イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

「マンモスを再生せよ  ハーバード大学遺伝子研究チームの挑戦」読了

2022年01月31日 | 2022読書
ベン メズリック/著 上野 元美/訳 相澤 康則/解説 「マンモスを再生せよ  ハーバード大学遺伝子研究チームの挑戦」読了

この本はSFなのか、一般向けの科学読み物なのか・・・、当初は科学読み物だと思って借りてきたけれども、第1章からマンモスらしき動物がロシアのシベリアで飼育されているような描写が出てくる。「現在から4年後」というようなキャプションがついているのでますますSFっぽくなってくるし、マンモスが蘇ったなどということがおきれば世界中でニュースとなっているから多分事実ではないだろう。
しかし、ここに登場する科学者たちはすべて実在の人たちのようだ。主役であるジョージ・チャーチという人は遺伝学者だそうだ。
じゃあ、どんなジャンルの本なのかというと、現在の遺伝子操作に関する技術力はここまで来ているということと、それに関わる科学者たちの生い立ちや一途な好奇心の向く先などが書かれているので、マンモスらしき動物の描写を除くとノンフィクションということになる。確かに置かれていた書架は科学や生物学の棚ではなく、英米文学の書架であった。
この本の著者は、Facebookの創業者であるマーク・ザッカーバーグが主人公の「ソーシャル・ネットワーク」という映画の原作も書いている人で、「マンモスを再生せよ」も映画化される予定らしい。

各章ごとにいろいろな人が登場する。主人公と一緒に遺伝子工学の研究をすることになる科学者たちや、一見遺伝子工学とは関係なさそうなロシアの地球物理者、大富豪の投資家、環境活動家・・・。そういう人たちが一本の線でつながりマンモス再生プロジェクトが出来上がってゆく。

その発端は、主人公のジョージ・チャーチにかかってきた一本の電話であった。あるジャーナリストから、「氷漬けになったマケナガマンモスが発見されたが、その細胞を使ってマンモスを現代に蘇らせることはできるか。」と問われる。
その問いに対しては、世間に対して不要な波紋を広げるかもしれないと思いながら、「できる。」と答えてしまったが、その後、自身もその考えに憑りつかれることになる。しかし、チャーチは、常に科学研究とは世界に開かれた場所でなされ、世界に貢献されるものでなければならないとも考えていた。エゴと秘密の中では科学研究はなされてはいけないのである。

一方でロシアの地球物理学者であるセルゲイ・ジモフは地球温暖化を懸念していた。温暖化によりツンドラの永久凍土が溶けだした時、土中に閉じ込められていたCO₂が大気に放出されさらに温暖化を加速させ後戻りができなくなる
永久凍土を維持してきたのはウマやバッファローやトナカイ、ケナガマンモスなどの毛におおわれたメガファウナと呼ばれる大型草食動物たちであったというのだ。ツンドラという場所はかつては今のようにコケや地衣類に覆われた不毛の土地ではなく、丈高い草に覆われた草原であった。メガファウナたちは草を食みながら世界最大のバイオームの表土を絶えず踏みならし、掘りおこしていた。氷河期が終わり、地球の気温が上昇し始めても、草食動物は変わりなく地面をかき混ぜ、下の凍った土をそれ以下の低温にさらして、永久凍土を永く維持した。彼らが草を食べたり、食料を探す行為そのものが、草に最適な表土を維持すると同時に永久凍土も保護してきたのだが、気温が上がり、新参の哺乳動物が北へ移動してきた。それはこれまでツンドラにやってきたどの肉食動物よりもはるかに強い欲望をもつ人間であったというのである。そこで動物たちを狩りまっくたことで、現代人の祖先が出現した地質年代である更新世が終わるころには、大量絶滅が始まった。メガファウナたちは絶滅し、それといっしょに繊細な均衡を保っていた生態系が失われ、草原がコケと地衣類に取って代わられたのが現在のツンドラの姿である。
ジモフはメガファウナの代わりにロシア軍が払い下げた大型工作機械で表土を掘り起こす実験を通して、二酸化炭素とメタンの時限爆弾で脅かされるツンドラに先史時代に生息した大型草食動物を導入することにより、更新世の草原を復元し、温暖化から世界を救うことができるかもしれないと結論付ける。
その端緒として「氷河期パーク」というものを考える。これはロシア政府から与えられた160平方キロメートルのシベリアのツンドラ地帯に建設するもので、北極地方の環境に適応した先史時代の動物に相当する現代の動物を棲まわせて数を増やすことがジモフの当面の目標であった。

あまりにも奇想天外な研究結果だが、環境活動家を通してこの計画を知ったチャーチは、遺伝工学によって再生されたマンモスの群れが溶けつつある永久凍土と世界を救うかもしれないという考えに突き動かされ、自身が代表を務める会社を舞台に投資家たちを巻き込みプロジェクトを始動させる。

マンモスに最も近い種はアジアゾウである。その細胞の染色体にマンモスの際立った特徴である、密生した赤い毛、厚い皮下脂肪、小さく丸い耳、氷点に近い温度でも機能するヘモグロビンを発現させる遺伝子を組み込み、iPS細胞を作りだしさらにそこから卵細胞に変化させ象の子宮の中で育てるというのが当初の計画だ。ケナガマンモスのクローンを作るのではなく、ケナガマンモスの特徴をもったアジアゾウを遺伝子操作によって人工的に創り出すというのがこの計画の驚異的なところだ。この本ではこういった部分をサラッと書いているがそこには試行錯誤と失敗が積み重ねられていると解説者は書いている。しかし、そこはノンフィクションで、科学的な部分よりもストーリーが欲しいというところだろう。
前段階の実験では、すでに免疫反応をロックダウンしたネズミにマンモスの赤い毛を発現させる遺伝子をもった細胞を植え付け、そこから毛を生やすことが実現されているらしい。

マンモスの細胞はハーバード大学から、ゾウは引退したサーカスのゾウを使おうとする。しかし、絶滅危惧種であるゾウを使いマンモスを妊娠させるということは、現代のゾウを危険に晒すことになる。それならばと考えたのが人工的な子宮を作ることであった。
このプロジェクトと同時に、韓国ではクローンの犬を作り出す技術を応用して同じくマンモスを再生させるというプロジェクトが始まっていた。こちらには環境破壊を食い止めるというような大義名分はなく、かつてデータの捏造で学会を追われた研究者の起死回生の成果を求めて研究が進められる。
というところでノンフィクションの部分が終わっている。人工子宮が出来上がったのかどうかまでは書かれていない・・・。



この本では、マンモスの姿が現れるのが「現在から4年後」となっている。だから、いつ読んでも現在から4年後である。しかし、必要なすべての技術はほぼ現実に存在するというのも事実らしい。だから今がその4年後なのかもしれない。ひょっとしたら、アラスカの誰も近寄ることのない山の奥で実は密かに別の意味の「氷河期パーク」が造られているかもしれない。それは人類の未来にとって明るい兆しなのか、それともただのマッドサイエンスでさらに人類の未来を脅かす技術なのか、それはきっと誰にもわからないのだろう。『科学者は世間と隔絶した場所で行われるのではない。科学者は自分の研究を世間に公開し、人々に知らせる責務がある。』というのはチャーチの信念のひとつである。それがマッドであろうとクレバーであろうと確かに密かにされては困るなと思ってしまうのだ。今から1000万年後の世界にはどんな動物が暮らしているのかというのを想像した本を読んだことがあるが、実はこれは近い未来の人間たちが好き勝手に作り出した生物だったりするのではないかと思うのであった。
まあ、人は神にはなれないと思うので、マンモスの再生というのも、幻であると思っている方がきっと幸せなのかもしれない。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

水軒沖釣行、のちベーコンを作る

2022年01月28日 | 2022釣り
場所:水軒沖
条件:若潮 8:39干潮
釣果:ボウズ

港に到着した時点でクーラーボックスの半分が冷凍食品で埋まっているということはまったく魚を釣る気がないということは明白であった。



今日も朝一で母親を病院に連れて行かねばならないので釣りをすることが出来る時間は1時間ほどだ。それでも海に行きたいのは何かに飢えているからなのだということもあるが、小船のエンジンも回しておかねばという理由も大きい。1月4日にちょろっと動かしただけでそれ以来まったくエンジンを回していない。


何も釣れることがないと思っているので何かを持って帰らねばということで頼りになるのが「わかやま〇しぇ」。久々に冷凍コロッケを買って帰ろうということだ。こんなに寒かったら買ってから家に帰る2時間足らずの時間、溶けてしまうことはあるまい。

午前6時過ぎに「わかやま〇しぇ」に到着するとやっぱりこの時間は賑やかだ。



ほぼすべての店舗が営業している。



久しぶりに冷凍コロッケ屋さんに行くと、社長が、「久しぶりだね~。」と声をかけてくれる。コロッケを物色していると、こっちも安いよと見せてくれたのが、1キロのしゃぶしゃぶ用牛肉のパックだ。アメリカ産だが値段を聞くと700円。ということは100グラム70円だ。これはスジ肉並みの安さじゃないかと思わずカゴに放り込んだ。しかし、家に帰って賞味期限を見てみたら残り1週間もない。



しかし、冷凍食品のアウトレットとも言えるこのお店で賞味期限を気にしていたら何も買えないし、このお店のおかげで最近はまったく賞味期限を気にしなくなってしまった。タダでもらった謎の調味料はすでに2年前に賞味期限が切れているがいまだに使っている。同じころにもらってきたゴマだれはやっとこの前使い切った。
ウチの奥さんもそういうところは麻痺してきているらしく、気にするどころかいい買い物をしてきたと褒めてくれるのだ。

そして港へ。少し雲があるのでなかなか空が明るくならない。明るくなってくるのを待っていればいるほど釣りをする時間が短くなる。まだ航海灯が必要な時間だが、思い切って出港した。エンジンは2回ほどセルを回しただけでぶるんとうなりを上げて回り始める。心なしかエンジンも喜んでいるようだ。やっぱり道具は使ってこそ道具なのである。
釣りをすることが出来る時間は1時間ほどしかない。その時間で一体何ができるかというと、イチかバチかでブリを狙ってみるしか思い浮かばない。ベリーさんの言葉を借りると、「ギャンブルいうのは、あてずっぽうにやるいうことやあらへん。繊細に計画して、大胆に決行する、そういうことを言うんや。」となるのだが、今日の釣りにはまったく繊細な計画は存在していない。(まあ、いつものことだが・・)ふと思ったのは、たった1隻でドメル将軍率いるガミラス艦隊に挑んでゆく宇宙戦艦ヤマトと同じじゃないかということだ。沖田艦長は、「死中に活を見出さねばこの包囲を破ることはできない。」と叫んで艦をさせるが、アニメの世界でなければ死中に活を見出せることなど絶対にない。そもそも、宇宙戦艦ヤマトの物語には兵站という概念がまったくないのだから・・。
もう、絶対不可能なことを強要するという、こんな上司の下では絶対に働きたくはないという典型だ。それを僕は今日やっているということになるのだ。

渡船屋が臨時休業しているので沖の一文字の前から禁断の仕掛けを流し始める。



新々波止を通り、紀ノ川河口まで探ってみたが予想通りまったく反応はなかった。



今日はとことん穏やかな日で普通なら加太へ向かえる条件なのだが、もう帰らねば午前9時半までに病院にたどり着けなくなるので朝日を拝んで終了。



港に到着するころ、前にある工業団地に向かう労働者の車が多数走っている。



世間は1日の始まりを迎えたが僕はすでにその大半を終了してしまった。

このブログは翌日に書いているのだが、今日、渡船屋の釣果ではメジロが釣れたそうだ。やっぱり魚はいたのだ。死中に活を見出せることなんてありえないのではなく、繊細な計画がなかったのだということが露見してしまったのである。単に読みが浅いだけであった・・。


家に帰って道具を洗い病院へ。今日の病院は明らかに人が少ない。和歌山県も毎日100人単位で感染者が出ている。そのためだろうか、ロビーのベンチはガラガラだ。



不要不急の診察を避けた人が多かったということなのだろうが、それを考えると病院に診察に来る人の半分は別に診察をしてもらう必要のない人達なのではないのだろうか。落語のまくらでよく語られる、「今日は調子がいいから病院にでも行こうか。」というのは事実なのかもしれない。
僕たちの順番もあっと言う間にやってきて、家を出てから帰宅するまで2時間を切るというオリンピック記録並の速さであったのだ。

お昼を食べてから仕込んであったベーコンの仕上げ。
今回は燻製器の気密性を上げるため、扉をボルトで固定できるように改良してみた。



気密性は高くなったのだが、火力の調整があいかわらずよくわからない。本格豆炭の扱いは本当に難しい。まず、火が着かない。ガスコンロに直接置いて火に晒してみたが、温度センサーがすぐに働いて火が弱くなる。この火力では豆炭が自発的に発火するまでには至らない。火消し缶の中に残っていた木炭の力を借りてなんとか発火にこぎつけたが、試行錯誤を含めてそれだけで1時間かかってしまった。
次に煙を出す作業だが、これにも手間取った。前回は大量の豆炭を放り込んだので煙が出始めると同時に箱の中の温度も一気に上がってしまい戸惑ったので今回は豆炭3個だけで始めてみた。しかし、このくらいの数だと箱の中の温度は上がりすぎないが、チップの煙が出てこない。これは豆炭とチップのお皿の距離が長すぎるからのようだ。台座のところに鉄筋を入れてわざと距離を取ろうとしたがそれが3個の豆炭では逆効果になった。無理やり火元に近づけて煙を出したがそれでもチョロチョとしか煙が出ない。そして、気密性が高まるとどうも煙の循環が滞るようだ。あまり色が付かない。ある程度対流のようなものが必要なのかもしれない。チップをいつもの1.5倍使いなんとか形にすることができたが、まだまだ改良の余地があるようだ。

最後の仕上げはオーブンでの加熱だが、これもいったいどれくらいの温度でどれくらいの時間加熱すればいいかがどんどんわからなくなる。今日は110℃で80分加熱したのだが、肉汁と脂がかなり溶けだしてしまった。かといって、温度を下げるか加熱時間を短くすると肉が生の状態のままになりそうなので怖い。
衛生上、豚肉は中心温度が60℃で30分以上の加熱が必要だそうだ。その時間がわからないのだ。100℃で1時間だと明らかに肉は赤いままだ。おそらくこの時間・温度と110℃で80分の間に答えがあるように思うのだが、これはそこまで絞り込めたといっていいのか、行き当たりばったりで永遠に答えが出ないのか、どちらなのだろうか・・。ここにも繊細な計画が存在しなかったのである・・。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「狸の腹鼓 (民俗伝奇小説集)」読了

2022年01月27日 | 2022読書
宇江敏勝 「狸の腹鼓 (民俗伝奇小説集)」読了

毎年、年末年始は宇江敏勝の本を読もうと、去年の暮れにこの本を借りていたが、先に読まなければならない本があったので1月も終わりの頃になってやっと読むことができた。

宇江敏勝は、「民俗伝奇小説集」というくくりで2011年から毎年1冊ずつ出版していたが、10冊目のこの本が最後の締めくくりとなったそうだ。
著者本人の体験や聞き取りから着想を得た、実話か創作かどちらとも取れるようなリアルな内容だ。
毎回のとおり、昭和の初めころから高度経済成長期を迎える頃までの山の中の生活をベースに物語は流れてゆく。
動力のない時代、特に山奥では人力や動物の力が頼りになる。そして、それほど多くの人口を養うことができない地力では自分の力を頼りに孤独に生きるしかない。それが炭焼きや木馬引きの生き方である。大半の物語は著者の私小説風な装いであり、事実著者も若い頃は炭焼きをして暮らしていたそうだ。孤独の中で本を読み、文章を書いて同人誌に投稿する暮らしをしていた。

日本が貧しい時代から豊かな時代へ急激に変化していく中、著者は少し遅れて時代の変化を体験する。その中で感じることは、豊かなになる必要はない。それよりも孤独に、自由に生きたい。そういう感覚だ。
タイトルにもなっている「狸の腹鼓」ではそういう願望がにじみ出ている。80歳を過ぎてかつて暮らした炭焼き小屋を訪ねるという物語だが、ほんの少し好意を寄せた女性との思い出の場所でもある。故郷を出て貨物船に乗り、その女性の父親が戦死したという沖縄本島を眺めるというシーンがあるが、10年以上経ってもなおその思慕の思いはかすかに燻っている。そんな一途さが孤独に生きるには必要だ。山と人とを結ぶ絆が薄れていく中、主人公は都会の生活になじみながらも山奥の生活を心の中に残しているのである。

木炭というのは、腐敗することがなく、100年単位で自然界に残るそうだ。だから、炭焼き小屋の跡というのも長い年月を経てもその痕跡が山中に残っていることが多いというのは、著者が出演していたドキュメンタリー番組で語られていたものだったと思う。
かつて生きた、それも地面に汗がしみ込んでいる場所を後年になって眺めるというのはどんな気持ちになるのだろうか。そこのところはまったく想像ができないまま読み終えてしまった1冊であった。

「民俗伝奇小説集」はこれで5冊目を読んだことになる。静かに語られる山奥でのある意味生きることに対してのプリミティブな物語は年末年始に読むには最適のように思う。残り5冊、年末の恒例として読み切りたいと思うのだ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

この女優さんたちが凄い!

2022年01月26日 | Weblog

相変わらず休日が天気の悪い日に当たることが多く、そんな日は映画を観ていた。僕のブログにはそぐわない内容だが、あまりにも素晴らしい女優さんたちを見つけたのでちょっとだけ書いておこうと思う。
その女優さんのひとりめは小松菜奈という人だ。鋭い目つきで化粧品の宣伝ポスターなんかに出ていたので名前だけは知っていて、去年の年末に結婚したということも知っていた。そのきっかけになったらしい映画を興味本位で観てみたのだ。「糸」というタイトルの映画だった。



ラブストーリーなんて観る柄ではないので、本当に興味本位だけだった。しかし、ストーリーはともかく、この人の芝居が凄いと思った。

トルコに、「すでに本はたくさん書かれすぎている。」という諺があるらしい。この映画のプロットもよくあるようなもので、若い頃に出会った男女が遠く迂回して長い年月の後に結ばれるというものだ。なんだかどこかで観たことのあるストーリーだと思ったら、新垣結衣が主演で出ていた映画にもそっくりなものがあった。タイトルも「ハナミズキ」と、昔流行った歌のタイトルを使っているところまでそっくりであった。
賛否両論あった映画ということで、確かにそういう意味ではストーリーはありきたりなものであった。しかし、小松菜奈の、少しずつ年齢を重ねるごとの表情の変化や、挫折と喜びと悲しみの表情、その演技が見事だとしか思えなかった。ある評論家は、「ストーリーはともかく、小松菜奈がシンガポールでカツ丼を食べる場面だけでも観る価値がある。」と書いていたが、まさにその評論は的を射ている。このシーンは圧巻であった。
その前に、「さくら」というタイトルの映画を観ていて、その中の演技はそんなに上手いとは思わなかった。小松菜奈は美人なだけかと思ったがこの映画ではまったく違った。ふたつの映画は同じ年に公開されているが、どちらの映画を先に撮影していたのかも知らないけれどもそこにどんな成長があったのか、それとも菅田将暉の存在がそうさせたのか、それは本人のみぞ知るというところだろうか。
この女優さんはすごいと思うのだ。

もうひとりは深津絵里だ。NHKの連ドラの「カムカムエブリバディ」の大阪編もプロットとしては、志に挫折した男がそれを慕う女性の献身によって新たな道を見つけるのだ(今の流れだけを観ていてのことで、これからどんなどんでん返しがあるのかというのはわからないが・・)というまったくありきたりのストーリーに思うのだが、深津絵里の演技に魅了されている。現在、49歳ということだが、役のとおり二十歳前後にしか見えない。この女優さんも凄いと思うのだ。多分あの役はこの人しか演じることができないのではないかと思わせてしまう。加えて、今日のベリーさんの和服姿にも驚かされた。



「すでに本はたくさん書かれすぎている。」というのは、おそらく、もう何も発見できる新しい表現はないというような意味なのだろうけれども、逆に言うと、ある程度結末が想像でき、安心して観ていることができるといえるのかもしれない。これはもう、水戸黄門の原理と置き換えることができる。決められた枠の中でどうオリジナリティを表現してゆくか。そういった見方をすればこれはこれで面白い。


ついでだが、菅田将暉つながりで「花束みたいな恋をした」という映画も観た。



ラブストーリーなんて観る柄ではないのだが、なぜだか僕のアーカイブにはラブストーリーしか入っていないのだ・・。
この映画のストーリーは偶然出会った男女が別れるまでの5年間を追ったものなのだが、ラブストーリーというと、「東京ラブストーリー」しか頭の中に残っていない初老の男にはどうもピンと来なかった。
あの時代は三角関係あり、無機質な生活空間あり、異常に大きな肩パットありの中でのストーリーが基本で、それがテレビの向こうの知らない世界での物語なのでおとぎ話として観ていればいいのだと、肥満で近眼の僕は思っていたのだけれども、現代の映画の生活空間は小さなワンルームマンションの、散らかった、自分の家のすぐそばにあるような空間が舞台だ。しかし、カルチャーはより細分化され、世間の誰もが知るものではなく、100均とホームセンターとディスカウントスーパーを行ったり来たりしている初老の男にとってはやはりスクリーンの向こうの知らない世界であった。
ただ、主人公たちの恋が成就するのではなかったという結末には、少し意外な驚きを見せられたのだった。確かにタイトルは過去形で結ばれていたなと後から気付いた。
まだ、本は書かれすぎてはいないのかもしれないとも思った。
主演の一人は有村架純であったが、これは僕の偏見であるということを断って書くが、のんちゃんのライバルとしては僕はなかなか認めることができない。のんちゃんが主演した、「私をくいとめて」のほうがはるかによかった。芥川賞作家の原作であるという格調の高さと、のんちゃんの久々の主演作ということで僕は涙しながら観たのであった。



しかし、ラブストーリーなんて観る柄ではないといいながら、ラブストーリーばかりを観ている。
早く天気のいい日に巡り合わないと僕はどんどん堕ちていきそうだ・・。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「生物はなぜ死ぬのか」読了

2022年01月22日 | 2022読書
小林武彦 「生物はなぜ死ぬのか」読了

生物はなぜ死ぬのか・・。それはいろいろな面から考えることができる。死ぬことにどんな意味があるのかというのは哲学的な“なぜ”だし、生物学的には“死ぬ”というメカニズムを解明するのも“なぜ”だろう。また、宗教的にはよりよく生きるために“なぜ”死ぬことが必要なのかということになりそうだ。
著者がどんな人かということ知らないので、一体この本の“なぜ”はどの“なぜ”なのかはわからなかったが、著者はゲノムの再生という若返りの研究をしている生物学者ということで、生物学的な死のメカニズムについて書かれている本であった。


生物はなぜ死ぬのか、著者は生物が死ぬということも生物が進化の過程で得たものであり、死ぬことのできる生物が環境に適応して生き残ってきたのだという。
地球には様々な生物が生きていて、常に新しい生物が入れ替わってゆくことでその繁栄が生まれた。それをターンオーバーというが、生物の種がターンオーバーするためには“死ぬこと”が必要であったというのが生物の進化という面からの回答である。

この本では、もうひとつの生物が死ぬメカニズムについて多くが割かれている。そのメカニズムであるが、ヒトの場合とその他の動物ではまったく違う。ヒト以外の動物のほとんどは喰われて死ぬ。しかし、現代のヒトの場合は寿命というものを迎えて死ぬ。ヒトがヒトになりたての頃、すなわち、樹上生活から地上での生活に入った頃は同じく食われる側であったが、文明と科学を発達させたことにより、捕食される心配はなくなり、寿命というものがそのキーとなった。
ヒトに限って言えば老化のあと寿命が死を決め、その他の大多数の生物は捕食されて死ぬ。捕食を免れたとしても、ヒトと同じく、老化を迎えて食料を捕食することができずに飢えて死ぬことになるのである。

では、寿命とは何によって決まるか。それは、生理現象として組織や器官の働きが時間とともに低下する「老化」で、その最終的な症状(結果)として寿命という死(老衰死)があるのである。
人間はそれを医学や科学技術、衛生管理の進歩によって現代までその寿命を引き延ばしてきた。2019年、日本人の平均寿命は女性で87.45歳、男性で81.41歳だそうだ。2500年前まではヒトの平均寿命は15歳だったそうだから6倍近く長く生きることになったのだ。
理由のひとつは、乳幼児が死ななくなったことにある。栄養状態がよくなったこと、公衆衛生が改善され、伝染病が減ったことだという。食べることと清潔にすることはやはり大切なようだ。
しかし、統計を見てみると、10万人当たりの生存数は55歳から減りはじめ、85歳から急激に減っていく。そして105歳くらいで収束する。結局は必ず死ぬ運命にある。
55歳くらいからはガンによる死亡率が上がっていくという。これは、DNAの変異の蓄積が原因だとされており、ゲノムの寿命は55歳ということもできる。
そうなってくると、老化とはすなわち細胞の老化であり、それがヒトが死に至る最大の要因と言えてくる。そして、それは著者の専門分野であり、詳しく掛かれている。

細胞には3種類ある。体細胞、幹細胞、生殖細胞である。そのうち体細胞は約50回の細胞分裂で死んでしまう。それを補うのは体のいたるところにある幹細胞で、幹細胞は分裂しても片方は幹細胞のまま残るので新たな体細胞を生産し続ける。しかし、幹細胞も老化は免れない。老化した幹細胞は分裂機能が衰え十分な細胞を供給できなくなる。大量の細胞を必要とする血液細胞や免疫細胞が一番の影響を受ける。そして死に至る。
もうひとつ、老化した細胞はサイトカインという物質をまき散らす。サイトカインは本来、傷ついたり細菌に感染された細胞がそれらを排除するために炎症反応を誘発し、免疫機能を活性化させる働きがあるが、老化した細胞が炎症反応を持続的に引き起こし臓器の機能を低下させる。糖尿病や動脈硬化、ガンなどの原因となるとされる。
だから体細胞は老化しすぎる前に排除されなければならないのだ。

細胞死を誘発するためにはP53というタンパク質が細胞質から核の中に移動する必要があるが、老化細胞ではFOXO4という遺伝子から作られるタンパク質(Foxo4)がそれを阻害する。FOXO4の働きを阻害するペプチド(小さいタンパク質)を投与するとP53が核の中に移動して細胞死を誘発する。そうすると、肝機能が回復し、運動能力が回復し、さらに毛がフサフサしてくるというのだ。しかし、残念ながらこれは老化したマウスでの実験で、人間では実験されていないそうだ。

また、細胞が50回の分裂で死んでしまうのはDNAのコピーミスに原因がある。細胞が分裂する時にはDNAも複製されるのだが、その時に複製される一方は端っこが複製できないという問題にぶち当たる。これは、ラギング鎖合成という合成を繰り返すために起こるのだが、このときに使われるプライマリーRNAの分が短くなるのというのである。それを防ぐために、テロメアという、捨てても大丈夫な配列があり、分裂するたびにその部分がプライマリーRNA分短くなってゆく。
テロメアが半分くらいの長さになると細胞の老化のスイッチが入るが、テロメアを合成する酵素があり、それを強制的に発現させた細胞は50回以上分裂を繰り返すようになる。しかし、残念ながらこれも試験管の中でのお話なのである。

生物の死は進化の過程で得たものというのが著者の考えであるが、どうして死をもたらす細胞の老化が必要かというと、細胞が生きてゆくためのエネルギーを作るときに発生する活性酸素が原因である。活性酸素によって“錆びてきた”細胞はガン化の危険がある。そういう細胞はその前に死んでもらったほうが都合がよかったというのが進化の結果なのである。
老化に抗うために備わっている機能が、発生したがん細胞を食ってしまう免疫機能と、細胞の老化という機能なのである。

長寿に関係する遺伝子も3個発見されている。
ひとつは、GPR1という遺伝子だ。これは、エネルギー源となる糖が細胞の周りにあることを伝えるたんぱく質をつくる遺伝子だが、これが壊れると細胞のサイズは小さくなるが寿命が長くなる。エネルギーを生産しない分、活性酸素の発生が減少し長寿につながるのだ。小食は健康によいと言われるがそれも同じ原理らしい。
残りのふたつはリポソームを安定供給するための遺伝子、FOB1とSIR2という遺伝子だ。これはたんぱく質を合成するためのリポソームのRNAのミスコピーを制御するものだが、FOB1が壊れると寿命が60%伸びて、SIR2が壊れると半分に縮む。
リポソームを作り出す遺伝子同じ遺伝子が100コピー以上直列に並んでいるのだが、これは変異を起こす確率が100倍以上あるということである。複製を抑制するのがFOB1遺伝子、ミスコピーを防ぐのがSIR2である。リポソームがたくさんあり、ミスコピーも少ないというのが長寿につながるということである。
そういう意味で最も不安定なリポソームRNAがゲノム全体の安定性を決めていて、寿命を決めていることになる。
これは酵母菌による実験の結果だそうだが、人間にもこの遺伝子は似たような遺伝子が存在するので人間の寿命にも関係していると考えられる。

ここまでわかっているということは、すでに寿命延長効果が確認できる化合物というのも作り出されているということだが、ヒトでの検証ができていない。
たとえば、カロリー制限に類似した効果が期待できる薬にメトフォルミンという糖尿病の薬があり、これを投与された患者は長生きだという報告があるが、残念ながら、健康な人に対しては安全性と効果の確認ができていない。
ラパマイシンという臓器移植の拒絶反応を抑える免疫抑制剤もカロリー制限と似たような効果を引きおこすことが知られている。酵母やハエ、線虫では延命の効果があり、マウスでもオスで9%、メスで14%の寿命延長効果がみられるが、残念ながら健康な人には副作用が現れる可能性がある。
SIR2に関係する酵素は延命効果に加え、体力、腎機能の亢進、育毛などの効果がみられるが、これも残念ながらマウスでの実験の結果である。
読めば読むほど期待が持てそうな物質や長寿のメカニズムが出てくるがあと一歩というところで人に対してはわからないというのが残念なのである。しかし、あと何年かすると本当に実用化されるものが出てくるのかもしれない。

しかし著者は、AI(人工知能)を引き合いに出し、死なないAIはどれだけ発達しても人間には近づけない。もし、AIがヒトになろうとするならば自ら寿命を迎えるというプログラムを作り出すだろうという言葉でこの本を結んでいる。生まれてきた以上、私たちは次の世代のために死ななければならないというのである。

メメントモリという言葉は科学の世界でも生きていたということだろうか。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

田ノ浦釣行

2022年01月21日 | 2022釣り
場所:田ノ浦
条件:中潮 8:49満潮
釣果:ボウズ

磯のフカセ釣りが年に1回になってからは毎年この時期に釣行を計画している。いつもこの時期に下期の2回目の連休を取るという理由なのだが、すでに連休中でなければ重い腰を上げられなくなっているというのが本音なのだ。
行ってもそんなにたくさん釣ることもできず、というか、釣っても1匹というような体たらくのうえ、体力と費用も相当かかるというのでは腰も重くなってくるというものだが、それでも磯に行きたいと思うのはやはりあの竿先をひったくっていくアタリが痛快だからだ。
しかし、よく考えてみると、1月中旬から2月にかけてというのは1年間でも一番寒く北西の季節風も一番強い時期だ。それに加えて、船を出せる日は船に乗って釣りに行きたいのでその日を外して磯に行こうとするととんでもない天気だということになる。その典型が去年の釣行であった

今年もフカセ釣りの季節がやってきたが、その日と当て込んでいた日はやっぱり寒くて風の強い日となってしまった。無理をすれば行けないこともないが、連休の最終日の明日は風がおさまってくるらしい。そうなると、この日は加太に行かねばならない。体力を温存するために今年の磯釣りは休止にしようと思ったがやっぱりフカセ釣りをしてみたいし、1年に1回は道具を引っ張り出して風に当てておくことも必要だろう。まあ、潮風は金属を余計に劣化させる恐れもあるのでそれもどうかと思うが・・・。
いろいろ思案をしているうちに、近場でフカセ釣りのまねごとだけでもやってみようと考えた。

場所はどこがいいだろうと次の思案に入ったとき、去年廃業してしまった散髪屋のマスターが、かなり昔だが、和歌浦の遊歩道を歩いていたら大きなチヌが見えたと言っていたことを唐突に思い出した。そういえば、紀ノ川の右岸では毎年この時期にチヌのフカセ釣りの釣り人が列をなしている。田ノ浦にもチヌがいないわけがないと前回の釣行の帰り、場所を探しに行っていた。

目星をつけたのは田ノ浦漁港の一番東の防波堤だ。



ここは外向きにテトラがないので釣りやすいが、駐車場からはものすごく離れているので人も少なそうだ。



ただ、足元を見るとものすごく浅い。これは問題かもしれないが、紀ノ川でもひとヒロくらいのところで釣っているらしいので大丈夫かもしれない。とにかく行ってみることだ。

前日の午後、餌を買いに釣具屋へ。この時間くらいから解凍を始めれば明日の朝には程よい硬さになっているだろうと思ったが、いかんせん相当寒い。昨日の和歌山市の最高気温は7.5℃。外の水道のトレイに水を溜めてオキアミを漬けるとすぐに水のほうが氷になってきた。何度か水を取り替え、今朝になってやっと程よい硬さになっていた。

午前7時ごろ防波堤に到着。まあ、こんなに寒くては生体反応はまったくないであろうとのんびりしながら釣りをしていると案の定アタリは全くない。ここは北西の風では完全な風裏になるので太陽が顔をのぞかせるとなんとなく穏やかだ。そのせいか、こぼれた撒餌をついばみに鳥がやってきた。人の少ないところだからだろうかまったく警戒をする素振りを見せない。



釣りの方はというと、しばらくすると海面に小魚が集まるようになり、刺し餌も取られるようになってきた。



一匹だけだがチヌの姿も見えた。けっこう魚がいるではないかと少しだけ真剣になってみるが掛かってくるのは小さな魚ばかりだ。

  

2回ほどウキを引き込むようなアタリがあったがそんなに簡単に魚が釣れるわけでもなく、撒餌を使い切って午前10時半に終了。


ただ、相当浅いところだと思っていたが、それは手前だけで、竿1本くらいのところは4ヒロほどの深さがある。そういう場所でも時折根がかりするのでシモリもあるようだ。風向きにもよるが、フカセ釣りよりも紀州釣りに向いているのかもしれないという感じを持った。これは収穫であった。
バイクを置いたところからはいくつかの障害を乗り越えないといけないし、



そもそもバイクにすべての道具を積み込めるのかどうかという問題もあるが、春までにはそれらを克服してチャレンジしてみたいと思うポイントであった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

加太沖釣行

2022年01月19日 | 2022釣り
場所:加太沖
条件:大潮 7:49満潮
潮流:4:31転流 8:41上り3.4ノット最強 12:30転流
釣果:マアジ6匹 ゴマサバ1匹 真鯛1匹(これは釣ったといっていいかどうか・・)


約1ヶ月ぶりの加太への釣行だ。天気が良く、用事もない休日が巡ってきた。
いつもの煙突の煙もいい感じで流れている。



しかし寒い。明日は大寒らしいが、本当に寒い。港への道中は雪が降っていて船のデッキににもうっすら雪が積っている。



おとといにもエンジンを回しているのでこんなに寒い日でも一発で始動してくれる。やっぱり船には乗り続けねばならないということだ。

今日は釣りをしている間はずっと潮が流れている。加太に到着して間もなく潮流の最強時刻を迎えるので大和堆ポイントからスタートして徐々に北上しようという計画だ。

今朝の加太の海の様子は、第2テッパンポイントと帝国軍軍港前に船団ができている。僕が目的としている大和堆ポイントにはまったく船の姿が見えない。しかし、ここは初心貫徹。大和堆ポイントから仕掛けを下し始める。




しかし、郷に入っては郷に従えでまったくアタリがない。ここのすぐ北にある、南海電車の車両が沈んでいるというポイントにも行ってみたがダメだ。雲の間からは天使の梯子が下りてきていてそれに誘われるように東に針路を向けてみた。



次の目標は四国沖ポイントだ。そしてここで結果が出た。移動して間もなく3連でマアジが掛かった。三度目の釣行でやっとボウズを免れた。どれも型がいい。少しずつ移動を繰り返し、マアジが6匹とサバが1匹。もう少し数が欲しいがアタリは遠のき、真鯛も狙ってみたいのでさらに北上し第1テッパンポイントへ。ここからは高仕掛けに変更。いきなりアタリがありこれはラッキーと思ったがすぐに放されてしまった。その後はアタリはない。魚探の反応はかなりあるのでこれはひょっとしてアジなのではないかと思いサビキに交換。この時、新たに作った磁石の台が活躍する。



デッキの上にのせているコンテナに合わせて作ったのだが、もとから使っているプランターの仕掛け入れと合わせてふたつの仕掛けを使い分けることができるのだ。また、今年はこれを利用して手釣りにも挑戦したいと考えているのだ。

この仕掛けでもアタリがあったがまたすぐに放されてしまった。潮が緩み始めて魚の活性が悪くなったのだろうか。
再び高仕掛けに変更して間もなくなんだか変なアタリがあった。アタリというよりもゴミをひっかけたような感じだ。しかしかすかに生体反応が感じられる。一体何だろうと思ったら僕の仕掛けに他人の仕掛けが絡まって上がってきた。

 

ほかの船の仕掛けとお祭りしたのかと思ったが、周りには船の影はない。とりあえず回収してみるとその仕掛けに真鯛が食いついていた。僕は漁夫の利?で真鯛と25号の錘とサルカンをいくつかゲットした。



この真鯛が誰かの仕掛けを切ってしまったらしい。ちょうど1年前にも同じようなことでスズキを釣った(といっていいのか・・)が偶然にも2回ともKさんと出会った日であった。

その後はアタリもなく、チャリコが1匹だけで午前11時に終了。

久々の加太への釣行で船から上がると足の付け根の関節が痛い。船もそうだが、体も船に乗り続けなければならないということだ・・。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

紀ノ川河口釣行

2022年01月17日 | 2022釣り
場所:紀ノ川河口
条件:大潮 6:20満潮
釣果:ボウズ

年が変わってまったく釣りに行ける日がない。天気は周期的に変わり、土、日は好天で平日が荒れるというサイクルだ。土、日は大体出勤しているのでこの周期はつらい。先々週の土曜日はビルの屋上からこんなにいい天気の友ヶ島を見ていた。


そして、平日の今日、久々にいい天気に巡り合ったと思ったら午前9時半に母親を連れて病院に行かねばならない。いい天気とはいえ、お昼前には風が吹いてくるらしい。まあ、日曜日の好天の名残りというところだろう。
しかし、昨日は天気はよかったものの、予想外の津波注意報が発令されていた。一昨日の真夜中、隣の部屋に置いているスマホがけたたましく鳴り始め、バカな奴がいたずら電話でもしてきたかと思ったら自動音声で津波に警戒せよと言っている。寝ぼけた頭で、地震も感じないので間違いか津波が来ても大したことはなかろうと再び眠ってしまった。
朝起きてみると、土曜日の夜にニュースでやっていたトンガの海底火山の噴火が原因で津波が本当に来ていたことを知った。噴火の振動が8000km彼方の日本までやってきたのかと思ったら、爆発の空気振動が原因だったという。空気の力というのも侮れないものだ。
渡船屋の船頭に連絡を取ってみると、この辺りはまったく穏やかだったというので一安心したというのが昨日であった。
ついでだが、仕事場のバックヤードのエレベーターで乗り合わせたのは、いつも真っ赤なスーツを着ているタレントさんだった・・。




そして、今日、1月17日は阪神淡路大震災が発生した日だ。そしてこの日は、金色夜叉の中で、間貫一が「曇らせてみせる。」と言った日でもあるのだ。僕は夜明けの空を眺めているので、正確にはこのあと12時間以上経過した夜空なのであるけれども、震災も噴火もこいつの恨みなのではないかと思うのはあまりにも空想が行き過ぎているか・・。

朝起きて新聞を取りに行くと、昨夜は雨が降っていたらしく、道が濡れている。夕べは雨が降っていたようで、その影響かどうかわからないが、温かい。朝のニュースでも3月中旬、桜の咲くころの気温と言っている。
さて、釣りができるのはわずか1時間ほど。去年の今頃はまだイカが釣れていたのでそれもいいかと思ったが、肝心の仕掛けが行方不明になってしまっている。そういえば1月4日に港に持って行ったきり洗った記憶がない。初詣のためにあちこち走り回ったので途中で落としてしまったか、船の上に忘れてきたのかもしれない。とにかく、仕掛けがないかぎり釣りはできない。次の手段としては禁断の仕掛けだ。釣れるのかどうかはまったくわからないが、とにかく船を動かすことが第一の目的としておこう。(結局、船の上にも残っておらず、いまだに行方不明なのである・・)


日の出時刻は午前7時。しかし、午前6時半になっても真っ暗だ。



そうとう雲が厚いようだ。
幸いにして波はそれほど高くない。真っ暗の中、ゆっくり船を出す。
青岸を越えるときに少し波があっただけで紀ノ川に入るとまったく穏やかな水面に変わった。



禁断の仕掛けを流し始めるがまったくアタリはない。水深は4メートル前後、本当にこんなところにブリがいるのだろうか・・。
上流に向かい、せっかくなので先週の「ブラタモリ」でロケをしていた土入川の河口とその対岸をめぐって戻ってきた。

 

もう少し時間があるので新々波止の南側へ。



こっちもまったくアタリはなく午前7時半に終了。

家に帰って道具を洗って急いで病院へ。月曜日の朝いちだからだろうか、やたらと人が多い。採血を待つだけで1時間。毎回思うのだけれども、予約時間と実際に診察を受けることができる時間のギャップというものはなんとかならないのだろうか・・。



午後1時にやっと病院を出て、帰宅してからベーコンの仕込み。今回は少し多く仕込んでみた。ソミュール液を節約するため、ビニール袋に小分けにして漬け込んでみた。さて、結果はどうだろうか。燻製箱にも改良を加えて漬けあがりを待つつもりだ。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「教科書名短篇 科学随筆集」読了

2022年01月16日 | 2022読書
中央公論新社/編 「教科書名短篇 科学随筆集」読了

国語の教科書に載っている文章を集めた本ということで興味を持ち借りてみたが、なんで科学者ばかりの文章が載っているのかと不思議に思ったら、この本はシリーズで出ていて、タイトルをよく読むと、「科学随筆集」となっていた。本を読み始めるときはきちんとタイトルを確かめねばならない。

寺田寅彦、中谷宇吉郎、湯川秀樹、岡潔、矢野健太郎、福井謙一、日高敏隆と日本の科学史の中では錚々たる人々が書いた文章が集められている。
しかし、これがどうもなんというか、出汁を入れ忘れた味噌汁のようなのである。おそらく、それぞれの分野ですばらしい偉業を成し遂げた人々なのであるから、その研究を通してある種哲学ともいえる人生観や生死観、世界観を持ったことだろうと思うのだが、そういうことがまったく伝わってこない。1946年からの中学教科書に採録されてきたものということで、時代と合わないということだろうかと思ったが、量子論でさえ1920年代に確立されたものだ。それぞれの分野ではすでに現代と同じ知識のなかで随筆として書かれているのだと思う。
じゃあ、出汁気がないのはなぜだろうと考えを巡らせると、やっぱりこれは教科書だからに違いないと思い当たった。人生観や、生死観、世界をどう見るかということを突き詰めてゆくと、そこには必ず宗教観や、イデオロギー、そういったものが見え隠れしてしまうものだ。そういうものは教科書としてはどうだろうかとなると、サンマを湯がいて脂を抜いてついでに小骨も取りましたというような文章しか残らないという結果がこの本なのだ。
本当は、この人たちも絶対にもっと味のある文章を書いているに違いない。岡潔は和歌山出身の数学者だから、もともと随筆をたくさん書いているということも知っていたので1冊くらいは読んでみたいと思っていたけれども、こういうテイストなら、う~ん、となってしまう。
この本に収録されている随筆は2016年まで教科書に採用されていたという説明が書かれていたのでかく言う僕もこの文章のどれかを読んでいたことになる。国語の教科書は読み物ではなく、文章の読解力を高めることを目的とするものだからこれでいいのかもしれないが、その前に読む気をなくしてしまう方が怖い気がした。僕もそのひとりであったのかもしれない。
この本はどういう意図で企画され、編集されたのかは知らないが、もし、国語の教科書の文章とは出汁を入れ忘れた味噌汁なのだということを知らしめる意図があるのならあまりにもブラックであると思うのだ。

新渡戸稲造は「武士道」の中で、日本の教育には宗教がないと語っていたけれども、まさにこの教科書が今の日本を作ったのだと思うと悪い意味で納得もしてしまうのだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『世界は「関係」でできている  美しくも過激な量子論』読了

2022年01月13日 | 2022読書
カルロ・ロヴェッリ/著 冨永星/訳 『世界は「関係」でできている: 美しくも過激な量子論』読了

新たな量子論に関する本を見つけた。ちょっと話題になっている本らしく、書評欄ではないところの朝日新聞の記事の中にも2回出てきていた。「関係」というワードが、人と環境、人と人との関係性になぞらえて使われたのかもしれないが、世界と「関係」はどういった関係があるのだろうかと思いながら読み始めた。

量子論というと、どんな本を読んでも摩訶不思議な話でいまいちどころかほぼ理解できない。もちろん文系の凡人が簡単に理解できるほどのものではないのも確かなものではあるというのはわかりきっていて、この本も最初の部分はその摩訶不思議な世界を解説している。
量子論では「重ね合わせ」や「確率論」のように、物質を構成する原子よりも小さなレベルではそこに実態があるのかどうかが非常にあやふやなのである。そして、そのあやふやな状態がどうして実体として収束するのかというと、それは観測者が観測したからだというのが量子論の核心のひとつである。
有名なシュレーディンガーの猫のパラドックスや電子の雲のように、観測されない限りはその状態は重ね合わさったような状態でありその収束の形は確率的でありそれが実体がないということの根拠になる。
そしてそこに、観測者と観測対象に「関係」が生まれというのである。『観測者自身も自然世界の一部であるのなら、どうして実体を決定づけられるような特権を持っているのか。「観測とは何か」「観測者とは何なのか」という問いによって、私達はついにこの本の主要な概念である、関係へと導かれる。』と書かれている。
この問いはハイゼンベルグが提起したものだそうだが、この本の原題である「Helgoland」はハイゼンベルグがこの問題提起を思索した場所がドイツのヘルゴランド島であり、著者自身もこの場所で「関係」について思いを巡らせていたのである。
ハイゼンベルグは、量子は波のようでもあり粒のようでもあり、観測されない限り確率論的に存在しているという、不確定性原理を発見した科学者である。

観測者とて神ではない。だから観測されるものとも同等である。だから観測されるものは絶対的に支配されているのではなく、すべて”関係”しているのだというのである。
もちろん、これは量子という極微小な世界での話なのであるが、著者はそれを人間サイズの世界にも当てはめようとしてみる。
その対象として、レーニン「唯物論と経験批判論」という論文を揚げている。レーニンというと、バリバリの社会主義の指導者で物理学とはまったく無縁の人のように思うが、この論文の中で、量子論の確立に大きな影響を与えたエルンスト・マッハや政敵であったボグダーノフを観念論者だと批判している。『観念論者は精神の外側に現実の世界が存在することを否定して、実在を意識の中身へと矮小化する。「感覚」だけが現実であるならば、外側の世界は存在しないことになる。』と、確かにこっちのほうが正論なのではないかと思うけれども、それを具現化したのが共産主義で、それが失敗だったと確定した現代ではやはり人はモノだけでは生きていけず、”意識”と”現実”との”関係”も必要だったということだろうか。
そのほか、関係というものついては、遺伝情報や進化も時の流れのなかの”関係”なのだと書かれている。
情報というものの定義として、無数にある選択肢の中から、確率的に限定できるものがある場合を相対情報と言う。量子論では、観測されないかぎり状態は確率が重ね合わされた状態になっているという。その確率はΨという文字で表される。
SFで語られる「他世界解釈」とは、Ψという波を確率とは解釈せず、あるがままの世界をきちんと記述する実体ある何かと捉える解釈で、確率的に出現しうる無数の世界が存在するという解釈であるが、見方を変えると観測する人によって世界が変わるとも取れる。
例えば、僕が観測される側であったとする。Aさんが見る僕、Bさんが見る僕、Cさん、Dさん・・・と僕は観測する人によって無数の僕がいることになる。著者はそれを「関係」と呼ぶのだが、そうなると、実態としての僕は意味をなさず、それぞれの人の中に印象として現れる僕が「関係」としては重要になってくる。こう書かれると人が生きてゆく上では確かに実体よりも相手(=観測者)が持つ自分(=被観測者)の印象のほうが大切な気がするのである。
それを『世界は「関係」でできている』と表現する著者の考えは確かにその通りだと思う。

しかし、この考え方が著者の独創的な考えであるとは思えない。年末年始、3連休もしたけれども、ベーコン作り以外は暇だったので新世紀エヴァンゲリオンを録画したものを見ていた。このアニメはロボットアニメではあるけれども、主人公の少年が自分の存在意義について思い悩む成長物語でもある。その物語の1シーンに著者が考える「関係」とまったく同じものがある。ネルフのメンバーや同じ巨大ロボットに乗る仲間の心の中に居る自分と実体である自分、どの自分が自分なのであろうかと思い悩むのである。他人が期待する自分を演じている自分は果たして自分なのであろうか・・。それはまさに重ね合わされた自分の姿である。
ついでにいうと、この物語には、ゼーレという世界の観察者ともいえる組織が登場する。その組織が主人公の父親たちを使って「人類保管計画」というものを遂行しているのだが、最後は神のように外部世界の観察者ではなく人間たちと同じ世界の観察者であったと描かれている。人類補完計画というものは詳しく描かれていないけれども、どうやら人の実体を消し去り精神を融合させるというようなもののようであるがまさに量子の世界に戻ってゆくような内容であった。

庵野秀明が仏教観を持った人かどうかは知らないが、もともと仏教の思想では、この世界は幻のようなものであり実体がないものだという「空」という考え方がある。このアニメも庵野秀明の個人的な経験に加えてそういったものも取り入れながら作られているようにも思え、こういう考えは東洋世界では古くからあったものである。30年も前にすでにそういった考えを表現していた人がいたのである。
それが、たまたまなのか、必然なのか、最先端の物質科学である量子論と結びついてきたというのがある意味驚きだったのである。
この本は、科学の解説書のように見えるが、実は唯物論と観念論がぶつかり合う哲学書であったのではないかと思うのである。だから、原題は「Helgoland」で、量子論という言葉が入っていなかったのだと考えた。


量子論について、こういうことなのかとわかったようでわからなかったことをいくつか追記しておこうと思う。
量子の世界は確率の世界で、観測されるまではその確率が重ね合わさった状態であるのだが、それを数式に表すときに、変数は行列を使うそうだ。行列の括弧の中の数字(成分)のひとつひとつが確率的に出現する世界を表しているらしい。数列とか行列というのは高校時代に数学の時間に習うものだが、すでに授業についてゆけなかった僕はこの辺りで完全に息の根を止められたのである。こんなものを勉強して一体何の役に立つのかと思っていたが、世界の成り立ちを知るためには必須の数学であったらしい。
そして、変数に行列が使われると掛け算の法則が通用しなくなる。掛け算の答えというのは前後をひっくり返しても値は変わらないが、量子の世界ではそうはならない。それを数式で表すと、XP-PX=iℏ (Xは粒子の位置、Pはその速度と質量をかけたものⅰはマイナス1の平方根、ℏ(小文字のhの上の方に━が引いてある)はプランク定数を2πで割った値)となるらしい。これが量子の世界の真髄なのらしい。プランク定数というのは何のことだかさっぱりわからないのだが、粒子としての光(光子)のエネルギーに関する定数で、量子が光と波の性質を併せ持つものだという証拠となる値で、単位はエネルギー量を表すjs(ジュール秒)である。その単位はあまりにも小さく、6.62607015×10-34(−34乗)jsというものだそうだ。
宇宙戦艦ヤマトは波動エネルギーで動き、マジンガーZは光子力エネルギーで動くのだが、果たしてこんなに小さなエネルギー単位で想像を絶するような強力な武器を運用できたのだろうかと心配になるのである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする