イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

「鬼の哭く山」読了

2018年12月31日 | 2018読書
宇江敏勝 「鬼の哭く山」読了

去年の今頃もこの作家の本を読んでいた。
高度経済成長期をはさんで、人々の目が都会的な生活に向かう中であえてそれに背を向けて、いや、それが必然とでもいうように山中での自然を相手にした生活を続ける人々の物語を集めた短編集だ。
熊野参詣道の途中にある茶屋を守るひと。同じく熊野で逓信の仕事をするひと。龍神の山中、木挽きで食器を作るひと。大峰修験道で修験者相手の宿を守る人。そんな人たちが主人公である。
彼らは一度は学業や別の仕事を求めて郷里を離れたが再びそれが必然であるかのごとく代々続いた職業に戻ってゆく。生きてゆくことに今ほどコストがかからなかっただろうとはいえ、物語のなかでは本業以外の職を掛けもちやっとのことで生活を成り立たせている主人公もいる。
しかし、彼らはそれに対して卑下をしているわけではない。それを当然のこととして受け止めている。ほんの数軒、もしくは一軒だけの生活でもそれを孤独とは思わない。意地を張っているわけでもなく、使命感でもなくただ、淡々と生きている。そう、季節の移ろいに同調しながら身の周りの範囲で生きているのだ。そういう生き方が好きだから選んだのだ。

この物語には、龍神地区では小森谷、小又川、大熊、北山川水系では前鬼、池原、白川など、僕もアマゴやブラックバスを求めて訪ねた土地が出てくる。
すでに車が普通に通れる時代にしか訪ねたことがないが、それより少し前にはこんな生活が営まれていたということがある意味記録映画のように書かれている。

これらの場所に行くたびに、こんなところで生活をすることができればどれだけいいだろうと思ったのはやましいことだろうか。それは憧れだけであって現実はもっと過酷だと一蹴されてしまうだろうか。
著者の本を読むのは3冊目で、ほとんどが紀伊半島中心部での人々の生活を描いたものであるので感想の落ち着くところは同じになってしまうのだが、年越しのひと時、こういう物語を読んでいるとなぜだか気持ちが落ち着くような気がするのは確かなことだ。

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「珈琲が呼ぶ」読了

2018年12月28日 | 2018読書
片岡義男 「珈琲が呼ぶ」読了

僕が飲むコーヒーといえば、1キロ1,000円の、アマゾンでもこれほど安い豆はないぞというくらいのチープなもので、喫茶店の椅子なんてここ数年座ったことがないのだが、片岡義男が飲むコーヒーとはどんなものだろうかという興味からこの本を手に取ってみた。
片岡義男というとかつて、「スローなブギにしてくれ」で一世を風靡した作家だ。多分あの頃、僕も角川文庫を読んだことがあったのではないだろうか。それとも、映画のテーマソングがあまりにもヒットしたので読んだ気になっているだけだろうか・・・。

内容はコーヒーそのものではなく、コーヒーが出てくる一場面、それはアメリカの映画であったり音楽であったりするのだが、当時の作家の思い出であったりその後数十年を経てあらためて思うことなどを書いている。アメリカの文化に造詣が深い作家なので取り上げられている映画や音楽については日本の歌謡曲と怪獣映画にしか興味がなかったぼくにはほとんど共感できるものがなかった。
そういえば、今年はDA PUMPの人気が復活してよかった。ずっと前から、SMAPよりも彼らの方が歌も踊りも数倍上手いと誰でも思っていたのだろうか。これにはDonald Trumpも貢献していたりして・・。

ただ、その詳細な記載内容には驚かされる。音楽ではそのレコードが録音された日時まで、映画ではこの本のテーマになっている、コーヒーが出てくるシーン。それはほとんどメインのストーリーには関係ないようなシーンにまで及ぶ。
多分片岡義男の小説も、これほどのディテールの裏打ちがあってその小説に厚みがでてきているのだろう。
なので、本書に関する感想を書きたくても元になっているネタのことがほとほとわからないので、代わりに
「もし、片岡義男がタチウオを釣ったら・・」という風に作文を作ってみた。

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それは2018年12月◇×日のことだった。私はタチウオを釣るために沖へ出た。タチウオの釣り方というものにはいくつかの方法がある。その中で、今回はテンヤ釣りを選んだ。英語で表現すると“TENNYA”。Nは英語の雰囲気が出るかもしれないとわざと重ねてみた。古い漫才師に、「てんやわんや」というコンビがいたけれども、その人たちと何か関係があるのかどうか、そしてこの釣りがいつ、どこから始まったのかということは判然としない。その意味をもう一度追うためにも私は再びネットの海原を模索しなければならない。

 エサは冷凍にしたイワシをまるのまま1匹そのテンヤに括りつける。テンヤの大きさは約15センチ。重さは40号である。40号というのは現代の重さに換算すると170グラムとなる。
括りつけるためにつかうのは直径0.15ミリのステンレスの針金である。これは0.1ミリでも、0.3ミリでもいけない。0.15ミリでなければならないのである。そしてイワシはとあるスーパーで1パック100円のものを買い、冷凍前に塩を当てる。その分量がどれほどが適当なのか、いっそのこと生の方がよいのか、味の素を振りかけると集魚効果が増すのか私にはわからない。

 イワシを括りつけられたテンヤを海底まで落とす。水深は約100メートル。そこへ2分ほどの時間をかけて下りてゆく。リールのカウンターの数値は110メートルを示している。すこし船が流されているようだ。
底に下りると少しずつリールを巻き上げながらタチウオのアタリを待つ。おや、あたりらしきものがあった。しかし外れた、。次にアタリがあったら僕は合わせを入れるよ。でもそれは無駄な行為だった。
相変わらず下手くそなものだ、と僕は思った。
括りつけてあったイワシは頭だけを残して跡形もなく消えてしまっていた。

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あ~。やっぱり出来が悪いや・・・。
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「サピエンス全史(下)文明の構造と人類の幸福」読了

2018年12月22日 | 2018読書
ユヴァル・ノア・ハラリ 著/柴田裕之 訳 「サピエンス全史(下)文明の構造と人類の幸福」読了

下巻は帝国主義の始まりから始まる。

その帝国主義を支えるふたつの車輪が宗教と科学的探究心であるというのである。ここでいう宗教とは純粋な信仰の対象だけでなく、自由主義、社会主義というようなイデオロギーまでも含むという考え方が面白い。著者はそれさえも宗教の一種だという。
たしかに、イデオロギーというもの人間が勝手に創りだした考え方、制度であり、その規制(戒律)のなかで生きていると考えると納得がいく。もっと考え方を広範囲に当てはめると、会社組織というのもある意味宗教と近いものがあるのかもしれない。

そして、大航海時代、ヨーロッパの帝国主義は世界の覇権を握るのであるが、そこには、世の中には知らないことが山のようにある。我々は無知である。もっとを知りたいという冒険心と探究心があったからだという。科学的探究心だ。アフリカやアメリカ大陸を目指した征服者たちは地質学者や生物学者も同伴したそうだ。ダーゥインもそのひとりであった。そういう人たちが集めた有用な植物や鉱物が産業に応用された。
宗教と科学的探究心のふたつの車輪の燃料となったのが貨幣(金融システム)である。新しい資源への投資である。
そこがアジア人と違ったところで、アジアの人々は海の向こうにとくに興味がなく、今いるところが世界のすべてでありそれで十分だったらしい。僕の考え方の基本もアジア人と同じである。

しかしながら結局、今の生活は人類が認知革命以来獲得した、実体のないもの、頭の中で信じることができる能力から生み出されたもので豊かな生活を送っている。
種族としては繁栄を極め、成功しているのかもしれないが、ひとりのホモ・サピエンスとしてみると実態のないものに縛られ、制約され、がんじがらめにされた窮屈な生き方をしているように思える。
かくなるうえは、そこから生み出されたプロダクツだけをつまみ食いしながら、自分だけは実態のないものに絡みとられないように生きてゆきたいものだ。

著者はイスラエル人だそうだが、よく読んでみると帝国主義が生み出した人種差別や格差、また、宗教に対してもなにかネガティブな意見を持っているような気がする。ユダヤ人がたどってきた歴史を考えてみるとそういう風な考えになってゆくのはよくわかる。しかし、そうであっても、来てしまったものは仕方がない。忸怩たるものを抱いている感は垣間見えるけれども、その後を見守っていかねばならないのだと言うスタンスはやはり歴史学者だ。その良し悪しは自分で考えろというところだろうか。それとも、その判断は後世の歴史家に任せようというところだろうか。

それを考える上で、「幸福とは何か」ということを定義しようとしている。
この200年間、高くなり続けた生産性と、帝国主義が後退したあとから台頭した自由主義と資本主義は個人を強くし自由にしたけれども、古くからあった小さなコミュニティーは破壊され人同士のつながりは消えて行き、個人の価値観は省みられなくなった。生産の効率化による富の増大の一例として、工業化された家畜飼育について書かれた部分があり、そこでは豚や鶏、牛などの家畜たちは身動きが取れないような狭い場所に生まれてから死ぬまで押し込められ、そこには生き物としての尊厳や自由がまったくないと綴られている。それはあたかも自由主義のなかのパーツと化してしまった人間になぞらえているように思えた。

そしてその幸福を計るための尺度は富の豊かさではなく、ひとそれぞれが持っている幸福レベルのどの段階まで満たされたか。ということだと言っている。例えて言うなら、そのレベルを1~10までで刻んだとして、3000万のクルーザーに乗っている人は10万円の真鯛釣りの竿を買ったときでも5のレベルまでしか行かないけれども、ぼくみたいな貧乏人なら、ありあわせのパーツで手作りした釣竿でも8まで上がってしまうかもしれない。じゃあ、その時点でどっちが幸福感を味わっているかというと、僕のほうが上なのである。(ただ、悲しいかな、そのレベルは常に維持できるわけでなく、すぐに下がってしまう。また、その感度によって、どれだけがんばっても6ぐらいまでしか上がらない、死ぬまで幸福感に浸れない人もいる。だからひとは新たな幸福を求めるし、世の中を悲観的にしか見ることができないひとが現れる。)

それを生化学的な方向から見ると、「脳内で働く幸福感をもたらす神経伝達物質がうまく分泌されているかどうか。」ということに行きつくのである。要は世界が豊かになることと人が幸せであるということには相関関係がないということである。確かに、豊かになるということが幸福感の基準なら、今よりはるかに貧しかった石器時代の人々はみんなこの世をはかなんでみんな自殺してしまっているはずだ。

どちらにしても、人間社会のすべては人類が実体のないものを認識する能力を身につけてしまったことからはじまる。これからさらに時代が進むと貨幣経済がキャッシュレスに向かっているように、人類自体が電脳化というような実体のない存在に回帰してゆくのだろうか。まあ、地球環境の面から考えるとこんな危険な炭素体ユニットは地上から消えうせて実体のない存在になってくれたほうがよかったりするのではないかとも思うのである。
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「サピエンス全史(上)-文明の構造と人類の幸福」読了

2018年12月19日 | 2018読書
ユヴァル・ノア・ハラリ 「サピエンス全史(上)-文明の構造と人類の幸福」読了

人類の歴史を簡単に書くと以下のようになるらしい。

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135億年前
物質とエネルギーが現れる。物理的現象の始まり。
原子と分子が現れる。化学的現象の始まり。

45億年前  
地球という惑星が形成される。

38億午前  
有機体(生物)が出現する。生物学的現象の始まり。

600万年前
ヒトとチンパンジーの最後の共通の祖先。

250万年前
アフリカでホモ(ヒト)属が進化する。最初の石器。

200万年前
人類がアフリカ大陸からユーラシア大陸へ拡がる。
異なる人類種が進化する。

50万年前
ヨーロッパと中東でネアンデルタール人が進化する。

30万年前
火が日常的に使われるようになる。

20万年前
東アフリカでホモ・サピエンスが進化する。

7万年前  
認知革命が起こる。虚構の言語が出現する。
歴史的現象の始まり。ホモ・サピエンスがアフリカ大陸の外へと拡がる。

45000年前
ホモ・サピエンスがオーストラリア大陸に住みつく。オーストラリア大陸の大型動物相が絶滅する。

3万年前
ネアンデルタール人が絶滅する。

16000年前
ホモ・サピエンスがアメリカ大陸に住みつく。アメリ力大陸の大型動物相が絶滅する。

13000年前
ホモ・フローレシエンシスが絶滅する。ホモ・サピエンスが唯一生き残っている人類種となる。

12000年前
農業革命が起こる,植物の栽培化と動物の家畜化,永続的な定住。

5000年前
最初の王国、書記体系、貨幣。多神教。

4250年前
最初の帝国-サルゴンのアッカド帝図。

2500年前
硬貨の発明-普遍的な貨幣。
ペルシア帝国-「全人類のため」の普遍的な政治的秩序。
インドの仏教-「衆生を苦しみから解放するため」の普遍的な真理。

2000年前
中国の漢帝国。地中海のローマ帝国。キリスト教。

1400年前
イスラム教。

500年前 
科学革命が起こる。
人類は自らの無知を認め、空前の力を獲得し始める。
ヨーロッパ人がアメリカ大陸と各海洋を征服し始める。
地球全体が単一の歴史的領域となる。
貸本主義が台頭する。

200年前 産業革命が起こる。
家族とコミュニティが国家と市場に取って代わられる。
動植物の大規模な絶滅が起こる。

今日
人類が地球という惑星の境界を超越する。
核兵器が人類の生存を脅かす。
生物が自然選択ではなく知的設計によって形作られることがしだいに多くなる。

未来
知的設計が生命の基本原理となるか?
ホモ・サピエンスが超人たちに取って代わられるか?

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この歴史の中で、人類の大転換となったことが3つある。ひとつは7万年前の認知革命、ひとつは1万2千年前の農業革命、最後は500年前の技術革命だ。
この三つの革命が人類をはじめ地球上の生きとしいけるすべてのものにどのような影響を与えたかを上下2巻にわたって綴られている。

上巻では認知革命と農業革命について書かれている。ふたつの革命は人類が維持できる集団の規模を決めることについて重要な意味を持っていた。
それは7万年前、認知革命とはすなわち言葉の発明だ。かつて人類が言葉を持たなかった頃、おそらく数家族、20人~50人くらいの人数がまとまって生活をすることしかできなかた。言葉がないとそれ以上の人数ではコミュニケーションが取れなかったというのだ。で、その必要なコミュニケーションの中身はなんであったかというと、噂話だったというのだ。ふつう、ここではお互いの意思疎通を密にすることで狩りが上手くなり、食べられる植物の在りかを共有したりすることで食料の生産性が上がり養える人数が増えたからと思うのだけれども、それよりも噂話のほうが重要だったというのだ。その集団で、誰と誰が相性がいいとか、あいつはどんな性格だとか、誰と誰ができていて、いつ別れたとか、そういう井戸端会議の情報が集団を円滑に維持する最良の方法であったというのである。
それで150人規模の集団をまとめることができるようになった。
ネアンデルタール人はホモ・サピエンスよりも体力的にも気候に対する順応性でも優れていたようだが、言葉を持たなかったゆえに集団を大きくすることができなかった。そのなかで近親交雑が進み、免疫力の差でホモ・サピエンスとの競争に負けていったという説もあるそうだ。
そしてもっと集団が大きくなるために必要であったものは神話であった。それは実在しないものをあたかも実在することのように理解できる能力でもあった。
まったく存在しないものをあたかも存在するものとして信じるということは共通の価値観を共有することである。例えば戒律。誰が決めたものでもない、神が決めたから守らねばならないのだという解釈はさらに大きな集団をまとめあげることができたのである。

そして農業革命はさらにたくさんの人間の集団をまとめることができるようになった。
しかし、農業革命は弊害も生んだ。
ひとつは個人個人の強さの減退である。単一の作物に頼る生き方は大量の人口を支えることができるけれども、口に入れることができる種類が少なくなると耐性が弱くなり、ひとたび疫病が発生すると大量に死亡者が出ることになる。また、旱魃がおこるとすぐにその人口をカロリーの面でも支えきれなくなる。
その点、採集生活ではあらゆるものを食料としているので栄養が偏らない。農業革命以前のほうが、幼児期の死亡率は高いけれども、それを乗り切ることができた人の余命はその後よりも長かったらしい。
しかし、大きな集団は分業という体制を生む、そしてそれが発達したことで個人の生きるためのスキルというものもレベルが下がってきたのもこの時代だ。
人類全体としては、今日の方が古代の集団よりもはるかに多くを知っているが、個人のレベルでは古代の狩猟採集民のほうが知識と技能の点で歴史上最も優れていたのだ。


この本はそういうことが人類にとってよかったことであったのか、個人にとっては不幸ではなかったのかというようなことについては何も書かれていないのだが、もう、この時点で僕はなんだか個人にとっては明らかにこれは不幸な歴史の始まりではなかったのかと思ってしまう。群れることが嫌い。会社組織にはなじめない。とりあえずはなんでも自分でやってみたい。その時点で僕は狩猟採集生活を営んでいた人々と同じ思考ではないのかと思う。ただ、それが人類として劣っているのかどうかという判断はこの本のとおり、誰にも判定できないのだ。少しは安心した・・・。


さらに集団が大きくなってゆくために発明されたのが書記体系と貨幣である。人間の脳の記憶力には限界がある。納税や法律、そういうものを大量に記録として残すのに文字は画期的であった。そして貨幣は神話を信じることと同様、共通の価値観を共有する手段としてもその価値を発揮した。たとえ信じる宗教が異なったとしても物の価値を同じ尺度で
物を評価できるという意味で世界のほとんどがひとつに統一されてしまったと言えるのである。それはいわゆる、帝国主義の始まりである。
下巻へ続く。
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「かがみの孤城」読了

2018年12月10日 | 2018読書
辻村深月 「かがみの孤城」読了

およそ僕みたいなおじさんが読む本ではないのだが、今年の本屋大賞受賞作だというので読んでみた。4月に図書館の貸し出し予約をしてやっと今になって借りることできたというのだから相当人気のある作家のようだ。

ストーリーは、いろいろな理由を抱えて学校に行けなくなった中学生たちが突然現れた鏡の向こうの世界で様々なことを語り合いながら成長してゆくという物語だ。

ひととの付き合いが下手になってしまったというのには様々な理由があるのだと思う。それが持って生まれたものなのか、それとも小さい頃の体験がそうさせるのかは僕にはわからないけれども、僕自身も運動会と遠足は楽しみでも何でもなかった。いつも雨が降って中止になってはくれないだろうかといつも思っていた。
新学年のクラス替えというのも苦手だったように思う。

自己分析というほどのものでもないけれども、多分新しいことをすることがきっと嫌いだったのだろうと思う。今がそこそこ楽しければそこから外へは出たくないのだ。
よく言うと、自分のバランスが崩れることを極端に嫌がり、自分の美意識の枠に入りきらないようなことにはしり込みしてしまう。

この前、いつも野菜をもらう叔父さんのところで叔母さんと話をしていると、(この叔母さんは父の兄弟の末っ子でその上の兄とはかなり歳がはなれて生まれてきた。)「私はいつも水軒川の橋の下から拾われてきた。と言われてたんやで。」というようなことを言っていた。どうもわが一族はこういうことを常日頃から言っていたようで僕もまったく同じ事を言われていた。どういう理由でそれを言っていたのかはまったくわからない。まさか、拾われてきた子供は元気に育つなどという江戸時代の迷信を信じていたわけではあるまい。その頻度は覚えていない。たった1回だったかもしれないし、もっと多かったのかもしれないが、僕の記憶の中には鮮明にその言葉が残っているし、叔母さんも70歳を超えてでもそれを覚えているということはやはりそれなりにインパクトがある言葉であったに違いない。
ぼくはお父ちゃんたちの子供ではないかもしれないという不安は少なからずひとから嫌われたらどうしようとか、何か変なことを言ったら嫌われるかもしれないという恐怖につながっていったのであろうか。それがいまの状態をなんとか維持したいと考えてしまう基になっているのかもしれない。

そんな経験とそれからの経験から得たのは、「人は心の中に思っていないことは口に出さない。」ということだ。そういえば新約聖書のマタイ伝の中にも、「口にはいるものは人を汚すことはない。かえって、口から出るものが人を汚すのである。」と書いてある。

だから僕は口数が少なくなる。そして相手の言葉に敏感になってしまう。それならまったく冗談が通じない人間ではないかと言われてしまうだろうが、そこは多少理解しているつもりだ。ただ、相手が言った何気ない言葉(本気で言っている場合もあるだろうが。)が果てしなく気になってしまう。

よほど信頼できる人でないと自分からも心を許すことができなくなってしまう。そこは物語の主人公たちの気持ちに共感できる部分があるのだ。

生きにくい性格に生まれてしまったのか、はたまたそれ以降の環境がそうさせたのかは知らないが、彼らに言ってあげたい。それも自分らしく生きていることの証ではないかと。そして、現代ではSNSという技術がある。どこかで共感しあえる友たちとつながりあうこともあるかもしれない。
著者はきっと、この、鏡の孤城をSNSの空間になぞらえて書いているのだと思うのだ。

そんなことを思い出しながらこの本を読んでいた。
社会人になっても、この歳になってもそれは変わらず、やはり人との交わりは一番の苦手かもしれない。よくぞまあ、30年もやってこられたものだと思ったりもしてしまう。
電車の隣の席で上司と部下と思しき男女が1時間も雑談を続けているのを見ると、うるさいと思う心を通り越してよくそんなにたくさんの話ができるものだと感心する。まあ、魚釣りの話をやれと言われると僕だって2時間20分くらいはしゃべり続けることができると思うが、それでは会話が成り立たない。

しかし、そうやって浮き上がることもなく、幸いに沈み込むこともなく、嫌いな上司にはうまく相手にされないように打っちゃりながら、そして少しの孤独感を感じながらでもそれのほうがよかったのかもしれないと思うこともある。
しかし、この物語の大きなテーマの一つは、“信頼”である。信頼されているという気持ちがどれだけ大きな力を発揮するか。しかし、信頼されるためにはどれだけ大きな力が必要か。それは孤独からは絶対に得ることができないエネルギーである。

塾でアルバイトをしていたころ、そこの生徒から教えられたことがある。九九の7の段の答えの下一桁には0から1の全部の数字が出てくるのだ。
この物語もそんな7の奇跡を利用して書かれている。うまいこと構成していると思う。さすがに本屋大賞だ。
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「私の旧約聖書」読了

2018年12月05日 | 2018読書
色川武大 「私の旧約聖書」読了

著者は、阿佐田哲也というペンネームで、「麻雀放浪期」を書いた人である。この本は本名で書かれている。ちなみにペンネームの由来は、麻雀をやってて夜が明けてくると、「朝だ、徹夜だ。」とよく言っていたというところかららしい。

およそ信仰からは程遠いギャンブルの世界で名を成したひとからみる旧約聖書とはいったいどんなものであったのかという興味で手に取ってみた。

大部分はモーセ以降、再びイスラエルの民がカナンの地を追われるまでについていろいろ書かれている。
僕みたいな凡人は、聖書の中の登場人物は、そういう人なのだからそういう人なのだとしか思わなくて、プロファイリングみたいなことをしようなんて考えたこともなかったけれども、著者はまず、モーセというひとはどんな性格の人であったのだろうかというところからはじめている。

モーセはエジプトで奴隷にされていたイスラエル人のひとりだが、赤ちゃんの頃川に捨てられたところを王の娘に拾われて、そこで大きくなった。だから創世記に出てくる人々とは少しタイプを異にしている。善意の人であり、品格も高く、個人のスケールの中ではまことに申し分のない一生を送ることのできる人であったけれども、それだけに、自分の手に余る大きな事に対しては、内向的、傍観的になってしまう。
いわゆるナルシストだ。自分のバランスが崩れることを極端に嫌がり、自分の美意識の枠に入りきらないようなことにはしり込みしてしまう。
と分析している。

そんなモーセの前に神エホヴァが現れて、「私はお前の神である。民を率いてイスラエルへ戻れ。そこで幸せにしてやるからずっと私を奉り続けろ。」と言われてもなんでその役が僕なの??みたいな感じで、なかなかそれを受け入れることができないのだ。自分の中にはすでに自分の考えがあるのだから。

そして、イスラエルの地を得た民はそこで何世代も続いてゆくのだが、およそ神が必要なときは危機が訪れるときで、食べ物が豊富にあるときや敵が襲ってこないときは民も神様を崇めることを怠けるようになる。そうなると神様は困るのである。だからイスラエルの民をいじめて、やっぱり神様はいいだろうと再び崇めさせるように仕向ける。旧約聖書の列王記という項目にはひたすらその繰り返しが書かれているそうだ。

そういう物語のなかに著者は何を見たのか。筆者も小さい頃のコンプレックスからやはり自分の中に神を持ってしまった。そうなると他者との距離がどんどん遠くなる。集団の世界に入れなくなる。モーセは神の指示に従ってイスラエルを目指すわけだけれども、その葛藤はいかほどのものだっただろうかと、こういう見解になる。やはり自分ならモーセ以上にしり込みしてしり込みしてしまうのではないかと。

そして著者はひょんなことからギャンブルの世界に入り込むのであるが、ギャンブルは場が終わるごとにシャッフルしてカードが配りなおされる。それを列王記になぞらえている。
そこのところは勝負事にはまったくわからないのだが、著者がモーゼになぞらえている部分はこれはぼく自身のことでもあるのではないだろうかと思えてくるのである。

だから世間とうまく折り合いをつけることができないのだ・・・。
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「そもそも島に進化あり 」読了

2018年12月03日 | 2018読書
川上和人 「そもそも島に進化あり 」読了

つい先日、NHKのドキュメンタリーで伊豆諸島にある孀婦岩を取り上げていた。あんなローソクみたいな岩礁と言ってもいいような島にも生物が住んでいて、生態系ができあがっている。鳥はまあ、わかるとして、植物やクモ、陸に住む貝までもそこには住んでいる。
この本を手に取ってみたのは、岩だけの無人島にどんなプロセスを経て生態系ができあがってゆくのかということをもう少し詳しく知ることができるのではないだろうかということであった。

著者は鳥類学者であるけれども、島嶼地域に住む鳥類を主に研究している。その観点から無生物の島にどうやって生物が定着していくのかということを解説しているのだが、結果からいうと、それほど目新しいものではなかった。

植物の種は鳥が食べたものが糞となって島に落ちるか、または口にくわえて、羽根にくっついて落とされる。風に乗ってやってくるものもある。土壌は島の岩石が風化し、それに海鳥の糞や枯れた植物が混ざって出来上がる。動物たちも流木に乗ってやってきたり、同じく鳥の体にくっついてやってくる。クモはお尻から出した糸を風に吹かせて飛んでくる。

動物の進化についても同じで、天敵がいない島では小さな生物は大きくなる傾向があり、食物が少ない環境では大きな生物は小さくなる。そして鳥は飛ばなくなる。

こういったことはおりに触れて聞いたことがあるものばかりだった。唯一、へ~、っと思ったのは、植物も競合が少ない環境では花の色が地味になったり、大きさが小さくなったりするらしいということであった。鳥も花も本来の性能を維持するためにかなりのエネルギーを使い無理をしていたのだ。という、たったそれくらいであった。

著者もそれがわかっていたのか、まえがきでは、読書はギャンブルだ。本を買うために使ったお金と読むために要した時間に見合うだけの読後感を得られればあなたの勝利であり、そうでなければ敗北だと書いている。
そして、少しでもその読後感を盛り上げたいのか文章も奇をてらっている。僕のブログもそうなのだが、文章の内容とはまったくかけ離れている銀河英雄伝説や宇宙戦艦ヤマトなんかのエピソードを入れ込んで面白く見せようとすることが多々ある。
著者も同じく、ガンダムが出てきたりウルトラマンが出てきたり、はたまた南洋の孤島の海岸には人魚や美女が出てくる。しかし、東大卒だそうだ・・・。

だから文章としては素人並みじゃないかと突っ込みたくなってくるので今回のギャンブルは負けということになるんだろうね~。

しかしながら著者の研究は島嶼部の環境保全には重要なものになっている。ここでも人間が悪者になってしまうのだが、人間が持ち込んだ様々なもの、家畜、虫、作物、あるいは病原菌、ウイルス。そういったもので本来の島独特の環境が破壊されつつある。
まあ、人間も自然の一部とであるとするなら、人間がかかわって変わってゆく島の環境も自然の流れの一部であり、それぞれ独特の環境が失われていくというのはすべてエントロピーの法則に則っているわけだから仕方があるまいといえないわけではないが、それを防いだり、元に戻したりという作業も需要な仕事のひとつだそうだ。
そう思うとちゃんと世の中の役に立っている。まったく社会貢献のかけらもないぼくが文章としては素人並みじゃないかと突っ込んではいけないのかもしれない・・・。
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「銀河を渡る 」読了

2018年11月28日 | 2018読書
沢木耕太郎 「銀河を渡る 」読了

沢木耕太郎というと、「深夜特急」が有名だが、このシリーズは文庫本で6冊もあるということと、紀行文というのはもちろん嫌いではないのだが、もともと半径10キロでしか生きていけない僕にとってバックパッカーのバイブルと言われるような本は畏れ多いというか、読んでしまったら自分の不甲斐なさにきっとたじたじとなってしまうだろうということで読んだことはなかった。古本屋にはたくさん置かれているのだけれども・・。

そしてノンフィクションライターとしては実際そうではないようなのだが、スポーツライター的、それも格闘技のことをたくさん書いているイメージがあって、運動音痴でかつ戦うことから極力逃げまわっているこの身にとっては読んでしまうとやはりたじたじとなってしまうと思い、読むことがなかった。

この本はエッセイということなのでそこまで自分を卑下することもないだろうと思って手にとってみた。
初めて読む沢木耕太郎の文章はなんというのだろう、無駄なものをそぎ落としてしまったとでもいうのだろうか、そんな文体だ。格好がいいと思える文章に出会うと言うことは希である。

作家自身が書いているとおり、物には執着しない性格だということで、テーマになっているものはほとんどが人との交わりについてになっている。ノンフィクションライターだから取材先の人たちも含まれているとは言え、出会った人々はあまりにも幅が広い。政治家から映画俳優まで、それもその道に関しての一流のひとたちばかりだ。そしてその関係を長く持ち続けいているようで、そういうことができるのはやはりこの人が持っている人間性というものが大きいのだろうか。それとも、古来から旅人は希人として土着の人々から丁重に扱われてきたそうだが、著者に出会った人々は著者にそういった希人の影を見たからなのだろうか。
どちらにしても、師は、「移動する距離が長くなれば長くなるほど人間は良くなっていく。」と言っているけれども、きっとそれは本当であるのかもしれない。

結局、僕にはそんなことはできないと結局たじたじとなるしかなかったのである・・・。

この本は多分、今年読んだ本の中で一番になるのだと思う。
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「新編 銀河鉄道の夜読了

2018年11月19日 | 2018読書
宮沢賢治 「新編 銀河鉄道の夜読了

まあ、日本人なら一度は読んでおかなければならない作品のひとつなのではないだろうか。遅まきながら読んでみたのであるけれども、僕の心はすでに枯れきって荒廃しすぎているようだ。宮沢賢治からのメッセージを受け取ることができない。
新潮文庫の宮沢賢治の作品群はあと2冊あるのだが、僕にはそれを読む資格がなさそうだ・・・。
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「縄文人に相談だ」読了

2018年11月16日 | 2018読書
望月昭秀 「縄文人に相談だ」読了

縄文ZINE」という縄文時代萌えの人たちが読むフリーペーパーがあるそうだが、その編集者が縄文人になりきって(というか、縄文人なのだ・・・?)現代人の悩みに答えるというものだ。
まったくサブカル的な内容で、縄文時代を科学的に解説しているとかそんなものではない。きっと縄文人ならこんな回答をするんだろうなということを脱力気味に書いている。

縄文時代の考え方というのは、「すべては神の元に帰ってゆく。」ということが基本になっていて、その神のいる場所というのが集落の背後に広がる森だったのだ。アイヌの世界にも、殺したヒグマの命を神の世界に送り返す「イオマンテ」という儀式があるけれどもこれも同じ考えからおこなわれていた。森は生きてゆくための糧を恵んでくれるところであり、神秘の場所でもあったのだ。
貝塚というところはゴミ捨て場であると同時に、すべてのものを神の元に帰らせる場でもあった。
そして、「縄文ユートピア説」というものがあるそうだ。縄文時代というのは実に1万年も続いた時代で、その間、人々の間には大きな争いごと(戦争のようなもの)はほとんどなかったと言われている。発掘される人骨に戦いで傷がついたものが見つからないということが根拠になっているそうで、加えて、発掘される縄文式土器の豊かな芸術性はやはり平和な環境がなければ生まれなかったのではないかということが根拠になっている。

1万年も同じ体制が保たれたということはそれだけ安定した社会であったとも言える。
こういう、平和を愛する縄文人が現代人のモヤモヤ、ドロドロした悩みにスパッと答えを出す。最後の決め台詞が、「貝塚へ送っちゃいましょう~!。」なのである。

アドラーが言うように、人間の悩みは100%人間関係であるというとおり、この本に出てくる悩みも食べ過ぎる、飲みすぎなどという生理的な悩み以外は何らかの人間関係が起因している。
それに対する縄文人の回答は、そんなことで悩む必要はないんではないでしょうか。だから貝塚に捨ててしまいましょう。というようなものになっている。

縄文人の平均寿命はわずか14.6歳だという研究があるそうで、これは乳幼児の死亡率が途方もなく高かったということに起因するが、この平均寿命を行き抜けたとしても男女ともその後は15、6年しか生きることができなかったらしい。
ユートピアとはいえ、とにかく命をつなぐことに必死な社会では人間関係に悩んでいる暇はなかったのではなかったか。それを悩みが少なくて幸せであったと評価することができるかどうかというのは疑問であるけれども、その後、弥生時代に入り、稲作と同時に土地所有がはじまり階層、貧富、財産、資源の奪い合いなどという、多分、現代でもでも人々の悩みのタネになっていそうなことが生まれてきた。
人は長い寿命を手に入れたけれどもそれと引き換えにもっと大切なものを失った。それはきっと間違いがないのだと思う。

縄文人の著者は、弥生時代のことを快く思っていないようで、ところどころで「弥生死ね。」「稲作死ね。」とか言ってディするわけだけれども、それをなんとなく理解できてしまうというのは、僕はひょっとして縄文人だからなのだろうか・・・

そして気になるのは縄文人は魚を釣っていたか。
これは以前に読んだ「釣針」という本の内容であるが、これは間違いなく釣りをしていたそうだ。“縄文”というくらいだからハリス代わりの紐もあっただろうし、釣り針は獣の骨を加工していたそうだ。
主な獲物はチヌやスズキだったそうだそれも小型が多かったとか。やはり紐の強度に問題があったのだろうか。それともわざわざ磯に乗らなくても手軽に足元で釣れるからそれでよかったのだろうか。考えてみると、今の釣り人のように目を血走らせてガツガツする必要もなかったのかもしれない。
そう考えるとやっぱり僕は縄文人だ・・。
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