イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

住金一文字沖釣行

2023年08月26日 | 2023釣り

場所:住金一文字沖
条件:若潮7:41干潮
釣果:タチウオ5匹 ハマチ1匹

先週、タチウオがまったく釣れないとぼやいているそばで、住金一文字沖ではハマチが爆釣だったそうだ。それじゃあ、そっちに行っていた方がよかったじゃないかと、1週間遅れで行ってみた。
釣り方は飲ませサビらしい。元々、こういった待つ釣りは苦手で、さらになかなかベイトが乗らないという悩みがある。どうして乗らないのだろうかとFさんに聞いてみると、枝素8号では太すぎるそうだ。彼は4号とか5号で作っているということだ。
今日は僕も5号で仕掛けを作って挑んでみた。

前回はなんだか夜明けが遅かったので少し遅めに出港すると、今日は雲が少ないのか、すでに東の空が明るくなってしまっていた。



そして、早朝はなんとなく空気が涼しく感じる。日中は堂々とした入道雲が沸き上がっているけれども少しは秋に近づいているのかもしれない。



昨日、由良沖で貨物船が衝突事故を起こしたというニュースが流れていた。そんなことがあったからではないが、暗がりでの航行は危険が伴うので無茶なことはできない。焦りを押さえてゆっくり船を進める。
その事故を起こした貨物船だが、キリンクレーンの岸壁に係留されていた。



ここで現場検証をするらしい。事故は意外と身近にある。余計に気をつけねばと思うのである。

今日もとりあえずは保険のタチウオから始めてみる。先週よりも状況はよいがそれでもアタリは少ない。帰投する途中、海の様子を眺めてみると、まだ濁りは消えていないようだ。青岸の灯台から先はうっすらと濁っている。今日は港内の水と濁りの境目でアタリが出ていたようだ。

住金一文字に向かって移動。
防波堤の手前からベイトを探すためにゆっくり移動してきたが、一度だけ海底付近で魚の塊が映った。前回覗いてみた時よりも期待が持てそうである。
多分、本命の場所は先端のようで、ここには数隻の船が集まっている。



確かに反応はある。さっそく仕掛けを下ろしてみるとアタリがあった。しかし、ベイトにしては引きが強い。15センチほどのマアジだ。これがベイトでは大きすぎるのではないだろうか・・。あらまあと思ってしまう。
しかし、今日はここで粘るつもりだ。燃料代もどんどん上がり、今日の補給ではとうとう2400円を超えてしまった。



もう、天井知らずのごとくのようである。船底もかなり汚れているのか、スクリューにはそれほどフジツボは見えないが速度は15%ほど低下している。6月に比べると燃料代は20%増で、推力が15%減少となると差し引きで燃費代は35%アップということになる。これではおいそれとは加太まで行けないのである。

今日はもうひとつ試してみたいことがある。ベイトが乗らないのは仕掛けが太いからだと教えてもらったので細い仕掛けを作ってみたが、いっそのこと、小アジ用のサビキでエサを釣って、それを鉤にひっかければ本命が喰ってくるのではないかと考えたのだ。
今日は20年来使っていないスキンサビキが入っているポーチを持参してきている。一部は劣化しているが、4、5匹釣れれば十分なのでなんとかなるだろう。
反応が見えてきたので仕掛けを入れてみるとすぐに喰ってきた。飲ませのエサには最適のサイズの小アジだ。5匹確保して元の仕掛けに戻して釣りを再開。



防波堤の先端の前で仕掛けを下ろすと、錘が海底に到着する直前でいきなりアタリがあった。しかし、これは小さなツバスだ。



ここもこのサイズしかいないのかと落胆するのだが、今日はここで粘るしかない。

船は防波堤のスリットの前にもいるので彼らは根魚を狙っているのかと期待して移動してみる。防波堤ギリギリまで接近して仕掛けを下ろすとエサの魚がブルブル震え始めた。これは大きな魚が接近しているシグナルだ。しかし、竿先は引き込まれていかない。しびれを切らせて合わせを入れるが空振りだ。仕掛けを点検してみると2匹付いていた小アジ(1匹はじかに仕掛けに喰いついてきたものだ。)の1匹がハリスごと消えている。何のテンションもなく5号のハリスを切っていく魚というのは何なのだろう。こんなに際ではサゴシがいるわけもなく、知識と経験がないのでまったくわからない。
小アジはまだ1匹残っているのでそのまま釣りを続行するとまた同じようなアタリ。今度は魚だけが消えている。確かにここには何かがいるようだ。

船が混んでいるので再び先端部に移動して小アジを付けなおして仕掛けを下ろすといきなり竿先が引き込まれた。この釣りは仕掛けが落ちていった直後がキモのようだ。特に青物は常に上から落ちてくるエサを待っているような気がする。
引きは強い。道糸はどんどん出てゆく。ドラグを締めたいが糸は5号である。無理をすると切れてしまう。竿の弾力でなんとか持ちこたえるとやっと糸の出が止まってくれた。
それからはヒヤヒヤしながらやり取りをしてなんとか取り込むことができた。60cmにも満たないハマチだが、よく引いてくれた。
しかし、5号ではこの大きさが限界だろう。

午前7時半を過ぎると作業船がやってきた。



海の上が騒がしくなってきたのか、ベイトの反応も完全に消えてしまった。もう一度っスリットの前に戻ってみたがなんだか魚が釣れる気がしなくなって午前8時、もともとこれくらいの時間までかと思っていたこともありそのまま終了。

これは微妙な考え方だが、釣ったエサを引っかけて釣るのならハリスは太くてもいいのじゃないかと思う。しかし、その仕掛けではベイトを食わせながらの釣りはできない。そもそも、釣ったエサをひっかけるのなら胴突き仕掛けではなくてもハリスを長くした泳がせ仕掛けでもいいのではないかとも思うのである。考え方は堂々巡りをする。

合理的な釣りと面白い釣りは別なのはよく理解しているが、この釣りは経験がないので何がよいのかがさっぱりわからない。もう少しいろいろ堂々巡りをしてみたいと思うのである。

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「相分離生物学の冒険―分子の「あいだ」に生命は宿る」読了

2023年08月24日 | 2023読書
白木賢太郎 「相分離生物学の冒険―分子の「あいだ」に生命は宿る」読了

相分離生物学という学問の意味はまったくわからないのだが、サブタイトルの、『分子の「あいだ」に生命は宿る』という言葉に惹かれて読んでみた。
福岡先生は、「動的平衡」が生物であることの証だというが、この本の著者は、分子(この本ではたんぱく質)の間にこそ生命が存在しているというのである。

この本でいう“あいだ”とは、細胞内のたんぱく質その他の濃度差のことをいう。現代の分子生物学はほぼすべてのたんぱく質の働きを解明している。細胞のなかのたんぱく質は酵素やイオンチャンネル、抗体、ホルモンなどとして機能する。こういった働きは代謝マップというかたちでほぼすべての働きが解明されているのである。



しかし、この代謝マップに関係するたんぱく質をすべて集めて試験管の中にぶっ込んでも生物として代謝を始めない。

それはなぜか。それは、細胞内でのたんぱく質濃度差にあるという。例えば、人間の細胞の中には約100億個のたんぱく質が存在しているという。それに加えて、酵素、イオン、脂質、糖質など様々な物質が溶け込んでいる。とりあえずはこんなにたくさんのものが目に見えないような小さな物の中に入っているのだということに驚くのであるが、さらにたんぱく質やその他様々な分子は細胞の中に均一にバラバラに存在しているのではなくある程度塊をつくって存在しているという。
核やリポソームのように膜で仕切られていることでたんぱく質濃度が高くなっている部分があるが、それ以外にもたんぱく質同士が自然に集まって濃度を上げている場所がある。これをドロブレットという。そして、これらの濃度差(ドロブレット)こそが生物を生物たらしめていて、たんぱく質や分子の相互作用を研究するのが「相分離生物学」なのである。
試験管の中ではたんぱく質や分子は均一にしか存在することはできないので生物しての代謝をすることができないということなのである。

なぜ濃度差があると生物としての代謝をすることができるのかというと、代謝に必要な酵素や分子が高濃度に集まると代謝マップにあるような化学反応が進みやすくなるからである。ただ、ことはそんなに簡単なものではなく、このドロブレットは生まれては消え、消えては生まれるという。その動きが、生命反応の様々スイッチにもなっているという。
細胞の中で、どうしてそんなことが自由自在に行われているのかというのはいまだよくわかっていないらしい。何しろ、この学問はまだ生まれたばかりだからだ。
しかし、相分離生物学は老化や病気、ガンのメカニズム、創薬、そういったものを劇的に進化させる可能性を秘めているという。
この本も大半はそういったことに説明が割かれている。

まずはたんぱく質の構造が説明されている。
たんぱく質はどうやって作られるか。設計図はDNAの鎖の中にある。あるたんぱく質を作ろうとすると、そのコードが書かれている遺伝子の部分のDNAの鎖がほどけてそこからメッセンジャーRNAに情報がコピーされ核の外に出てゆく。その情報を元にしてアミノ酸の鎖が作られる。その後、たんぱく質の鎖は自動的に折りたたまれて立体構造を作る。その立体構造が酵素やエネルギー、イオンの運搬、または免疫細胞のアンテナとして働く。そして、その折りたたまれ方というのは、ひとつのたんぱく質について1種類しかないので必ず同じ形になるという。これをアンフィンセンドグマという。

人が病気になったり老化するということは、たんぱく質が変成することでもある。例えば、卵白を加熱すると白く固まっていくようなものだ。これでは本来のたんぱく質の機能が失われてしまう。だから体も正常に機能しなくなるのである。これは、加熱だけではなく、pHの変化やドロブレットの中に溶け込んでいる物質の変化でも起こる。こうしてたんぱく質の立体構造が壊れ、本来の機能を失うことで生物は変調をきたす。

しかし、ドロブレットの中でたんぱく質が集まりすぎても変調をきたす。その代表例がアルツハイマー型認知症だ。
細胞の代謝が悪くなると排出しきれないたんぱく質が凝集し始める。たんぱく質の折りたたまれ方というのは、αヘリックスというらせん状の折りたたまれ方とβシートという蛇腹状の折りたたまれ方の2通りがある。これが組み合わされてひとつのたんぱく質ができるのだが、βシートに富んだたんぱく質同士はその部分が水素結合して細長い繊維状の構造体に変化する。これをアミロイド構造という。アミロイドはタンパク質分子が規則正しく積み重なった安定な構造で、水に溶けにくく、たんぱく質分解酵素への耐性も高く、生体組織に沈着していく性質を持つ。
アルツハイマー型認知症は、脳の神経細胞外に沈着してできたアミロイド斑(アミロイドβ)ができたあと、タウと呼ばれるたんぱく質のリン酸化が進んで細胞生理が異常をきたし、神経細胞が破壊されて発症する。
もっとおぞましいのは何年か前に流行した狂牛病だ。狂牛病は飼料に家畜をと殺したあとの骨肉粉を混ぜていたことが原因だとされているが、アミロイドは非情に安定したものなので、乾燥させて粉末にしても壊されずに残ってしまう。それを食べた牛は再びアミロイドを蓄積し、それがと殺されまた飼料となることで牛の脳の中でアミロイドがどんどん蓄積され発症に至ったというのである。
当時、このニュースを見ながら、飼料に混ざっていても食べて消化されてしまったら全部分解されてしまうのではないかと思っていたが、消化もされずに体内に蓄積されていくたんぱく質があるのだということを初めて知った。

初めて知ったというと、細菌の中には超好熱菌のように100℃を超える温度にも耐えられる細菌があるが、この菌を構成するたんぱく質は熱に弱い細菌、例えば大腸菌が持っているたんぱく質とは電荷を持っているアミノ酸が数個多いだけでこれだけの耐熱性持つことができるという。ほぼ同じ機能を維持しながら少しだけ構成を変えるだけで大きな環境変化に対応できるというのもたんぱく質なのである。

アミロイドが厄介なのは自己増殖するということだ。プリオンと呼ばれる種類のたんぱく質がある。主に細胞膜に結合しているらしいが、これが異常をきたすとアミロイドを構成するようになる。異常をきたしてアミロイドになったプリオンは正常なプリオンに働きかけてアミロイドに変えてゆく。こうしてアミロイドが増殖してゆく。
しかし、生物の進化の中で、こんな厄介なアミロイドがどうして生き残ったかというと、例えば、アルツハイマー型認知症を引き起こすアミロイドβはその変化しにくいという特性から長期記憶を維持するための分子的な足場となっている。記憶を喪失させる物質が記憶するための物質でもあったのである。微妙に調整しないと必要であったものが悪になる。生物の体はなんとも複雑である。

話は戻って、そういった凝集を防ぐためのたんぱく質たちも存在する。これをシャペロンと呼ぶが、シャペロンのおかげでたんぱく質は細胞内で溶け続けることができるようになる。
これは凝集を防ぐだけでなく、突然変異したたんぱく質も溶かして細胞内で残すことができることで新たな表現型が生まれる要因となる。これが進化のメカニズムである。
こんなことがわかったのも、相分離生物学の成果ということができる。

薬剤が効き目を発揮するかどうかというのも、ドロブレットに溶けやすいかどうかということが分かれ目になることがあるという。試験管の中ではドロブレットがないので、そこで効き目を確かめても臨床試験では成果が出ないということは多々あるそうだが、その原因も相分離生物学が解き明かしたのである。

2、3日前のニュースで、アルツハイマー病の治療薬「レカネマブ」が日本でも承認されたと報道されていたが、この薬は一度臨床試験が中止されていたそうだ。実験では効果があるが、臨床試験では効果が出なかったというのがその理由だったそうだが、これもドロブレットの中にうまく溶け込めないという弱点があったからのようである。それでも、アルツハイマー病に少しでも効果がある薬がないので無理やり承認されたということだった。


生物が地球上に生まれたのは40億年も前のことだったそうだが、地の底から深海中に湧き出てきた有機物たちがまずはドロブレットのようなものを作って集まり、それらがさらに集まって生物として代謝という脈動を始めたのだろうとこの本を読みながら勝手に想像していたのだが、惑星が生まれるのもよく似ている。宇宙に漂う石ころが、この場合小さな引力なのだろうけれども、引き寄せ合って大きくなり、その塊まり同士がまた引き寄せ合って大きくなって星になる。よく考えると生物も星も似たような形で成長し、死を迎え、その死骸が次の世代を作る材料になる。そういったところもよく似ている。その中で生物は意識を持つようになった。意識を持っているのは人間だけなのだろうか。同じように成長した星は人間が感知できない意識を持っていたりするのだろうか・・。
そんなことを考えてしまう1冊であった。



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水軒沖釣行

2023年08月22日 | 2023釣り
場所:水軒沖
条件:小潮 2:44干潮 8:50満潮
釣果:ボウズ

今日は一応、母親を病院に連れて行くという理由で今月3回目の有給休暇を取ってしまった。こんなに休み続けると、しまいにはみんなにソッポを向かれてしまうのだろうな~・・。
でも、そこは割り切って休んでしまうのだ。どうせ、奴隷の身分から這い出ることはできないのだから。

船外機にガソリンを入れておきたいので、スタンドの開店時間である午前7時に合わせて釣りを終えようと考えている。

15年前にはこんなに釣れたのだが、それ以来8月1日からお盆まではこの場所でスズキが釣れるという法則を見出したものの、3年ほどであっけなく崩壊してしまった。その後もたびたび訪れてみたが法則が復活する兆しはない。しかし、それでも一縷の望みをたくして行ってみたくなるのである。法則からは1週間過ぎてしまっているが、スケジュール的にも今日は行ってみたいと考えていた。

出港は午前4時半。普通なら辺りは少し明るくなっているはずだが、今日は雲が多くて真っ暗だ。



慎重を期してゆっくり船を進める。というか、今年はやはり水温が高いのか、すでに船底がかなり汚れているのか、まったく速度が出ない。

双子島と大島、女島に囲まれた場所で錨を下ろして釣りをスタート。



しかし、まったく生体反応がない。いくら粘ってもこれはダメだろうと明るくなったのを見計らって沖の一文字の前へ移動。



ここからはジギングだ。100均ジグはやはり耐久性がなく、塗装はすでにボロボロになってしまっている。少し改造を加えて、塗装が剥げている部分を削り、アワビの殻を貼ってみた。もうちょっとうまくできるかと思ったが出来栄えは最低である。



それが悪いのか、ここでもまったくアタリはない。これではガソリンスタンドの開店を待たずに帰ることになりそうである。
と、思っていると、なんだかアタリのようなものがあった。ひょっとして何か魚がいるのかと思っていると、海面が少し騒がしくなってきた。これはボラではなさそうだ。
トップウォーターに結びなおして釣り始める。これにもアタリはなかったが、一度だけ水面を割ってきた魚があった。ただ、この魚は小さかった。先週釣ったツバスと同じくらいのサイズであったので釣っても仕方がないという感じであった。

結局、今日の獲物は電気ウキが1個だけであった。




こんなことをしていたら、港に戻った時間がちょうど午前7時になっていた。
ガソリンはまた値上がりしていて、今日はリッター171円までになっていた。ついでにバイクにも入れると3000円近くにもなってしまった。



トリガー条項というのウクライナ危機以来有名になったが、その頃にはすでに凍結されていた。元々、ガソリンや軽油に揮発油性を払いながらさらに消費税がかけられているのはおかしいという議論がありながらこれに対してこんな時くらい消費税を免除しろと野党も国民も何の声も上げないのはおかしいと思いながら、僕も声を上げないひとりなのである。
牧野富太郎の人生は、僕から見ると一族を破産に追い込んでまで植物の分類をこの人がやらなくても別のひとがやったのではないかと思っているので今期の朝ドラにはまったく共感ができないのである。だから、ガソリンの値段に対してもきっと誰かが声を上げてくれるだろうとしか思うことができない。まあ、仕事でもそうで、別に僕がやらなくてもほかの誰かがやるだろうと思っていては会社から評価を受けることはできないのである。
なんだかガソリンの価格表示版を見ながら自分の人生を振り返ってしまうのだ。

家に帰って病院に行き、今日の診察は早く終わったので今話題のビッグモーターに行ってきた。



ここはオイル交換が100円なのでずっと利用しているのだが、こんな状況なら早晩このサービスを止めてしまうかもしれないと思ったので交換時期まではもう少しあるけれどもとりあえず行ってみた。
事件は整備部品で起こったが、こんな時期だからこそメカニックもより丁寧に作業をしてくれるだろう。もちろん僕も監視の目を怠ることはしない。



去年、オイル交換に行った時には2時間以上待たされたが、今日は30分足らずの待ち時間であった。それはそうで、僕がいた時間帯、僕を含めて客は3人しかいなかった。会計のためにやってきた事務員に、「やっぱり、お客さんはすくないのかい?」と聞いてみると、力なく、「へへへ・・」と笑っているだけだった。この人たちには罪はないのだからかわいそうなものだ。
どこの会社も、まったく現場を顧みないものだとあらためて思うのである。

しかし、セールスマンはかなりガラの悪そうな感じで、店舗の清潔すぎるほどの清潔さとのギャップがありすぎた。やっぱりこの会社にはどこか影の部分を引きずっている部分があるのだろう。
とりあえずは撤退せずに残ってはいてもらいたいものだ。

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紀ノ川河口~水軒沖釣行

2023年08月19日 | 2023釣り
場所:紀ノ川河口~水軒沖
条件:中潮7:35満潮
釣果:タチウオ 1匹


普通ならお盆を過ぎれば朝晩の暑さは和らぐものだが今年はまったくそんな気配がない。ここ数年は同じようなことを思っているような気もするが・・。

今日も、あまりにも暑いのと台風7号の影響で流木が漂っているのが怖いから近場で済まそうと考えた。それに加えて燃料代の高騰というのもその理由に加わっている。毎週加太へ行っていてはとんでもない出費だ。

昨日の紀ノ川の水はまだ濁ったままである。台風7号の影響は残っているだろうが、まあ、釣れなければそれはそれでよい。

出港は午前4時半。雲が多いので辺りは真っ暗だ。



水は濁っているだろうと考えているので今日は港内のほうがよいだろうと出港してすぐに仕掛けを流し始める。タチウオが釣れ始めたという情報は世間を駆け巡っているらしく護岸のあちこちで電気ウキが光っている。



アタリがないまま結局青岸の灯台を越えてしまった。しかし、まだチャンスはある。今日もフェリーの入港がアタリが出始める号砲に違いない。午前4時50分、沖を見るとフェリーの姿が見える。いつもなら青岸側でやり過ごすのだがそっちは間違いなく水が濁っているので新々波止に寄って待ち受ける。



今日はフェリーが通り過ぎてもアタリがない。水の色は暗くてわからないがここも状況がよくないのかもしれない。
これはダメだと思い再び港内へ移動。



それがよかったのか、アタリが出た。小さなタチウオだ。さて、これからアタリかと思ったが結局これ1匹。やはり海況はよくなかったか・・。
しかし、1匹だけなら釣れてくれなかったほうがましである。魚が小さいからエラが外れて死んでしまっているので放流することもできない。煮つけにもできないがチーズ焼きにはできるから仕方なく持って帰る。

このまま帰るのも癪だから禁断のしかけを用意して沖の一文字の外側へ移動。去年の同じ週の土曜日には結構なサイズの魚を取り逃がしているので期待を込めたが釣れてくるのは小さなツバスだ。



照り焼きにできないことはないけれどもまだ元気に生きているので海に帰ってもらった。

家に帰ってからは台風のあと始末だ。台風は南南東のほうからやってきたので家の裏のトタン屋根が一部飛んで行ってしまった。

 

相当劣化が進んでいたから仕方がないだろう。しかし、隣の家はカーポートの屋根が外れてしまっていたからまだ被害はましなほうだろう。さすがは父親が作った骨組みだ。トタン板の劣化さえなければ何の問題もなかっただろう。

自分で葺き替えれば安上がりなのだろうが、トタン板は垂木ときちんと垂直に貼らないとどんどんいびつになってどうしようもなくなってしまう。だから僕の腕前ではそれをすることができないので今回は業者任せで修理をすることにしたのである。
なんだかな~、せめてそんなことぐらいは自分でできないといけないよな~。



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 「美味しいと懐かしい 随筆集 あなたの暮らしを教えてください (随筆集 あなたの暮らしを教えてください 4) 」読了

2023年08月13日 | 2023読書
暮しの手帖編集部/編 「美味しいと懐かしい 随筆集 あなたの暮らしを教えてください (随筆集 あなたの暮らしを教えてください 4) 」読了

「暮しの手帖」というと、朝ドラ「とと姉ちゃん」を思い出す。このドラマのモデルになったのは創刊時の編集者と、カリスマ編集長であった花森安治なのだが、今年で創刊75周年になるそうだ。雑誌がどんどん廃刊になる中、広告収入一切なしで雑誌を作り続けているのだから、これはきっとかなり奇跡的なことなのではないかと思う。

この本は、その75周年を記念して、連載されてきた随筆を選び出し4冊の随筆集として出版されたものの1冊だ。この本があまりにもよくできていたのか、電車の中で熱中しすぎて乗換駅を乗り過ごしてしまい、そのおかげで最後の乗換駅で時間をもてあましてしまったので駅ビルの本屋に行って初めて「暮らしの手帖」を手にとってみた。



掲載されていた随筆はA4サイズの雑誌のちょうど1ページ分(単行本では2ページ半)の短いものだったが、著者それぞれの思いが濃縮されているという感じだ。
花森安治の影響力が今にも続いているのか、芥川賞、直木賞作家、その他いろいろな文学賞を取った作家や科学者、俳優、各分野で一流の人たちが原稿を寄せている。まさに珠玉の随筆集と言えるのではないかと思う。すべての人の名前を知っていたわけではないが、著者紹介を読んでみると、あの本の著者だったのかとか、映画化されたものを観たことがあるぞとかいうことがいっぱい出てくる。本当に実力派ぞろいだ。だから、読み始めるとどんどんのめり込んでしまう。テーマが「食」に関することなので余計である。

収録されているエッセイを読んでいると、人との和=食の和ではないのかと思う。例えば、夫婦は元は他人同士だが、うまくいくには食の部分に共通ものがなければダメなのではないだろうか。集合のベン図の重なる部分が大きければよいがその部分が少ないと・・。
芸能人がすぐに別れてしまうのはまったく違う世界で生きてきた人たちが集まってきた世界の中で結婚しても食の部分で共通するものがほとんどないからに違いない。歌舞伎役者なんかはその典型で、ものすごく高級な食事をしている人たちの中に庶民が入っていってもうまくやっていけるわけがない。
大体、この人がどんなものを食べているかということが分かると、その人がどんな生き方をしてきたかということもわかるような気がする。器用な人は自分の嗜好を変えてゆくことができるのだろうがそんな人ばかりではない。
そして、長らく同じ食の志向を持っていたと思っていてもそれが違っていたとわかるときがある。そうなってしまうと、食事の時に急に会話がなくなる。
もう、相手のことを信じることができなくなるのである。

他人に対しても同じで、僕は人から食べ物をもらったときはまず断らない。むしろ喜んで受け取るほうだ。それは、あなたの好きなものを私も好きなのですという僕なりの表現でもある。日本人としては、一応、遠慮しておいてから改めてありがたくいただくという形をとるべきなのだろうから、まったく遠慮しない礼儀知らずだと思われているのかもしれないが、それが最適な表現だと思っている。
言葉の通じない異国の相手に受け入れてもらうための秘訣は、その人たちが食べているものを食べるのが一番だということを聞いたことがあるが、まさにその通りだと思う。
同じものを食べるということは信じることにつながるのである。まあ、その辺に生えているものや泳いでいるものをとってきて食べるという行為は、現代社会では異常であって、それを気持ち悪いと思われるのは仕方がないことかもしれないが、僕の方からするとそういう人を信じることができない。だから無口な食卓というのも仕方がないのである。

世間では定年クライシスという言葉がクローズアップされているが、ひとりのほうが自分の価値観に合ったものを食べることができるのではないかとひそかに思ったりもしている。
食べることの幸福を称賛しているエッセイを読みながら我が食の貧困を嘆いていたのである・・。

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紀ノ川河口~加太沖釣行

2023年08月12日 | 2023釣り
場所:紀ノ川河口、加太沖釣行
条件:若潮 2:07満潮 10:00干潮
潮流:4:48転流 9:28下り 2.6ノット最強
釣果:タチウオ6匹 マアジ3匹 マサバ1匹


今週も二日連続釣行だ。でも、今週は三連休、体力的にはまったく問題がない。しかし、暑い。もうすぐお盆なので朝晩は少しは涼しくなるのかと思ったがまったく予想外れだ。
これから毎年、こんなに暑くなるのかと思うと、日本人は生きてゆくことができるのだろうかと心配にもなってしまう。
さかなクンからの受け売りだが、メダカというのはあんなに小さな体だが相当過酷な環境に耐えられる体を持っているのだそうだ。水温は38℃くらいまで、塩分濃度は順応させさせれば海水の中でも生きてゆけるらしい。というのも、メダカはダツ科の魚で、元は海に棲んでいた魚なのであるからだ。確かに、ダツだと言われればなんとなく似ている気もする。
今日の和歌山市の最高気温は37℃。あと数十年もしたら、海で泳いでいる魚はメダカだけだという時代が来るのかもしれない。

今日の予定は、朝一タチウオを釣って、そこそこ数が出たら住金沖で飲ませサビキをやってみる。タチウオがなければ加太まで出張ってアジを釣ろうと考えている。

今日の出港は午前4時半。



昨日の港内の水の色を見ていると、かなりきれいな色をしていた。この状況では港内でもアタリがあるのではないかとかなり手前から仕掛けを流し始めたが、アタリがあったのはやっぱり青岸の灯台を越えたくらいの場所だった。前回と違い、頻繁にアタリはあったが全部型が小さい。ほとんどがベルトサイズだ。半分くらいは放流してしまっただろうか。なんとか持って帰れるサイズはわずか6匹。それも南海フェリーが入港し終わったとたんにアタリがパッタリ途絶えてしまった。まだ、本格的なタチウオの季節にはなっていないようだ。
帰り道に海水の色を見てみたら、いつものちょっと汚い色に変わってしまっていた。1日でこんなに水が入れ替わってしまうというか、この汚い色の水はどこからやってくるのだろうか・・。

とりあえずはおかずができたので住金一文字へ。昨日のFさんの情報では、住金の港内でベイトが見えたということなので僕も一文字の内側を探索してみたがまったくベイトは映らない。



いくらか待てばベイトが現れるのではと思うのだが、性格上、そういう待ちの釣りができない。早々にここをあきらめ四国ポイントを目指した。

燃料代がさらに上がっているので田倉崎を越える勇気が出ない。今日は釣れても釣れなくてもここで粘ることにしている。暑いのを我慢しても午前8時が限界だろう。

場所と終了時間が決まれば潮の流れなどを調べても意味がない。まったく関知せずに仕掛けを下ろす。
今日はひとつ試してみたいことがある。これはもう、最終兵器と呼べるものかもしれないが、「続 釣りの名著50冊」の感想を書くために師の本を読みなおしていた時、そういえばこんなギミックがあったということを思い出した。今で言ったら、今田美桜か吉岡里帆が裸で歩いているようなもので、どんな魚も振り向かずにはおれないというような代物なのである。当時もそれを買い求めたという記憶があるが、今でも同じようなものを買うことができる。それをおそらく40年以上ぶりに試してみようと考えたのである。



まあ、結果はというと、文学作品と釣果は連動しないということであった。

ポイントに到着すると、4、5隻の船がいるだけであった。



三連休の中日でこれだけしか船がないというのはあまり釣れていないのかもしれない。
サビキに最終兵器を1滴垂らして釣りを開始。しかし、魚探には何も映らない。ああ、やっぱりダメだと思うのだが、それでも本職の人は釣る。僕の最終兵器は発動したとたんに自爆してしまったが、あの人は一体どんな技を使っているのだろうか。



それにもめげずに潮の流れに合わせて潮上と潮下を行ったり来たりしていると魚探に反応が出始めた。そしてやっとアタリ。しかし、水面まで引き上げてきたマアジをタモ入れで失敗してしまった。今日、唯一の獲物になるかもしれないと思うと落胆の具合は半端ではない。
しかし、その後も反応は出る。反応が出ている水深に仕掛けを合わせるとまたアタリがあった。今度はかなり大きそうだ。と、思ったらすぐにバラし・・。2回連続でバラすとは、いったい何をやっているのだという感じだ。これも暑さのせいか・・。

家に帰ってブログの原稿を書くために今日の潮流を調べてみると、この時間帯は速すぎもせず遅すぎもせずというほどよい流れであったようだ。
その後マアジが一荷でヒット。今日最後のアタリはマサバだった。まだ潮は流れているが、反応はなくなったし暑さは増す一方なので10分だけロスタイムを過ごして今日は終了。


港への帰り道、大きなバラ積み船が停泊していて、船名を見てみると日本らしい名前がついている。



先週の新聞記事に、今治の船主会というものに関する記事が出ていたのだが、個人経営で総資産が1兆円、それでもほとんど表舞台に出てくることがないという人たちがいるということを始めて知った。海運業界というのはすごい世界だなと恐れ入った。まさしくフィクサーだ。



この船もそんなフィクサーがオーナーなのだろうかと考えながら写真を撮っていると汽笛を一発鳴らされてしまった。お前は俺たちと比べると細菌以下の存在なのだよと言われているようなのであった。

台風6号が過ぎ去ったかと思ったらすぐに7号がやってくる。当初は関東方面に抜けてゆくと思われたが太平洋高気圧の勢力が強いというので西に針路を変えてきている。このままだと紀伊半島に上陸する。今日の海面を見ていると、そんな気配はみじんも感じないが、雑賀崎の底引き船はすでに避難を開始している。



6号はきっと大したことがないのだろうと思っていたが今回はかなり厄介かもしれない。
なんとか無事に過ぎ去ってもらいたいものだ。


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紀ノ川河口釣行

2023年08月11日 | 2023釣り

場所:紀ノ川河口
条件:長潮 2:07満潮 10:00干潮
釣果:キス13匹 マハゼ2匹

今週の始め、6月の実質賃金が15か月連続マイナスになったというニュースが流れていた。



これは、賃金がアップしている人たちの数字なのだろうから、逆に賃金が減少している僕というか、我が家は1.6%どころかこの3倍は目減りしているに違いない。
燃料代は上がるし、いつも買っているいつものスーパーで一番安いアイスクリームはとうとう50円の大台を超えてしまった。



もう、僕の風呂上がりのお楽しみは永遠に訪れなくなってしまったのである。

そういう理由だからではないが、今日も近場で済ましてしまったのは、先週の貧果が悔しくてもう一度キスを狙ってみたかったのである。

上流に向かう前、スズキは釣れないだろうかとルアーを投げたいとも思っていたので午前4時に出港。



港に向かう道中、東の空を見てみると、早くもオリオン座が見えていた。暑い暑いと思っていても冬の星座が顔をのぞかせる時期になっているのである。
そうは言っても今日も早朝から暑くて仕方がない。



青岸の灯台を回り込む頃には少し明るくなっていたのだが、水面を見てみるとなんだか白っぽい。和歌山市では台風6号の影響はほぼなかったといっていいのだが、大台ケ原に降った雨が紀ノ川に流れ込んできたようだ。キスを釣り始めて川面の水を舐めてみるとほぼ真水だった。



そんな状態だったのでルアーを投げてもまったくアタリはなく、すぐに百円橋の上流へ移動。



もちろんここでも水は濁っている。そして前回は水の流れが遅くて難儀したが今日は速すぎる。速すぎるというか、これは多分、上部の真水の部分が勢いよく流れているだけの感じがする。それならなんとかなるのではないかと仕掛けを投げ続けるが、塩分濃度の低い水が水面を覆っているというのは条件的にはまったくよくないであろう。水深があればなんとか回避できるかもしれないがここは深くても3メートルほどしかない。
期待は持てないので今日の目標は最低5匹、10匹釣れたら合格とした。

この場所で1匹釣れたがそのあとがまったく続かない。もっと広い場所を探ろうと右岸の方へ移動してみた。ここへ来るのは初めてだがいつもの場所よりももっと浅い。それでもここで2匹釣れた。
しかし、このままでは埒が明かないのでダメもとで下流へ移動。



下流の方が水深はあるはずなので水流は少しは穏やかになるのかと思ったら、もっと早く流れている。しかしもう、ここから別のところに移動するあても気力もない。全然アタリがなければすぐに帰ろうと思ったが、こんな条件でも時々アタリがある。そしてうれしいことに型が大きい。
我慢我慢で午前9時過ぎまで頑張り目標の10匹を超えることは超えたのだが、これだけではまったく満足できない。

キス釣りも今年は今日で終わりになるだろう。川での釣りは流れがあるのでなんとも釣りにくい。潮時よりも上流から流れてくる水の量に左右されるというのを実感したのが今年の紀ノ川のキス釣りであった。

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「悟りと葬式―弔いはなぜ仏教になったか 」読了

2023年08月10日 | 2023読書
大竹晋 「悟りと葬式―弔いはなぜ仏教になったか 」読了

日本の仏教は江戸時代に作られた檀家制度によって変な方向に変わってしまったというのは以前に読んだ本に出ていたが、その影響は現代にも続いていて、寺というところは、葬式や法事の際にしか行かないところとなってしまっている。
ほんの少しだが、仏教についての本を読んでみると、その思想や美術的価値について知るべき価値はいくらでもあると思えてくる。これは大きな寺だけではなく、地方にある小さな寺、それこそ、我が家の菩提寺にも寺ができた縁起があり、ご本尊にもそれなりの歴史や由来もあるのだと思う。しかし、僕たちはそれを知らない。おそらく寺の方も積極的にそれを知らせようという活動をしていないのだろうと思う。
それはまさしく、葬式仏教と言われるように、葬式だけやっていれば十分寺は潤うというような制度というか仕組みができてしまったからではないのかと僕は思っている。僕だけではなく、世間の人の多くもそう思っているのではないだろうか。

この本に期待したのは、そういう仕組みがどのような過程を経てできてきたのかを知りたいということであったが、実際は、もう少し遡った部分、仏教思想が葬儀という儀式をどうやって作ってきたかという歴史的な流れを解説していた。


葬式をどのような決まりで執り行うかということは仏教のどの経典にも書かれていないという。浄飯王般涅槃経という経典には釈迦が自身の父親の葬儀をおこなったと書かれているそうだが、これは偽物の経典だと著者は考えているので、やはり正式な決まりごとはないということになる。
戒名や四十九日の法要、墓を建てることなどは、なんとなく長い歴史の中で生まれてきたのだというのがこの本の結論である。

仏教では人は輪廻を繰り返し、煩悩を断ち切るための修業をする、そして、煩悩が断ち切れると涅槃の境地を得ることができると考えられている。
だから、仏教では、生物は死後に必ず転生あるいは般涅槃(涅槃の境地を得ること)するので、死体はただの抜け殻である。だから、遺体に葬式をおこなうということは必要でないと考えられていた。
そういう理由で、仏教が始まった頃のインドでは、出家者の遺体は道端に捨てられていたという。しかし、在家の人たちは、福徳を積むと輪廻の際に善趣(六道のようなもののよい場所)に転生できるというので出家者の葬儀をするようになった。葬儀が福徳となったのである。
その後、逆に、出家者が在家者の葬儀をするようにもなるのだが、それは在家者が阿羅漢(在家でも仏教の修業を積んだひと)に限られていたという。
その後、どんな人でも葬儀をするという習慣が生まれてきた。こういう習慣は中国に仏教が渡ってからのものだそうだ。


布施と引き換えに在家者の葬儀を行うという習慣が生まれたのは8世紀ごろのインドというので仏教が生まれて1000年くらいの後である。この頃は、祝い事を含めて葬儀の時でも、在家者が布施をして、そのお返しとして呪文やお経を唱えてあげるという形であった。
この場合、今の日本のように、亡者に法語を与えて道理に気づかせ、亡者を善趣へ行けるように手引きしてやるというような考えではなく、あくまで布施に対する返礼でしかなかったのである。
日本ではどうかというと、奈良時代にはすでにそういった習慣が生まれ、それから平安時代、血縁者ではない人の葬儀をすることは穢れになるという思想が生まれて在家者の葬儀というのは一度、あまり行われなくなる。

今の日本の葬式が、お布施を渡して、導師である坊さんが死んだ人に引導を渡すというような形式となったのはいつごろからかというと、室町時代になってからである。これは日本独自の習慣であり、臨済宗でおこなわれていた習慣を、あれはいいじゃないか(と思ったのかどうかはしらないが・・)とほかの宗派も真似をし始めて広まったのが江戸時代になってからということだ。要は、流行であったということだ。
なぜ、禅宗でこういうことが始まったのかというと、禅宗の出家者というのは、他の宗派の出家者に比べて格上の聖者とみられていて、痩躯聖者は、平安時代に考えられていた、血縁者以外の葬儀をするのは穢れであるというようなことも跳ね返してしまえると考えられていたからだそうだ。
それが今に至っているというのである。

葬式というと、死んだ人には戒名が与えられる。戒とは出家した人が守るべき規範で、仏教が始まったインドでは特にその時に名前が与えられるものでもなかったそうだ。だから、戒名というと、戒を授けるときに同時に与える名前ということになる。こういう習慣は中国で始まったという。
日本では江戸時代ごろには死んだ人に戒名をつけるということが一般的になったらしい。この本には戒名を与えるとことの意味ということについて厳密な回答は書かれていないけれども、死んだ人を仏門に入れることによって悟りを得たことにして善趣に転生してもらおうということなのだろうと思う。
戒名が書かれているのは位牌だが、これも中国発祥で、鎌倉時代に宋の国から禅宗によって伝えられたらしい。中国では亡者の形代として神主と呼ばれる小さな板が廟に安置されていてそれが位牌に発展したそうだ。
ここまで見ていると何でも禅宗から始まったという感じである。

もうすぐお盆だが、こういった慰霊の行事も中国から伝えられた。お盆=盂蘭盆会は亡者を悪趣から善趣に転生させるために出家者にお布施を渡して祈ってもらうものだが、戒名をもらった時点で善趣に転生したことになっているのに毎年お盆に拝んでもらうというのはやらなくてもいいことをやってもらっているのではないかと思ってしまう。(まことに不信心ではあるが・・)
追善供養もそうである。四十九日とか、三回忌とか十三回忌というのも戒名をもらった時点でもうそういうことは必要ではないのではないかと思う。

こう読んでみると、仏教の発祥の地であるインドでは死んだ人に対しては特に関心を寄せず、むしろ、早く忘れてしまおうと考えていたように思う。
疫学的に見ると、死体をそのまま放っておくと感染症が蔓延するという危険があるので、できるだけ遠くへ持って行き、そしてすみやかに消し去るために鳥や獣に食べさせたり、埋めたり燃やしたりしたのだろうが、そんなことをするためにも故人を早く忘れてしまう必要があったのだろう。それを思想としてくみ上げたというのが現実だったのだろと思う。
それが、すべてのことに諦観を持つという仏教の基本としての思想になり、亡くなった人たちに対しても拘泥していてはいけないという思想となったのだろうと思う。
それが中国に入ると、儒教的思想が加わったのか、目上の人は敬うべきものだからその人がたとえ死んでしまったとしても敬い続けようというのが戒名や慰霊、追善という形になったのだろうと僕は考えてしまう。
日本では儒教の思想は平民を支配するために士族階級が取り入れたものだからそれにくっ付いて仏教の葬儀に関する習慣も同時に中国から入ってきたものなのだろう。寺はそれを利用して経済的に安定した運営をしてきたことが今の日本の葬式仏教の形となっている。

そうだとしたら、なんだかおカネだけが動いているだけで実体としては本来あるべき仏教の姿ではないのだからそんなものは必要ではないと僕は思ってしまう。
まあ、そんなことを言っても世間体もあるのだからほかの人がやっていることは最低限真似してやらねばならないのだけれども、僕は戒名も要らないし、なんならお墓に入らなくてもいい。先に書いたように、死んでしまって放っておかれるとかなり臭うし病気の蔓延のもとになってしまうらしいからそれは迷惑になるので焼くだけは焼いてもらってあとはゴミと一緒に捨ててもらっても文句は言わない。
しかし、日本の国の法律では遺骨をゴミに出すと犯罪になるらしい。これは仏教界と国家が結託しているのかどうかは知らないが絶対に供養しなければならないという状況を作ってしまっているということだ。

それこそ諸行無常というべきではないのかとなんだか変な感想文になってしまった・・。

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紀ノ川河口釣行

2023年08月06日 | 2023釣り
場所:紀ノ川河口
条件:中潮9:13満潮
釣果:タチウオ 1匹

今週も連日の出港だが、例年、タチウオの釣れ始めは父親の命日頃だ。今年はどうだろうかという調査と父親への供養のつもりで船を出した。魚を釣るというよりも船の性能維持と台風への備えをするためである。

昨日は台風の影響はまったく感じられなかったが今日はどうだろうかと仕掛けを流しながら港内を出ると今日も海は穏やかだ。



穏やかなついでにアタリもない。



まあ、アタリが出始めるのはもう少し明るくなってからだろうと決め込み朝焼けの写真なんかを撮りながらあちこち流してみる。

今日も空の景色はきれいだ。そして、不思議な青い光線や虹色の雲など、不思議な光景も見られた。空は不思議だ。

 

そして、アタリはやっぱりフェリーが入港した時にやってきた。それほど大きいアタリではなかったが魚のサイズは大きく、船の上には、「どっこいしょ」という感じでぶり上げた。
指4本はゆうにある。もう1匹と思ったがそこまでは甘くはなかった。
太陽が顔をのぞかせ始めたところで終了。

その後、禁断の仕掛けを流してみるもアタリはない。去年の今頃は小さいながらツバスが釣れたりしていたがまったく何の反応もない。思えば、禁断の仕掛けが効果を発揮し始めたのはここ数年というところだろうか。と、いうことは、ここ数年が異常事態であって、今年はまた元の状態に戻ったのだと言えるのかもしれない。
これはこれで寂しいかぎりだがフィッシュイーターがいないということは港の駐車場が混まないし、ウ〇コ問題も心配しなくて済む。
これはこれでいいことなのかもしれないのである。

港に戻り台風の備えのためにロープを増して碇のロープも締めなおした。最新の予報では台風の進路はかなり西に寄ってきたので大して影響はないだろう。
何事もなく過ぎ去ってくれればありがたい。


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紀ノ川河口釣行

2023年08月05日 | 2023釣り
場所:紀ノ川河口
条件:中潮8:23満潮
釣果:キス 5匹

ニュースを見ていると、台風6号はかなりの勢力らしく、迷走しながらも少しずつ西の方に進んでいる。そろそろ和歌山の海にも影響が出てきているだろうと遠いところはやめにしてキス狙いに出かけてみた。雑賀崎の底引き漁船もすでに避難してきている。



うねりも怖いが、燃料代が怖いのも事実である。当分は田倉崎を越えることはやめにしておこうと思ってしまう。

まずは毎回恒例になったカブトムシ調査。今日もいっぱいいるが、心なしかみんな元気がない感じがする。



すでに死んでしまって頭だけになっているオスもいる。船の上にもアブラゼミの羽根が落ちていた。弱ってしまったか死んでしまったかのセミをトンビかカラスがさらってきたときに落賭して行ったのだろう。



暑さはピークだが季節は確実に進んでいるようだ。



この場所は来年までそっと置いておこう。

ここからエサの自販機に向かって船を出すころにはかなり明るくなっていた。



少し急いで青岸の灯台を越えたいのだが、うねりが怖いので結局ゆっくり進むことになるのだが、意外と海は穏やかだ。台風の影響はまったく感じない。

うねりがなければ前回の最後で型がよかった下流部分でと思っていたのでまずは灯台からほんの少し遡ったところに錨を入れる。ここで釣れれば燃料代の節約にもなる。



早速仕掛けを投げ込んでみるといつもと感じが違う。潮がほとんど流れていない感じだ。もちろん川の流れはあるのだが、いつもはもっと仕掛けに抵抗が掛かるのだがそれがない。
まったく潮時を見ずにやってきたのだが、後から調べてみると満ち潮時であった。きっと底のほうの水は上流に向かっていたのかもしれない。
そのせいか、まったくアタリがない。ここで粘っても仕方がないと思い、一番確実性がある百円橋の上手に移動。



しかし、ここでもアタリがない。なんとか釣り上げたのは2匹だけだ。暑くなってくる前に切り上げて帰ろうと思っているのだがこれでは埒が明かない。最終目標を10匹まで下方修正してもう一度下流に戻ってみる。しかしここでもアタリがない。もう一度下方修正してひとり2匹の天ぷらを確保できる最低ラインの6匹に設定。
しかし、それさえも達成できずに午前8時過ぎに終了。

家に帰って青柚子を探すべく海南の産直市場へ。今年はトウガラシの塩漬けを保存瓶に5本分仕込んでいるので大量に柚子が必要だ。この店には売っているときと売っていないときがあるのでほかに確保できる方法はないかとネットの中を探していると、メルカリに出品している人がたくさんいることがわかった。それほど高額でもないのでこっちでもよいかと思ったが、やっぱり自分の目でみて選びたい。メルカリにはあまりいい思い出がないので食べ物となるともっと尻込みしてしまう。しかし、ネットには何でも売っている。
なので、とりあえずは一度、海南の産直市場に行ってみるのである。そして、なんという名前の山か知らないが、どのルートを取ってもその山を迂回して産直市場まで行くことになるのでかなり遠回りだと思っていたところ、地図を見ているとどうも別ルートがあるらしいということがわかった。ストリートビューで確認したところそこの辺りはタラノメの雰囲気がプンプンする。
これは柚子があろうがなかろうが、タラノメの調査にも出かけねばならない。

お昼過ぎに家を出たのだがはやり暑い。しかし、水田の多いところに差し掛かると吹いてくる風は心地よい。



世間は温暖化で日本は住みにくい国になったと嘆いているが、昔からの日本のように、田んぼと畑の中に家があって、その家を風通しのよい造りにしておけば、少々気温が高くなっても快適に過ごせるのだと思った。日本人は昔からそれぞれの場所の気候に合った生き方をきちんとしてきたのである。それを間違った方向に行ってしまったのが今の日本だということだろう。
地面をコンクリートとアスファルトで覆ってしまい、暑さに対抗するために断熱住宅などといって窓のない家を建てるというのは本末転倒のような気がする。自分たちで住み辛い環境にしてしまっているのだ。

アスファルト舗装の道路を走っていると暑いことは暑いが顔に当たる風はやはり心地よい。僕は意外と夏の暑さが好きなのかもしれない。
そんなことを考えながら目的の道に入るための道路を曲がってみると間もなくここにはタラノメがあるに違いないという地形の場所に出くわした。



速度を落としてじっくり観察するとすぐに1本見つかった。



帰りにもう一度じっくり観察してみると次々とタラノメの木が見つかった。10本くらいはあったのではないだろうか。一昨年見つけたところなどを合わせると、出荷ができるほど採れてしまいそうだ。ここも来年までそっと置いておこう。

そして青柚子はというと、売っていることは売っていたが、数が足らないのと、けっこう値段が上がっている。大きいものだと2個、小さいものだと3個で150円。去年は100円くらいではなかっただろうか。これならメルカリのコメントを信じるとそっちのほうが安い。品質はどうだかわからないがダメもとで一度注文してみようと考えた。
さて、結果はどうなるか、数日後に結果が出るだろう。



今日の釣果は夕食にできるほどの数もなく、気がつくとお昼のざるそばの添え物になっていた。まあ、これはこれでやっぱり美味しい。
貧果の要員はきっと潮の流れだろう。前回とは同じような潮回りだが、なぜにこんなに流れが異なるのだろう。やっぱり目には見えない台風の影響で沖の方から波が押し寄せていたのだろうか・・。海は難しい・・。

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