ユヴァル・ノア・ハラリ/著、柴田裕之/訳 「ホモ・デウス 下: テクノロジーとサピエンスの未来」読了
上巻では、人間は飢餓、疾病、戦争の克服できた後は、不死と幸福と神性を追い求めてゆく可能性が高いと言っているが、人類はそれを追い求めながら、それにつながる宗教心を捨てようとしている。その生き方を筆者は、「人間は力と引き換えに意味を放棄することに同意した。」ことであるという。
近代以前の“生きる意味”というものは、まさしく、“神のために死ぬ。”ということにほかならかった。自然からの試練、これほどの試練は神が私に与えたもうたものであると考えなければそれをうっちゃることができなかったに違いない。これは西洋の一神教独特の考え方のように思うけれども、東洋の仏教思想でも、今を生きるのは極楽浄土へ成仏するための一歩に過ぎないと考えることが一般的であった。人の寿命はそれ以外に別の意味を見つけるには短すぎたのだ。
しかし、近代に入り、それが大きく変わってきた。経済の成長と共にそういった憂いは徐々に取り払われてきた。それが飢餓、疾病、戦争の克服であった。僕はまったく自分に自信が持てないけれども、僕以外の人類はそのことで自信をつけたのか、神から与えられた意味ではなく、自身の心の内にある感性にしたがって生きる意味を見つけ始めた。それが「人間至上主義」であった。別の意味では、宗教を生きる意味の柱にしてゆくには人生は長くなり苦悩も少なくなったということだろうか。
人間至上主義とは自らの心の内なる感性に従って価値観を求めてゆくという自由主義的考えであるけれども社会というものを構成するためには個人個人の価値観がばらばらではまずい。それを統合するために考え出されたものは社会主義的人間至上主義であり、人を含めた動物が生きるということは競争と淘汰の世界であるという考えから生まれ出たものが進化論的人間至上主義である。ヒトラーが掲げたような優性思想である。すべては人間が中心であると言う考えではあるけれども、方向性はえらく変わるものだ。1900年代の前半から後半にかけて、社会主義的人間至上主義も進化論的人間至上主義も誤りというか、人類の行き方にはそぐわなかったようで地上からは消え去ってしまった。
しかし、「民主主義の死に方」では、その正統な人間至上主義(民主主義)でさえいずれ独裁主義を呼び込み崩壊してゆくということになると書いていたけれども、僕たちはそれで大丈夫なのだろうか。
それはさておいて、自由主義社会はどこまでも進み、留まることを許さない経済成長の中で新しい脅威にさらされる。
その第一は人間の価値が失われていくということだ。
AIが労働者の仕事を奪っていく。それは意識と知能が分離してしまってきたということである。パターン化された仕事は意識がなくてもできる。高度なAIには意識はないけれどもはるかに正確に仕事をこなせるようになってしまった。
第二は人間はあいかわらず人間としての価値を持っているけれども外部のアルゴリズム(AI)に管理されてゆくというものだ。
僕に関する膨大なデータを蓄積したAIは僕より僕をよく知るようになる。現在でも、グーグルやアマゾンは僕のデータを集め続け、僕の消費行動や政治に対する志向やこのブログを運営しているNTTは僕の喜怒哀楽さえも把握しているのかもしれない。それに加えて世界のすべてのデータを蓄積しようとしているAIはそのデータを元に僕よりも的確に僕のこれからの生き方を教えてくれるようになる。さらには僕の代理のAIがこれまた他人の代理AIと交渉をし始めるというようなことになる。
そして三つ目はアップグレードされた人間とそうならない人間の格差の拡大だ。
医学的にも能力的にも、知性的にも様々な技術でアップグレードされた一握りの人間が世界を支配する世界。銀河鉄道999の機械の体を得た人たちを想像すればいいのだろうか・・。
著者はこれをテクノ人間主義と名付けている。ホモ・デウスの誕生ともいえるのだ。
そしてさらにその先にはデータ至上主義が待っている。テクノ人間主義まではそれでも人間の意思というものがこの世界で最も重要なものであると考えている。しかし、データ至上主義は違う。すべての価値がデータ処理にどれだけ寄与するかで決まってくる。
感情はそのデータ処理を邪魔するものでしかないというのだ。生物は遺伝子(データ)の運び屋にすぎないという考え方だ。
人類はホモ・デウスへの進化という力を得た途端にデータの奔流に飲み込まれて消え去ってしまう。
もう、こうなってくるとSFの世界で、宇宙のすべてのデータを集めるための機械が地球に襲来するというストーリーは映画のスタートレックのストーリーだし、人類のデータによる統合はエヴァンゲリオンの人類補完計画に似ているように思う。
しかしながら、自由主義経済は無限に成長し続ける宿命にあり飢餓、疾病、戦争の危機を乗り越えた人類がその先に追い求めるのは確かに不死であったり、精神の融合であったりするのかもしれない。釈迦が説く人が持つ苦しみはまさにこのあたりにある。
そして、最後にデータの奔流に人間が押し流されて消えてしまうというのはまさに五蘊盛苦を乗り越えるにはこれしか方法がないというものではないだろうか。そうすることで、人類が滅びてデータだけが宇宙に充満してゆくストーリーというのはデストピア小説を読んでいるかのようであった。
しかし、著者は、未来の予測は難しいという。SFの世界ではこれらの運命に立ち向かうヒーローたちは「愛」を武器にまったく予想外の行動をとって形成を逆転させる。
ただ、この、「愛」というものほど曖昧なものはない。著者は究極のAIにこう語らせる。「全知全能のスーパーコンピューターが急激なホルモン分泌に物も言えないほど驚いたりするわけがない。」
早ければ2、30年でそんな世界が訪れるのではないかという予測を著者がしているのであるけれども、そうであったとしても僕はすでに死んでるか老境の身、そんなことはどこかで勝手にやっておいてくれというものだ。
僕はひょっとして最後のいい時代を過ごしているのかもしれない。
上巻では、人間は飢餓、疾病、戦争の克服できた後は、不死と幸福と神性を追い求めてゆく可能性が高いと言っているが、人類はそれを追い求めながら、それにつながる宗教心を捨てようとしている。その生き方を筆者は、「人間は力と引き換えに意味を放棄することに同意した。」ことであるという。
近代以前の“生きる意味”というものは、まさしく、“神のために死ぬ。”ということにほかならかった。自然からの試練、これほどの試練は神が私に与えたもうたものであると考えなければそれをうっちゃることができなかったに違いない。これは西洋の一神教独特の考え方のように思うけれども、東洋の仏教思想でも、今を生きるのは極楽浄土へ成仏するための一歩に過ぎないと考えることが一般的であった。人の寿命はそれ以外に別の意味を見つけるには短すぎたのだ。
しかし、近代に入り、それが大きく変わってきた。経済の成長と共にそういった憂いは徐々に取り払われてきた。それが飢餓、疾病、戦争の克服であった。僕はまったく自分に自信が持てないけれども、僕以外の人類はそのことで自信をつけたのか、神から与えられた意味ではなく、自身の心の内にある感性にしたがって生きる意味を見つけ始めた。それが「人間至上主義」であった。別の意味では、宗教を生きる意味の柱にしてゆくには人生は長くなり苦悩も少なくなったということだろうか。
人間至上主義とは自らの心の内なる感性に従って価値観を求めてゆくという自由主義的考えであるけれども社会というものを構成するためには個人個人の価値観がばらばらではまずい。それを統合するために考え出されたものは社会主義的人間至上主義であり、人を含めた動物が生きるということは競争と淘汰の世界であるという考えから生まれ出たものが進化論的人間至上主義である。ヒトラーが掲げたような優性思想である。すべては人間が中心であると言う考えではあるけれども、方向性はえらく変わるものだ。1900年代の前半から後半にかけて、社会主義的人間至上主義も進化論的人間至上主義も誤りというか、人類の行き方にはそぐわなかったようで地上からは消え去ってしまった。
しかし、「民主主義の死に方」では、その正統な人間至上主義(民主主義)でさえいずれ独裁主義を呼び込み崩壊してゆくということになると書いていたけれども、僕たちはそれで大丈夫なのだろうか。
それはさておいて、自由主義社会はどこまでも進み、留まることを許さない経済成長の中で新しい脅威にさらされる。
その第一は人間の価値が失われていくということだ。
AIが労働者の仕事を奪っていく。それは意識と知能が分離してしまってきたということである。パターン化された仕事は意識がなくてもできる。高度なAIには意識はないけれどもはるかに正確に仕事をこなせるようになってしまった。
第二は人間はあいかわらず人間としての価値を持っているけれども外部のアルゴリズム(AI)に管理されてゆくというものだ。
僕に関する膨大なデータを蓄積したAIは僕より僕をよく知るようになる。現在でも、グーグルやアマゾンは僕のデータを集め続け、僕の消費行動や政治に対する志向やこのブログを運営しているNTTは僕の喜怒哀楽さえも把握しているのかもしれない。それに加えて世界のすべてのデータを蓄積しようとしているAIはそのデータを元に僕よりも的確に僕のこれからの生き方を教えてくれるようになる。さらには僕の代理のAIがこれまた他人の代理AIと交渉をし始めるというようなことになる。
そして三つ目はアップグレードされた人間とそうならない人間の格差の拡大だ。
医学的にも能力的にも、知性的にも様々な技術でアップグレードされた一握りの人間が世界を支配する世界。銀河鉄道999の機械の体を得た人たちを想像すればいいのだろうか・・。
著者はこれをテクノ人間主義と名付けている。ホモ・デウスの誕生ともいえるのだ。
そしてさらにその先にはデータ至上主義が待っている。テクノ人間主義まではそれでも人間の意思というものがこの世界で最も重要なものであると考えている。しかし、データ至上主義は違う。すべての価値がデータ処理にどれだけ寄与するかで決まってくる。
感情はそのデータ処理を邪魔するものでしかないというのだ。生物は遺伝子(データ)の運び屋にすぎないという考え方だ。
人類はホモ・デウスへの進化という力を得た途端にデータの奔流に飲み込まれて消え去ってしまう。
もう、こうなってくるとSFの世界で、宇宙のすべてのデータを集めるための機械が地球に襲来するというストーリーは映画のスタートレックのストーリーだし、人類のデータによる統合はエヴァンゲリオンの人類補完計画に似ているように思う。
しかしながら、自由主義経済は無限に成長し続ける宿命にあり飢餓、疾病、戦争の危機を乗り越えた人類がその先に追い求めるのは確かに不死であったり、精神の融合であったりするのかもしれない。釈迦が説く人が持つ苦しみはまさにこのあたりにある。
そして、最後にデータの奔流に人間が押し流されて消えてしまうというのはまさに五蘊盛苦を乗り越えるにはこれしか方法がないというものではないだろうか。そうすることで、人類が滅びてデータだけが宇宙に充満してゆくストーリーというのはデストピア小説を読んでいるかのようであった。
しかし、著者は、未来の予測は難しいという。SFの世界ではこれらの運命に立ち向かうヒーローたちは「愛」を武器にまったく予想外の行動をとって形成を逆転させる。
ただ、この、「愛」というものほど曖昧なものはない。著者は究極のAIにこう語らせる。「全知全能のスーパーコンピューターが急激なホルモン分泌に物も言えないほど驚いたりするわけがない。」
早ければ2、30年でそんな世界が訪れるのではないかという予測を著者がしているのであるけれども、そうであったとしても僕はすでに死んでるか老境の身、そんなことはどこかで勝手にやっておいてくれというものだ。
僕はひょっとして最後のいい時代を過ごしているのかもしれない。