世阿弥 (編さん)/川瀬 一馬 (翻訳) 「花伝書(風姿花伝)」読了
本書は能を極めるためにはどのようにすればよいかということを一子相伝するために世阿弥によって書かれたという、あまりにも有名な書物だ。
人の生き方にも通じるということで事業家や宗教家などによく取り上げられているので一度読んでみたいと思っていた。
たしかに、申楽(能の前身)という言葉を仕事や趣味、芸術、人生その他何にでも置き換えると、ああ、そうなんだと思えてくる。しかし、“花”というものをどう捉えるかということは難しいような気がする。単に成果なのか、それとも満足ということなのか・・・。
自分の仕事柄、相手を満足させられた結果が“花”と表現されていると考えてしまうが、どうだろう。これはきっと人それぞれで思いが違ってくるのだろうと思う。自分の仕事からくる連想を外してしまうと、きっと“イケてる”というのが“花”ということなのではないかと思ったりする。
その極め方というのは至極当たり前で、当たり前のことを当たり前のように続けなさいというのがその本質のようで、そうやって身に着けた技なりを“花”を見せたい相手に常に新鮮さをもって届けること。常に新鮮さを披露するためにはたくさんの引き出しを持っていなくてはいけない。そのたくさんの引き出しを持つために一所懸命努力するのだ。
それだけだ。
しかし、それができれば苦労はない。それができないからみんな悩むのだ。それをやり遂げたひとが成功者と呼ばれる。
そして、「秘すれば花」。この言葉はあまりにも有名な言葉だ。たくさんの引き出しを見せびらかしてはいけない。持ち駒をすべて見せてしまうと相手に飽きられる。どれだけ持っているのかわからないように振舞うのが神秘さというか人としての奥行きを感じさせる。う~ん、この辺はよくわかる。たまにそんな人と出くわすことがある。どれだけのことを知っているのだ。と興味の尽きない人が。かと言って、よくしゃべる人でも、こいつ、本当は何にも知らないのではないかとわかってしまうひともいる。これが、「秘すれば花」だと思うのだ。きっと。
ぼくも薄っぺらい人間だから、あまりしゃべってはすぐにボロがでてしまうと用心しなければと反省しきりである。
最初の章、年来稽古の章では年齢に応じた芸のやり方、磨き方ということが書かれている。ここだけは僕も実践できているのではないかと思える。40歳を過ぎると体力もなくなり難しい芸はできなくなるので、難しいことは弟子たちにやらせて自分は簡単な脇役みたいなのをしていればいいのだと。
こんなところだけは実践をしてしまっている。仕事は部下たちにみんなやってもらって、最近テレビCMで流れている、「~仕事に来てんだか、メシ食いに来てんだか、とりあえずグラぶる。」みたいな感じだ。
しかし世間ではこれを怠け者という。これからは僕は花伝書のとおり生きているのだと堂々と言っていいのだろうか・・・。
しかし、酷なことも書かれている。この、“花”を得るには若いころの鍛錬(稽古)が何より大切でそれができなかったものには“花”はない。才能も必要だ。たとえ“花”に見えたとしてもそれは一時のものであり、生涯にわたって咲きつづけるものではないと・・・。
読み進むうち、世阿弥の教え(父親の観阿弥の教え)はドラッカーの主張にも通じるところがあると思えてきた。
マネジメントは真摯さを要求し、イノベーションを起こし続けて社会貢献をするというのがその目的であると説かれているが、それに照らし合わせるとそっくりである。
若いころの一所懸命の稽古というのは真摯さに通じるだろう。そして、幽玄の位というものはもって生まれたものであって、どんなに努力をしても得られるものではないという論は、ドラッカーのいう真摯さもまたもって生まれたものであり訓練をして身につけられるものではないと同じことを言っているのではないか。
“花”を持続させるための珍しさというのはイノベーションそのものだ。
もうひとつ、申楽というものは万民の寿福増長のためにあるといっているが、これもマネジメントの真の目的が社会貢献であるということに通じる。
これが600年前に書かれたとは・・・。
世のため、人のために、自分にできる当たり前のことを当たり前に続けることが人の幸せであるというのが風姿花伝の大元のように思えてきたが、そうだとしたら、それこそが最も難しい人の生き方ではないのかと、そして今さらそんなに言われてもあとの祭りなんじゃないかと今回もまたたじたじとなってしまうのだ。
本書は能を極めるためにはどのようにすればよいかということを一子相伝するために世阿弥によって書かれたという、あまりにも有名な書物だ。
人の生き方にも通じるということで事業家や宗教家などによく取り上げられているので一度読んでみたいと思っていた。
たしかに、申楽(能の前身)という言葉を仕事や趣味、芸術、人生その他何にでも置き換えると、ああ、そうなんだと思えてくる。しかし、“花”というものをどう捉えるかということは難しいような気がする。単に成果なのか、それとも満足ということなのか・・・。
自分の仕事柄、相手を満足させられた結果が“花”と表現されていると考えてしまうが、どうだろう。これはきっと人それぞれで思いが違ってくるのだろうと思う。自分の仕事からくる連想を外してしまうと、きっと“イケてる”というのが“花”ということなのではないかと思ったりする。
その極め方というのは至極当たり前で、当たり前のことを当たり前のように続けなさいというのがその本質のようで、そうやって身に着けた技なりを“花”を見せたい相手に常に新鮮さをもって届けること。常に新鮮さを披露するためにはたくさんの引き出しを持っていなくてはいけない。そのたくさんの引き出しを持つために一所懸命努力するのだ。
それだけだ。
しかし、それができれば苦労はない。それができないからみんな悩むのだ。それをやり遂げたひとが成功者と呼ばれる。
そして、「秘すれば花」。この言葉はあまりにも有名な言葉だ。たくさんの引き出しを見せびらかしてはいけない。持ち駒をすべて見せてしまうと相手に飽きられる。どれだけ持っているのかわからないように振舞うのが神秘さというか人としての奥行きを感じさせる。う~ん、この辺はよくわかる。たまにそんな人と出くわすことがある。どれだけのことを知っているのだ。と興味の尽きない人が。かと言って、よくしゃべる人でも、こいつ、本当は何にも知らないのではないかとわかってしまうひともいる。これが、「秘すれば花」だと思うのだ。きっと。
ぼくも薄っぺらい人間だから、あまりしゃべってはすぐにボロがでてしまうと用心しなければと反省しきりである。
最初の章、年来稽古の章では年齢に応じた芸のやり方、磨き方ということが書かれている。ここだけは僕も実践できているのではないかと思える。40歳を過ぎると体力もなくなり難しい芸はできなくなるので、難しいことは弟子たちにやらせて自分は簡単な脇役みたいなのをしていればいいのだと。
こんなところだけは実践をしてしまっている。仕事は部下たちにみんなやってもらって、最近テレビCMで流れている、「~仕事に来てんだか、メシ食いに来てんだか、とりあえずグラぶる。」みたいな感じだ。
しかし世間ではこれを怠け者という。これからは僕は花伝書のとおり生きているのだと堂々と言っていいのだろうか・・・。
しかし、酷なことも書かれている。この、“花”を得るには若いころの鍛錬(稽古)が何より大切でそれができなかったものには“花”はない。才能も必要だ。たとえ“花”に見えたとしてもそれは一時のものであり、生涯にわたって咲きつづけるものではないと・・・。
読み進むうち、世阿弥の教え(父親の観阿弥の教え)はドラッカーの主張にも通じるところがあると思えてきた。
マネジメントは真摯さを要求し、イノベーションを起こし続けて社会貢献をするというのがその目的であると説かれているが、それに照らし合わせるとそっくりである。
若いころの一所懸命の稽古というのは真摯さに通じるだろう。そして、幽玄の位というものはもって生まれたものであって、どんなに努力をしても得られるものではないという論は、ドラッカーのいう真摯さもまたもって生まれたものであり訓練をして身につけられるものではないと同じことを言っているのではないか。
“花”を持続させるための珍しさというのはイノベーションそのものだ。
もうひとつ、申楽というものは万民の寿福増長のためにあるといっているが、これもマネジメントの真の目的が社会貢献であるということに通じる。
これが600年前に書かれたとは・・・。
世のため、人のために、自分にできる当たり前のことを当たり前に続けることが人の幸せであるというのが風姿花伝の大元のように思えてきたが、そうだとしたら、それこそが最も難しい人の生き方ではないのかと、そして今さらそんなに言われてもあとの祭りなんじゃないかと今回もまたたじたじとなってしまうのだ。