イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

「夜に星を放つ」読了

2023年06月27日 | 2023読書
窪美澄 「夜に星を放つ」読了

去年の上期の直木賞受賞作だ。貸し出し予約をしたものの、予約待ちが相当あったので借りることができる時期はもっと遅いだろうと思っていたが意外と早く回ってきた。その理由はかなり読みやすい本であったということだ。僕は1日半で読み終えてしまった。
5編の短編集だが、それぞれはまったく関連性がなく独立した物語となっている。共通点はすべてのストーリーに“星”が絡んでいるということである。しかし、それはストーリーにとって重要なファクターとなっているものでもないというのもある意味面白い設定だ。

それぞれの物語のあらすじを簡単に書いておく。
「真夜中のアボガド」
婚活の相手に妻子がいたことを知った主人公は、亡き双子の妹の彼氏にそれはいけないことだと思いながらもひと時の癒しを求めてしまう。妹のことを早く忘れて新たな人生を進んでもらいたいと思いながらも傷ついた自分の心も癒してほしいと思うのだが、それを妹の彼氏に諫められてしまう。しかし、彼氏も主人公とのそういった出来事に動かされ新たな道を歩もうとする。
そして主人公もまた、水栽培で芽を出したアボガドの種に力をもらって力強く生きてゆこうと決意を新たにする。
登場する星はふたご座のカストルとポルックス。

「銀色のアンタレス」
美しく成長した幼なじみの好意に答えることができない高校生の主人公は、自分よりもはるかに年上の女性に惹かれてしまう。
結局、年上の女性は夫の元に戻り、幼なじみとは心が離れていってしまう。
思春期の少年の揺れ動く心というものだろうか。
「タッチ」を思い出してしまった。
アンタレスは赤い星だが、年上の女性はアンタレスと銀色のアルタイルを間違える。

「真珠星スピカ」
生まれ育った町に戻ってきた主人公の少女は中学校でいじめに遭っている。原因のひとつは隣に住む担任の先生だ。先生は女子中学生の間では人気者で、主人公が幼かったころからの知り合いであったことから嫉妬の目で見られていた。
クラスでは孤立し、保健室への通学を強いられる。そんな不安な心を支えてくれたのは交通事故で亡くなった母の幽霊だった。
霊感があると自分で言っているいじめのリーダーが主人公に無理やりこっくりさんをさせると、「い、し、め、た、ら、の、ろ、う、」というメッセージが現れる。
それがきっかけとなりいじめは治まったがそれ以来母の幽霊が見えなくなった。
妻との思い出を捨てきれない父親は妻の納骨が近くなっても踏ん切りがつかない。妻の荷物も処分できず、夏の日に虫干しをする。そんな光景の中に、隣の担任と保健室の先生の恋を見つける。
その日、コロッケを作った主人公だが、どうしたことか箸でふたつに割ったコロッケの中から真珠のピアスが出てきた。
それは若い頃の父が母に贈ったものであった。それを見た主人公は自分の知らない両親の若い頃を思い、自分も大人になったらこのピアスを着けようと考える。
おとめ座のスピカは「真珠星」とも呼ばれるそうだ。ユーミンの「真珠のピアス」の歌詞と重ね合わせて父親が思い出を語る。
この歌詞、けっこうおどろおどろしい内容だが、父親は、自分はそうではないと逆説的に言いたかったのだろうか・・。

「湿りの海」
離婚を機に引っ越しをしてきたシングルマザー。自分も離婚をしたばかりだったので気になる女性となった。シングルマザーの子供には別れて海外に行ってしまった子供を重ね合わせる。生きづらさからか、子供とはうまくいかず、虐待を思わせるところも見える。それを救ってあげたいと思いながらも何もすることができなかった。しばらくして元の夫のもとに帰ったということを知り、すべてのことから自分だけが取り残されてしまったという思いに苛まれる。
「湿りの海」というのは、月の表側の南東にある平原の名前である。

「星の随に」
父が再婚し、新しい母と暮らすことになった小学生が主人公。大人の勝手な取り決めで実の母親に自由に会えない。育児疲れの義母にも甘えることができず自分の気持ちを打ち明けることができないというさまざまな葛藤。レストランを経営している父親はコロナショックで経営がうまくいっておらず、そういった悩みを打ち明けられるような状態ではない。
そんな主人公を助けてくれたのは同じマンションに住む老婆だった。老婆はもうすぐ老人ホームに移る予定だ。それまでに自分が体験した東京大空襲の様子を絵画に収めようとしている。主人公はその横で夏の星座の図鑑を眺めている。
家族間の分かり合えない様を描いている。

登場人物たちの現状は順風満帆ではけっしてない。人生の中で何かにつまづき、よろけそうになりながらもなんとか踏ん張ろうとする。そういう人たちの切なさや健気さに読者は共感するのか、今を悩んでいるのは自分だけではないのだということに安心するのか・・。
ストーリーは特に奇をてらったところもなく、プロットはなんだかふた昔前の小説やマンガを思い出させる。文学としては大したものではないようにも感じるが、そういった素直なストーリー展開やなんとなく懐かしさを感じる部分が支持されるのかもしれない。
しかし、一度だけ読むと普通の小説という感じだが、感想文を書くためにところどころを読み返してみるとやはりいろいろ考えさせられる部分が出てくる。また、作家の考えていることはこの短編集で繰り返し使われている他者の都合で置かれることになった自分の立場との対峙、例えば、亡くなった人、別れた人から影響を受け続ける自分とどう折り合いをつければよいのかというようなことだとおもうのだが、そこは自分の現在の悩みともオーバーラップする。
アドラーは、「人間の悩みのすべては人間関係の悩みである。」と言っているのだが、そのど真ん中が描かれているようにも思えるのである。



今回もあらすじの作成をAIに頼ってみようと思ったのだが、出てきた答えはなかなのものだ。
AIが作ってくれたあらすじは以下の内容だ。何度かAIとやり取りをしてゆくとそれなりの形になってきた。

「夜に星を放つ」は、窪美澄さんの短編集で、第167回直木賞を受賞した作品です。星をモチーフにした5つの物語が収録されています。それぞれのあらすじは以下の通りです。
「真夜中のアボカド」:婚活アプリで出会った恋人とコロナ禍で遠距離恋愛をしている女性が、30歳の誕生日に双子の妹の彼氏と再会する話。
「真珠星スピカ」:母親が亡くなり、父親とその再婚相手と暮らすことになった中学生の女の子が、母親の幽霊と奇妙な同居生活を送る話。
「銀紙色のアンタレス」:祖母の家で夏休みを過ごす高校生の男の子が、海辺で出会った少女とほろ苦い恋をする話。
「湿りの海」:離婚して子どもと離ればなれになった男性が、隣室に越してきた母娘と交流し、別れを迎える話。
「星の随に」:父親の再婚相手と仲良くなれない小学生の男の子が、東京大空襲を絵に描く高齢女性と心を通わせる話。
これらの物語は、大切な人やものを失った人たちが、新しい人生への一歩を踏み出す様子を描いています。星座や伝説に関する知識も盛り込まれており、読者に感動や希望を与える作品です。

もう、僕の感想文は必要がないのかもしれない・・。
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住金沖~加太沖釣行

2023年06月24日 | 2023釣り

場所:住金沖~加太沖
条件:小潮 3:51干潮 9:12満潮
潮流:5:19下り1.6ノット最強 8:50転流
釣果:マアジ5匹 ハマチ1匹

今日もいい天気だ。昨日よりもいい感じだ。
満を持して加太へ向かおうと考えている。しかしその前に、昨日のサゴシとガソリンスタンドの爺さんに教えてもらった住金沖の飲ませサビキが気になる。とりあえず一通りやってみて加太へ向かう計画を立てた。

しかし、二日連続で午前2時半に起きるとお通じの具合が極端に悪くなる。お腹の中で常に便意を感じているのでなんとか少しでもひねり出そうとトイレに座っていたので出港は午前4時半になってしまった。



明日は図書館に行ってスッキリしよう。

サゴシ狙いは勝負の早い禁断の仕掛けを使う。しかし、今日はまったく魚の跳ねる姿がない。昨日に比べると30分ほど早いのだがそれが悪かったのだろうか。というのは、これはいつも思っていることで、魚のボイルは朝一よりも一息おいたあとにやってくるような気がするのだ。
そうはいっても、次に向かうところがあるので今日は仕方がない。一筆書きで住金沖に向かう。

住金沖にはすでに数隻の船が集まっている。



そして防波堤を内側に回り込んだところにベイトの反応があった。おお、これは爺さんの情報通りだとさっそく仕掛けを入れるのだが、その後はまったくベイトが現れなくなった。
すべてにおいて辛抱がない僕にとってこの釣りは苦行以上のものだ。多分、15分くらいで加太に行こうと決めてしまった。

港に戻ってからわかったことだが、Fさんはこのあとここにやってきていて、大きなメジロを仕留めたそうだ。ベイトが少ないなかでそれをずっと追い求めていたそうだ。この釣りはとくに粘りが必要らしい・・。
そしてanotherNたちはフカセ釣りで僕が想像していた以上の大型のグレをたくさん釣り上げていた。この海域は僕が考えている以上に豊饒の海であるようだ。

そして僕は加太に向かう。潮はすでに下りの最強時刻を過ぎているのでコイヅキを目指そうと思うのだが、今日もやっぱり四国沖ポイントに数隻の船がいたのでコイヅキまでの道のりがしんどいと最初の決意をあっさり覆した。

魚探の反応は全然ないのだが本職の人たちはポンポン魚を釣り上げている。



これはいつものことなのだが、毎回、この人たちは魔術師ではないのかと思ってしまう。漁礁の周りを丹念に探っているという精密さはあるのだろうが、多少離れていても少しくらいのおこぼれは僕にもありそうなものなのにとこういうのを見ているとやっぱり嫌になってくるのである。
しかし、今日は嫌になる前にアタリがあった。魚探にわずかながら反応が出てきたのである。そしてすぐにアタリがあった。久々の鬼アジだ。型もまずまず。とりあえずはボウズじゃなくなった。
1匹釣れるとがぜんやる気が出てくる。GPSの地図を拡大して釣れたラインをトレースする。しっかり底を取っているとまたアタリ。
本職の船が近づいてくるが僕も逃げずにポイントを維持しながら魚を追加する。



しかし、あまりにも漁礁に近づきすぎて仕掛けをロスト。今日の仕掛けはプロトタイプを使っていたので予備がない。古いタイプの仕掛けに取り替えたがそれが悪かったのか時合が過ぎてしまったかアタリも魚探の反応もなくなった。
みんなそう思っていたのか、気がつけば本職以外の船はどこかへ消えていた。

今度こそコイヅキを目指そうと西に向かうが、ここら見ると船の姿がまったくない。あらまあ、釣れないのかとほかにはいいところがないかと周りを眺めるとジノセト方面にたくさんの船が見える。前回の大潮の時は川のように潮が流れていたが、小潮の時の状況も見ておくのもいいだろうと考えて針路を変更。海峡部を越えて北に陣取るがアタリはない。



途中、一瞬だけ反応を見た海峡部の南へ移動。流れはあるものの前回ほどではない。流れに任せて船を流していると中層くらいに反応があった。棚を合わせるために急いでリールを巻きあげるとそれが誘いになったか、アタリが出た。ちょっと大きい。
真鯛じゃないがハマチだ。

このまま転流時刻を待って上りの潮を待ちたいところだが二日連続の釣りだと体に堪える。
それに、長らくアジを釣ることができなかった僕にとっては5匹釣れれば十分満足なのである。そして、これだけあれば叔父さんの家にも持って行けるので午前8時半に終了。


午後から燃料補給をするためにガソリンスタンドに寄ったのだが、今日も爺さんのローテーションだったようで僕の姿がマジックミラー越しに見えたのか、事務所の奥から出てきてくれた。ここはセルフスタンドだが免税軽油は事務所で前払いしてからポリタンに入れてもらう。爺さんが出てくるとおカネを払えないので、まずは事務所に戻って支払いをしながら情報交換をする。今日はマアジが5匹ですと話すと、爺さんの知り合いは1匹だけだったという。加太では5匹の釣果など何の自慢にもならないがそういうのを聞くとわれながらよくやったと思うのである。(もっと釣った人もいたようだが・・)
そして気になる情報も教えてくれた。最近、加太で真鯛が釣れない理由だ。これは僕の腕前が悪いということが一番の理由だとわかっているのだが、それに加えて、辰ヶ浜の底曳網漁船の密漁行為が原因だというのである。3年ほど前にオープンした「浜のうたせ」に並べるための魚を真夜中にやってきて完全に加太の漁業区内となっている場所で盗っているというのである。釣り人が早朝にやってきて仕掛けを入れても海中をかき回された直後だから真鯛がおびえているので釣れないというのである。
以前は加太漁協の組合長が相当なタカ派だったので他所者は怖がって近寄ることができなかったが今の組合長は弱腰なのでそれをいいことに密漁が横行しているというのである。
加太の漁師たちも今では漁獲で生計を立てているわけではなく、自分たちの特権で底引きが入れない漁礁周りや磯際で真鯛を狙えるので客に釣らせるにはそれで十分だから知らんふりというのである。
ヤ〇ザは必要悪だという説があるが、まさに用心棒がいないと逆に無法地帯になる。ヤ〇ザにはヤ〇ザをあてがっておかないと秩序が保たれないという典型がここにもあるということだ。以前、漁業監視船の前で堂々と底引きをやっている辰ヶ浜の漁船を見たが、まさにこれが真鯛が釣れない証拠だったというわけだ。
これだと秋のカワハギの行方も心配される。
なんとか新しい秩序を作り上げてもらいたいものだ・・。
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紀ノ川河口~水軒沖釣行

2023年06月23日 | 2023釣り
場所:紀ノ川河口~水軒沖
条件:中潮 3:02干潮 
釣果:ボウズ

今日はズル休みではない。午前8時までに母親を病院へ連れて行かねばならない。朝一だけルアーを投げに行こうと考えた。
一昨日は夏至。こういう時、夜明けが早いというのはありがたい。とはいえ、午前2時半に起きたところ小雨が降っていた。あれまあ、これはまた寝なおしかと思ったが雨雲レーダーを見てみると1時間ほどで雨雲は去っていくようだ。それならばと午前3時半に家を出た。

それでも雲は厚く、午前4時17分、港を出た時はまだ東の空は真っ暗だった。むしろ西の方が青くなっていた。



いつもの場所よりも少し下流の右岸に碇を下ろしトップウォータープラグをキャストする。



水面は穏やかで魚が飛び出てくる感じがプンプンしているのだがアタリはない。
1時間近くルアーを投げたけれども、このまま帰るのは惜しく、水軒一文字の沖に移動することを考え早速移動。



ここも海面は穏やかだ。メタルジグに取り替えてキャストしていると、ルアーの届く範囲ではないが沖の方で魚が跳ねている。ボラではない。こういう時は突然視力がよくなるのか、魚の形がくっきりと見える。紛れもなくとまではいかないがあれはサゴシだ。
いよいよチャンスかと水面を跳ねているのならこれはトップウォーターだとルアーを変更。しかし、その頃には魚が見えなくなってしまったので再びメタルジグに変更。それからしばらくしてメタルジグがフォールしている最中にアタリ。あまり引かないが、これはきっとサゴシだ。サゴシは、最初は自分が釣られたということに気がつかないようで水面近くまで引っ張られてようやく自分の命が危険にさらされていると悟るようだ。
わずかなチャンスなのでなんとか獲りたいと思ったが残念ながら途中でバレてしまった。
その後、リップレスミノーに換えてみたりしながらキャストを続けたがアタリはなく午前6時に終了。

午前8時前の病院の駐車場は閑散としていたので今日は早く帰れるかと思ったが結局、いつものごとく午前9時の予約時間で診察に呼ばれたのが午前10時半。家にたどり着いたのはちょうどお昼であった。



今日は僕も歯の掃除。いつもちゃっちゃとやってくれる歯科医院はまだ営業しているだろうかと心配しながら訪ねた。
というのも、マイナカードが保険証になるのをきっかけに、システムの導入コストに耐えられないか、もしくはIT化について行けない医院の廃業が相次いでいるという。
いつ行ってもすぐに診てくれるほど客が少ない医院だから廃業候補の筆頭ではないかといつも心配しているのである。かといって、この先生、きっとやぶ医者というわけではないはずだ。親知らずを抜いてくれた時は何の痛みもなくサッと、それも今日は歯の掃除ですというようなときについでにやってのけてしまうような先生なのだ。
とにかく、手抜きでもなんでも、素早くやってしまってくれるのがうれしいのである。
しかしながら、今日の店番は先生ひとりだけで、受付の人もいない状態だ。きっと経費がひっ迫しているのだろう。次回は9月か10月に来てねと言ってくれたが、はたしてその頃は営業してくれているのだろうかと入り口の扉をあけてから出てくるまで20分という午前中の口腔外科から比べるとぶっちぎりの速さとうらはらに心配しきりなのである。


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「さかなクンの一魚一会 まいにち夢中な人生!」読了

2023年06月20日 | 2023読書
さかなクン 「さかなクンの一魚一会 まいにち夢中な人生!」読了

ずっと読みたいと思っていたものの、児童書の書架に並んでいるのでこれはちょっと還暦間近のおっさんが読むものではないと思っていたのだが、少し前に「さかなのこ」という映画を観たのでこれはやっぱり原作を読むべきだと思い恥ずかしいのを我慢して借りてみた。
すべての漢字にルビがふられているので読みやすいといえば読みやすい。間違いなく子供向けの書籍である。しかし、さかなクンはこの本を読むであろう子供たちの親へのメッセージも本の締めくくりとして残している。それはこのブログの最後に書こうと思う。

映画に出てくるエピソードはかなり脚色しているのかと思っていたらそうでもないらしい。
それはないだろうと思っていたヤンキーさんたちに絡まれたけど逆に友達になって釣りを教えてあげたとか、カブトガニを学校で飼っていたとかいうのも本当のことだったらしい。
主演ののんちゃんとさかなクンは「あまちゃん」でも共演していた。なんだかつかみどころのないさかなクンのキャラクターとのんちゃんのキャラクターは確かにシンクロしている。
面白い映画だった。

本と映画両方に共通するのは自分の好きなことをひたすら追い求める情熱と人との出会いだ。普通ならこんなことをしていても将来何の役にも立たないとかこれで大成しなかったら何も残らないとかそんな消極的な考えになってしまう人が大半なのだろうけれどもこの人は違った。魚に関われる仕事をひたすら追い求めて今の地位を築いたのである。
アキちゃんもこう言っている。
「海女は好きだけど、今じゃなくてもできるべ。だけど、ユイちゃんど、東京さ行って、アイドルさ…なれるかどうかわがんねえけど、それは今しかできねえべ!」
それを本当にやってのけたのがこの人だ。
そしてこの人のお母さんという人も、そんな我が子をひたすら応援し続けたという。普通なら、「そんなことしてる暇があったら勉強しろ!」とひたすら叱りまくるというのが普通なのかもしれない。ちなみにさかなクンの父親という人は囲碁のプロ棋士だそうだ。まあ、もとから普通の人とはちょっと違ったという事実もある。
しかし、よく考えてみると、どの世界でもこうして自分の好きな道をひたすら突き進んだ人がその世界で第一人者となっているに違いない。歌を歌う人でも、周りからはいつまでもあんなことをしていて将来はろくなものにならないなどと言われていたに違ないない。L'Arc〜en〜Cielのhydeさんなんて和歌山にいる頃はおそらく近所ではろくでなしと呼ばれていたことだろう。しかし、そんな雑音を無視して続けていたから有名になれたのだ。
プロ野球の選手なんて、全員がそんな人なのかもしれない。
釣りの世界では中井一誠という人がいて、タイラバの第一人者としてテレビに出演したり自分の名を冠した商品を開発したりしているが、僕と同じ歳でしかも雑賀崎の出身だ。おそらくは同じ頃同じ場所で魚を釣っていたに違いない。ちからさんの話では、かつてちからさんが経営していたダイビングショップでドライスーツをあつらえて離れ磯に泳いで渡ってスズキを狙っていたらしい。その頃からけったいな人だと思っていたらしいが、後年、こんなに有名な人になってしまった。
そこまで突き抜けないと夢は叶わない。僕にはそこまでの情熱はなかった。
そして、どんな人にも誠実に接することができるということがもうひとつの条件なのだろう。それが新たな出会いを呼び込む。さかなクンもヤンキーとも仲良くなれる誠実さがあった。それはきっと自分の進む道に自信があったからに違いない。そこまでの自信をつけるにはどれだけの努力と集中力が必要だったのだろうか。さかなクンはそういったところを軽く書いているが、好きこそものの上手なれというような生易しいものではなかったに違いない。
そういったことが様々な出会いを生んだ。
さかなクンが世に出たのは高校生時代にTVチャンピオンというテレビ番組で5回連続チャンピオンに輝いたからだという。
その後は大学受験に失敗し生物系の専門学校に入り、水族館での実習や寿司屋、ペットショップでのアルバイトをしながら魚と生きてゆける道を模索していた。こういった仕事もたくさんの人との出会いがあったことの結果であった。
さかなクンはこう書いている。
『それまで自分にとって絵を描くということは、誰かに見てもらうためでも誰かのために描くものでもありませんでした。ただただ絵を描くのが好きで、大好きなものを描きたい。そんな自己満足だけで描いていたのです。ところが、そんな自己満足のかたまりのようなミーボー新聞(さかなクンが小学校時代に作っていた壁新聞。これも当時の先生との出会いが生み出したものだ。)を、たくさんの人が毎回楽しそうに読んでくれる。そのことに、驚くとともに、言葉にしつくせないほどのうれしさがこみ上げてきたのでした。
このときを境に、自分の中で、絵を描く心構えがガラリと変わっていきました。』
こういった心持ちがさらに人との出会いを増やしていったのだろう。

寿司屋でのアルバイトでは不器用さから寿司を握ることはなかったが絵の上手さを買われ寿司屋の外装を手掛けることになるのだが、それが評判になってイラストレーターへの道が開け、芸能プロダクションの目に留まり今の活躍につながったという。
これはもう、幸運というだけでは語れないと言えるだろう。タイトルの「まいにち夢中な人生!」を全うした結果なのだろうと思う。
憧れの大学の客員教授という肩書も得たのである。
しかし、これは有名人に限ったことではない。一般サラリーマンでも、自分の仕事が好きかどうかで仕事の質も変わるし人生が幸せかどうかの分かれ目にもなる。自分がやってきた道を振り返ってみても、単にこの会社は平日に休めるからという理由だけで就職したので何の愛着もない。流通業だと思っていたら実体はファッションビジネスで休みの日はコーナンスタイルからワークマンに変わったとはいえ作業着を着続けているのに変わりはないのだからファッションとは無縁で、仕事を通しては“ブランド”というものの無意味さを知ってしまったら余計に自分の仕事の虚しさを身に染みて感じるのである。
加えて性格上、誠実さのかけらもないのだからここに留まっているのも仕方がないと児童書を読みながらタジタジとなるのである。


「らんまん」のモデルになった牧野富太郎は、読めば読むほど、知れば知るほどこんな人はまずいないだろうと思っていたら、さかなクンは現代の牧野富太郎ではなかったかと気づいてしまった。
ふたりに共通するのは対象への情熱と絵の上手さだ。こういう表現力というのはもって生まれた才能なのかもしれないが、多くの人に感動を与えるというのは、絵画や音楽でその才能に恵まれたひとの特権なのかもしれない。僕が富太郎に興味を持ったのも、テレビで富太郎が描いたあまりにも精巧な標本の絵を見たからだったし、さかなクンの絵にしても、普通釣り師は魚が一番大きく見える横からの映像しか見ないのに対して、一見デフォルメして描かれたような、正面から見た躍動感あるイラストは精巧でもある。



二人とも子供の頃から学業そっちのけで絵を描いていたらしいから才能だけでもなかったのだろう。

さかなクンというとものすごい知識量だけれどもあのオーバーアクションはちょっと鼻につくなと思っていた。しかし、この本を読んでみる目が変わった。あのアクションはテレビ出演の最初のころからあんな感じであったというのでそれも持って生まれた才能だったのだろう。多分これからは「ギョギョッとサカナ★スター」は毎回欠かさず見ることになると思う。シャーク香音ちゃんも寿恵子さん同様、現実的ではないほどかわいいし・・。

そして、さかなクンのメッセージだが、
『もし、夢中になっているもの、大好きなことがあったら、ぜひ続けてみてください。好きなことを追いつづけるのはすばらしいです。ひょっとしたら将来の道にはつながらないかもしれません。
途中でスーッと気持ちが冷めてしまうこともあるかもしれないし、まったく別の道を歩むことになるかもしれません。それでもいいと思います。夢中になってひとつのことに打ち込んだという経験は、けっしてムダにはなりません。人生のどこかできっと役に立ちます。
もしお子さんがいらっしゃったら、いまお子さんが夢中になっているものが、すぐ思い浮かぶはずです。それは虫かもしれないし、ゲームやお菓子かもしれません。つい「もうやめなさい!」なんて言ってしまいたくなるかもしれません。けれど、ちょっとでもお子さんが夢中になっている姿を見たら、どうか「やめなさい」とすぐ否定せず、「そんなに面白いの?教えて。」ときいてみてあげてください。きっとお子さんはよろこんで話をしてくれるはずです。その小さな芽が、もしかしたら将来とんでもない大きな木に育つかもしれません。』
という内容だ。なるほどと思うが、これも還暦間近のおじさんにはことすでに遅しという箴言なのだ。しかし、まったくそのとおりだとも思うのである。

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住金沖~水軒沖釣行

2023年06月18日 | 2023釣り
場所:水軒沖
条件:大潮 5:24満潮
釣果:ボウズ

いつも燃料を買いに行くスタンドのアルバイトの爺さんのひとりが釣り好きで、その人がいるといつも釣りの話をする。船ももっているらしい。
昨日も燃料代を支払いながら、今日はアマダイが釣れましたと、デジカメに収めた写真を見せてちょっと自慢をしてみた。ついでにチョクリの状況を聞いてみるとやっぱりまったくダメだそうだ。そのかわり、住金沖にベイトが回って来ていて、落とし込みの釣りができるということを教えてくれた。
今日は小船の出番だからそれをするのは厳しいが、ワンチャンスで青物かヤナギ狙いで禁断の仕掛けを流してみようと考えた。

しかし、この爺さん、軽く70歳は超えているように見えるのだが、「LINEの交換をしておこうか。情報があれば教えてあげる。」というのである。LINEの交換?そんなものしたことがないぞ。どうやってやるのだろうとモジモジしていると僕のスマホの画面をクリクリしてあっという間にQRコードを出現させてしまった。おお、そんなことができるのか・・。知らなかった。老人に負けているではないか・・。そういえば、このスタンドのLINEを登録しておけばいつも1円引きになることを教えてくれたのもこの爺さんで、どうやったら値引きができるかもついでに教えてくれた。老人に負けている・・。


ということで、夜明け前に小船を出して住金沖まで行って禁断の仕掛けを流し、沖の一文字の際でメタルジグを投げてみたが予想通りまったくアタリはなく午前6時半に終了。

  

小船のフェンダーを補修してから「レモンの丘」へ。ここは雑賀崎小学校の跡地で一昨年に整備されて公園になったそうだ。こんな場所が港の近くにあるということなどまったく知らなかったのだけれども、anotherNさんはここの草刈りもボランティアで手伝っているらしく、こういうところがあると教えてくれた。
どんなところだろうかと探してみたが幹線道から入る道がわからない。この辺かと思って入っていくと、道を見つけることはできたが半分草むらになったような道を行く羽目になってしまった。もっと行きやすい道は別のところにあった。
もう少し木が少ないと「日本のアマルフィ」の全景がよく見えると思うのだが、きっとこれから整備をしてゆくのだろう。

 

ベンチやブランコ、意味の分からない鐘が置かれていたり、けっこう費用をかけていると思うのだが、ちょっと税金を無駄遣いしちゃったのではないだろうか。アクセスも悪くて、そんなにたくさん利用する人もなさそうだ。いっそのことキャンプ場にでもしてくれれば僕はしょっちゅう利用するのだが・・。



そこから叔父さんの家へ。そろそろトウガラシができていると教えてもらっていたので今年最初の収穫をした。去年はまったく採れなかったけれども今年は豊作だ。しかも昨日のアマダイ同様大きい。
来年の不作に備えてたくさん仕込んでおこう。


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水軒沖釣行

2023年06月17日 | 2023釣り
場所:水軒沖
条件:大潮 4:48満潮
釣果:アマダイ 3匹

Arbeit macht frei(働けば自由になる)というのはドイツではいろいろな意味で有名な言葉だが、今日は僕も労働の日である。
港の近くに、「トンガの鼻」というところがある。今使っているリールを買った日に初めて訪れた場所だ。ブログ2回連続での振り返りになる。ここは「トンガの鼻自然クラブ」という団体が維持管理をしているのだが、この団体の会長さんというのが、大きいほうの船の船底塗装の際に無茶苦茶お世話になったanotherNさんだったのだ。
船の手入れをしているときの一服のとき、何気なく話をしていると、「実は僕・・」ということでそういったことを教えてくれた。動機は一体何だったのかというのはわからないが、20年ほど前からこの場所の手入れを始めたそうだ。最初はアセ(暖竹)の林になっていたらしい。
そこを開拓して道を造り立て看板やベンチを設置してきたのがこの場所である。
そして、この場所、江戸末期の砲台と狼煙場だったということだ。開国の波は浦賀だけではなく、大阪湾にも迫っていた。諸外国の船を警戒するため、紀州藩が作った砲台のひとつがここなのだ。長距離砲と短距離砲の2門が設置されていたそうだ。
そして狼煙場は串本方面から数えて33個目に位置し、和歌山城に情報を伝える最後の場所だったということがわかっている。串本からはわずか数時間で情報を伝達することができたらしい。確かにここからは和歌山城を一望することができる。



幕末時の藩主の名前は知らないが和歌山城から有事を警戒しながらここを眺めていたのである。

トンガの鼻についてネットで調べていると毎月第3土曜日が例会作業日となっていることをホームページで知った。anotherNさんに、会員でなくても参加ができるのかを聞いたところ、大歓迎というので初参加をさせてもらったのである。
もちろん、マダニを異常に警戒する家族には一切内緒である。

生まれた街で暮らしているとはいえ、一日の大半を別の場所で過ごしていると根無し草と同じだ。地元とのつながりがまったくないと言っても言い過ぎではない。新聞の連載に「定年クライシス」という言葉を見たからか、本能的につながりがほしいと思ったからなのか、これは行くしかないと即決したのである。定年退職まですでに1年を切ってしまった。遅すぎるかもしれないがなんとか居場所を見つけたいともがいているのである。

ということで、夜明けから集合時間まで3時間余り。その間、何を釣ることができるかと考えた時、チョクリはまったく期待が持てないので排除すると気になってくるのはアマダイだ。去年の今頃は大フィーバーで二桁の船が僕の港の沖に突如殺到していた。バブルは儚いもので、ひと月ほどであっけなく崩壊してしまった。しかし、その芽はいまだ残っているのか、いつも数隻の船がかつてのアマダイポイントに浮かんでいる。
それがずっと気になっていたのである。今日のスケジュールを考えてみるとこれはアマダイしかないと考えたのである。ダメで元々、こういう時は新たなことにチャレンジするのはいいことだと考えている。

できるだけ釣りをする時間を稼ぎたいと、今日は午前4時20分に港を出た。



あまりにも早く出港したので2本の竿の道糸を絡めてしまい、せっかく前後ろを入れ替えたリールの道糸をバックラッシュさせてしまい8メートルほどをロストしてしまった・・。
ポイントまではあっという間だ。先週、船が浮かんでいた水深35メートル付近で仕掛けを入れてみる。

それから30分、やっぱり甘くはないよな~と思っているとアタリがあった。できるだけ食い込まそうと合わせのタイミングを遅らせたがすっぽ抜けてしまった。アマダイかどうかはわからないがなんでもかまわない、魚はいるようだ。それから30分。手持ちの竿にアタリがあった。今度こそはバラすまいとじっくり待つ。しかし、アマダイのように竿先を叩かない。もう少し待って合わせを入れると魚は乗ったようだ。しかしよく引く。これはアマダイじゃないんじゃないかと思いながらリールを巻いていると水面下から姿を現した魚はまぎれもなくアマダイだった。それも異常に大きい。



僕の最大記録。これはもう、今日の労働の報酬として神様が前払いで授けてくれたものに違いない。タモ入れに成功してホッと一息。あれだけ待っても鉤は唇に掛かっていたことを見ると活性はあまり高くないようだ。

その後新たなポイントを探し北上するもアタリはなく、もう一度最初のアタリがあった場所に舞い戻ると置き竿の方にアタリがあった。小さいながらこれもアマダイだ。そしてまた30分後置き竿にアタリ。これも去年ならまずまずと思える40センチ足らずのアマダイ。
もうこれだけ釣れれば満足だ。それにエサのアオイソメもちょうど使い切った。しかし、自動販売機のゴカイだが、円安の影響か燃料費の高騰か、入っている量が絶対的に少なくなった。おそらく15匹くらいしか入っていなかったのではないだろうか。1匹40円くらいの換算だ。イソメにも“様”を付けねばならない感がある。

午前7時50分に釣りを終了し叔父さんの家に魚を届けて集合場所へ。
2時間ほどアセと格闘して解散。

 

来月も参加しようと考え始めている。

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「哲学がわかる 哲学の方法」読了

2023年06月16日 | 2023読書
ティモシー・ウィリアムソン/著 廣瀬覚/訳 「哲学がわかる 哲学の方法」読了

薄くて文字もけっこう大きかったので借りてみた。
今まで読んだ数冊は哲学者それぞれの考え方を紹介したもので、共通するものは「存在」について考えることであると書かれていた。この本はさらに、「存在」を考える哲学は何のために存在しているのか。ということを書いているのではないかと思う。「思う。」と書いているのは結局、この本に書かれていることはほとんどわからなかったということである。

それでもなんとか自分なりにこの本の感想をまとめようとするとこんな感じではないだろうかと思う。
世の中で考えなければならないこと、思考しなければならないことのための、「考えるためのプラットフォーム」、もしくは「施行するためのオペレーティングシステム」が哲学ではないのかということだ。
哲学の中で使われる思考法、例えば演繹法や弁証法、そういったものが様々な学問での思考法のベースとなっているのである。
著者はまた、哲学も様々な学問からのフィードバックを受けて進化し続けているのだと語っている。そもそも、すべての自然科学は哲学から生まれたのであるからそれは間違いのないことだ。

AIが進化を遂げ、その意識はある種のアルゴリズムに制御されているのかもしれないけれどもひとつの知性と言えるまでになってきた。最近のニュースでは夏休みの宿題をこれをつかってやってしまう学生が出てくるのではないかと言っていたが、AIのチャット機能は想像以上で、まるで人と話しながらひとつのものを作り出していくような感がある。
そう思うと人間とは異なる種類の知性と言える。そうなってくると、彼らを知性と認めるのか、彼らにも人権があるのか、そういった問題にひとつの答えを与えるのは哲学しかないのではないかとこの本を読みながら思ったのである。

哲学は奥が深い。いや深そうだ。なんだかわからないながらも読めるものは読んでいきたいと思うのである。

今回はここまで・・。

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加太沖釣行

2023年06月13日 | 2023釣り

場所:加太沖
条件:長潮 8:54干潮
潮流:5:41転流 9:05 下り2.2ノット最強 12:11転流
釣果:イサギ 1匹 クログチ1匹

今日はズル休みだ。ズルいと言っても、今の会社にはいろいろな連休制度があり今回はウエルネス休暇という僕が長年勤めた会社ではまったく聞くことのなかった言葉が付けられている休日なので一応はまっとうな休みではあるのである。「ウエルネス」というのは「より良く生きようとする生活態度」という意味らしい。出向先の会社の黒歴史についてはまったく知らないが、こんな休暇制度があるということは一時期はかなり荒んだ労働環境があったに違いないと見える。僕みたいな人間が適当なことをしゃべりながら乗り切れるほど楽な業界でも、忠誠心ゼロでものりきれるほどいいかげんな会社でもなかったのだろう。確かに、僕が居た業界に比べると相当過酷な業界であるというのは世間的にみても間違いがない。とにかく僕の居た業界というか会社というのは外に出てみてわかることだが相当チャランポランな世界だった。
この、休日にしてもそうで、元々祝日としてもらえるのは元旦だけだったので一般企業に比べると休日日数はかなり少ない会社であった。年末年始の休日と祝日の休日で世間では19日ある。対して僕の会社では年間8日間の連休しかなかったのでそれだけで今の会社のほうが11日多いことになる。一応、休日については出向先に合わせることになっているのでこれだけの休日が多くなるということになる。それに加えて今の会社には連休が5日、ウエルネス休暇が2日あるので総計18日多いことになる。僕と同じ立場にいる同僚の出向元の会社ではきちんとこういった日数差を認識しているそうで、出向先の連休制度で取る休日は有給休暇で消化するらしい。
しかし、何をトチ狂ったか、僕の場合は単に休日(特別有給休暇というありがたい名前がついている。)として扱ってくれるらしいので丸儲けということになる。人事はアホな人の集まりのようで、そういった情報収集をまったくやっていないのである。僕みたいな人間でも適当なことをしゃべりながら乗り切れるというのは僕だけの思い込みだはないのである。これから先、給料も上がらず未来に何の希望も展望もないのなら休みは多いほどよいのである。プライドを捨てることさえできれば。

だから今日は久々に平日釣行なのである。
元々、台風3号の影響が大きいだろうと思っていたので本当にウエルネスしようと思っていたのだが、波高以外はいたって穏やかな天気である。うねりさえ耐えることができればとりあえずは船を出せそうだと考えた。
それを決めたのが寝る直前だったので前の晩は何の用意もしていないほどだった。メガネを取り替えるのも、コンデジをカバンに入れるのも忘れてしまっていた。
当然潮流時刻のチェックもしていなくて、潮流表を眺めたのは離岸をしてからであった。
そこで初めて知ったのが午前中は下り潮だということだ。僕にとってはあまりありがたくない潮回りだ。
絶対に魚を釣りたいという意欲もないのでそれはどうでもいいので今日は苦手だがコイヅキでずっと粘ろうと考えた。

台風のうねりと流木が怖くて出港は今回も明るくなってからとした。



みんな考えることは同じと見えて、田倉崎沖に到着した時には視界の中にはまったく釣り船の姿が見えない。まるでプライベート海域のようだ。



大体はコバンザメ釣法しか考えていないのでこれは困ったということになる。まあ、方針はコイヅキなのでエリアは絞れている。

ここに来るまでうねりは大したことはないがいまだにデブリがすごい。潮目ごとにたくさんの浮遊物が浮かんでいる。



潮目に来るたびに速度を落として警戒しながら船を進める。それでもホンダワラをひっかけて一瞬ヒヤッとする場面もあった。

コイヅキに到着すると、靄に隠れていた釣り船が数隻いた。あまりにも深いところはかなわないので水深70メートルくらいのところから仕掛けを下ろし始める。時刻はほぼ転流時刻なので潮は動いていないので仕掛けはまっすぐ下に降りてゆく。
きちんと底はわかるがどうも釣れる気がしない。しかし、何度か移動を繰り返しているうちに潮が動き出したようだ。その時、アタリが出た。なんだかモワっとした感じのアタリでアジでも真鯛でもなさそうだ。ガシラよりもよく引くので一体何だろうと思っていると上がってきたのはクチらしき魚だ。



こんなに深い場所で普通のクチはいないだろうと思うと、きっとこれはクログチかもしれない。ここ紀淡海峡ではもっと深いところ、僕の装備では探れない水深100メートル以上、130メートル付近で釣れる魚だ。けっこう美味しい魚らしい。
これが本当にクログチかどうか、今の時代は便利だ。写真に撮ってちからさんへ送信。彼は今日、僕より一足早く出港したNさんの船で南の方に釣りに出ている。



湯浅沖からの返信は、ニベではないかとのこと。僕も家に帰ってネットで検索してみたが、尾びれの形や体色からするとニベというよりもクログチのほうが似ているような気がしたので、今日はクログチとして釣果を書きたいと思う。

次のアタリはすぐ後にあった。潮はどんどん速くなってきて仕掛けも斜めにしか入っていかないような状態になってきたときだった。
今度は少し大きい。しかしこれも真鯛でもなくアジでもない感じだ。上がってきたのは結構いいサイズのイサギだった。今日の目的はマアジと真鯛なのだが、それに匹敵する美味しい獲物だ。
これは時合かと思ったがその後は潮がどんどん速くなってきて底が取れなくなってきた。これはダメだと思い銅板ポイントへ避難。転流時刻を見計らって元の場所へ戻るが今度は下げの潮の色が濁りすぎている。



魚探には何やら反応があるがこれでは釣れる気がしないので一気に場所をかえてジノセトへ。しかしここも川のように潮が流れている。



加太の下り潮はどこでも激流だ。今日は長潮だというのはブログを書きながら調べて知ったことだが、こんな潮の日でもこんなに流れることがあるのだというのは驚きであり、この海域が美味しい魚を育んでいる理由なのだとあらためて思い知らされた。
仕方なく四国ポイントへ移動。午前11時までは頑張ろうと思い、そろそろ帰ろうと仕掛けを引き上げた時魚探に反応が出てきた。これは延長戦だと船が1艘しかいないことをいいことに漁礁の真上に仕掛けを下ろしたらすぐに根がかりをしてしまい道糸から切れてしまった。



6年間近く使っている糸なのでさすがのPEでもかなり劣化してしまっているようだ。
今までも何度か高切れしているのでかなり短くなっているのだが買い替えるほど今の僕のモチベーションは高くない。道糸の前後ろをひっくり返して当面は使い続けようと考えている。

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「物質は何からできているのか アップルパイのレシピから素粒子を考えてみた」読了

2023年06月11日 | 2023読書
ハリークリフ/著 熊谷 玲美/訳 「物質は何からできているのか アップルパイのレシピから素粒子を考えてみた」読了

素粒子物理学について書かれた本だ。「標準モデル」という理論では、銀河や恒星、惑星、そして人間までもがわずか数種類の粒子からできているというもので、そうした粒子は原子や分子の内部で数種の基本的な力によって互いに結合しているとされている。

原子核の重量はその原子質量の99.5%を占めるのだけれども、その大きさは原子そのものの3万分の1しかない。原子核はいくつかの陽子と中性子によって構成されているが、その中性子は原子核という安全な領域の外では短命で不安定であり、15分しか寿命がないという。それを過ぎると自発的に崩壊して1個の中性子が陽子1個、電子1個とニュートリノに変わってしまう。
陽子はプラスの電荷を持っているのでお互いに電気的には反発をし合う。しかし、その間の距離が1000兆分の数メートル以内になるとまったく新しい引力が働くようになる。これを「強い核力」という。陽子同士の反発力というのは1000兆分の1メートルの距離で5キログラムのダンベルに働く地球の重力に相当するそうだ。大した力でもなさそうだが、その力がかかっている陽子の重さは0.0000000000000000000000000017キログラムしかないのである。
その反発力を乗り越えて強い核力を働かせようとするには陽子が超高速で動き回っている必要がある。それには数千万度というような高温が必要になるのだが、そんな場所というのは宇宙のなかでは唯一、恒星の中なのである。

こういった素粒子についての一般向け書籍というのはいくらでもあると思うのだが、この本の面白いところは、アップルパイを構成している素粒子はどこからどうやって生まれ、それが原子に形作られていく過程を料理のレシピに例えていることだ。そして厨房は宇宙であり、恒星であるとしているのである。そこになぜアップルパイが出てくるのかというと、1980年、多分僕も観ていたのだと思うが、カール・セーガンの「コスモス」の第9話の冒頭のシーンにアップルパイが登場し、カール・セーガンが「アップルパイをゼロから作りたかったら、まず宇宙を発明しなければなりません。」と語ったことかららしい。
著者もそれに倣い、素粒子の世界をアップルパイから遡って行こうとしているのである。

まずはアップルパイを構成している物質を探るため、それを燃やすことから始まる。炭素らしきものが見えてくるが、それをさらに細かく砕いてゆくと、炭素原子の中の構造が見えてくる。原子核と電子だ。さらに詳細に見てゆくと原子核は先に書いた通り、陽子と中性子が見えてくる。陽子と中性子を構成しているのはクォークである。
クォーク同士は「強い力」で結合して陽子や中性子を作り出している。強い力を生み出すはグルーオンという粒子である。強い力の仲間(かどうか知らないが・・)に「弱い力」というものがある。これはベータ崩壊という、中性子が1個の陽子と電子、そして反ニュートリノに変身させる力だそうだ。素粒子の間に働く力にはそのほかに重力、電磁気力と合計4個の力がある。
「クォーク」の存在を予言し、名前を付けた科学者はマレー・ゲルマンという人だそうだが、命名のきっかけとなったのは、アイルランドの作家が書いたファンタジー小説に出てくる呪文のような一文だったらしい。
この本の特徴は素粒子物理学という訳のわからない話をこういった面白いエピソードやそれを発見した科学者たちのちょっと普通ではない日常生活の面白さ、その現象を一般人でもわかるようなたとえ話で解説してくれているのだが、それでもこんな奇妙な世界はまったく理解ができない。しかし、その奇妙さゆえにか、なぜだか引き込まれてしまう。

ここからはかなりそれを端折って多分こんなことだろうと勝手に解釈しながら書いていくのだが、結局、すべての物質を構成しているもの(この本ではアップルパイの材料リストと呼んでいる。)は電子とアップクォーク、ダウンクォークの三つに絞られるという。厳密にいうと、これらの素粒子をくっつけるためのグルーオンという粒子も必要らしいが、とにかう三つがメインらしい。
そしてこれらの粒子の正体というのが物質ではなく、「場」と呼ばれるものに生じる「さざ波」であるというのである。例えば、電子というのは「電子場」の中に生じたさざ波だというのである。
この「場」であるが、三つどころか、標準モデルの中では25種類もあるそうだ。強い力を生み出すのもグルーオン場から生まれるグルーオンなのであり、電磁力が働くのも電磁場があってからだこそというのである。真空は何もない空間ではなく、「真空のエネルギー」で満たされているというが、このさざ波で満たされているというとなのだろうか・・?
宇宙戦艦ヤマトの主エンジンは波動エンジンという名前が付けられているがこのさざ波をエネルギー源にしているとしたら、本当は「さざ波エンジン」というべきかもしれない。あんまりパッとしない名前ではあるが・・。
しかし、実はこれはさざ波どころではない。真空のエネルギーにはこんな秘密があるらしい。
『まったく粒子がない量子場でも完全に静かなことはないという事実がある。静かな池の水面がきらきらと揺らめいているみたいに、量子場はいつも小さく振動している。そうした小さな振動の原因はハイゼンベルクの有名な不確定性原理だ。この原理は、ある場が厳密にゼロのエネルギーを持つということを許さない。代わりに空っぽの場はゼロの値の周りをつねに揺れ動いていなければならない。
理論的には、こうした量子的な振動にはエネルギーがある。どのくらいのエネルギーかというと、それはその量子場をどのくらい近くで見るかによるという。不確定性原理のおかげで、量子場にズームインして、それを短距離から見るほど、そうした振動のサイズはどんどん大きくなる。これが意味するのは、無限に近いところまでズームインすれば、その振動は無限に大きくなって、真空に無限のエネルギーを与えることになる。
実際には無限にズームインはできない。それは極めて短い距離になると重力が作用し始めるからだ。この特別な距離はプランク長と呼ばれ、大体、1メートルの1兆分の1の1兆分の1のさらに1兆分の16である。プランク長とクォーク1個の大きさの比は、クォーク1個と人間の身長の比に等しい。
プランク長はこれほど小さいので、この距離で見る量子場のエネルギーは無限とは言わないが非常に大きく、1立方センチメートルの空っぽに見える空間には、観測可能な宇宙にあるすべての星を何度も繰り返し吹き飛ばすのに十分なエネルギーがある。』というのである。
ということは、宇宙戦艦ヤマトはミクロなサイズになればなるほど強力な破壊力を得られるようになるといことだろうか。沖田艦長の声が甲高くなればなるほど波動砲の威力が増してくる・・。これは面白い・・。

う~ん、もっとわからなくなってくる。そして、このような不思議な波に質量を与えているのがヒッグス粒子であるというのである。ヒッグス粒子であるのでヒッグス場というところにできたさざ波ということになるのだがなんだか想像がつかないのである。とりあえずは何もかもが「波」であるということだろうか・・。それでは僕の体もすべて波でできているといのだろうか・・。まさにやっぱり、「一切は空」である・・。
そして、クォークから電子や陽子たちが作られる機会というのは宇宙の歴史のなかで唯一、ビッグバン、すなわち宇宙の始まりのその瞬間しかなかったと考えられているそうだ。
ビッグバンの1兆分の1秒後にヒッグス場ができて素粒子に重力を与える。そして100万分の1秒以内にクォークと反クォーク、電子と陽電子というものが生まれることと対消滅することを繰り返した。しかし、どうしたことか、100億個に1個という割合で粒子が生き残った。この100億個に1個の不均衡がこの宇宙が存在する理由らしい。
う~ん、やっぱりわからない。しかしひとつだけ確かなことは180億年前、ある一点から同時に現在の宇宙のすべての物質が生まれたということは僕の体を作っている物質と天野アキちゃんを作っている物質は180億年前から100万分の1秒経ったころにはまったくお隣同士だったということだ。おお、これは僕とアキちゃんも兄弟だといってもいいのではないか!兄弟よりも恋人でありたいとは思うのだが・・。

まあ、そんなことはどうでもよい、次に考えなければならないのは100億個にひとつの不均衡についてだ。この不均衡が成り立つ条件はサハロフの条件と呼ばれ、
① 反クォークよりも多くのクォークを作り出せるようなプロセスが存在しなければならない。
② 物質と反物質の対称性が破れていなければならない。
③ この生成物プロセスが起こったときには、宇宙は熱平衡から外れていなければならない。
すでにその意味はまったくわからなくなっているのでとりあえず書いているだけである。ただ、この中の対称性の破れというものを発見した科学者はノーベル賞をもらったというのだから、世紀の大発見であったということは間違いがない。そして、この破れの要因となっているのが、粒子というのはスピンをしていて、その回転方向には左利きと右利きがあって、弱い力は左利きの粒子を好む傾向があるので対称性が破れたのであるというのだが、やっぱりまったくわからない。
それに加えて、スレファロンというものがあって、これは反物質を物質に変える働きがあり、1兆分の1秒後のヒッグス場には泡があり泡の外ではスレファロンが反クォークをクォークに変換することによって、反クォークよりもクォークのほうが多くなったというのである。
どうだ、まったくわからないだろう・・。
そんなチンプンカンプンな状況の中に畳み掛けるように、「超対称性理論」なるものが襲いかかる。もう、まったくお手上げなのである。

しかし、こういう話というのはあくまでも理論上の話であって、実験や観測でそれを見るということはなかなか叶わない。こういった現象を観測するための施設というのがコライダーと呼ばれる加速器である。陽子や電子を光の速さ近くまで加速し衝突させてそこに発生する現象を観測するものだが、クォーク間に引力が働き始めるという特別な距離であるプランク長スケールで何が起こるかということを観測しようとするとそこには小さなブラックホールができてしまい、真実は「事象の地平線」の中に隠れてしまうので観測できなくなるというのである。
ということで、この本のテーマであるアップルパイを作っている素粒子がどうやって生まれたのかというのは事象の地平線の向こうに隠れてしまって見つけることができないという結論になってしまう。
これは「還元主義」という、哲学から科学が枝分かれした500年前頃からずっと続いてきた、「世界を説明するためには、それを基本的な材料に分割してゆけばよい」という考え方の限界を示している。
ここからが著者が一番伝えたかったことのように思えるのだが、世の中には、「素粒子物理学は何の役に立つのかという意見がある。しかし、基礎研究の知識がいつか役に立つということの可能性を無視してはいけない。」ということである。
今は還元主義的な実験と観測を続けるべきである。いつかきっと物質の構成単位とその起源を解き明かすときがくるのかもしれず、その結果は、人類を宇宙の果てまで連れていってくれるのかもしれない。しかし、素粒子物理学の基本的な理論や様々な粒子の存在の予言は50年も前に作られたものであるがいまだにその実体は欠けらさえも見つけられていないといってもいいかもしれない。素粒子のすべてが解き明かされたとしても、そのあとには宇宙の95%を占めるダークマター(ドンケル・マテリエ)が控えている。
「標準モデル」さえも宇宙の真理のほんのひとつのパーツに過ぎないのかもしれないのである。
しかし、太陽が膨張を始めて人間が地球に住めなくなる頃までには、まだ億年単位で残っている。きっとそれまでには人類はブラックホールの内側を覗くことに成功して宇宙のどこかに脱出することができているのかもしれない。
そうなると、やっぱり数百億円という各国の加速器の建造費というのも無駄ではないのかもしれない。

出てくる数式は1つだけで文章も平易だし、その内容は下手なSF小説を読んでいるよりもはるかに面白い。とりあえず書き留めた内容のほかには、玄理論、多重宇宙、重力波いろいろな話題が取り上げられている。しかし、僕のポンコツ脳ではうまく書くことができない。億年単位で読み込んでみても僕には理解ができないだろう。僕の人生ははるかに短いのである。

今回もよくわからない素粒子についての質問をAIにしてみると、彼らも世界中からたくさんの質問が相次いでいるので疲れているのか、「詳しくはウイキペディアを見てください。」というような答えが返ってくる。「リンクじゃなくて書き出しをしてくれますか。」ともう一度聞きなおすと、「もちろんです。」と答えが返ってきた。本当に誰かと会話をしているようだ。AIというものがAIと呼べるほど発達するまでにどれくらいの年数がかかったのかは知らないが、人間はここまでやれるのならきっといつかは素粒子の世界も解明してしまうのだろうと思ってしまうのである。



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水軒沖釣行

2023年06月10日 | 2023釣り
場所:水軒沖
条件:小潮 5:16干潮
釣果:ボウズ

昨日、自宅の最寄り駅を出ようとしたとき、昔の同僚に声をかけられた。彼は地元の事業所に勤務していた頃の同僚で、上下関係があったわけでもないし直接一緒に仕事をしたことはなかったのだがなぜか僕を慕ってくれていた。
大阪の事業所に異動になっていたのだがこの春、また地元に戻ってきたらしい。
しかし、その異動先は、彼がそれまで経験してきた仕事とはまったく畑違いのところらしく、3ヶ月経った今でも戸惑い続けているそうだ。
昨日の「らんまん」で、万太郎はこんなことを言っている。
万太郎:「岩下さん、さっきの話なんですが、わしは、消えんと思います。彫り師や摺り師、かつて、腕を競うた、技を誇った方々が、その場所から散っていったとしても、それは消えたがじゃない。新たな場所に、根づいて、そして、芽吹いていくがじゃと思います。」
岩下:「芽吹く?」
万太郎:「磨き抜かれたもんは決してのうならん。新しい場所に合うた形で、変化し、もっと強うなって、生き抜いていく。それが、生きちゅうもんらあの、ことわりですき。」
とはいえ、今の時代は時代遅れの企業とはいえ、業務が高度に細分化されてしまっているので幹細胞のようにいつでも新しい働き方に順応できるほど簡単ではないし、会社の働き方や社員教育のシステムについても対応しきれていないように思う。会社も生き物だから世界の動きに合わせて対応しなければならならず、部品としての社員もあちこちに付け替えていかざるを得ないというのもわからないではないが、体勢がないまま駒を動かされては動かされるほうはたまったものではない。世の中のすべてのひとが万太郎のようにポジティブな性格ではないのである。
僕もそんな捨て駒にされたほうなので彼の気持ちはよくわかる。僕は幸いにして残り少ないサラリーマン人生を流していけばいいだけなのだけれども、彼にはまだ10年以上残っている。身勝手な考えだが、矛盾に満ちているような気がする。
サラリーマンというのは、植物に例えると万太郎のセリフのように前向きにも考えられるのだろうが、ネガティブに考えると、無造作に引き抜かれて放り出される雑草のようなものであるとも思えるのである。
まあ、こんなことを思っているから自らがはじき飛ばされることになるのだろうなとは自覚はしている。そうでしか生きられないのであきらめるしかないのである。


3週間前に不発に終わったチョクリ釣りだったが、いくらなんでももう魚の群れは水軒の沖に到着しているだろうと思い、再度出撃してみた。あまり暑くなってくると燻製作りもできないので今日がリミットだ。

気合を入れて午前4時に出港したが辺りはすでに明るくなっていた。週末ごとに天気が悪くて釣りに行けなかったので気がつけば再来週はもう夏至である。



大雨の後の流木に警戒しながら船をゆっくり進めるが塗りたての船を運転しているとついついスロットルを開け気味になってしまう。水面を滑っていくという感覚は気持ちがいいのだ。



時々魚探の反応を見てみるが影も形もない(魚探の反応だから、あっても影だけなのだが・・)。
とりあえずは前回アタリがあった水深45メートル付近で仕掛けを下ろしてみる。



今日も船の影は見えない。そして、魚探への反応はまったくない。前回はアタリがなくても時々は反応が出ていたが、状況は余計に悪化しているように見える。
まだ午前5時を少し回った頃だが、嫌けが差してきた。このままここで群れを待つか、もっと沖を目指すか・・。
今日は家に戻っても何の予定もないし、船のパフォーマンスは今がピークなのでクルージングのつもりでもっと沖を目指すことにした。沖ノ島を越えてさらに沖を目指すと船の影が見えてきた。



目を凝らすとこれはまさしくチョクリ釣りの船だ。それも5隻ほどが散開している。
これは期待が持てるかもしれないと思ったけれどもここでもアタリはなく、前方にいたチョクリ船もすぐにどこかに移動してしまった。



もう、これ以上釣りを続けたとして、魚が釣れたとしてもほんの数匹だけだろうと考えて午前7時に終了。

港に戻り、小船のエンジンを回しがてら紀ノ川の様子を見てきた。線状降水帯がもたらした豪雨から1週間、川上から流れてくる水の色は濁ったままだ。



こういう状況が悪いのかどうかはわからないが、菊新丸さんに聞いてみると、今年はいまだマルアジとサバの群れは見えないそうだ。数日前に宮崎の鼻の沖で釣れたという情報があったそうだが今日はまた不発だったらしい。シラス漁も振るわず、今年はひと月遅れの水揚げだったそうだ。

気持ちが沈んでいるから釣れないのか、釣れないから気持ちが沈むのか、鬱陶しい梅雨の天気と相まって、嫌な空気が僕の周りを取り巻いている・・。

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