イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

「魚と日本人―食と職の経済学」読了

2018年09月30日 | 2018読書
濱田武士 「魚と日本人―食と職の経済学」読了

この本は食材としての魚が日本の中でどのような状況になっているかということを、消費者、流通過程、生産者の三つの視点から分析をしている。

2000年以降、魚介類の国民一人当たりの年間供給量というのは急激に減少しているそうだ。乳製品や肉類以外の食材もやはり減少傾向なので魚だけが敬遠されているというわけではないそうだが、魚介類について著者は、その消費の減少の理由を、都市の空洞化と景気の後退による接待需要の減少というふたつの要因に求めている。
しかし、日本人は食がどんどん細っていたとは驚きだ。けっこう太った人をよく見るのだが、それはけっこう絶滅危惧種だったりするのだろうか・・・?

かつて、駅前や都市の中心には商店街があり、魚屋にかぎらず青果も肉も個人商店が販売していた。しかし、郊外に大きなスーパーやショッピングセンターができると商店街は衰退し、また、景気の後退で接待で使われていた料亭が少なくなり、そこに魚を納めていた業者は商店街の個人商店が多かったことからそれに拍車がかかった。
商店街の魚屋では消費者は店主とのやりとりで魚の調理の仕方やあまり見たことのない魚にもなじむことができたけれども、郊外のスーパーでは販売効率が優先されるので多種多様な魚を取り扱うことがなくなった。お肉なんかよりももっと素材や調理に関する知識が必要なのが魚ということだろう。

そんな状況は当然流通にも影響を及ぼす。本来、魚の流通というのは、卸売市場で仲買業者が競り落とした鮮魚が小売店へと流れていくというのが決まりとなっているのだが、ここでも効率と原価が優先され、仲買業者に行く前に荷受業者は直接大規模小売店へ魚をおろしてしまう。2013年ではセリを通して売買される魚介類は全体の30%しかないそうだ。冷凍で商品を流通させるコールドチェーンもそれに一役買い、そして商店街の魚屋は価格競争にも敗れてゆくという図式だ。

しかし、今では店主に料理法を聞かなくてもククッパッドを検索すればいくらでも調理法は見つかる。だから魚の消費が減った理由というのはもっと別にあるのではないかと僕は思うのだ。これは消費者の手先の不器用さと、もともとの人間の味覚に魚が負けてしまったのではないかと。

人間の脳をいちばん刺激して味覚をさせるのは脂質だそうだ。肉が高価なら魚もと思うかもしれないが、肉が安く手に入るこの時代、脂肪分の多い肉のほうが人間にとってはやっぱり美味しい。この歳になると肉は体にもたれるなんて思うこともあるけれども、それは人より魚を食っているからであって、ずっと肉を食べなれている人たちはそんなことを思わないのであろう。僕も多分、自分で魚を釣ってこなければ魚をこんなに食べなかったと思うのだ。
そして、今、どれくらいの人たちが一匹丸まるの魚を捌けるだろうか。そして食べる側も骨をより分けてうまく食べることができると自信をもって言える人はどれだけいるだろうか。
まず、出刃包丁を持っている人がいない。うちの奥さんの実家にも出刃包丁がなく、ぼくの奥さんの嫁入り荷物の中にもそれはなかった。多分これが標準的な家庭の台所になっているのだろうし、箸を上手に使える子供も少ないのではないだろうか。
そしてまた、魚は値段が高い。品質と鮮度がよいものはなおさらだ。うちの奥さんも言うけれども、魚を買うなら肉を買った方が安いというのが今の食品スーパーの現実なのだ。

しかし、自分で料理をせずに出来合いの者ばかりを食べるというのはなんだか人間が家畜化しているようで恐ろしい。香取君が「これがおふくろの味だ!」と喜んでいる次のシーンがセ〇ンイレブンでパック入りの総菜を買っているおふくろさんだったという落ちのコマーシャルなんかが成立するのがふつうであるということが恐ろしい。

生産者、獲る側の人たちの現在はどうであろうか。漁師の人口が減少するなかで、漁協のありかた、新規参入そして僕たちのような一般の釣り人との関係についてはそれぞれの立場や言い分があると思うのだが、それは次の機会に・・・。
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「『洋酒天国』とその時代」読了

2018年09月25日 | 2018読書
小玉武 「『洋酒天国』とその時代」読了

著者の「洋酒天国」をめぐる著作はいくつか読んでいたのだが、こんなタイトルの本もあった。

今回、師は脇役に回って洋酒天国が発行されていた時代の文壇、そしてかなり範囲は狭いけれども酒場をめぐるその頃の時代の匂いのようなものをまとめている。
どちらかというと、こっちの本に内容が近い。確かに内容がだぶっている部分もあったような感じだ。

洋酒天国は、昭和31年4月10日に第1号が発刊され、昭和38年1月31日の第56号で終了した。時代は戦後の復興期から抜け出して高度経済成長期を迎える助走段階の時代とでもいえる時代であった。
酒場の歴史では、大正から昭和の戦前の頃は大正モダンと言われたように、バーというと有産の知識層だけが出入りできる場所であったけれども、庶民が戦後、カストリやバクダンというような野蛮?な酒を飲んでいた時代を経てその庶民が有産知識階級を追いかけ始めた時代である。そしてトリスバーがその受け皿になった。酒場だけでなく、生活のすべてで一ランク上の生活を目指していた時代である。未来には必ず一ランク上の世界が待っている。そんな希望に満ちた時代でもあった。

そして、一般の人々が同じ方向を向いて進んでいたというのがこの時代であったのだろう。読む本も、聴く歌も、酒場での話題も同じような内容があちこちで語られた。逆を返すとそれだけ選択肢が少なく、そしてみんながそういうものに飢えていた。だから同じものを追い求めることが当たり前で、それで十分満足ができた。そして、共通の話題を持っていられるということはきっと集団の中での安心感につながっていたのではないだろうか。
洋酒天国という雑誌はそんなスタンダードを人々に知らしめたメディアのひとつであった。

それと比較すると今は情報がありすぎる。多すぎて何を求めればいいのかわからない。そしてその情報もすぐに使い捨てられ留まることがない。共有できるものが少なくなり孤立してゆく。まさしく混沌とした世界だ。
さて、人としてどちらが幸せであるのか。みんな同じだけれどもまだまだ上を目指すことができる。何でも求めることができるけれども下手をするとその波に押し流されてしまうかもしれない。(お金がなければそれさえもできない。)そして僕もそんな世界の中に溺れている。


ものすごく消極的に思われるかもしれないけれども、少し足らないくらいの状態で上を向いていられる方がよほど心の状態としてはいいのではないのだろうかと、この本の内容とはまったく関係がないことを思いながら読んでいた。
師の言葉に、「知ることの苦しみ」というものがあるけれども、多分そういうことを指しているのだろうとつくづく思うのである。

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水軒沖釣行

2018年09月24日 | 2018釣り
場所:水軒沖
条件:大潮 5:35満潮
釣果:タチウオ 21匹

先週は洲本沖まで出ていたので今日は近場で済まそうとまたまた水軒沖でタチウオだ。
朝、港に到着するとタチウオ名人の“ゆういっちゃん”さんもタチウオ狙いで出るそうだ。しかし、小さいで~とのこと、まあ、なんでも釣れれればいい。それに、今日の獲物は燻製にしてみようと思っている。あまり大きいやつよりも小さいくらいの方がちょうどいい。

出港は午前5時。東の空がわずかに明るくなってきていた。
一文字の切れ目からスタートするとすぐにアタリがあった。その後、新々波止と沖の一文字の交差点まで移動するとそこでアタリが出てきた。しかしながらゆういっちゃんの言うとおり、型は小さい。指2.5本までというところだろうか。4本ほどの大きさのものは1本だけだ。
よく釣れる日はお日様が昇ってきてもアタリは続くが今日は最初のアタリがあってから45分でアタリがなくなってしまった。それでは少し濁りのある湾内ではどうかと移動して3匹追加。



家に帰って燻製の仕込み。さて、今回のお味はどうであろうか・・・。


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高野山は雨の日もいい。

2018年09月20日 | Weblog
いよいよ僕の愛車、イレグイ号(ナンバーが1091なのでイレグイ号です。)ともあとひと月でお別れだ。走り納めということで高野山を目指した。



一昨年、紅葉の時期、早朝に訪れたところ、人が少なくまことに心地よかったので今回も早朝出発した。普通ならそんなに朝早く起きて疲れないの?と言われるところだが、釣りに行くのと変わらないのでぼくにとってはなんともないのである。

昨日の天気予報ではお昼前まではなんとか天気は持ちそうな感じだったが、朝起きたころから雨が降り始めた。まあ、仕方がない。予定通り出発だ。
大門前に午前6時過ぎに到着。気温は15.5℃。半そででも大丈夫だろうと高を括っていたけれどもかなり寒い。



紅葉にはまだまだ早いし、早朝、この雨と肌寒さも手伝ってほとんど人がいない。奥の院も壇上伽藍もこんな感じである。

  

奥の院では朝の勤行がおこなわれていたのだが、聞いている人数はわずか10人ほど。日本人は僕だけと思われる。目をつぶって聞いていると宇宙のどこかに浮かんでいるような感覚になってくる。
そして金堂も根本大塔も拝観しているのは僕だけだ。なんと贅沢なことだろう。

外に出てみると苔むした石塔は雨に濡れてその荘厳さを増している。

 

勿体ないことに、先の台風でここも被害をたくさんの被害を受けたようだ。いたるところでその石塔が倒木で倒されている。

  

早く元通りに戻ることを願いたいものだ。


この秋の霊宝館の展示テーマは、「もののふ」だ。



奥の院への参道には戦国の名だたる武将や大名の墓標が並んでいる。

 

高野山の各寺院は大名たちと師檀契約というものを結び供養をする代わりに寺領の安堵を得ていたそうだ。だから敵も味方もみんな一堂に会しているのだ。しかしながら高野山というところはこれだけの人々を引きつけたというのはやはり空海の魅力がそれほど大きかったのだということだからすごいものだ。
そして今回はお市の方の肖像のオリジナルが展示されていた。いつもはレプリカが展示されているけれどもテーマに合わせてオリジナルがでてきたようだ。もちろん、レプリカと本物の区別がつくほどの眼力は無いのであるけれどもまあ、それが本物であると思うだけで目の前にして緊張する。
いいものを見ることができた。

霊宝館の庭は紅葉の頃になると今はこんな感じだがことのほかきれいな景色になる。紅葉の季節まで車が持たなかったことが悲しい・・・。



今度の車はかなり非力なので高野山まで上ってくることができるのだろうか・・・。それが心配だ・・・。













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洲本沖~加太沖釣行

2018年09月17日 | 2018釣り
場所:洲本沖~加太沖
条件:小潮 5:29干潮 13:17満潮
潮流:5:33 下り 2.3ノット最強 8:58転流 12:46上り2.6ノット最強
釣果:タチウオ (ベルトサイズ含めて) 6匹 真鯛(カスゴ含む) 3匹

9月も半ばになってきて洲本沖のタチウオが気になりだしてきた。
台風の名残の流木がまだまだ気になるけれども、今日は小潮の回りで気圧配置もなんとか行けそうな感じである。念のため午前5時まで待って出港した。港内は何てことはなかったけれども、一文字の切れ目を越えるとかなりうねりがある。これは台風22号の影響なのだろうか。そして風も北西だ。徳島に向かうフェリーもピッチングを繰り返している。



少し不安だが、出てきてしまったものは仕方がない。紀淡海峡を渡ることができなければ加太で釣りをすればよい。
田倉崎を越えてもうねりは続いているのだが、西の回廊を越えるとうねりは小さくなり鏡のような海面が広がっていた。



いつも水しぶきをかぶる本線航路も難なく突破しいつものポイントへ到着。
しかしながら、連休の最終日とはいえ、ほとんど船がいない。



そして嫌な予感は見事に的中してしまった。アタリがない。たまにアタってもすぐに放してしまう。海水は見た目少し濁っているようで、これが原因なのだろうか。なんとか小さなアタリを取りながら3時間半で6匹。なんとも効率が悪いが仕方がない。予定では午前9時までに10匹釣って上り潮でテッパンポイントを攻めて真鯛ゲットというストーリーを組み立てていたのだが見事に崩れ去った。
そのまま洲本沖でエサが無くなるまで粘るという考えもあったけれども、午前10時頃からかなり北風が強くなってきた。しぶきを浴びながら紀淡海峡を戻るのもつらいのでその前に友ヶ島まで後退。
中の回廊を通ってテッパンポイントまで行こうとしたのだが、西の回廊、コイズキからコマサキにかけて船団ができている。ここは下り潮の方がいいと思うのだが、そこは郷に入っては郷に従え、僕も参戦してみた。
今日も禁断のタイラバだ。そして、なんと一巻き目からアタリが出てしまった。30センチを少し超えたくらいの真鯛だ。恐るべしシマノのイカタコカーリー。
それから1時間、小さいながら3匹を釣り上げ巨大な豪華客船を見送ったころを区切りに終了。




今日の獲物は酒蒸しにしてみた。中華料理では「清蒸(チンジョン)」という。師はキャッチアンドリリースの人であったが、たまに自ら釣り上げた獲物を食するときは一度は必ずこの方法で料理をさせたそうだ。



臭み消しのショウガとネギだけのシンプルな調理法は確かに魚の本来の味がよくわかる。昔はよくチヌを使って作ったものだが、チヌは喉の奥を刺激する臭みが気になったけれども真鯛はそれがまったくない。
フライパンに入るサイズの真鯛が釣れた時はこれはいいかもしれない。







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水軒沖釣行

2018年09月14日 | 2018釣り
場所:水軒沖
条件:中潮 2:49干潮 9:07満潮
釣果:タチウオ 17匹

台風が過ぎ去って1週間余り、夕べの天気予報は夜明け前から雨であったが念のため午前4時に起床。僕の思いが通じたのか、雨は降っていない。気象庁の短時間予報ではタチウオを釣っている間はなんとか持つようだ。
急いで準備をして海の様子と船の状態を確かめるべく近場でタチウオ狙いとした。

漂流物が怖いので少し明るくなってからの出船だ。今日は魚を釣るというよりも調査なのである。しかしながらそんな無欲の境地がよかったのか、沖の一文字の切れ目を越えたあたりから仕掛けを流し始めるとすぐにアタリがあった。
型はかなり小さいが次々とアタってくる。
海面を観察してみると、切れ目の北側には少し透明な水、南側には濁った水があるのだが、その濁った水と少しきれいな水の境目でアタリが出ているようだ。それがわかればその海域を行ったり来たりしてアタリを稼ぐことができる。
惜しむらくはもう少し大きな魚がほしい。
そして水が濁っているからなのか、雲が多いからなのか、相当明るくなってもアタリが続く。結局午前6時半ごろまで約1時間釣り続けることができた。


港に帰って小船のエンジンを始動させてみた。しかし、残念ながら死んでいた。チルトが動いたので大丈夫だと思ったのだが、セルは回れどエンジンがかからない。もうお手上げだ。すぐに池〇マリンの兄ちゃんに電話をして助けを願った。
台風の被害はどこも多いらしく、当分診てもらうことはできそうにないそうだ。池〇マリンのボート置き場にはガンネルが破損したボートが3艘陸揚げされていた。そういうのを見ているとまだ浮かんでいてくれたというのだけでもありがたいと思わなければならないのだと思うのだ。なにせ、今回の台風は法然上人でも善導大師でも防ぐことができなかったのだから仕方がない。




それから家に帰って壊れてしまった風防の修理。今日は風防のないまま丸腰での出撃であったのだ・・。



いろいろなところに問い合わせて、割れてしまった風防と同じものを作ってもらおうとしたのだが、見積もりが思っていたよりも高かったり、同じく台風で営業ができなくなっていたりで自分の伝手で頼めるところが無くなり八方塞がりになってしまった。だから修理というか、当面のつなぎとして、つぎはぎの応急処置でしのごうと考えたのだ。




結局、細かな細工は自分ですることにして大まかなサイズの板をネットショップで注文してみた。バビル2世も、最初に乗っていた“バビル2世号”(ネーミングが安直だ・・)はかっこよかったが、壊れてしまって自己復元したあとの“バビルカー”はなんだかショボかった。災いのあとに復元されたものはその前よりもショボくなるというのは必然なのかもしれない・・・。



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「神吉拓郎傑作選2 食と暮らし編」読了

2018年09月13日 | 2018読書
神吉拓郎/著、大竹 聡/編 「神吉拓郎傑作選2 食と暮らし編」読了

神吉拓郎の2冊目。今回はエッセイ集だ。日々の何ともない生活の一端をやはり軽やかな筆致で切り取っている。
う~ん、と唸るようなところもないけれども、う~ん、これは・・・と思うところもない。やっぱり通勤電車の中で読む本としては一級品のような気がする。
まあ、解説を書いている編者の余りの持ち上げようはちょっと大げさすぎやしないかとも思うのであるが・・。


著者の趣味のひとつは魚釣りであったそうだ。作家として認められた作品は、「ブラックバス」という短編(「1」の方に収めれていた。)であったそうだが、これも叔父さんからブラックバスのルアー釣りの手ほどきを受けるというような内容であった。この本にも、「釣りの記憶は、年を経ても、いつもなまなましい。」という一節が出てくる。ぐいぐいと手元にくる感触や魚体が水の中でギラリと反転する姿を昨日のことのようにはっきり覚えているというのだ。
僕がいうのはおこがましいことだが、この人も魚釣りをよく知っている。
だからよけいに共感できるのかもしれない。


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「ウルトラセブンの帰還」読了

2018年09月10日 | 2018読書
白石雅彦 「ウルトラセブンの帰還」読了


ウルトラマンシリーズの中でもウルトラセブンは独特な雰囲気を持っている。
と、言いながら、放送されたのは1967年10月からということだから、僕は3歳半、リアルタイムで見ていたとしてもほとんど記憶が無く、多分再放送では何回も見ているのだろうけれどもよく考えたら、すべての放送をきちんと見てはいないのだと思う。
だから、独特な雰囲気を持っているというのもどこかからの受け売りであるのだが、そんな断片的な記憶からでも番組の感じとしてはその後に続くウルトラマンシリーズよりもあっけらかんとした明るさがなくて重奏低音としてはなにか重苦しい感じが漂っているように思う。

この本はそんな雰囲気がどうやって創り出されてきたのかを制作に携わった人たちが残した記録を分析して書かれている。

有名な話では、脚本家の中のふたり(金城哲夫、上原正三)は沖縄県の出身なので米軍による占領やベトナム戦争、冷戦、本土からの偏見などがベースになってメッセージ性が他の作品よりも強くなったという説があるけれども、それに加えて予算のやりくりやテレビ局や円谷プロの中のゴタゴタ、視聴率の低下等々、様々な要因が重なってウルトラセブンはあのような作品になっていったとうことが書かれている。

もともとウルトラマンよりも視聴者のターゲットの年齢を高めようという意図で始まったそうだが、それでも子供向けのテレビ番組だ。しかし、そこに携わった人々は子供だまし程度で作ろうという妥協はなく、脚本は何回も書き直され、せっかく作ったストーリーも相当な数がボツになったりしている。
脚本家、演出家、美術の担当の人々がそれぞれにこだわり抜いてこういう作品が出来上がってきたというのだから、50年経っても人々から支持を受けるというのもうなずける。

脚本に携わった人たちは本当にウルトラセブンを通して何かを訴えたかったのかどうかはわからないが、今の時代、たとえ子供向け番組であれ、政治的なメッセージを盛り込もうなどとしようとすることはきっと不可能で、最近ではもっぱら友情と勇気だけがテーマだそうだ。
これはこれで面白いのだろうけれども、たとえ特撮がおもちゃ丸出しでもこの時代のヒーロー物のほうが断然面白いと思うのは歳のせいなのだろうか。
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「コンクリートの文明誌」読了

2018年09月08日 | 2018読書
この家を父親が建てた時、ブロック塀の基礎だけは無理というので作ってもらったが、そのほかは庭や外壁を庭師や左官屋に頼まずに自分で仕上げた。当時、中学校に入ったばかりの僕も駆り出されて庭の土を掘ったりモルタルを練ったりした。その頃はモルタルが乾くと固まるのだと思っていたが、後になって水と化学反応をして固まるのだということを知った。そしてもっと後、古代ローマのコロッセオはコンクリートでできていると知った。なんと不思議な物質だろうか・・・。



コロッセオは西暦が始まって100年も経っていない頃建設されたそうだが、2000年前にコンクリートが存在したということを知ったときにはウソだろうという驚きがあった。火山灰と石灰と水を混ぜる古代のモルタルはもっとさかのぼり、古代ギリシャの時代に発明されていたそうだ。人間というのはなんとすごいのだろう。そして、古代ローマ時代の大型の建築物はほとんどがコンクリートでできていて、港までも作られたというのだから、古代ローマの繁栄はコンクリートの賜物であると言ってもいい。そして、こんなに美しいドームまで創り出すまでになった。



しかし、このコンクリート、それから後1800年間は世界の建築史の表舞台から消えてしまう。中世ヨーロッパの建築物は石造りのものが主流になってモルタルが接着剤代わりに使われた程度だったそうだ。

そして、西暦1700年の半ば、イギリスで再び日の目を見ることになる。スミートンという建築家が建設したエディストーン灯台にモルタルが使われた。



その後1800年代の前半、鉄筋コンクリートが実用化される。ドイツの帝国議事堂の床に使用された。



石造りの建物は火災に強そうだが、床材や屋根というのは木材が使われるので意外と火に弱い。それを解消するために鉄筋コンクリートが採用された。そして、鉄筋コンクリートのルーツというのは意外にも植木鉢だったそうだ。フランスの庭師ジョセフ・モエニが木で作る植木鉢は腐りやすいのでコンクリートに心材を埋め込んで作られた植木鉢を発明した。しかし、フランスではそれほど注目されることがなく、ドイツ人の技術者、マティアス・ケーネン、グスタフ・ヴァイアスの二人が建築物への応用を考えた。それがドイツの帝国議事堂であった。フランス人が考えた工法だが、実際に巨大な建造物に応用したのがドイツ人であったため、フランス人は後世まで恨み節を重ねていたそうだ。
この議事堂は1933年に火災に遭ったけれどもその強固さが示され、ヒットラーの肝いりでアウトバーンの建設へとつながる。アメリカではフーバーダムの建設が始まり鉄筋コンクリートは社会インフラ整備の中心となってゆく。

日本でも少し遅れてコンクリートの建造物が造られてゆくことになるのだが、ここからは著者の愚痴が目立ち始める。多分、著者はこの愚痴というか、批判めいたことを書きたいためにこの本を書いたように思えてくる。だから、「文明史」ではなくて「文明誌」になっているのだとあらためてタイトルを見直して納得した。

日本のコンクリートの黎明期、技術者は橋梁や百貨店の建物に歴史的に見てもエポック的なものを残し、その技術は戦時中の船舶の建造にまで及ぶことになるのだけれども、戦後、行動経済成長期を迎えると、品質、美しさに欠けるものばかりを造るようになってしまったと嘆く。高速道路や新幹線の高架からはコンクリート片が剥落し、集合住宅は水漏れを起こす。
しかし、戦争末期、いくら鉄が不足しているからといっても、コンクリートで船を造ろうと考える人がいたというのには驚いた。この船は今では広島県で防波堤として役目を果たしているそうだ。



多分、それの延長線上に高級なマリーナに使われているような重厚な桟橋があるのだろう。あれもコンクリートでできていると聞いて驚いたものだ。

そしてそれら日本の近代コンクリート建造物は自然との調和を無視した画一的で無粋なデザインであるとこき下ろす。
だから土木工学者は土建屋と呼ばれ他の科学者よりも数段低く見られているのだと嘆くのである。
著者自身も土木工学者ではあるのだけれども、その責任の一端を感じながらその黎明期の学者たちのプライドと責任感を思い起こせと締めくくっているのだが、まあ、どこの世界でも似たり寄ったりなのだなと僕もわが業界を憂うのである。
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台風21号の恐怖 2018年

2018年09月07日 | Weblog
台風21号が通り過ぎた。このブログを読んでいただいている方々のお宅は大丈夫だっただろうか。記憶があるかぎりでは間違いなく僕の人生の中では最悪の台風ではなかっただろうか。
ちなみに、去年の台風21号の時には会社から家に帰れないという憂き目に遭っている。21番は危険な番号だ・・・。

9月4日は社会人になってはじめて会社が休業した。朝のうちは風も波も穏やかで三輪車を転がしていても普通に通行ができたのであるが、



午前10時を回ったくらいからだろうか、にわかに風が強くなってきた。その後は近所の瓦が割れる音がするし、隣の家のカーポートのポリカ板がこっちに飛んでくるし、どこまで風が強くなるのだろうかといつもの台風を楽しもうとしていた気持ちが罪悪感に変わってしまった。
テレビでは関西空港の滑走路が海水に浸かってしまったというニュースが流れている。これを見て、ああ、僕の船もどうかなってしまったに違いないと諦めと落胆の境地に陥ってしまった。そしてその報道を最後に完全な停電となってしまった。
IP電話はつながらないし、ネットにもアクセスできないので世の中がどうなってしまったのかがわからない。

夜はキャンプ用のランタンを持ち出しての夕食になった。



こんな経験も初めてだ。わびしい・・。そして水とガスが使えても給湯器は電気で動くのでお風呂に入れない。まだそんなに寒くないからええい!と水風呂で我慢した。

時間を3時間ほどさかのぼって、風が少し弱まってきた頃を見計らってとりあえず港へ急いだ。道中は停電でほぼすべての信号が消灯している。こんな光景を見たのも初めてだ。



港の入り口は巨大な松の木が覆いかぶさり車が入れない。歩いて入ってゆくと真っ先に目に入ってきたのが小船の舳先が異様に浮き上がっている姿だった。



何か異変が起きているに違いない。朝、「もう少し碇のロープを絞っておいた方がええで。」という同級生の渡船屋の言葉に従ったのが裏目に出たようだ。後部のスカッパーの中が浸水している。中に入っていたバッテリーと燃料タンクが被害に遭ってしまった。そしてイカを釣ったときに生かしておくゴミ箱も消えてしまっていた。重し代わりに中に突っ込んでおいた碇はロープをつないでいたので海底から回収することができたが、生簀の蓋を押さえようとして置いていたもうひとつの碇はどこかへ消えてしまった。風で飛ばされるようなしろものではなく、多分海水が入り込んで持ち去ったと思うのだが、一体どんな状況だったのだか想像がつかない。

大きいほうの船はエンジン場の上のシールドが割れてしまっていた。これも強風に耐えられなかったようだ。

 

巻きぞえを心配していた隣の船も浮いていたが、これは普通に浮いていたのではなく、前の夜中、反対隣のNさんが僕の船に舳先を突っ込んできていたこの船を見てロープを反対隣のおじいやんズの船にかけてくれたそうだ。(これはこれでちょっと危険だったかもしれないが・・)そそして、高波の最中見回りに来ていた同級生の渡船屋が護岸に半分乗り上げていたこの船を2回も水の中に押し戻してくれたそうだ。もうおじいやんズの船もヒデヨシさん(というらしい)の船もなんとかしてくれ・・・。そしてなにかと気をつけて見ていてくれた二人には感謝だ。

ということでなんとか船は浮かんでいてくれたけれども、この港のなかで物的被害をこうむったのは3隻で、うち2隻が僕の船ということになってしまった。なんとも悲しい結末である。

翌日、家の周りを点検すると我が家からも瓦が落ちていた。1階の屋根は塀に上ったりして見て回るが異常がない。大屋根だとまったくわからない。停電もしているし、修理の依頼もしなければならないという理由を作って翌日も休みを取った。あとからネットで調べると、朝からJRも南海も動いていなかったようで最初から出勤はできなかったようだ。
ただ、わが社の規定ではこういう場合、最寄の出社可能な場所に出向き、指示を待つことになっているのだが、指示を待つっていっても職場ははるか70キロ先だし、最寄の場所といってもそこにもちゃんと別の職員はいるわけで、これが地震だと後片付けを手伝うとかなんとかあるけれどもこの規定もいったいどんな意味があるのだろうかと思うのだ。しかし、こんなとき、規定に従えるほどの忠誠心がなければ上には認めてもらえないというのも一方の事実ではある・・・。


家の段取りもそこそこに港に出向き後始末だ。水没したタンクを真水で洗い、スカッパの中を真水で拭いて、2隻の碇のロープを調整する。高潮でかなり引かれているので入れなおしてやりたいと思い、渡船屋のモトヒロ君に手伝ってもらって引き上げようとしたが、これが重い。相当大きな碇と加えて大きな鎖が付いている。鎖までは手にかけたがそれ以上なんとも動かない。男ふたりで引き上げを試みたが無理。まあ、これだけ重かったらそのまま使っといてもいいのではないかということになってロープを結わえる場所だけを調整して終わり。小船もしかりで少しロープを引っ張って終了。(この場所を出て行った人の碇をそのまま使っているので僕も実態を知らないのだ。)

残った時間は渡船屋の手伝いでゴミ拾いや碇の引き上げ作業だ。スロープに置いていた小船も流され回収に向かった。
高潮は異常で、この駐車場全体が水に浸かってしまったようだ。草はなぎ倒され、ゴミは養翠園の塀の際まで押し流されている。



そして渡船の碇も大きいが人の手でなんとか引き上げることができるということは僕のほうの碇はいったいどんなものが使われているのだろうか・・。
桟橋への係留用に置いている何トンあるのかわからないコンクリートの塊も渡船の舳先に押されて移動し、ステンレスで作ったやぐらもどこかに消えていたが、そこは水軒のおいやんのネットワークだ。どこからともなくユンボがやってきてコンクリートの塊の位置を元に戻し、海水の中から偶然見つけたやぐらを引き上げた。しかし、この、ユンボというやつの能力の凄さには感心してしまった。



普通のサラリーマンにはできない芸当だ。だから僕は“水軒のおいやん”たちにあこがれるのである。

帰宅してお湯の出ない風呂場で水浴びをしていると突然電気が点いた。この時ほど喜びを感じたのはいったいいつのこと以来だったのだろうか。電気のありがたみをしみじみ感じたのであった。

ということで、台風の後始末はまだまだ続きそうである。釣りを再開できるのはいつのことになるのやら・・・。
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