しかしそれが普通の生き方だと思っているし、それに対する将来の不安を持っていないようにも描かれている。
しかし、主人公や登場人物は心の片隅で寄り添ってくれるひとを求めている。養護学校の少年は去ってゆく年下の友人を、アドレスホッパーの女性はパートナーとして時々会う女性を。物語の中ではそれぞれ友と、パートナーと離れてゆくのだが、小さな悲しみと大きな怒りが主人公に付きまとう。幸せでなくてもいい、ただ生きていたいだけなのだと叫んでいるようでもある。

著者はこの物語を通して何かを語りたいと思っているはずなのだがこんなことくらいしか思い浮かばない。
だから今回は原稿用紙2枚分あまりで終了・・・。


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「オーバーヒート」読了

2021年08月14日 | 2021読書
千葉雅也 「オーバーヒート」読了

この本も第165回芥川賞候補作品である。2番手というのはやっぱりそれほど注目されないのか、この時の受賞作は両方とも貸し出し中であったがこの本も新規購入図書の書架に貸し出されないまま残っていた。

著者は東大卒で現在は立命館大学の教授をしている哲学者だ。2作品収録されているがどちらも同性愛者が主人公だ。候補となった「オーバーヒート」のほうは東京から京都へ准教授の職を得て大阪に住むようになった男性が主人公なのでおそらく自分のことをモチーフにして書いているのだろう。本人が同性愛者かどうかは定かではないが、研究対象の哲学者や研究対象のひとつが「セックスの哲学」であるというところからもきっとそうなのであろう。

同性愛ということもひとつのテーマとなっているのだろうが、主人公は表向きはそれに苦悩しているということはない。今の時代、そう言うことには苦悩するのだろうなと思うのはもう古い観念になってしまっているのだろう。

哲学者でもある主人公は、哲学を知ることは「死の練習」だという。『これをやり遂げなきゃ死ねないとか、急に死んだらもったいないとか思わない。誰でも、今この時点まで十分に生きてる。だからべつにいつ死んでも損なわけじゃい。』と思えるようになるのが哲学らしい。

しかし、主人公もそうとは言いながら、自分はどこで死ぬのか、その時、誰がそばにいるのかということを気にする。
主人公は同性愛者である。おそらく自分の子供を持つことはない。そして、過去には裕福であった父親は破産し財産というものも持っていない。裕福でかつ土地ももっていて、太陽光発電で金儲けをしている友人を見ながら、『降り注ぐ太陽エネルギーを我が身ひとつに浴びるだけでカネが生じるなら、どこでも生きていけてどこで死んでもいい。だがそれは、理論がオーバーヒートした抽象論なのだ。人間は抽象的な「点」じゃない。体がある。肉体が。”かさ”がある。地球上で場所を占めなければならない。』『今は晴人(パートナーの男性)がいる。何のゴールもないこの二人は、それぞれの死に至る時間を愛撫でごまかし合っている。いつかは死ぬ。それでも、スカイダイビングで手をつなぐように落下速度は減速できるだろう。いや、減速しかできないのだ。激戦地にパラシュートで兵隊が投下された。男が二人で生きるとは、共に、少し遅めに落ちて行くことだ。次世代を生み残して未来の肥やしになるのではなく。』とひとり語るが、哲学者でも野垂れ死にはしたくないということなのだろうか。

これを同性愛者ではなく、例えば普通のサラリーマンに置き換えても同じことが成り立つのだと思う。将来、年金はどれくらいもらえるのか。貯蓄したお金で死ぬまで果たして持つのだろうか。結局人は死ぬのを恐れないで生きることはできず、それが常に苦しみとしてのしかかってくる。釈迦の教えに戻っていくようなものだがそれがきっと真実なのだろう。

この本も、生きることの無常さというものを同性愛を通して表現しているのかもしれない。そうだとすると、著者が表現したいと思う内容はすでに紀元前からの永遠に解決できないテーゼとして存在しているということになる。芥川賞としてはもうちょっとひねりが欲しいというところなのかもしれない。(かなり偉そうな書き方だが・・)
そして、どうも同性愛というものには共感することできないし、その世界というものも想像することさえできなかった。審査員はそこそこ年配の人が多いから、そういったところも減点対象になったのではないかと思うのはあまりにも第一線で活躍する作家たちである審査員をバカにしてしまっているだろうか。

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紀ノ川河口~加太沖釣行

2021年08月11日 | 2021釣り
場所:紀ノ川河口~加太沖
条件:中潮 7:38満潮
潮流: 5:50転流 8:43 上り1.2ノット最強
釣果:タチウオ1匹 マアジ6匹 サバ1匹 ガシラ1匹

毎回書いているような気がするのだが、ここのところ休みのたびに釣りに行っている。そろそろ疲れも溜まってきているのだが次の休みは雨模様なのでやっぱり今日も釣りに行く。
できれば早く切り上げたいので気になっているタチウオを釣りに行こうと決めた。ただ、過去2回のタチウオはまったくダメだったのでもし釣れなければ加太まで足を延ばして鬼アジを釣りたいと考えている。早く切り上げたいといいながら加太までというのはおかしな話だがこの前釣った鬼アジがすこぶる美味しかったので釣れればまたあの味を堪能できると思ったのだ。

今日は渡船屋の振替休日。港には人はひとりもいない。いつもは街灯が点いているのだが昨日の台風のような温帯低気圧で明度センサーが壊れたか休みなので船頭がブレーカーと切って帰ったか真っ暗だ。



対岸には光があるとはいえ港の後ろは森のような場所なのでもともと人気のないところではあるがこんなに暗いところだったのかと改めて実感した。

今日は雲が多いのか、午前4時半、海の上も真っ暗だ。



昨日の夕方も一昨日に比べてかなり暗くなったと感じたが、わずか1日で一気に日が短くなった感がある。
ゆっくり船を進めて少し明るくなるのを待つ。
青岸の手前から仕掛けを流しはじめると、同じくタチウオを狙っているであろう船が数隻出てきた。釣れているのだろうか。
しかしアタリはない。かなり明るくなってきて最初のアタリ。しかしすぐにバレてしまった。



その後もアタリがなく、これでは間違いなく加太に行かねばならないと思い始めた頃にまたアタリ。今度は鉤掛かりした。引き上げてみると指4本に迫ろうかといういい型のタチウオだ。こんなのなら5匹もあれば十分だと思いアタリがあった青岸灯台の前を行ったり来たりするが魚はこの1匹のみで終わった。
どうも今年のタチウオは数が少なそうだ。燻製作りも危うい・・・。

タチウオ1匹では帰れないので加太へ向けて出発。上り潮なので友ヶ島の南で釣りができるはずというのもアジを狙ってみようと考えたひとつの理由だ。燃料を少しでも節約できる。航跡は少し乱れ始め、推力は間違いなく1割は減少している。今日もたかだか4時間半の行程でおそらく20リットルは焚いている。



最も近い四国沖ポイントで釣れれば上出来と思い行ってみたが船の影はなくおまけに水が濁っている。これではダメだと大和堆ポイントを目指す。ここは魚が釣れているのか結構な数の船が来ている。



ぼくも早速仕掛けを落とすと幸先よくマアジが掛かった。型もまずますだ。仕掛けを下してから生け簀を開け、魚を放り込んだら勝手に魚が掛かっていた。今日はけっこう釣れる予感がする。
しかし、船が密集しすぎている。今日も相手のスパンカーが当たりそうになるほど接近されるし、かなり離れてはいたが他の船の仕掛けとおまつりをしてしまった。
スパンカーが当たりそうになった相手は僕が魚とやりとりをしている最中に接近されたのだが、こっちは操船もままならないというのは見ているとわかりそうなものだと思う。おまつりをした相手はどちらが悪いというのが定かではないものの、僕はそんな仕掛けを伸ばしているわけではなかったので自分を贔屓に見るなら相手の仕掛けが相当伸びていたに違いないと思う、大体、竿を手に持たずにホルダーにセットしたままで釣っているくらいだから仕掛けの状態を常時見ていないのだろうと思うのだ。
この辺のしきたりというものがこういう釣り方なのかもしれないが、もう少しお互いに遠慮し合って魚を釣りたいと思うのである。

午前6時を過ぎるとアタリが遠のき、午前7時半まで粘るがアタリはなくそのまま終了。

隣のNさんも僕より1時間ほど遅れて出撃していたようで、僕が帰ったころに大和堆ポイントに入り午前11過ぎまでアタリは続いたとのこと。僕ももう少し粘ればまだアタリを捉えることができたかもしれないが暑くなってくると体がしんどい。叔父さんの家に持っていく分も確保できているのでもうこれで十分ということにしておこう。

前回、大物らしい魚ばかりバラしたので対策としてクッションゴムを使ってみた。
昔からクッションゴムというのは使うのが嫌で磯のかご釣りでは定番であったが使わなかった。高橋治の小説に「秘伝」という作品があるが、お互いライバルだと思っている老漁師が最後に協力して巨大なイシナギを釣りあげるというストーリーで、その時に使う秘策がハリスの前に自転車のチューブを取り付けるというものだった。この小説に倣っての使用であったが秘伝にできるほどの結果ではなかった。まあ、使わないよりもマシという程度か・・。




今日の獲物は和風のマリネにしてみた。このメニューはテレビで田崎真也が作っていたものだがそれを手元にあるもので代用して作ってみた。じつはこれを作りたいと思ったのもアジを釣りに行きたいと思った理由のひとつだ。
調味料のひとつに柚子胡椒を使っているところに試してみる価値があると思ったのだ。田崎真也は柚子を使わずにニューサマー甘夏というものを使って自家製の柚子胡椒もどきのようなものを使っていたが、僕は柚子胡椒にレモン汁を合わせて作ってみた。マリネだとオリーブオイルやごま油を使うが、このアジの脂を楽しむためにはかえってそれらは邪魔になる。



さっぱりしていい味で、刺身よりも好評であった。釣れたらまた作ってみようと思う。
ついでに作ったアヒージョはアジで作るから「アジージョ」だ。これもまったく素材が美味しいから料理の腕前は関係がない。



この番組で、田崎真也は仕事と余暇について語っていた。ご存知のとおり、この人は世界ソムリエコンクールで日本人で初めて世界一になった人だ。それまでは休みもなくひたすら勉強をし、そして働いていたそうだ。
37歳になってふとそんな自分を振り返り、それ以降は余暇のために働くのだという、一般的には逆だと思われる考え方をもとに生活をするようになったと語っていた。
ソムリエの世界に入る前に好きだったという釣りを再び始め、熱海に部屋を持ってそこを拠点に釣りと仕事の生活を続けているという。
僕の生活もある意味、余暇のために会社に行っているようなもので次の休みはお天気かしらなどとばかりに気をもんでいるが、ひとつのことを成し遂げた人のそれとただ惰性で生きてきたそれとは大違いなのであるとたじたじとなるのである。僕の生き方はまるで面白くない民放のテレビ番組のようである。その心は、「本編はまったくでコマーシャルだけが面白い・・」ということなのである。同じように余暇のために働くとはいえ、そこにはこの人を必要としているひとがいっぱいいてそれにこたえられる力と能力を持っているのと誰からも必要とされない人間とではやっぱり生き方としては真逆だなと感じるのだ。

どちらにしてもこの歳で体力もなく知力もないのだからどうあがいてもひとから期待をされることもない。事務所の隅っこでひっそりと残りのサラリーマン人生を送りたい・・。


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「トウガラシ讃歌」読了

2021年08月10日 | 2021読書
山本 紀夫/編 「トウガラシ讃歌」読了

今年もトウガラシの季節がやってきている。もう、何年になるだろうか、叔父さんの畑で栽培してもらっている激辛韓国トウガラシは今年もたくさんのトウガラシを実らせている。そして、いつもと同じ品種のはずなのだろうけれども今年のトウガラシはやけに大きい。



多分、例年の1,5倍くらいの大きさなくらいはあるのではないだろうか。そして、毎年、3株植えてもらっているうちで実りが多いのが一株で残りの二株はいまいちなのだが今年は3株ともよく実っている。たった3株でも連作障害を避けるため植える場所を転々と移動させてくれているのだが、今年はいい場所にでもあたったのだろうか。辛さももちろん申し分ない。
それに加えて今年は叔父さんの家の隣の農家からハバネロの苗をもらった。もちろん自分で育てる技術がないので叔父さんに丸投げで育ててもらっているが、それもやっと実をつけ始めた。もうしばらくすると赤く色づいてくるのだろうが、さて、どんな料理で食べてやろうかと思案しながら楽しんでいる。



青いうちに収穫したトウガラシはすでに柚子胡椒にするためにビン詰めにしてあり、今は赤くなったトウガラシをせっせと摘んで、乾燥させての薬味用と、ラー油、オリーブラー油を作るためにストックをしている。まだまだたくさん成っているのでもう少し摘んでおこうと考えている。

そんな時期にこんな本を見つけた。
編者は民族学、民族植物学、山岳人類学の学者だそうだ。執筆者は、民俗学、言語学、文学、農学の学者のほか料理人など多岐にわたる。テーマは世界のトウガラシの食文化だ。
トウガラシの原産地を振り出しに、伝播したルートをたどりながら20人の執筆陣がいろいろな国のトウガラシ食文化を紹介している。
前の本の感想にも書いたが、やはり外国のトウガラシ料理というのはどうも想像ができない。読み進めていくうちに、こういった本に取り上げられるトウガラシ料理というのは、ほとんどがトウガラシを薬味として使うのではなく、トウガラシそのものを食べる料理であるというのでピンとこないことがわかってきた。
僕もトウガラシが好きだけれども、あれを野菜として食べるという発想はさすがにない。これではトウガラシが好きであると自慢げには言えなくなってしまうのだ。

コロンブスがトウガラシをヨーロッパに持って帰ってきたのは西暦1943年だそうだ。新大陸を発見した翌年ということになるが、コロンブスもよほど気になった食材だったのだろう。しかし、ヨーロッパの国々ではもともと辛い物を食べる習慣がなかったのでそれほど広がりを見せなかった。ヨーロッパを通ってアフリカルートと中東を経てインドへ向かうルートのふたつで東の方へ広がってゆくのだが、アフリカもインドももともとショウガ類を食べる習慣があったのでトウガラシはすぐに受け入れられた。というか、ほぼすべての辛味の香辛料はトウガラシにとって変わられたといっても過言ではなくなった。
これは我が家でもそうで、冷ややっこのワサビ、ソーメンのショウガ、鍋物のポン酢の七味はすべて柚子胡椒にその立ち位置を譲ってしまった。柚子だけに”ゆず”られるのだ・・・。おそらく20年近く前にどこかのおみやげでもらって食べたのが最初だったと思うのだが、それほど柚子胡椒のインパクトは大きかった。
話は元に戻って、ヨーロッパではハンガリーという国は相当トウガラシを食べる国だそうだがこれはオスマントルコに支配されていた頃の名残だそうだから南方面からの逆輸入ということになる。
また、イタリアでもブーツのつま先に当たるカラブリアという地方だけはなぜだかトウガラシをたくさん食べるそうだ。もともと、食料の保存のために使っていたということであるがこのふたつの地域というのはかなり例外的なところということだろうか。

次の伝播先はアフリカと中近東だ。このふたつの地域はもっともその料理が想像できなかった。あまりにも食習慣がかけ離れすぎている。

そしてネパール、ブータンへと広がってゆく。このふたつの国は圧巻だ。高地にあってひっそりと人々が暮らしているというイメージがあるが、ものすごいトウガラシ消費国であるらしい。特にブータンはトウガラシを野菜として食べる筆頭の国で、初物はお寺にお供えするという。ブータンは仏教国で、精進料理にはニンニクやショウガ、ニラ、もちろんトウガラシなどの刺激のある食材はご法度のはずなのだが、お寺に備えるというのだから型破りとしか言いようがない。そして、ものすごい量をたべて、食べすぎてお腹を下してしまうというのが習慣らしいのでおそれいる。だいたい、幸せの国にトウガラシは似合わないだろうと思ってしまうのは僕だけだろうか。

インドについてはコラムとして日本を訪問したインドの芸術家について書かれていたのだが、この国の人たちは想像するとおりトウガラシを含めてスパイスをふんだんに使う国だから、日本の食は物足りなく、持ってきたトウガラシなどを足して工夫しながら日本の食事を食べていたそうだが、その量が4キログラムを10人で10日間で消費してしまったというのだからすごいとしかいいようがない。
中国人もトウガラシに魅了された民族らしく、都のあった北京周辺では辛い中華料理というものは元々無く、四川などの南方から辛い中華料理が入ってきた。結局、都の人たちは四川料理、(川菜)を好むようになり、北京料理(魯菜)は少しずつ衰退してゆく。
韓国も同じで、日本からもたらされたかどうかは別にして全土で好まれるようになった。これは庶民の食べ物として広まり、今でも韓国の伝統的な宮廷料理というものにはトウガラシはまったく使われていないらしい。

そして日本。日本人は今でもトウガラシというと、辛くないトウガラシ類を食べることを除いては薬味にちょっとだけ使うというくらいだ。僕も辛い物が好きとはいえ、それは薬味で食べるだけでそれも色が変わるほどふりかけたりはしない。ただ、日本全国辛いトウガラシは多種あり、地方ごとに呼び名も独特だ。それだけたくさんの地方名があるということは人々の生活に浸透しているということだろうが、そこはきっと韓国と同じように庶民の食べ物として広がったということだろう。出汁が主体の正統な日本料理の中ではなかなかトウガラシの出番はなさそうだ。
庶民のトウガラシというと、師の小説にも印象的なシーンとして登場する。戦後の混乱期、鶴橋のバラック街で主人公とその仲間がバクダンという密造酒を飲みながら、生の牛のレバーにトウガラシの粉をまぶして頬張っている。これが当時の底辺で暮らす人々の日常であったというのであるが、まさしくそこから新たな日本のトウガラシの文化が始まったのではないかと勝手に考えた。まあ、それはそれで日本の文化なのだろう。


最近、我が家で定番になりつつあるのが「コーレーグース」だ。もともと、このブログにコメントをいただくちからさんに沖縄県のお土産としていただいたものだ。島唐辛子という沖縄特産のトウガラシを泡盛に漬け込んだというもので、沖縄の食堂のテーブルには必ず置かれているものだそうだ。我が家ではその後、収穫してきたトウガラシを普通の焼酎に漬けて作っているのだが、この島唐辛子、キダチトウガラシという種類のトウガラシで本州などで栽培されているアンヌーム種とはまったく別の種類でトウガラシの中では極端に辛み成分をたくさん持っている種類らしい。
家で作ったものがどうも風味に欠けるなと思っていたのだが、泡盛と焼酎、韓国トウガラシと島唐辛子の違いは大きいようだ。ちなみにキダチトウガラシはスワヒリ語で「ピリピリ」というらしい。「名は体を表す」を地でいっている・・。
この、キダチトウガラシは南西諸島と小笠原で栽培もしくは生育していて、この種ももちろん中米原産なのだが、その伝播経路は東南アジアの大陸を経ずに海経由でここまで伝播してきたことがわかっているそうだ。トウガラシの辛み成分は哺乳類に食べさせず鳥類に食べてもらって種を遠くまで運んでもらう戦略のために生み出された成分らしいが、ここまで来るのには鳥が運んだのか、それとも人間が運んで来たのかというのはよくわからないそうだ。小笠原諸島と南西諸島のキダチトウガラシは種類としては少し違っているらしく伝播経路も違うと考えられている。小笠原諸島へは中南米から太平洋の島々を経由して鳥たちが運んできたという考えもあるが、コロンブスの時代よりももっと遠い昔の人たちがカヌーに乗って島伝いに小笠原諸島まで運んだのかもしれない。トウガラシは古くから薬としても重用されていたらしいから、彼らはこれさえあれば病気にならないと信じて携えていたのかもしれない。たかがトウガラシだがロマンをかきたてる。
この種は短日植物で冬に暖かくないと育たないらしく、南の方に行くとブロック塀の隅っこで雑草としても生えているというのに本州では育たない。それが残念だ。

健康面についても書かれている。
カプサイシンが反応する受容体(TRPV1)というのは、もともと43℃以上の熱に反応する受容体だ。体中にあるが、口の中のTRPV1はそれを「辛い」と認識するのでトウガラシは辛く感じる。
そのカプサイシンだが、たくさんの健康効果があると言われている。この本に挙げられているだけでも、胃粘膜の保護、発汗作用によるエネルギーの消費を高めるダイエット効果、排便促進、育毛促進、抗酸化作用、嚥下反応の正常化、敏感な感覚神経を麻痺させる効果などが書かれている。
これから老後を迎える僕などにもこれは必要と思われる効果もある。どこまで本当かは定かではないが、ダメもとでせっせと食べてゆこう。
ただ、食べすぎてもよくないらしく、胃粘膜をただれさせたり、下痢をもよおしたりしてしまうのは僕も経験済みだ。
その他、ビタミンEやカロテンなども豊富で、食物繊維も豊富だという。ついでに葉にもたくさんの栄養素を含んでいるらしいので一度食べてみてやろうかなどと考えている。


その他のトピックスでは、あのねのねのヒット曲に、「赤とんぼの唄」というのがあるが、あの歌のネタ元じゃないかと思うことが書かれていた。松尾芭蕉の弟子の其角はこんな俳句を残している。
「あかとんぼ はねをとったら とうがらし」
まさしくあの歌の歌詞そのものだ。それがどうしたという話なのだが、あのねのねの全盛期を知っている僕にとっては貴重なトリビアだ。
「赤とんぼの唄」の本当のネタ元は砂川捨丸・中村春代という漫才師のネタなのだそうだが、きっとこの漫才師は其角のこの俳句を漫才のネタに使ったに違いないと思うのである。


トウガラシの味は世界を席巻しつつあり、調味料と言えば塩しかないモンゴルでもトウガラシが流行しているそうだ。もっともっと世界中にトウガラシの波は広がっていきそうだ。僕もその波に葉乗り遅れないようにしたい。

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