イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

この1年を振り返る

2024年12月31日 | Weblog
今年も残りあとわずか。この1年を振り返る。
年末には「今年の漢字」というのが発表されるが、僕もそれに倣ってみると、きっと、「負」という漢字がふさわしいだろう。
意味はいろいろある。まあ、釣りは負けばかりだし、値上げの波はお金の“負”担につながってしまう。定年退職してその後はゆったりした生活が送れるのかと思いきや何の変化もなく、将来の不安に対してもなんの改善もなく、魚釣りだけでなく人生でも負けている。
加太の海はこれまでもそうだったが、いろいろな場面で禁止、禁止という声が聞こえてくる。これには何をやっても勝てるわけがない。
新たな楽しみとなった住金一文字も立ち入り禁止の沙汰が下ってしまった。



だから「負」なのだ。自業自得というのもあるが、外部環境が勝手に変わってしまって負けにつながっていく。もう、どうしようもない。耐えるしかない。でも耐えられない。
お金の問題はまだまだ続きそうだ。来年3月で軽油の免税措置がなくなってしまう。これは最も痛い仕打ちだし、年末に注文したスパンカーの価格は前回購入した時の倍以上の値段になっていた。通常のメンテナンスに使う消耗品や機材の値段もどんどん上がっている。なんでもいいから逃げ切れればよいと考えていたけれどもそんなことは甘かった。

さて、今年の釣りを振り返ってみると、今年も釣れるはずの魚が釣れなくなってしまった。チョクリのマルアジとゴマサバはとうとう1匹も釣れなかった。



キスもまったく振るわなかったしタチウオも絶好調というには程遠かった。頼みのコウイカもほぼ壊滅状態だ。

 

暑い1年であったということが大きいのだろうが、もうこれがスタンダードになっていくのではないかと思うと恐ろしくなる。「年年歳歳花相変わらず」というのが自然界の基本形だと信じ込んでいたがそんなものは10年もしないうちに崩れていってしまうのだということを今、実感している。
釣れなくなった魚の影でなぜか釣れている魚もあった。アマダイはもうだめなんじゃないかと思っていたら以外にも今年は6回も釣行していた。



禁断の魚は突然現れて突然去っていった。これなんかは高水温の賜物だったのだろう。しかし、禁断の魚は持って帰って食べてはいけない魚だ。そういうのが釣れても困るのである。

なんとか一矢報いたのは12月に入ってからの真鯛だろうか。新しく導入したシルバーのビニールが威力を発揮した。



大晦日の最後の釣行はコウイカが1匹だけであったが、去年の大晦日はボウズであった。魚釣りの世界ではボウズと1匹では天と地の差がある。これが幸運なのかたった1匹なのかはわからないが、少しでも希望をつないだということにしておこう。

今年も最後は形ばかりだが手作りの松飾りを取り付けてすべての行事の終了とした。

 
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凍れる音楽を聴きに行く

2024年11月23日 | Weblog
ずっと行きたいと思っていた薬師寺に行ってきた。和辻哲郎が「凍れる音楽」と評したこの寺院は死ぬ前に必ず行っておきたい場所であった。来年度には拝観料が値上げされるらしくチャンスは今年しかない。
先週の連休中に行ければと思っていたが元々が半径15キロから出られない性格なのとすこぶる天気がよかったので釣りに行ってしまった。
そして次の週末の今日、加太は快調らしいというけれども風が吹いている。これはきっと神様(この場合は仏様か・・)が薬師寺に行けとおっしゃっているのだろうと思い地元の駅の始発電車に乗って奈良に向かった。しかし、神様(この場合は仏様)が誘ってくれたわりにはいきなりのトラブル続きであった。
最初のトラブルは電車が止まったということだ。日根野駅の手前にやってきた頃、その先の踏み切りで遮断機が折られておまけに前を走っている車両の緊急停車した場所が送電線の境目だったので動けないという。



これで天王寺駅に到着したのが20分遅れになってしまい乗り換え予定の電車に乗りそこなってしまった。その次のトラブルはJR郡山駅から薬師寺に向かって歩く方向を間違ってしまった。方向音痴は昔からのことだが、地図を印刷して持っていったもののいざ駅に降り立つとどっちの方に行っていいのかがまったくわからない。北に向かわねばならないはずなのだが、向かった先に太陽が見えたのでこれは絶対に間違っていると駅に戻って駅員さんにルートを聞くとどうも車で行くルートを教えてくれたようで相当遠回りになってしまった。



これでは自分で印刷した地図はまったく意味がなかったじゃないかと悔しい思いをしたのだが、途中でもう一度その地図を見直してルートを修正。予定よりも35分遅れの午前9時35分に西塔の相輪が見えてきた。もう、この時にはホッとして力が抜けてしまった・・。



その後は普通に拝観。東塔だけが1300年前の創建当時から残っている建造物だが、その圧倒的な存在感と美しさは今まで訪ねた寺院の建造物と桁が違う印象を受けた。



近づけば近づくほど自分に迫ってくる迫力がある。西塔は1981年に再建されたもので同じデザインだけれどもそういった迫力が感じられない。僕には凍れる音楽というよりも壮大なシンフォニーに感じられた。



う~ん、これが1300年の重みなのだろうかと改めて感じ入る。築43年というと民家でいうなら相当古いという評価になるけれども、1300年に比べるとまだまだ若造なのである。
我が家の築年数ももうすぐ50年になり、今の会社が無料でやってくれた耐震診断ではそうとう危険という評価であったが、まだまだ若いといっていいのかもしれない。



つぶれると言われてもこう考えたら大丈夫だ・・(かもしれない・・)

今回、事前の下調べで、薬師寺は法相宗の総本山のひとつだということを知った。(もうひとつは同じく奈良の興福寺である)南都六宗のひとつである法相宗の開祖(鼻祖とも言うそうだ)はかの玄奘三蔵である。人間の存在は実体ではなく唯識とか阿頼耶識という観念であるというような概念の宗教だ。同じものを見るにしてもその捉え方は人ごとに異なるという考えはまさにその通りだと思う。僕はそういうことを60年かかってやっとほんの少しだけ理解したつもりだが、すでに1400年前にその悟りを開いている人がいて、それからわずか100年と少しで日本に導入されていたというのは驚きである。
唐招提寺を拝観してもう一度薬師寺を拝観しようと戻ってみると無料で講和を聞けるという時間になっていた。早く帰りたいと思ったがせっかくなので拝聴することにした。
講師の坊さんも玄奘三蔵についてのお話をされていた。仏教では人間の煩悩を「三毒」というもので表していて、それは「貪欲(とんよく)」「瞋恚(しんに)」「愚痴(ぐち)」であり、西遊記に登場する玄奘三蔵の家来である、猪八戒、孫悟空、沙悟浄はそれぞれの毒の象徴であり、玄奘三蔵も人間であるかぎりそういった煩悩を抱えているが、それらを従え、制御することで大願を成就したのだというのが西遊記に込められている真実であるというような説明をされていた。
結局、最後は2000円で写経をしてくださいという勧進のためにこの講和をやっているのだということで終わったのだが、この坊さんは落語家かと思えるほど上手で面白い講和であった。



薬師寺というのは檀家を持たない寺院のひとつだそうで、東塔以外の建造物もすべて一般人の写経で得られた寄進で再建されたということなので僕も少しは貢献したいと思ったのだが、今日は交通費を含めて4000円以内で収めねば来週を乗り切れないので泣く泣く講和を拝聴するだけにしておいた。
その後も偶然だったが金堂内で団体客向けか、別の坊さんが金堂に安置されている仏像の解説をしていたので便乗して聞くことができた。薬師寺の本尊はその名の通り薬師如来なのであるが、創建当初から現存しているこの仏像には経典に書かれているすべての特徴が備えられているそうだ。しかし、ただ一つだけわざと外している部分があるのだと語っていた。その部分とはおでこにある白毫だそうで、この白毫を見ることができるのは如来様同士だけらしい。



普通の人間にはそこから発せられる輝きは見えるけれどもそれ自体を見ることができないので人間からの見た目としてこの薬師如来にも白毫がないのだということであった。トリビアだね~。ついでに脇侍の菩薩様についても説明があって、向かって左が月光(がっこう)菩薩、右が日光菩薩というのは昼夜問わず衆生の健康を見守っているという意味があるということだ。(坊さん曰く、夜勤と日勤の看護師さんという位置づけだそうだ。)如来様ごとに脇侍の菩薩様は決まっているけれども、記憶力のない僕はそれを覚えることができない。けれども、今日の説明で薬師如来の脇侍だけはきっちり覚えることができたのである。



最初のトラブルがなければ二つの講和を聞くことはなかったと思うとやはり今日は神様(この場合は仏様)に導かれた遠出であったように思うのである。

唐招提寺は薬師寺から歩いて5分ほどのところにある。もちろんこれは拝観せねばと訪ねてみた。ここも来年度は拝観料が値上がりするらしく今日が最後のチャンスだったのである。
薬師寺に対してここはひたすらシブいという印象だ。質実剛健という感じの佇まいである。それに教科書に載っていたとおりの金堂の姿には、オ~!!という思いが湧いてくる。



けっして華美ではないがその落ち着きがなんともよい。ただ、開祖が中国からお来しになった鑑真和上だからなのか、中国人が多い。所どころでポーズをとって写真を撮っている姿はあまりよろしくない。もっと静かにお参りをしたかった・・。

間違えたルートからは若草山が見えたけれども、この両寺院のある場所は平城京の一角だったところだそうだ。



土地勘はまったくないものの、平城京の広さを実感できたのもトラブルのおかげであった。

やはり今日は神様(この場合は仏様)に導かれた遠出であったのだ。

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ベーコンを作る

2024年11月15日 | Weblog
久々にベーコンを作ってみた。
ずっと材料を買っていたスーパーではベーコン作りによさそうな豚のバラ肉が手に入らなくなってしまってこの2年間はまったく作るのをやめていたのだが、職場の近くにできたスーパーマーケットで絶好の材料を見つけた。



このスーパーマーケットは前身が精肉店だったそうで、確かに肉は安くて品質も良さそうだ。この肉もメキシコ産とはいえ、100グラム139円という安さだ。俄然制作意欲がわいてきてスーツ姿で肉を買いに向かった。
しかし、このスーパーマーケット、生のスジコといい、僕好みの食材がいっぱいある。なんとか和歌山市にも進出してはくれないものだろうか・・。

ネット見つけた新しい手順と自分なりの新しい工夫を試してみたところかなり楽にうまいこと出来上がったので備忘録として工程を書いておく。

今回はソミュール液を使わなかった。レシピでは2%の食塩をじかにすりこむとあったが僕は3%の食塩と少しの砂糖を混ぜてみた。ついでにコショウをふりかけローズマリーをはり付けてラップで包んで1週間冷蔵庫で寝かせる。
ラップを外して2日間冷蔵庫で乾燥。

豆炭を9個使って、チップが炭化してしまっても豆炭が燃え尽きるまで熱を加える。これをオーブンでの加熱の代わりにしてみた。温度は終始80℃。この温度は必須であると考えている。
出来上りの感じはソミュール液を使ったものより硬く締まった感じで出来上がり、塩加減も絶妙であった。使う塩の量はかなり少なく済むし水で塩抜きする工程も省けるので全体の所要時間も少なく済む。



加えて、新たな食材としてフライドポテトを燻してみた。これもかなりいい味がする。ゆで卵を作るのを忘れていたので他に何か使えるものはないかとスーパーマーケットの中をウロウロして考えてみたのだが怪我の功名、いいものを見つけた。



同じ工程で再びうまくできるかどうかの検証をすぐにやってみたいと考えている。
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船底塗装

2024年10月20日 | Weblog
昨日とは打って変わって、今日は北からの爆風だ。



気温もかなり低くなった。この風では釣りにも行けないので延ばし延ばしにしていた小船の塗装をする。当初の予定ではこの週末はこれだけをやるつもりであったのだ。
渡船屋も休業していて好都合だ。風が強くて休業しているのかと思っていたら、こんな日は変な客が来るので休みにしたという。なんとも強気な商売だなと羨ましくなった。まあ、素人のような釣り人がこんな日にやってくると事故の危険もあるからこれはこれで賢明な判断なのかもしれない。

満潮時刻の午前8時に港にやってきたが198センチの潮位ではスロープは海水が押し寄せてしまっている。叔父さんのところで1時間、円卓会議に出席して午前9時から上架の作業を開始。風が強くて船を安定させるのに難儀しながらようやく船体の半分ほどを引き上げる。これ以上はスペースがないので潮が引くのを待つしかない。



その間に少しずつフジツボを掻き落とすが、大きい船と同様、例年以上にいっぱい付いている。

船体がほぼ露出しコンクリートブロックの上に乗せることができた頃には午前10時を回っていた。前回は作業を急ぎ過ぎて生乾きのままで塗装を始めたが今回はしっかり乾燥させようとその間、シラスを買いに和歌浦へ向かった。店番のおばさんに話を聞くと、例の魚は遊漁船でもたくさん釣れているらしい。いったいどれくらいの量の魚がやってきたのだろう。アマダイもそうだが、不思議な現象だ。

スロープに戻って一気に塗装を始める。もう少し塗面を乾かしたいけれども潮が引き切る前に海に戻した。
毎度のことで雑な作業だったがこれで秋を迎える準備ができた。

新たな獲物も嬉しいが、僕はそれほどの変化を好まない。普通に毎年釣れる獲物が普通に釣れる方が嬉しいのである。
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船底塗装

2024年10月11日 | Weblog
こんな時にこんなことをしていてもいいのだろうかという気持ちはある。しかし、予定していたことはやっておかねばならない。
といいながら、やっぱりそういうことはいかんのだよと言うがごとくに機械室の鍵を取りに行く際に予約のノートを見てみると僕の予約が勝手に消されて別の人の名前が書かれている。最初に書いた予約が消されていたのは何度も予定を変更していたので今回はキャンセルだろうと管理人の人が勘違いしたと思って書き直した予約も消されていた。これは間違いなく意図的に消されたものに違いない。
これは困った。ここでは僕はよそ者で使わせてもらっている立場だから文句を言ったりするとじゃあ使わせてやらないと言われるのが落ちだとはいえ無茶苦茶なことをする。やっぱりここもムラなのである。よそ者は基本的に拒絶されるのだ。

う~ん・・としばし思案。勝手に消した人の予約は明日と明後日、僕は今日と明日。それならこの人が船を上架する前に僕の船を降ろせば問題がないだろうと考えて、朝早すぎるかと思ったが、ノートに書いている管理人さんのところへ電話を入れてみた。多分、この人は前回お金の回収に来ていたヨシヤさんという人だろうと思う。さすがに漁港に住んでいる年寄りだ。午前7時半だったがちゃんと電話に出てくれた。事情を説明して、明日の上架の時間までには船を降ろすから今日使わせてもらえるように相手に了解を取ってくれないかとお願いをしてみた。何をややこしいことを言っているのだとけんもほろろにあしらわれるのかと思ったがそこはあっさり引き受けてくれて10分後には了解が取れたでと連絡をくれた。
明日は午前6時に引き揚げると言っているというのだが、潮が低すぎるのではないかと思って聞き返すとここはけっこう潮が低くても大丈夫とのこと。あとで潮位表を確かめてみると、12日の午前6時というのは潮が引ききる前の時刻で、今日、僕がここまで待てば大丈夫だろうと思った潮位とほぼ同じだった。僕としては、翌日の朝は潮が引きすぎているから降ろせるのは昼からだろうと思っていたけれども、みんなきちんと海を見ているなとある意味感心してしまった。僕も明日はお昼前に用事があるのでそれまでに船を戻せたら午後からはゆっくりできるのでありがたい。

ノートだけで予定を管理しているほどだから何もかもアバウトというか、ムラではこれでなにもかもうまくいっているのだろうからこれで問題がないのであろう。Nさんに言わせると、「あいつらのやっていることは無茶苦茶や。」となるのであるが、そこに他所のものが入ってくるとややこしくなるだけなのであると僕は思う。普通なら僕も逆ギレしてしまうところだが、おカネを節約するためには他人に従うしかなくて、そうなると自分の運命を他人にゆだねているということになる。だから、郷に入っては郷に従え。ムラの掟に背いてはいけないと思うしかないのだ。

今回はいとこにウインチの操作を頼んでいる。ひととおり説明をして午前8時半に上架を開始。多分大丈夫だろうと思いながらも船台は船を乗せられるくらいまで沈んでくれるだろうかと心配していたがヨシヤさんが言っていた通り、ギリギリどころか余裕で安全な位置まで沈んでくれた。潮位は85センチあれば大丈夫だということが確認できた。

先週のタチウオ釣りの時点で異常なほど船の速度は落ちていてスクリューには不規則な形でフジツボが付着しているのか、異常なほど船が振動していた。上架した船を見てみると確かにものすごい数のフジツボが付着している。



5月に上架したときは船底があまりにもきれいでこれは1年に1度で大丈夫じゃないかと思ったけれども今年の猛暑で逆転してしまったようだ。このような気候が来年も続くのであればやっぱり年2回の作業はやめられそうもない・・。

作業は特に問題なく終了。



しかし、スクリューのシャフトのブラケットの基部の割れがひどくなってきているのが気になった。次の作業の時にはFRPで補修を施さねばならないかもしれない。補修自体に効果があるのかどうかはわからないがFRPの扱いは小船で経験したので見た目だけでも割れ目を埋めることができるかもしれない。

翌日は次の人に迷惑がかからないように午前5時半に港に到着。いとこが5時45分に来てくれるのを待っていると管理人さんが先にやってきた。名前を告げると、「えらい無理を言ってすまないね~。」との言葉。もう、こっちが下手にでなければならないと思っていたので拍子抜けした。その後にやってきた当の二重線で僕の名前を消した人も、不愛想で強面の人かと思ったら腰の曲がった小柄な爺さんで、「急かして悪かったね~。」と言う。なんだか悪気が一切ない中で先の予約を消しているのかと思うと恐ろしくもあった。けれども、これがムラの中だけならスムーズに事が運んでいくのだろう。世の中では田舎への移住が人間関係で失敗したというような話が出ているが、確かにこれをよそ者がクリアするのはなかなか難しいのだと思った。
まあ、僕の印象としては結果として、思っているよりもみんないい人たちだったということなのである。

結局、船を降ろす作業は管理人さんがやってくれたので朝早くから起きてくれたいとこには申し訳ないことをしたのだが、せっかくなので港までのクルージングにつきあってもらった。水軒で育ったので子供の頃は港をうろうろしたり海に潜ったりしていたらしいが、海自体を見るのは久しぶりらしく、全然景色が違うと驚いていた。確かに、40年前とはまったく景色が変わってしまっている。少しの百姓仕事をしながらずっと家にいるので近いうちに釣りにも連れていってやろうと考えている。
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船底塗装

2024年06月01日 | Weblog
2週連続になるが急遽、小船の船底塗装をすることにした。週明けは大雨になったので海も濁っていて釣りにならないだろうと考えその間にやらねばならないことはやっておこうという考えだ。
小船はいつものとおり人力上架なので今日の潮回りではあまりよくないのだが幸いにして今は夜明けが早い。



暗いうちから準備をすればなんとかなるのである。そう思って午前4時半に家を出たけれども、港のスロープにウインチをセットしようとしたときにターンバックルを持ってくるのを忘れているということがわかった・・。発作的に思いついたものだから会社から帰ってきて暗い中で準備をしたのでカゴの中に入れるのを忘れていたようだ。棚の中から取り出したことは間違いなかったのだが・・。
仕方がないので家に取って返して30分のロスになってしまった。しかし、早朝から働いている(といっても僕は遊びのためだが・)のは僕だけではなく、近所の家の前には救急車が停まっていた。



僕は発作的な行動をするだけだが本当に発作を起こす人は時間を選ばない。まあ、迷惑といえば迷惑な話だ・・。「人命は地球より重い」のだろうか・・重いのだろうな・・。
結局、船をスロープに廻してウインチを巻き始めたのは午前5時半を回ってしまっていた。

今日は船底の塗装以外に生簀の栓を塞ぐ作業もする。初めてのFRP加工だ。これは小さなボルトとナットで止まっている。これを外すためにはきちんと上架して船の下からドライバーで回さねばと思っていたのだが、試しに止水のために塗りつけていた接着剤を剥がしてボルトを回してみると、回すまでもなく、すでに電蝕でボルトはボロボロになってしまっていた。



ナットを潰して上から叩けば外れるだろうと考えて人力上架を選んだのだが、ボルトがFRPに固着してしまっていて叩いても8本のうち2本しか落とすことができない。プライヤーでグリグリやってなんとか落とすことができたが一時はどうしようかと悩んでしまった。ボルトが取れるとあとは栓をハンマーで叩けばぽっかりと穴が開いた。

 

ガラス繊維を貼り付ける部分の塗装を落とすのはサンダーを使う。コンセントは渡船屋の東屋にしかないので最初の客が帰ってくる前にやってしまう。これは簡単なものだ。
なんとかここまできたが試練は続く。穴の直径は6センチ。ガラス繊維だけでは心もとないと思って木でベースを作った。



これをガラス繊維で挟んで埋めようと思ったのだが、上からの見た目はなんとなくうまくできているように見えるのだが下から見るとガラス繊維が膨らんでしまって空気が大量に入ってしまっていた。こういう方法を取ったのはFRPの厚みの分の段差をこの木で無くそうと思ったのだが実際の厚みはものすごく薄いものだった。おそらく3mmくらいだろう。船ってこんなに薄い板で作られているのかと驚いた。これくらいの厚みならそれをまったく気にせずに事前にプラスチックかFRPで板を作って乗せるだけでよかった。



木のほうは間違いなく防水ができていないので早晩腐ってしまうだろう。その時はもう一度やり直さねばならない。
手慣れた人には簡単な作業なのだろうけれども、ど素人には手探りの作業だ。まあ、こんなものだろう。とりあえず、翌日の時点では水漏れは確認できなかった。



その後はいつものとおりの作業だ。大きい船と同様、フジツボはほとんど付着していなかった。塗料の塗りムラのあるところに付着している程度だ。今朝、スロープに下りた時にはムッとドブ川のような臭いはしたものの、水質はやっぱり良くなっているのだろう。



これなら船の動きが悪くなってくるまで我慢し、1年に1回か2年に3回くらいのペースに落として浮いた塗料代で雑賀崎のスロープを借りてきれいに塗装した方がいいのではないかと思う。今日は特に風と日差しがなかったので藻が残った船底は乾きが遅く、潮が満ちてくる時間もあるので急いだ結果、生乾きの状態で塗り始めてしまい間違いなく上手くは塗れていない。


とはいうものの、最初はおカネの節約のために始めた人力上架も今では別の価値を持ち始め、これをやれるうちは僕の体力もまだまだ落ちていないという僕の老化度のバロメーターになりつつある。
どちらを選択するか、もう少し悩まねばならないのである・・。

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船底塗装

2024年05月25日 | Weblog
今日は予定通りに船底塗装をした。船の速度はまったくといっていいくらいに落ちていない感じなのでそのまま乗り続けてもいいのではないかと思ったのだけれども、何もせずに夏を越すのはやっぱり怖い。船底がきれいだったら舵とスクリューだけ塗って終わりにしようと思っていたが、それは叶わなかった。

そんなことをずっと考えていたのでまったくやる気になれなかったというのが事実だ。人間は間違いなく楽な方に流されてゆく。定年退職もしたし、もう何も怖いものはないと思っていたけれども何も変わっていない・・。

今回も叔父さんに頼んでウインチのスイッチを操作してもらう。前回もやってもらっていたので今回は段取りを説明しなくてもと思っていたのだがとぼけているのか本当にボケているのか、最初からまた説明をする。かといっていったん操作が始まると的確にやってくれる。やっぱりとぼけたふりをして僕をからかっているのだろう。

 

予定どおり午前6時半に上架が終わり作業を開始。



僕も他人のことはとやかく言えない。年に2回の上架なのでいまだにスイッチの場所を覚えることができない。最初、高圧洗浄機は作動せず、次にサンダーも動かない・・。あちこちスイッチをいじくってやっと作動させるというていたらくなのである・・。



今年はやっぱりあまりフジツボが付着していない。



とはいうものの、藻はたくさん付着しているし所々にはフジツボが見える。高圧洗浄機で藻を吹き飛ばしてそこそこ綺麗なら何もしなくて済むのにと思ったが、ここの高圧洗浄機は威力が凄まじく塗料も一緒に吹き飛んでしまうのでやっぱり全塗装をしなければならなくなった。シンナーの予備を買っていなかったので足りるかどうかの心配の中で作業を進めたがギリギリ使い切って終わることができた。シンナーはかなり節約したのは確かだったのだが、これくらいの濃度のほうが塗料が飛び散ることも少なく塗膜面の厚さも確保できるのかもしれない。不幸中の幸いというところだろうか。
そして、シンナーもそうだが、資材の値上がりは大変だ。ローラー刷毛は40%の値上がり、塗料は10%以上、カップワイヤーも倍近くの値段になっていた。亜鉛類も相当だ。何か節約せねばと思い塗料を溜めるバケットをその都度捨てていたが使い続けることにした。ささやかな抵抗である。
そのほかは風が強すぎたことを除いて順調に作業は進み、いつもと大体同じ時刻、お昼前には作業を終えることができた。何もかもが飛ばされてゆくけれどもその分涼しくてまったく辛さを感じなかったのはありがたかった。
その後、スタンチューブの交換をしたのだが、これのほうが時間がかかった。コックボードがすり減っているのだろう、はめ込むスペースの偏りが大きくなっている。無理にたたき込みながら作業をするので時間がかかるのだ。
あと片付けと交換作業で追加で1時間を費やし午後12時半に港を後にした。

使用料を取りに来てくれる爺さん、いつもはお金を渡すだけなのだが、今日はいろいろ話をしてくれた。「この船、どこに泊めてるの?」という話から、「僕は元々水軒に住んでて・・」という話をしていると、この爺さんは叔父さんの同級生であるということがわかった。OOという名字で歳が78歳で昔赤いセドリックに乗っていたといったら僕の叔父さんしかいない。世間は狭いというか、県庁所在地とはいえ、所詮田舎だ。誰かがどこかでつながっているのだろう。叔父さんにそんな話をすると、「ヨシヤ」という名前のはずだという。間違いなくかつての仲間だったらしい。この家にもよく遊びにきていたそうだ。
旧約聖書には「ヨシュア記」という一説がある。イスラエルがヨルダン川西岸を支配している根拠となっているもののひとつだけれども、なぜか「ヨシヤ」さんという名前を聞いて聖書を思い出した。現在も続いているイスラエルのガザ侵攻というのは聖書の時代の出来事が発端なのだからやっぱり一筋縄ではいかないのいだろう・・。

翌日、午前6時に海に戻す。今日は叔父さんの息子、すなわち僕の従弟が手伝ってくれる。4月に仕事を早期退職して実家に戻っている。再就職はぜずに農業を手伝いながらバイクと車をいじっているというなんともうらやましいセカンドライフを送っている。

従弟が港にやってくる前にウインチの電源を入れておくため扉の鍵を取りにいく途中、港内の駐車場で発泡スチロールのクーラーボックスを見つけた。地元の人の忘れ物だろうかと興味本位で中を見てみると小さなアジとオセンが1匹ずつ入っているだけであった。これは地元の人のものというよりもここに釣りに来た釣り人が、魚が釣れなかったものだから捨てて帰ったものだろうと考えた。腐敗している様子もないので夜釣りにやって来たやつが置いていったものだろう。ここも最近はたくさんの釣り人が訪れるようになった。



釣具屋のシールが貼られていたが、けっこうな値段だったような気がする。イカ釣り用に買おうと思ったら高すぎるのでやめた記憶がある。こんなものを買って釣り場にやってくるというのは多分初心者の釣り人なのだろう(氷も入っていた気配がないのでそれも不思議だ・・)が、釣れなくて腹が立つのは勝手だがゴミにしたければ家に帰ってからゴミにしろと言いたい。まあ、僕にとってはいい拾い物だとありがたくいただいて船のところに戻った。



従弟がやってきて、ひと通り手順を説明して作業を開始。特にトラブルもなく船は再び海の上に浮かんだ。
そして僕はそのままアマダイを狙うべく沖に向かった。その顛末は明日のブログで・・。
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法隆寺へ行く

2024年05月03日 | Weblog

この本を読んでからずっと法隆寺に行きたいと思っていた。特に救世観音像が一般公開されている期間のたびに今度こそ絶対に行くのだと思いながら10年の時が過ぎていた。
そしてもうひとつ理由があった。それは50年前の出来事が原因である。多分、和歌山市内の小学校だけの行事だと思うが小学5年生になると“奈良遠足”というのがあった。バスに乗っての長距離の初めての遠足なのだ。バス酔い対策だといって事前に催眠術師を呼んで希望した生徒に催眠術をかけるなどというオカルトチックなこともやっていた。

どんな順序で奈良を巡ったのかというのはまったく覚えていないけれども法隆寺を訪れた時、僕はクラスの集団から迷子になってしまうという失態を演じてしまった。法隆寺という寺院はかなり広い寺院で、それも拝観場所というのが一か所ではなくて、夢殿などは一度伽藍を出てかなり歩いてゆくようなところなので、ボ~っとしている間にクラスの集団がどこかに行ってしまったのだと思う。
迷子になったのは僕だけではなく、その時のクラスで、スポーツ万能、勉強もトップという“クボくん”というクラスのヒーローとなぜか一緒に迷子になってしまった。彼も去年か今年還暦を迎えたのだと思う。僕は人生でも迷子になってしまったが、やっぱり彼はヒーローらしく立派な大人になっているのだろうか・・。
とにかくクラスのみんなを探さねば置いてきぼりになってしまうとクボくんとふたり、焦りながら(多分・・)あちこち探し回ってやっとみんなを見つけることができた。
あの時代は先生もおおらかというか、クラスの人数も多かったからふたりくらいいなくなっても知らんぷりだったのだろう。しれっと元の集団に紛れ込んで事なきを得たが、おかげで法隆寺では何を見ることもできなかった。もちろん、説明を受けながら見学したとしてもアホな小学生には何もわからないし何も記憶に残るものはなかったのだとは思う。

だからもう一度きちんと法隆寺を見ておくべきだとそれ以来50年間(というのでもないが・・)思っていたが、梅原先生の本を読んでその思いがもっと強くなってきていた。

拝観は午前8時からできるらしく、ゴールデンウィークの混雑を避けるため始発電車で法隆寺に向かった。



法隆寺までは意外と近くて、ちょうど2時間で到着してしまった。通勤時間とほとんど変わらない。

西院伽藍の金堂には国宝の釈迦三尊像が安置されている。



飛鳥仏独特の表情を持った仏様だが意外と小さな仏像であった。



順路では大宝蔵院が先なのだが人の少ない間に救世観音像を拝もうと先に夢殿に向かった。



初めて拝む救世観音像は厨子の奥にひっそりと佇んでおられるが暗くてあまりよく見えない。その分、秘仏の神秘がムンムンしている。



何かの力が働いているのか、やってはいけないと思いながらも写真に収めたくてシャッターを切ったのだが、なぜだか切れないのだ・・。少しゾッとした・・。

梅原先生の説では、救世観音像は聖徳太子の怨念を抑えるために造られたのだという。その証拠に、光背を支える支柱は仏像の後頭部に刺さっている。おまけに明治の時代まで秘仏として白帛でグルグル巻きにして誰の目にも触れないようにされていたというのだから定説ではないとはいえこっちのほうが正しいのだと思ってしまうのであるが、シャッターが切れないという現象はそれを裏付けてしまっているじゃないかと恐れおののいてしまうのだ・・。

最後に訪れたのは大宝蔵院。



ここは平成10年に開館したそうなので50年前にはなかったはずだ。ここには百済観音像が収められている。



この百済観音像であるが、法隆寺の記録に出てくるのははるか後、1698年だったそうだ。定まった安置場所もなく、いったいどこからやってきたのかもよくわかっていないそうだ。救世観音像とは立ち姿がよく似ているので双子のような存在かと思っていたのだが、実物をみてみると顔の様子は全然違っていてこれは素人が見ても同時代の仏像ではないなと確信できる。やっぱり普通の小学5年生が見ても何の感想も出てこないだろう。(みうらじゅんは別だろうが・・)

法隆寺を後にして藤ノ木古墳を見てきた。



この古墳は法隆寺から300メートルほどの位置にあり、近くには斑鳩文化財センターという施設があって発掘された資料の詳細がわかる。ここまで来る人はわずかのようで、ほぼ無人であった。人混みが嫌いな僕にはうってつけの施設であった。

午前11時過ぎに斑鳩の街を後にして帰宅したのは午後1時半ごろ。これくらいの行程なららくちんだ。電車での移動なので帰りは缶酎ハイを飲みながら旅気分も満喫できる。JRを利用すると途中までは定期があるので交通費も少なくて済む。

周辺の地図を見てみると少し先の駅からは唐招提寺と薬師寺が比較的近い。秋にはここを訪れてみたいと思い始めている・・。



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ワカメ採り 2回目

2024年03月16日 | Weblog
前回のワカメ採りから4週間も過ぎてしまった。春の天気は不安定とはいえ、今年の天気は異常だ。2月に20℃を超える日があったと思ったら、3月には寒くて風の強い日が続いてワカメを採ることができるような環境ではなかった。

3月も後半に入り、タイムリミットが近づいている中、やっと休日と天気がうまく合致した。「春に三日の天気無し」というとおり、明日はまた雨が降るようだがダメもとで出かけた。
というのも、先月採ったワカメはその後の雨続きで腐らせてしまったのである。こんなことは初めてであった。だから、今回もダメもとなのである。

午後からのほうが潮は引くが風が吹くだろうし、乾燥させる時間を少しでも確保したいので午前5時半に家を出てカネの補修をしてから午前6時に出港。

いつもの場所でせっせとワカメを採る。採っている場所なのか、今年の天気のせいなのか、やたらと長いものが多い。それも茎の部分が長い。やはり、ほとんどのワカメは先っちょが溶けてしまっている(これを僕の辺りでは「たけてきた」という)がゴワゴワしている感はない。
誰も採っていない場所なのでホイホイ採れる。
途中で仕分けをして状態の良いものだけを残し、長けてしまった部分を切り取ったあとでもう少し補充して午前8時半に港に戻って午前9時から干す作業に取り掛かる。
軸の太いものもあるので半分に割って干すと思いのほか大量になっていた。



我が家では寄生虫がいるとかダニがいるとかうるさいことを言うようになったので食べることはできなくなった。医者になった息子が言い始めたことらしいのだが、どんなエビデンスを元にこんなことをいうのかがわからない。それが本当なら雑賀崎のワカメを食った人は少なくとも半数はワカメを食べたことが原因で死んでいることになるが、警鐘を鳴らしている人がいるという話を聞いたことがない。
だからこれは全部、知人に送るためのものになるのだがそのためには十分すぎるほどの分量である。まあ、少しは自分で食べるために残しておこうとは思っている。ワカメを食べて死ねたら本望である。

明日は午後から、にわか雨になるという予報に固まってきたので夕方に縁側に回収しておいた。いつものワカメの香りが家の中全体に漂っている。これを食べたら死ぬというのはなんとももったいない話である。

港に戻ると、護岸の片隅にリールが捨てられていた。見た目には綺麗であったがカウンターが作動していなかった。これは電池を交換したら作動したのだが、今度はレベルワインドが動かない。カバーを開いてみるとレベルワインドのギアが1個欠けている。
しかし、こんな場所のギアが樹脂製というのはあまりにもチープだ。調べてみると6000円ほどで売っているリールらしいが、この安さで持ち主は簡単に捨ててしまったのだろう。



午後からは、「「刀剣乱舞」という映画を観ていたのだが、この映画のテーマが、物には人の想いが封じ込められているというものだ。このリールにも何らかの思いが宿っているのだと思うと、簡単に捨ててしまったやつはきっと何かの厄災に見舞われるに違いないと思うのである。しかし、船の釣りに使うリールがこの場所に捨てられているというのも奇妙だ。
この場所に船を係留している人も少なくなって、こんなリールを使う人もほとんどいないはずなのだが・・。

古来から、海からもたらされるものは蛭子といって神様からの賜りものであると考えられてきた。これがエビス信仰となってゆくのだが、きっとこのリールも海からの賜りものなのだと思って部品を探して再生してみようと思っている。
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ワカメ採り

2024年02月17日 | Weblog
なんだか今年のワカメ採りはやめておけという神のお告げのようだった。前回の釣行で始動することがなかった船外機だがバッテリーを交換したもののまったく動くことはなかった。今日もうんともすんとも言わない。一体何が悪いのだろう。電気系統が完全に死んでしまったのだろうか・・。
何度もチルトモーターのスイッチを入れていると、エンジンは一瞬だけ息を吹き返しとりあえずスクリューは海水に入った。
おお、これで行けるんじゃないかと思ったらセルモーターも回らない。ああ、これはもう、やっぱり完全に電気系統が死んでしまっているのだ・・。

どうしようもないので修理屋さんに電話を入れてみる。ひょっとしてヒューズが切れているのではないかとアドバイスをもらい、なんとか探し当てることができて点検してみたが異常なし。これで万事休す。今日のワカメ採りはあきらめて修理屋さんの到着を待つ。
約30分あるのでほかに診るところはないかとふとバッテリーのマイナス側の電極を見てみると少し錆びている。試しにドライバーの先で磨いてセットしなおすとエンジンが息を吹き返した!
もともと、プラス側の電極は6年前の台風で浸水したときかなり電蝕してしまっていて、今日も少しだけ磨いておいたのだが、マイナス側は何もしなかった。元々、電極は掃除しておこうと思ったが、家を出るとき、例によって物忘れがひどく、紙やすりと接点復活スプレーを持って出るのを忘れたことでここで手を抜いていたのだ。しかし、端子が少し錆びているだけでこんなに違うのかと驚いた。マイナス側は見た目はそれほどひどいものには見えなかったのだ。古いバッテリーも実は死んでいなかったのだろう。もったいないことをした。
すぐに修理屋さんに侘びの電話を入れて出港。

今日は10:27に満潮だ。小潮なので潮位の変化は少ないが少しでも潮は引いているほうがよい。30分のロスは大きいが仕方がない。
いつものポイントに到着してみると岩場の底に所々に黒いものが見える。



Nさんからはすでにワカメは生えてきていると聞いていたが間違いはない。
早速カネを差し込んでみると小さいながらワカメが上がってきた。しかし、大半は干すにはかなり小さい。少し大きいワカメだけを残して採り続ける。



大きいものだけ選んでいても全体的に小さいのでなかなか嵩が稼げない。まあ、その分やわらかくてよいワカメであるのには間違いはないが。
1時間ほど同じ場所で採り続け少しだけ場所を移動してみるとここは全体的に大きい。もっと早くここに移動しておけばよかった。

もう少しここで採りたいのだが干す作業のことを考えるといつまでも採り続けるわけにはいかないので午前10時前に終了。

お昼までに干し終え、再び港へ。チルトモーターが動かないのでスクリューは水没したままなのである。
セルモーターが息を吹き返したことを考えてみると、チルトモーターが動かないのはきっと電極が錆びて抵抗値が高くなっているのだろうと考え、もう一度磨き直すためだ。ついでにプラス側の電極も取り替えておこう。

結局のところ、チルトモーターが復活することはなかった。久々に港に来ていたFさんに聞くと、セルモーターのほうがはるかに電力を食うので普通ならセルモーターが動けば問題なくチルトモーターは動くはずのだそうだ。まったく認識を間違っていた。

ついでにダンパーの油圧解除の方法も教えてくれたのでスクリューの大半は海面に引き上げることができた。
しかし、このまま放っておくわけにもいかず、結局修理を依頼することにした。
大体の値段を聞いてみたが、10万円くらいはかかるらしい。
なんとも高くついたワカメ採りなのである・・。

Fさんと少し話をしていると、老後の収入についての話題がでてきたのだが、彼の会社は定年後の収入はそれまでの8割は保証されているそうだ。振り返って、僕の定年後の収入はそれまでの半分以下になる。給与ベースもおそらく僕の会社よりも3割は高いようだ。業界の強さの違いと能力の差が如実に出ているというところなのだろうが、そんなことを知ってしまうと今回の修理代がもっと重くのしかかってきてしまうのだ・・。
コメント (2)
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