読売新聞京都総局 「京都 影の権力者たち」読了
この本は、いつも山菜採りでお世話になっている森に暮らすひまじんさんが新聞記者をされていたときに書かれた本だそうだ。複数の執筆者が書いているようで、きっとひまじんさんが指揮か監修をされたという感じだろうか。
「はじめに」の部分はひまじんさんの署名がされているが、その文体は、「森に暮らすひまじん日記」そのものだ。もう、これはひまじんさんが執筆したのに違いがない。
京都には、「白足袋にはさからうな。」という格言があるそうだ。白足袋を履いて仕事をする人たち、この本に出てくる京都の仏教界、花街、茶道、公家、伝統産業の旦那衆ことを指し、この人たちを敵に回しては絶対にことがうまく運ばないという意味らしい。聞くだけでも格式があり、一般人がうかがい知ることができないようなそんな世界を取材したノンフィクションになっている。
なんだかそういった世界は既得権を守り、どこからどうやってきたのかわからないお金があっちへ行ったり、こっちへ来たりするような、ある意味魑魅魍魎が跋扈しているような世界と思いがちである。確かにこの本でも仏教界や茶道界のお金の流れや花街と旦那衆と言われるひとたちとのかかわりが書かれているけれども、逆に、こういった数百年も続くような伝統、それも文化の極みにあるような世界をそれだけ長く保ち続けるためにはそれなりの費用がかかるのは間違いがないのであり、そういうところを人々はやっかみ半分でいろいろ言いたがる。
人々は覗き見が好きだから、えてしてその裏の部分を、もしくは裏の部分として見たがる。しかしそれを守るためにそこにいる人々がどれだけの情熱をつぎ込んでいるかという表の部分は見たくない。それは心の中で自分と比較したとき、そのエネルギーの無さにあまりにも自分がみじめになるからだ。物理の世界でも文化の世界でもエントロピーの法則が成り立つということを一般人はわからないのだ。
この本のタイトルは出版社の方が考えたそうだ。多分、一般の耳目を集めるため、裏側から見ました的な、「影の権力者」ということになったように思えるが、ひまじんさん側からの提案された、「〇〇生態学」というタイトルは、きっとその伝統を守るために情熱を傾け、時代の変化に対応しながら一所懸命に生きている人々の姿をたたえたものであったのではなかったのではないかと思うのである。
そして、それは自分たちの世界を守るだけでなく、京都の町全体を守ることであったということが共産党について書かれた最後の章に現れているのではないだろうか。共産党も、外から見ればどうも近寄りがたい活動をしているように見えるけれども、自分たちの町を自分たちの町らしく守っているのだという意味では白足袋の人たちと同じ気持ちではないのだろうかと思うのである。様々な人々がひとつの町(生態系)を作り上げている。だから“生態学”なのであろう。
まあ、会社も同じようなもので、全体を動かしている人たちというのはやはりそれなりの“格”を持った人たちのように思う。(僕の働いている会社だけかもしれないが・・)品があるとまでは言わないが、僕のようにびくびくしながら生きてはいないというか、それは育ちなのか生まれ持った性格なのか、一種何かにじみ出るような余裕がある人たちのように思う。ぶっちゃけ、聞けば名家の出身という人が多い。他の企業でもそういう人が上にいれば同じような“格”同士ではないと事は進んでいかないのだろう。すべての人がそうではないのだろうけれども、そんな中に入り込める平民はごくわずかで、大多数はそんな”格”を持った人たちで占められている。それを集めるのがコネというのなら、はやりそれが十分条件で、自分がやるんだという情熱が必要条件であるのだなとあらためて思うのだ。僕はどう見てもその両方の条件を持ち合わせていないわけで、会社の中に埋もれてゆくしかないのである。
僕もわずか三行だけれども、自分の書いた文章が本になったことがある。朝日新聞の書評欄に載った文章を集めて本になるときに一緒に載せてくれたのだ。一応、著作権の確認があったり、出来上がった本が送られてきたりして、なんちゃって作家気分を味わせてもらったけれども、自分がかかわった本が出版されるというのはどんな心持ちなのだろうか。
あこがれるな~。
この本は、いつも山菜採りでお世話になっている森に暮らすひまじんさんが新聞記者をされていたときに書かれた本だそうだ。複数の執筆者が書いているようで、きっとひまじんさんが指揮か監修をされたという感じだろうか。
「はじめに」の部分はひまじんさんの署名がされているが、その文体は、「森に暮らすひまじん日記」そのものだ。もう、これはひまじんさんが執筆したのに違いがない。
京都には、「白足袋にはさからうな。」という格言があるそうだ。白足袋を履いて仕事をする人たち、この本に出てくる京都の仏教界、花街、茶道、公家、伝統産業の旦那衆ことを指し、この人たちを敵に回しては絶対にことがうまく運ばないという意味らしい。聞くだけでも格式があり、一般人がうかがい知ることができないようなそんな世界を取材したノンフィクションになっている。
なんだかそういった世界は既得権を守り、どこからどうやってきたのかわからないお金があっちへ行ったり、こっちへ来たりするような、ある意味魑魅魍魎が跋扈しているような世界と思いがちである。確かにこの本でも仏教界や茶道界のお金の流れや花街と旦那衆と言われるひとたちとのかかわりが書かれているけれども、逆に、こういった数百年も続くような伝統、それも文化の極みにあるような世界をそれだけ長く保ち続けるためにはそれなりの費用がかかるのは間違いがないのであり、そういうところを人々はやっかみ半分でいろいろ言いたがる。
人々は覗き見が好きだから、えてしてその裏の部分を、もしくは裏の部分として見たがる。しかしそれを守るためにそこにいる人々がどれだけの情熱をつぎ込んでいるかという表の部分は見たくない。それは心の中で自分と比較したとき、そのエネルギーの無さにあまりにも自分がみじめになるからだ。物理の世界でも文化の世界でもエントロピーの法則が成り立つということを一般人はわからないのだ。
この本のタイトルは出版社の方が考えたそうだ。多分、一般の耳目を集めるため、裏側から見ました的な、「影の権力者」ということになったように思えるが、ひまじんさん側からの提案された、「〇〇生態学」というタイトルは、きっとその伝統を守るために情熱を傾け、時代の変化に対応しながら一所懸命に生きている人々の姿をたたえたものであったのではなかったのではないかと思うのである。
そして、それは自分たちの世界を守るだけでなく、京都の町全体を守ることであったということが共産党について書かれた最後の章に現れているのではないだろうか。共産党も、外から見ればどうも近寄りがたい活動をしているように見えるけれども、自分たちの町を自分たちの町らしく守っているのだという意味では白足袋の人たちと同じ気持ちではないのだろうかと思うのである。様々な人々がひとつの町(生態系)を作り上げている。だから“生態学”なのであろう。
まあ、会社も同じようなもので、全体を動かしている人たちというのはやはりそれなりの“格”を持った人たちのように思う。(僕の働いている会社だけかもしれないが・・)品があるとまでは言わないが、僕のようにびくびくしながら生きてはいないというか、それは育ちなのか生まれ持った性格なのか、一種何かにじみ出るような余裕がある人たちのように思う。ぶっちゃけ、聞けば名家の出身という人が多い。他の企業でもそういう人が上にいれば同じような“格”同士ではないと事は進んでいかないのだろう。すべての人がそうではないのだろうけれども、そんな中に入り込める平民はごくわずかで、大多数はそんな”格”を持った人たちで占められている。それを集めるのがコネというのなら、はやりそれが十分条件で、自分がやるんだという情熱が必要条件であるのだなとあらためて思うのだ。僕はどう見てもその両方の条件を持ち合わせていないわけで、会社の中に埋もれてゆくしかないのである。
僕もわずか三行だけれども、自分の書いた文章が本になったことがある。朝日新聞の書評欄に載った文章を集めて本になるときに一緒に載せてくれたのだ。一応、著作権の確認があったり、出来上がった本が送られてきたりして、なんちゃって作家気分を味わせてもらったけれども、自分がかかわった本が出版されるというのはどんな心持ちなのだろうか。
あこがれるな~。