イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

加太沖釣行

2019年03月29日 | 2019釣り
場所:加太沖
条件:小潮 9:34満潮
潮流:5:16転流 8:04下り1.3ノット最強 11:23転流
釣果:ボウズ

桜もちらほら咲き出し、桜鯛だと勇んで出かけたが、朝から風が強い。まあ、この季節の北風なのでそれでもなんとか船を出せる。
昨日、会社の同僚から、下り潮で田倉崎のそこそこ南でサバが釣れるというのを聞いていたので、今日はソラセの南側からスタート。しかし、ここには船がない。



少しだけやってみてやはり下り潮は非武装ポイントだと一気に北上。しかし風が強く波も高い。ポイントに到着しても船のピッチングが激しい。そしてここにも船がない。帝国軍が2艘だけ・・。



日も差さず、風が強くて気温も低い。もう完全に釣れる気がしない。潮の最強時刻も過ぎてしまい、もうダメだ。帰ろう。午前9時半に終了。

このま帰るのはもったいないのでタラノメ第4ポイントを目指してバイクを走らせた。



まだまだ芽は小さいものが多いけれども食べられそうな芽は見えざる敵に盗られてしまっている。この画像の様子では今朝盗られたものに違いない。



せっかく見つけたけれども、かなり目立つ場所だからそれも仕方がない。なんとか食べられそうな芽を少しだけ採って今日は終了。


隣の船がまた迷惑になってきた。
フライングダッチマン号状態の隣の船は、最近、係留用の碇が効かなくなったようで前後左右にユラユラしていた。こういう状態で船の舳先が護岸に乗り上げると簡単に転覆する。たまに見に来ているのか、この前は碇のロープにコンクリートブロックをくくりつけ少し護岸から離れるようにしているようであったが、こんなものなんの役にも立たない。これでいいと思っているくらいのオーナーだから船を壊してしまうのだが今日、船に乗り込もうとすると、僕の船のカンザシに隣の船のロープが乗っかって、僕の舫い綱で半固定状態になっていました。



自然にここまで器用にロープが巻くことというのは考えづらく、多分、お隣さんの仕業に違いない。こうやっておけば少しは船の挙動が安定するとでも思っているのだろうか。僕にしてみれば、こんな傾いた船にロープを絡まれていれば万が一のときには道連れにされるのがおちだとしか考えられない。
それなりにきちんとメンテナンスをしている人ならお互いに助け合うのだが、こんな相手はまっぴら御免だ。係留費もタダではないのだから船が壊れて動かなければ処分してしまえばいいものを、この係留費だけは真面目払っているそうだ。
ひょっとしたら、処分の仕方もしらないのかもしれないが、今年の台風シーズンまでにはなんとかしてもらいたいものだ。
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ワカメ採り2回目

2019年03月26日 | Weblog
前回はあんまり採れなかったので2回目のワカメ採りだ。満潮が午前9時頃なので夜明けと同時に出港。
いつものポイントに入るが、やっぱりあまり生えていない。ただ、10日前よりも少しは大きくなっている。少し黒くなっているところを狙ってワカメを巻き取るけれどもなかなかメーターが上がらない。磯際ではあまりやりたくないのだが、碇を上げては下して移動して少しづつ採っていく。やっとそこそこ集まっているコロニーを見つけてメーターが上がってきた。しかし、その場所はこんなに磯の際だ。



今日は東からの風が弱く吹いているだけだったので何とかなったが、それでも周りの状況と風の向き、船の位置に気を配らなければ座礁させるとえらいことになる。慣れた頃に事故を起こすというのはどんな世界でも言われることなので毎回緊張しながらグリグリカネを回しているのである。
前回よりも少しだけ嵩を稼いで午前8時に終了。


渡船屋さんの話では一文字もほぼすべての場所でワカメが生えていないそうだ。彼が言うには、去年の台風でテトラにくっ付いていた胞子が剥がされてしまったのではないかということだ。それに加えてこの暖冬で生育状況が悪いという条件が重なってなかなか株を見つけられないというのが今年の状況のようだ。
それでもなんとか今年食べる分は確保できたのでよしとしておこう。



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「我々はなぜ我々だけなのか アジアから消えた多様な「人類」たち 」読了

2019年03月24日 | 2019読書
川端裕人/著 海部陽介/監修 「我々はなぜ我々だけなのか アジアから消えた多様な「人類」たち 」読了

「我々はどこから来て、どこへ行くのか。いつの時代でも、どこにいても、人はそういうことを、その時その場の知識や利用可能な知的道具に応じて問うてきた。」
この本の最初のあたりに書かれている文章だ。
確かにそのとおりで、この歳になってくると、どこから来たのかはともかく、自分がこの世からいなくなったあと、人類はどうなっていくのかということにはものすごい興味がある。そして未来を知るためには過去を知らなければならないのである。
まあ、自分が死んでしまったらあとはどうでもいいじゃないかとも思うのだが・・。

本のタイトルは非情に興味をそそるものだが、そのタイトル通りの部分は最後の1章だけであとは、ジャワ原人についての発掘の物語や人類史の中の位置づけについて書かれている。普通なら肩透かしを食ったんじゃないかと思ってしまうのだが、著者の文章の読みやすさと詳しい解説のおかげでけっこう面白い。これもちゃんとタイトルでわかるといえばわかるのだけれども・・。

主な内容は、国立科学博物館の人類進化学者・海部陽介博士のジャワ原人に関する研究を著者がたどってゆくという内容である。
まず、サルから人類までの進化の道筋を簡単にたどるとこうなる。

初期の猿人→猿人→原人→旧人→新人

初期の猿人というのは教科書にも載っていなかったのではないだろうか。ラミダス猿人というのが有名らしい。450万年くらい前にエチオピアで生活していたそうだ。
次の猿人というのは教科書にも必ず載っていた、アウストラ・ロピテクスという種族だ。これが200万年前くらいまで。最後のほうでは簡単な石器を使っていたそうだ。次に原人。ここから学名に“ホモ”が付く。人類に限りなく近い種族になその中のひとつの種族がホモ・エレクトス=ジャワ原人である。昔、「ピテカントロプス」と言われていたのはこのジャワ原人や北京原人だそうだ。そして旧人はネアンデルタール人が有名、新人はホモ・サピエンスだ。

海部博士は、そのジャワ原人がホモ・サピエンスにどうつながっているのか、どこからやってきたのか、そして、21世紀に入って新たに発見されたフローレス原人という新たな原人(インドネシアのフローレス島で発見されたかなり小型の原人)についての研究をおこなっている。
ジャワ原人や北京原人については頭蓋骨の頭のほうや顎の骨しか出てこないのでわからないことのほうが多いらしく、その情報を補うべく、現代人の骨格を人種を超えてくまなく調べ、それと比較してこの原人は人間の祖先なのか、そしてどこから来たのかということが研究されているのだ。

結論だけまとめると、猿人から新人まですべてはアフリカが起源の別々の種族であり、生まれ出てはアフリカを脱出し、少しずつ勢力範囲を広げてきたが最終的に生き残ったのはホモ・サピエンスだけであった。ということになる。
それぞれの人類が存在した期間はかなり重なっていて、同じ地域に混在していたのは事実のようだ。ホモ・サピエンスも20万年前に誕生して世界に拡散したということだから我々の直系の祖先も彼らと同じ時期に存在していた。では、どうして最後に我々だけが残ったのか。「闘争説」「気候変動説」「噴火説」「疫病説」「異種交雑の結果説」「学習能力の違い設」など色々な説があるらしいが、最もセンセーショナルで説得力がありそのなのが「闘争説」だ。と言ってもそれは世界の歴史=戦争の歴史みたいなものだから先入観的にそう思ってしまうが、後発のより少しだけ環境に適応した生物はその前にいた生物を駆逐してしまうというのは当たり前のように繰り返されてきたことらしい。セイヨウタンポポが在来のタンポポを駆逐したという例が語られている。
それに加えて、海部博士は、あとから広がってきたホモ・サピエンスにそれぞれの地域で限定的とはいえ、元いた人類との混血がおこなわれながら現在の人間が出来上がったと考えているそうだ。
ヨーロッパでは、ネアンデルタール人とホモ・サピエンス(クロマニョン人)との混血の事実が明らかになっていて、オーストラリアのアボリジニにはジャワ原人の骨格の特徴が見られるそうである。
ホモ・サピエンスはどうしてそこまで世界中に広がることができたのか、著者はその答えとして、それまでの人類は環境に適応して体が変化してきた(これは動物と同じ進化の仕方だ。)けれども、ホモ・サピエンスは肉体を進化させずに技術で環境に適応し、また環境自体を変えることができた。だから同じ人々が世界中に広がることができるようになったと言う。
確かにこれは目からうろこというか、言われてみればもっともな考えだ

しかし、タンポポの例では、日本の在来種のタンポポは消滅したわけではない。でも、人類は1種類を残して滅んでしまった。そこにはきっと、神様が決めたのかどうかはわからないけれども、「知性を持つものはひとつの星に1種類しか存在できない。」というような法則がこの宇宙にはあるのではないだろうかと考えてしまう。人工知能がこれから先、どんどん発達してくるとやはり今度は人間がネアンデルタール人のような立場になる日も来るのではないかと思うのは考えすぎだろうか?


「食べることは生きること。」これは朝の連ドラ「ごちそうさん」のテーマになっている言葉だが、ほんの数十年前まで、まさに食べること=生きることであったはずである。飢えることが一番の難儀だったはずだ。だから豊かな時代になっても人は食べることにこだわり、時間を費やしてきた。しかし、そんな人間の本質を悪い意味で覆してしまったのがインスタント食品ではないのかと「まんぷく」を見ながらふと考える。勤務先が近くなったのでこのところ、まんぷくヌードルの開発物語を見ている。
ふくさんのへんな大阪弁も気になるが、まんぷくラーメンとまんぷくヌードルが日本の、世界の人々の生活を変える画期的な発明品だと豪語する萬平さんの言葉にも引っかかるものがある。
確かに日本人の生活を変えてしまったかもしれないが、それはよい方向だったのか、悪い方向だったのかといえば、それはきっと悪い方向であったのではないだろうか。インスタントに続いてレトルト、中食というような惣菜。便利にはなったけれども自分の食べるものを自分で作らなくなった人がかなりの部分を占めるようになったころからこの国はおかしくなってきたのではないだろうか。
その究極が、それらが大量に売られているコンビニだろう。僕が偉そうなことを言えるものではないけれども、自ら食料を調達し、そしてそれを作ることが人と人をつなぎとめ、世代をつなげていくものではないのだろうか。それを他者にゆだねてしまったのが今の日本の姿のように見える。今では僕も含めて、スーパーで売られている食材が、どこか来てどんな過程を経てここに並んでいるかを知っている人はほぼゼロではないろうか。
コンビニでしか食べるものを買わない人間にはろくな奴がいないと僕は常々思っている。そして、夜明け前のスーパーの中をうろついている奴は僕を含めてどう見ても怪しい奴ばかりだ。

この本を読んでいても、“ホモ”がついた我々の仲間は今まで200万年は生き続けてきたことになっている。それは食べるものを自ら見つけ、食べる方法を自ら見つけてきた結果に他ならない。そこに知恵を絞り続けたものが人類の系譜であると言えるかもしれないではないか。しかし、これから先、ホモ・サピエンスはどれだけの年数を生きながらえることができるのだろうか。人工知能とのせめぎあいのその前に、ごはんを作らなくなったからという理由で絶滅してしまうのだということになってしまうのではないだろうかといらぬ心配をするのである。
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加太沖釣行とタラノメ採り

2019年03月23日 | 2019釣り
場所:加太沖
条件:大潮 7:41満潮 13:51干潮
潮流:5:10転流 8:28上り2.0ノット最強
釣果:真鯛 1匹

この春は休みの度に天気が悪くて、前回の加太への釣行からすでにひと月近くが過ぎてしまった。そして今日も冬型の気圧配置でもうすぐ桜も咲こうかというのに北風が強いようだ。ただ、日本海にかかっている等圧線は約2本半。とりあえず行くだけは行ってみよう。



その前に、タラノメもそろそろ採り頃のはずだ。今年は暖冬だったからもっと早いかと思っていたら、3月に入ってからの気温の低さで結局今頃になってしまった。天気のほうも時間が経つにつれて穏やかになるような雰囲気なので釣竿を荷台にくくりつけてまずは山の方に向かった。コンペティターが多すぎる第1ポイントは最初からあきらめ、第2ポイントと第3ポイント、今年新発見した第4ポイントと一気に回って港へは午前7時少し前に到着。

一番広い第2ポイントはだんだん株が少なくなって来ているとはいえ今年も豊作だ。第3ポイントは木が小さいので芽はかなり大きくなってしまっていた。ここも去年の台風のせいだろうか、何本かの木が倒れてしまっていた。残念。そして期待の第4ポイントは・・。ここはまだま芽が出ていない。最低でもあと1週間はかかる感じだ。しかし、ここはどう見てもコンペティターが多そうだ。まあ、最後まで見届けて来年に向けての策を考えよう。(といってもそんなものはないけれども・・・)



港に到着しても風はかなり吹いている。この状況ではいつもなら多分、タラノメもあるしもう帰ろうと考えてしまうのだが、一昨日のイチローさんの引退会見の言葉が僕の脳裏をよぎった。
「はかりはあくまでも自分の中にある。それをちょっと超えていく。その積み重ねでしか自分を超えていけない。」
僕もいつまでも怖気づいてばかりではいけない。ここはチキンの心を超えねばならない!!。そして同じ港に係留しているTさんもすでに出港している。僕だけが尻尾を巻き続けているわけにはいかないのだ!!
と急いで準備をして船を後進させていると、あれ~。Tさんが帰ってきた・・・。うわ~。やっぱり風が強いんだ・・。しかし、もう離岸してしまった。ここで引き返すことはもう無理だ。渡船屋のおじさんにも完全にチキンであると看破されてしまう。これはもう、行けるところまで行くしかない。自分を超えたらあの世だったというのもこれはかなわんが・・。

幸運なことに、風は強いが波はそれほどでもない。といってもそれも田倉崎までだった。上り潮なので船団は第2テッパンポイントに集まっているけれどもそこまで到達できない。



どれくらい風が強いかというと、関西空港に降りていく飛行機が向かい風でスピードを殺されほぼ止まって見えるのだ。



オモリを30号にしてなんとか底を取って仕掛けを操るがアタリはない。約1時間後だろうか、やっとアタリが出た。仕掛けに手をかけ、ハマチの姿を確認したが、あえなくバラシてしまった。これは落胆が半端ではない。こんな風の中で次のアタリがあるとも思えない。しかし、魚探には時々反応があるのでなんとか午前10時までは粘ってようと頑張るがアタリがない。もうすでにモチベーションも無くなってしまっている。その無の境地がよかったのか、待望のアタリ。今度こそバラすわけにはいかない。慎重に取り込んでなんとかボウズを逃れることができた。
それから1時間、上りの潮にまかせて帝国領内奥深くに侵攻しウロウロしたけれどもアタリがなく午前11時に終了。



帰りは追い風。波も小さく快調に帰ることができたけれども、今日も自分を超えることができなかった・・。



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タラノメ調査2回目

2019年03月19日 | Weblog
「キミは他人に鼻毛が出てますよと言えるか」の読書記録にも書いたが、今日は朝から雨。夕方やっとやんだので灯油の購入を兼ねてタラノメの調査に行ってきた。去年の今日は少しだけだが採ることができたので夕飯のおかずくらいは採れるかと思ったが、どうも小さい。森の入り口で諦めて帰って来たのだが、多分奥に入っても同じようなものだろう。それに、この第2ポイントは今のところコンペティターがいない。もっと大きくなってから採り頃を狙えばよい。明日からの気温と今日の感じでは次の休みくらいが採り頃かもしれない。
今年はかなりの暖冬であったけれども、ここ数日の寒さで灯油も不足し、タラノメも例年並みという感じだ。

来年のための記録としてブログに追加しておく。
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「キミは他人に鼻毛が出てますよと言えるか」読了

2019年03月19日 | 2019読書
北尾トロ 「キミは他人に鼻毛が出てますよと言えるか」読了

この本は、「“小さな勇気”を出して日常の生活の様々なことに挑戦する。」というテーマのものだ。様々なこというのは、まったくしょうもないことでありながら、けっこう、たしかに小さくないほどの勇気がいるものじゃないかと思うものばかりだ。

たとえば、電車の中の迷惑な人に注意する。街や電車の中でひとりでいる人に声をかける。鼻毛が出ている人に、「鼻毛が出ていますよ。」と声をかける。母親に結婚前の恋愛観を尋ねる。高校時代の片思いの女の子に、「好きでした。」と告白する。
というような内容だ。アングラ雑誌の連載のための企画であったらしいが、ちょっと勇気を出せば胸のつかえが取れるかもしれないのに、何もしないまま死んでいくのは悔しいではないかと著者は言う。

確かにそうなのだ。僕もずっとそんな後ろめたさを引きずって生きている。それもとても小さなことに対してだ。たとえば電車の中の迷惑行為。ペチャクチャしゃべるうるさい女、体臭や口臭の臭いやつ。イヤホンからカシャカシャ音を出すやつ。通路に荷物を置くやつ。長時間の通勤ではそんなやつが横に座ったり横に立ったりされるとずっと苦痛が続くのだ。(座席に座っていて横に立たれると、音や口臭というのがちょうど僕の頭の上に直撃となる。)
そんな相手にはきちんと、「あなたは人に迷惑をかけている。」と言ってやれれば僕の心の中の後ろめたさや自分はなんと弱い人間なのだろうと思う悔しさが解消されるのだろうけれども、たまに我慢ならなくなっても相手を見てしまう。「こいつならケンカしても勝てるんじゃないか。」と思える相手にしかそれをできない。

赤の他人と話をする。これも難しい。またまた電車の中の話になってしまうけれども、ぴったり体をくっつけるほど近くに座っているけれども一言も口を聞かない。不自然と言えば不自然。たまに思う。このひとはどこへ帰ってゆくのだろう。今日は何をしてきたのだろうと。小さな勇気を出して聞いてみれば新しいコミュニケーションも生まれるのだろうけれどもこの国ではそっちのほうが不自然だ。
ただ、釣りに行くとちょっとそれが変わる。共通の話題があるからなのだろうけれども、どこから来たひとかとか、いつもどこで魚を釣っているかというわずかながらの会話が生まれる。知らない人と話をすることは自分の幅を広げることができるいい機会だ。
今、四国遍路の録画を見ながらこのブログを書いているのだが、ここではそれが当たり前の姿になっているようだ。これが人々を引きつける理由のひとつかもしれない。
知らないものどうしはお互い旅人同士。旅人は昔から様々なことをもたらしてくれる希人と言われるが、そうしたいと思うと小さな勇気がやっぱり必要になる。

人に謝る勇気。告白する勇気・・・。アングラ雑誌のフリーライターなどというと失礼だが、そんな人が書いた、おそらくは奇をてらったネタなのだろうけれども、子供から、「あなたはいつも逃げている。」とののしられるこの身にはこの小さな勇気が欲しいと思うのだ。
そう思って小さな勇気を振り絞って理不尽な客に対峙しているから、会社からは危ないやつだと警戒されて現場から外されてしまったのではないかしらなどと、力の入れるところが違うんじゃないかと後悔するのだ。

笑いながら、その裏でう~んと唸ってしまう1冊であった。


今日の休みも朝から雨だ。1週間前の予報では曇り、おとといの予報でも午前中はなんとか持つ感じで、昨日の予報でいきなり朝から雨になっていてそのとおり午前4時に起きてみると本当に雨が降ってきた。今日はタラノメを採りに行ってから加太へ行こうと思っていたのにすべての予定がダメになってしまった。ここでも少しの勇気を出して雨の中出撃すればいいのだろうけれどもやっぱりそんな勇気は出て来ない。
ずっとこんな調子で悔しさを噛みしめながら人生終わっていくんだろうな・・・。
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「意識の川をゆく: 脳神経科医が探る「心」の起源」読了

2019年03月17日 | 2019読書
オリヴァー・サックス/著、大田 直子/訳 「意識の川をゆく: 脳神経科医が探る「心」の起源」読了

著者は、「レナードの朝」という映画の原作を書いた精神科医だ。ロバート・デ・ニーロが主演で、数年間眠り続けた患者が突然目を覚ました。という映画だというのはなんとなく覚えている。(観たことはないけれども。)
その精神科医が、「意識」についての様々なことをエッセイ風にして過去の研究者などの見解を織り交ぜながら書いている。

ダーゥインの研究からは、いったいどれくらい下等な生物まで意識を持っているのかという考察をおこなっている。
意識というものをどうやって定義するかということも難しいが、こんな感じらしい。

意識=精神+感情

たとえばミミズは意識を持っているか・・。ただ刺激に対して反射をしているだけではないのかというと、そうでもなく、危険ではない刺激を与え続けるとそれに慣れてきて「馴化(じゅんか)」といういう状態となり、逆に危険な刺激を与え続けると過剰に敏感になる「鋭敏化」という状態になるそうだ。外からの刺激を認識していることになる。感情や精神を持っているとはいえないけれども、何かに対して「認識」ができるくらいの能力はあるらしい。
こういった反応は神経回路のなかの電気的な反応がもたらすのであるのけれども、ミミズと人間では神経回路の基本的な構造は変わらない。変わるのはその複雑さだけである。
それは体の大きさにもかかわるもので、ひょっとしてミミズが人間くらい大きかったらその行動は喜びや痛み、飢えや願望を持っていたかもしれないと考える科学者もいるらしい。

植物も動きはゆっくりであるが、画像に撮って早回しで見てみるとあたかも意識を持っているかの如くの振る舞いをする。植物には神経がないのでそのかわり様々な化学物質を分泌して外部からの刺激に対応している。ピエール瀧がコカイン使用で逮捕されたというニュースが流れていたけれども、あんな物質も、ひょっとしたらコカの木が切られたときに痛みを和らげるために作り出した物質かもしれない。そう考えると、動物とはただスピードが違うだけで意識とはいかなかいまでも認識をする能力があると言えるのではないだろうかと著者は説明している。

しかし、ピエール瀧というと「あまちゃん」で“無頼鮨”の“梅頭”という大将の役をしていたのだけれども、これで「あまちゃん」の再放送の可能性は限りなく無くなってしまった。「まれ」は役者たちが性犯罪や宗教に走ったりでまず再放送は無理だし、まあ、それほど観たくもないのだが、それに比べて「あまちゃん」の役者たちは犯罪からは縁遠いし、また再放送をしてくれないかと期待を込めていたけれどもあまりにも残念だ。


まあ、それはさておき、こう考えてみると、神経回路を持っている生物、もしくはそれに代わる伝達手段を持っている植物たちは意識を持っていると考えてもいいのかもしれない。
神経回路に代わる伝達手段というと、今、キーボードを叩いているこのパソコンにも高度な伝達手段がある。そうなると、このパソコンも意識を持っていると言ってもいいのであろうか。となってくる。そういえば、サクサク動いてくれる日と不機嫌な動き方しかしない日があったりして確かに人間的なところがあるように思える。

このパソコンは現段階で、どれくらいの生物のレベルに達しているのかは知らないけれども、やっぱりいつかは人間のレベルにまで達するときが来るのであろうか。
「ホモ・デウス」の著者は、将来、人間は情報だけの存在になるのではないかという示唆を与えているが、もし、コンピューター自身が意識を持ってしまったら、人間の意識を乗せかえるのではなくて新しい生物(意識?)が生まれることになるけれども、それはそれで困ったことにはならないのだろうか・・。

著者はそんなことを考えているのかどうかはわからないけれども、人間の意識の特徴として、「忘れる。」「思い違いをする。」「考えても考えても正しい答えや新しい発想が思い浮かばないけれども、それを頭の中で長いこと寝かせておくと突然ひらめくときがある。」と書いている。確かにそんなときがある。そういうことが芸術を生み出したり新しい技術を生み出したりする。そんな芸当はコンピューターには無理だろうと言っているかのようだ。
繊細な人間の神経構造は様々な神経症を引き起こしたりもするけれども、やはりそれも人間なのだと言わんがようだ。

著者は2015年に亡くなり、この本が最後の著書になったそうだ。多分、そんな人間らしさとは何かというようなそんなことを言いたくてこの本を書いたのではないと思う。もっと大きな自然科学の発達してきた大きな流れのなかで自分がどんな役割りを果たしてきたかというようなことを残しておきたかったのだろうけれども、僕にはどうも人間はどこに行くのかということを考えている本のように思えて仕方がない。

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ワカメ採り

2019年03月15日 | Weblog
今日は久々の釣り日和なのだがワカメのほうが気になる。今日の風のない日を逃すと次のチャンスが巡ってくるかどうかがわからない。
潮は小潮であまり引かないけれどもとりあえず出港だ。

干潮時刻は午前午前5時53分。日の出時刻が午前6時11分なので辺りが薄っすら明るくなるころに船を出した。
いつものポイントに行ってみると、潮が高いこともあいまってかあまりワカメの影がみえない。底が少し黒くなっているところにカネを落としてみるけれども感触がない。今年は暖冬でどこもワカメが少ないらしいがここも同じような感じのようだ。去年はこの岩の下にどっさりワカメが生えていたのだが、相当グリグリやって小さなワカメが上がってくるだけだ。



これでは埒が明かない。
この前見たテトラの際に移動。テトラ帯は危険が多いのでなるだけ近寄りたくはないけれども仕方がない。この写真も、採っている最中にカメラを構える余裕がないので離岸後に撮ったものだ。



慎重に接近して碇をロストしないようにテトラの浅場で平らになっているところにそっと置いてスタート。時折、このこの碇に船底が擦れてガリガリ音がする。やはりテトラ帯は危険がいっぱいだ。
2か所にコロニーが水面下に見える。もう、採れるのはそこだけだ。ここもワカメが小さい。中には軸ごと食べることができそうなものもある。多分、数はそれなりに採れているのかもしれないが、嵩がないのでランドリー袋1個分ほどで終わってしまった。

これではダメだと思い、大島の北側や青岸の防波堤の際も見てみたけれどもまったくワカメの影を見ることができなかった。

家に帰って干してみても、重みで洗濯バサミから落ちてしまうようなものがない。それなのにいくつかは先の方がすでにたけてきている。(ワカメの先の方が枯れて溶け落ちてしまうことをこの辺りでは“たけてくる”という。大概は大きくなりすぎてくるとそういう現象がおこるので、“長けてくる”というような文字が当てはまるのだろうか・・?)
今年はこのまま消えて無くなってしまうのか、それともこれからまだ大きくなってくれるのか、もう少し様子を見てみよう。




一文字のテトラの廻りでは、今年も淡路島からやって来たと思われる漁師が潜ってなにやら取っている。今日は切れ目のすぐ前にいたので様子を見ていると、ナマコを山のように獲っていた。この海の中には僕の知らない、そして獲ることができない獲物がまだまだあるようだ。
もっと若くて体力があれば僕も潜って獲りたいと思うのだが、お宝を目の前にして歯ぎしりをするしかない。



残念・・。

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今日も停滞

2019年03月11日 | Weblog
今日で3日連続休日は天気が悪くて停滞だ。

ワカメはかなり大きくなっているだろうがこの風では船を出すことはできない。今年の3月は特に休みと天気のめぐり合わせがわるい。



それぞれの船も半月近く乗っていないのでとりあえずエンジンだけ回しておいてその後は獲らぬタヌキの皮算用。
ワカメを干すための竹竿を切り出して家に帰ってからはこれまた皮算用で包丁研ぎに精を出してみた。

大きい方の出刃包丁は2回使っただけで刃がボロボロになってしまった。日本刀も人をひとり切るだけで刃こぼれでボロボロになると聞いたことがあるが、そんなものなのだろうか。約30分ひたすら砥ぎ続けてなんとか欠けたところを修復できた。



ついでにほかの包丁も砥いで合計1時間半。砥いでいる間はなんとなく集中ができている。これもフロー体験なのだろうか・・・。



次の休みも今のところ雨模様だ・・・。
このままだと今年はワカメを食べられないかもしれない。別に食べないと死ぬというものでもあるはずではないのではあるけれどもやっぱりこれも揃わないと春が来たことにはならないのだ・・・。
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「鍵のない夢を見る」読了

2019年03月10日 | 2019読書
辻村深月 「鍵のない夢を見る」読了

日常の生活のなかでふとしたことから起こってしまう犯罪が題材になっている短編集だ。
癖になってしまった窃盗。人恋しさの放火。育児ノイローゼ。幼稚な殺人。
共通するキーワードは“清潔”と“大人”幼稚な清潔さが犯罪を呼ぶ。しかし、腹の中で何を考えているかわからずに食卓を共にしているかもしれない人間を見ていると虫唾が走り恐怖を覚える。それが幼稚だと言われればそれでもよい。

“人は心の中で思っていないことは絶対に口に出せない。”という。だが、それを言ってしまってはお終いだ。それを言われてもさらりと受け流してしまうのが大人なのだろうけれども僕にはどうもそうはなれない。ひょっとして僕もすれすれのところにいるのだろうか。

それでも腹の中と表の顔とを使い分けられるほど僕は器用ではない・・・。

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