イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

バイクも壊れた・・・

2023年05月30日 | Weblog
今月は船のバッテリー上がりでスタートしたが、月の終わりはバイクの駆動系が壊れての締めくくりとなった。

ふた月くらい前からだろうか、駆動部分から異音がして加速しなくなる現象が出始めた。時々しか出ないので次のオイル交換の時にでも見てもらおうとそのまま乗り続けていた。
同時期、たまたま見てみたラジエーターのリザーバータンクがからっぽになっていたこともあって、異音はエンジンの加熱が原因か、それとも関連はまったくなくて中古であるがゆえの同時多発的な故障の連鎖なのか・・。あとからわかることだが、それとこれとは全くの関連性がなく、壊れたパーツがときおりプーリーの中で噛み込みを起こしてギヤ比でいうと高速走行時の状態のままで固定されているようなことになっていたかららしい。
そんなことを心配していたら、先週くらいから停車中に車体の振動が激しくなって発車できなくなったり、ちょっとした坂道も上らなくなってきた。発車のときは足で地面を蹴って弾みを付けなければならないこともしばしばであった。
このままでは早晩、路上で立ち往生ということになりかねないと思い船底塗装のために取っていた連休の初日にバイク屋さんを訪ねておいた。土日の港と雑賀崎の往復はなんとか無事に乗り切って昨日、部品が届いたというのでバイクを持ち込んだ。午後になって、「こんなことになっている。」という連絡をもらって見せてもらったのがこの写真だ。



駆動系ケースの中身の部品のほとんどが摩耗してしまっているそうだ。バイク屋さんが言うには、走行距離が38000キロのわりにはかなり傷んでいる状況らしい。
ジャイロキャノピーは車体が重いのと大体が業務用で使っていたものが中古として出回るので状態としてはよくないものが多いそうだ。特に僕のバイクは購入したときに前輪部分がはぼ新品のような状態だったことを考えると、事故でも起こしていて、前部をそっくり取り替えたついでに距離計もいじられていたのかもしれない。

今回、あらためてスクーターの駆動系について勉強してみたが、まあ、よくできた機械だと感心する。すべては遠心力によって統率されているのである。そしてそのカギはウエイトローラーという10グラムにも満たない小さなパーツだ。このパーツがプーリーを押さえているランプレートの間で遠心力によって中心部分から外に向かって移動していくことでギヤに例えると外径が大きくなっていく。自転車の踏み出しの時はギヤの外径が小さいほうが楽で、速度が上がってくると外径が大きいほうがエネルギー効率がよいということと同じ現象が起きるのである。



後ろのほうではエンジンの回転があがっていくにつれ前のプーリーにベルトが引っ張られてプーリーの中心に寄っていく。同時にここでも遠心力が働いてクラッチが作動して駆動力を生むのである。



こんな複雑な動きを遠心力だけで制御しているのである。
今回の故障は、このウエイトローラーが偏摩耗して途中で引っ掛かってしまうというのが発端だ。停車中でもプーリーが走行状態と同じままになってしまうので発車しようにも負荷が大きすぎてエンジンがガタガタいっていたのだ。

そんな状態で無理やり乗っていたものだからあらゆるところが傷ついてしまったのである。
まあ、中古で買ってから丸6年、オーバーホールと思えば頃合いだったのかもしれない。
ラジエーターのクーラントのことも尋ねてみたが、これは3ヶ月に一度は見ておかないと間違いなく減るそうだ。ということは、僕は約5年間、ラジエーターの中が空っぽの状態で乗っていたことになる。これは恐ろしいことだ・・。

修理代は35000円。けっこうな値段だ。船でも車でもバイクでも修理代の負担は重くのしかかる。外貨預金で稼いだ利益の半分以上が飛んでいってしまった。



修理というと、新たに営業を始めた船の修理屋さんの情報を教えてもらった。いつも修理をお願いしている神の手タカシさんはもう高齢だし、そもそも僕みたいにただ遊びだけで船に乗っているような人間が修理を依頼するのはまったくおこがましい人なのである。船外機については池〇マリンのお兄ちゃんの存在はありがたいのだが、この人はどうも修理屋という職業が本職ではないらしく依頼をするとちゃんとやってくれるのだがどこか面倒くさそうな感じを醸し出しているので、まとめて面倒を見てくれるようなところはないだろうかと考えていたところだった。
その修理屋さんの事務所は港のすぐ近くで、某修理屋で30年ほど仕事をしていた人が年開業したそうだ。毎週ここの前を通っていたがまったく気がつかなかった。



できるだけ長くタカシさんには元気でいてもらって面倒を見てもらいたいとは思うのだが、その後のメンテナンスを考えるといい人が見つかった。
これも今回、雑賀崎で上架したことがきっかけでつながった人からもたらされた情報である。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」とはマタイによる福音書の中の言葉で、「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」に繋がっていく言葉だが、きっとそれは確かなことで、だから自分も、声を出して求めたいものを求める代わりに、人にもすすんで手を差しのべることがまた、自分に還ってくるのだと思うのである。

まあ、僕はこんなには善人ではないのは確かなのだが・・・。

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船底塗装

2023年05月28日 | Weblog
昨日と今日で恒例の船底塗装をやった。

その前に、一昨日、シンナーが切れていたので買いに行った船具屋さんで面白いものを見つけた。
おそらく60代くらいのひとでなければ使った記憶がないのかもしれないが、肥後守だ。かくいう僕も実際に使ったことはない。多分、両親もナイフなんて危ないという主義だったのか、そういったものを持たせてくれることもなかった。だからこれを見た時、と小さい頃の憧れなのだろうか、思わず「これって売ってくれるんですか?」と聞いてしまったのだ。なんだかうれしいものを手に入れたので明日の上架作業はきっとうまくいくという何の根拠もない確信を持てたのである。



ブログに何度か書いてきたが、今まで使わせてもらっていた和歌浦のスロープが大幅値上げとなり実質的に使わせてもらえなくなってしまった。
代わりの場所を探さねばならないのだが、正攻法ならドックを備えた修理屋さんの設備を使うところだ。しかし、以前に使った場所の印象が悪く、ヒロシじゃないが、僕の船にはきっと漁港の風景がばえるはずだといろいろな人たちの伝手を頼って結局、一番近くの雑賀崎漁港にたどり着いた。こういうのを青い鳥現象というのだろう。

ただ、ここを使う条件として、何もかも自分でやらねばならないということがネックとなった。結局、最終的にここの管理人さんを紹介してくれた同じ港に船を係留しているanotherNさんにウインチの操作をお願いした。
とはいっても僕もanotherNさんもこういうことをした経験がない。作業の大体の流れは和歌浦で経験しているがそれはちからさんの経験値だけが頼りであった。
だから、昨日まで頭の中で何度もシミュレーションして作業に臨んだ。待ち合わせ時間寄りの早く雑賀崎漁港の岸壁に船を着け初めてウインチの操作を練習してみる。



事前に管理人さんから電源スイッチの場所やボタン操作の方法を教えてもらっていたものの、最初にボタンを押したときにすごい音がしたのでいきなり驚いてしまった。
anotherNさんが来てくれたので大体こんな感じですという無茶苦茶アバウトな説明をして、いざスタート。先週、anotherNさんがおっしゃってくれた、「なんとかなるで~」という言葉だけが頼りだ。
船台が沈んで船をその上に移動させる。今回のためにロープを固定するギミックも用意した。クランプ2個の即席のクリートだ。



和歌浦に比べると船台のサイズが小さいので前の立つ棒は使えない。ポールにしっかりロープを括り付け合図をする。ゆっくり船台が動き始める。動く速度がゆっくりなので固定位置を維持するのは楽だ。
案ずるより産むが易し。無事に船は陸上に揚がってきた。
次は洗浄作業。ここにも高圧洗浄機の設備がある。和歌浦に比べると広範囲には飛ばないがその分圧力はこっちのほうが高いようで古い塗料がボコボコ飛んでいく。まんべんなく掃除するにはちょっとコツがいりそうだ。
そして、船台の高さもこっちのほうが高い。シャフトを磨いたりキールの部分を掃除するのは楽なのだが舵のブラケットの掃除はちょっと背伸びをしなければならない。
まあ、慣れだと思うが、僕は、「Don‘t think! Feel.」ならぬ、「Can‘t think! Feel.」という脳みそなので、場所が変わるといつもの段取りがわからなくなり、スクリューを磨いているときにはアームカバーを付けるのを忘れ、塗装をするときにフェイスガードを忘れ、顔中体中赤いしぶきだらけになってしまったが、anotherNさんが作業を手伝ってくれたこともありすべての作業を順調に終えることができた。



船底の汚れ具合だが、フジツボはほとんど付着していなかった。代わりに、コケが一面に付着している。やはり間違いなく水質が変化している。そんな話をしていると、anotherNさん曰く、花王が汚水を流さなくなったからじゃないかとのこと。つい最近まで、夜釣りに行くと、どこからともなく石鹸の臭いが漂ってきたが、最近はそれがまったくないらしい。奴らは夜陰に紛れて汚水をたれ流していたのだろうか・・。
雑賀崎の人たちに聞くと、こっちでは年に1回掃除するだけで十分だそうだ。確かに和歌浦も雑賀崎も明らかに水軒よりも海水の透明度は高い。水軒ももう少し透明度が上がれば僕も年1回の作業で済むのかもしれないが・・。

そして、港から歩いてトンネルを抜けて10分というのもありがたいし、なにより税込み5000円というのが今時すごい値段だ。



こういったことを教えてくれるほど、意外と言ってはなんだがここの人たちも優しい。anotherNさんの顔というところもあるのだろうが、こういう場所というのはよそ者には冷たいというは一般的によく言われていることだ。
先週下見に行った時も、以前にこの場所で会った人が、僕のことを覚えていてくれていて、「あんた、来週揚げるんやね。時間があったら見に来ちゃるわ。」と声をかけてくれるし、同じく、anotherNさんと別ルートで紹介してもらった人も昼過ぎに様子を見に来てくれた。
田舎というのは閉鎖的というが、それはきっと思い込みに過ぎないのではないかと思えてくる。

日本のアマルフィの前で船をゴシゴやるというものなかなか心地よい。

 

anotherNさんには迷惑千万なのかもしれないが、次もぜひお手伝いをしていただきたいと願っている。

※ anotherNさんという人は、首相の爆弾襲撃事件のときのニュースで流れた動画を撮影した人でもあるのである。

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「匂いと香りの文学誌」読了

2023年05月26日 | 2023読書
真銅正宏 「匂いと香りの文学誌」読了

バーチャルリアリティーの世界では、嗅覚の再現というのが一番難しいそうだ。それは文学の世界でも同じで、臭い(匂い)の表現は難しい。嗅覚の影響が強い味覚の表現もしかりで、師も味覚の表現ができれば一人前だと語っていた。
この本は、臭い(匂い)を文学はどう表現してきたか、文学の中での臭い(匂い)の役割はどういったものかということを論じている。
取り挙げられている題材は古く、大正時代や、昭和初期の作品ばかりだ。おまけに、この本の基になったものは、著者の博士論文だそうだ。凡人にはよくわからないというのは仕方がない。なんとか理解できそうな部分だけしか感想を書くことができない・・。

著者は冒頭、現代日本は臭わなくなったと書いている。たしかに、直近で読んだ2冊の本にも、印象に残る臭い(匂い)の場面というものはなかった。現代日本では臭いの描写というのは実感がなく、一般受けしないのかもしれないというのはもっともなことなのかもしれない。

しかし、著者は文学の中での臭い(匂い)の役割というのは「小説という虚構の世界はあくまでも読者の想像力によって構築されるものであり、極端に言うのであれば、嗅覚要素の再現がまったくなくても小説世界は成り立つ。だから、逆説的に嗅覚の再現(表現)というものは小説世界が虚構の世界であるということを強く主張するもの。」だと説明している。なるほど、確かにそうかもしれない。取り挙げられている著作はすべて読んだことのないものであったが、ギミックとして確かにそういったことに役立っていると思う。

この本では、異国の臭い、匂いと嫉妬、厠とこやしの臭いなどが取り挙げられているが、それほど外国に行ったこともなく、嫉妬するほど女性を愛したこともなく、厠の臭いは遠い記憶でしかないので、僕が小説を読みながらそのにおいを想像できないというのも無理はないのだ。木と雨と空気の匂いというのがやっと思い出せる項目だっただけだ。
そういうわけで、僕の個人的な見解では、臭いを想像することははなはだ困難なことだと思っている
頭の中では臭い(匂い)を作り出せないのだ。いろいろなにおいの記憶はある。むしろにおいと記憶は直結していてにおいを嗅ぐと一瞬で何のにおいか、また、どこで嗅いだにおいか、その時何をしていたかということまで思い浮かぶ。視覚も聴覚も同じような記憶を呼び覚ましてはいるのだろうが、嗅覚の度合いがいちばん強いのではないかと思う。
それはどうしてだろうか?きっと嗅覚というのが一番至近距離でしか感じることのできない感覚でありそれはいろいろな意味において命に直結しているからであると思える。
危険に関しては、もう、目の前にそれが迫っているということであろうし、官能的な部分では、もう一押し、というか、もう、押し切ってウホウホで、子孫繁栄だ~!という状態であるのかもしれない。まあ、現実世界では、混んだ電車で隣り合わせたおねえちゃんからえもいわれぬいい匂いなんかしてきらたらこれは運がいいと思う程度なわけであるが・・。
僕の中で、においを連想するものがどれほどあるのかと頭のなかをまさぐってみた。
と、これが意外と少ないことがわかった。こんなことをしているときは何かをにおっているよなということがほとんどないのだ。

釣り関係ではアミエビの臭い、フカセ釣りの集魚剤の臭い、ヌカをいっぱい食べたチヌのはらわたの臭い。それくらいだろうか。まあ、臭いといえば臭い。
山菜採りではヤマウドを掘っているときの土の匂い。これはなぜだろうか、ものすごく安心する匂いである。それと、早朝の、水分をたっぷり含んだ空気の匂い。これを知らない人は死んでから後悔をするのではないかと思える匂いだ。
著者が言うように、現代日本は臭わなくなった。それは日本人が特に臭う(臭いほうの臭いを)ことを嫌った結果であり、僕の家族もその筆頭であるが、そういうのとは僕は相容れないのは確かである・・。

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「『論語』がわかれば日本がわかる」読了

2023年05月23日 | 2023読書
守屋淳 「『論語』がわかれば日本がわかる」読了

以前に読んだ本の中で、司馬遼太郎が、「日本人の思想はすべて外国からもたらされたものだ。そのほとんどが論語から来ている。」と書かれていて、そのことが気になってこんな本を探してみた。
中国や韓国は儒家思想の影響が強いというのはよく聞くし、日本もその流れかどうかは知らないが儒教の思想が根強いと言われている。断片的な知識しか持っていないが、確かにそんな気がする。
孔子と釈迦が生きた時代というのは一説ではかなりダブっていたと言われる。日本にも仏教と同時に入ってきてはいたらしいが、孔子や孟子、荀子といった思想には死に対する考え方や個人にふりかかる理不尽な運命に対する説明がなされなかったという面があり、日本では儒教が受け入れられることなく仏教が日本の信仰や学術の支柱となっていった。
だから、日本では仏教を基にした思想や文化が1000年以上も続いてきたわけで、そこにどうして儒教の思想が割って入ってきたのかということは確かに疑問だ。
この本にはそういったことが、なるほど、そうだったのかという形で書かれている。また、その儒教の思想が日本人の心情にどのように植えつけられて現在に至っているかということも詳しく書かれている。
こういうことを読んでいると、まあ、なんだか、僕自身も僕の人生がこうなったというのは仕方がないのだと諦めなのか、日本人に生まれた定めなのかよくわからないが、こんなものだと納得してしまうのである。

日本に論語が広まったのは江戸時代の檀家制度が原因だった。江戸幕府が開かれるまで、それまでの戦国時代を通して仏教徒たちの一揆に大名たちは手を焼いていた。それを何とかしようと徳川家康が考えたのが檀家制度だった。各寺に檀家をくっ付けて寺の経済的な基盤を与える代わりに幕府に反抗するのはやめておけというのがそのやり方だった。
その政策は成功し、寺は積極的な布教活動を止め、ドラスティックな新しい宗派も出ては来なくなった。端的にいうと腑抜けになったのである。
しかし、国家としては腑抜けになった仏教の代わりになる新たな精神的な支柱が必要になった。日本人は1000年近くも仏教の思想の元に生きてきたのだから同じように日本人を支えてくれる思想が必要であったのである。
そこで目をつけられたのが儒教であった。

一方、儒教の思想の根本は、争いをせずに国を治める方法はないだろうかということを常に考えているということなのだが、それが江戸幕府にとっても好都合であった。孔子の生没年は紀元前551年~479年と言われている。(ちなみに釈迦の生没年は早い時期の説では紀元前565年~486年)この時代というのは中国の春秋時代の末期にあたる。孔子にとっては戦乱の時代の中、『悲惨な戦乱や下剋上がこれ以上進まないようにし、平和で安定した秩序を打ち立てるにはどうしたらよいか。』というのが最大の問題意識であった。孔子はその手本として比較的うまくいっていた周王朝初期の政治体制揚げていた。特に尊敬していたのは孔子が活躍する時代の500年も前の周公旦であった。だから、孔子の思想の原点は「過去の良きものにこそ手本がある。」という比較的保守的な考え方ではあったけれども、「戦乱状態だからこそ求められた平和な秩序の構築や維持」「礼にもとづいた上下関係の中での和の構築」といった価値観は、日本でも戦国の世の中の後、戦いや争いのない時代を維持したいという願いとマッチしたのである。

孔子の教えを今風に書き換えて列挙してゆくと、
① 年齢や年次による上下関係や序列のある関係や組織を当たり前だと思う。
② 生まれつきの能力に差はない。努力やそれを支える精神力で差はつく。
③ 性善説で物事を考える。
④ 秩序やルールは自分たちで作るものというより、上から与えられるものである。
⑤ 社長らしさ、課長らしさ、学生らしさ、先生らしさ、裁判官らしさなど、与えられた役割に即した「らしさ」や「分(役割分担と責任)」を果たすのがなによりいいことである。
⑥ ホンネとタテマエを使い分けるのが当たり前と思う。
⑦ 理想の組織を「家族」との類推で考えている。
⑧ 組織や集団内で、下の立場の「義務」や「努力」が強調されやすい。
ただ、論語というのは孔子が自ら書いたものではなく、孔子が語ったと言われるものを弟子や後世の人たちがまとめたもので、その解釈は無数にある。江戸時代以降、日本でもその時代の統治の手法に合うような形である意味解釈を歪めて使っていたということは否めない。
江戸時代では、「いかに人々に夢を見させないで安定した体制を作るか」というために、①や④の考え方が論語の中に書かれている文章から拾い出されたのである。ある意味、人民を骨抜きにしてしまおうというのであった。
明治になっても、同じような施策は続き、天皇を頂点とした家族的国家、子供は親の言うことに絶対服従しなければならないのだという国家体制を築こうとした。学校制が始まるとその教育段階からこういった精神を植え付けてきた。
そういう教育を受けてきた子供たちは社会人になっても①から⑧のような考え方がしみ込んでいる。それが日本人らしさを作り出しているというのである。

論語は無数の解釈ができるというので、著者自身も著者なりの解釈をしているのだろうが、論語の内容を脇に置いておいても、確かに①から⑧の考え方というのは日本人らしい。
著者は特にホンネとタテマエというのが最も特徴的な日本人の行動様式だという。アメリカとの比較でそれが説明されているのだが、こういう違いがあるということだ。
何か問題がおこったとき、誠意を見せるということは日本企業では、「事情が判明していなくても、まずは謝罪する。」こと、アメリカの企業では、「まずはきちんと原因を究明し、対策を立てること。」であると考える。僕も会社では、とにかく謝れと指導されてきた。なぜ謝るのかというと、「お客様を怒らせたことに対してまずは謝れ。」という今思うとなんだかよくわからない根拠のものであった。
諦めていながらも、そういった会社の方針に反して、客の理不尽な要求は断固として拒否すべきだと言っていたら、自分自身が拒否されるということになってしまうのが儒教の精神を背負った会社組織なのである。

論語の中には、「和して同ぜず」という言葉があるが、これも解釈を歪められて、日本ではうわべだけ合わせておけばいいのだというようになり、それがタテマエとなっていったのである。
また、アメリカの企業は経営理念をものすごく大切にする。企業人としての行動はすべて経営理念に即しているかどうかで決められる。自分がその企業の経営理念に従えないと思えば会社を去ることになる。しかし、日本では経営理念はあくまでタテマエで、大概の人は自分が勤めている会社の経営理念を覚えていない。それよりもなんとなく結びついて「和」や「同」を作り定年までなだれ込もうという考えだ。自分は何ができるというよりも、仕事は上から与えられるもので、これをやれと言われれば本意でなくても唯々諾々とそれをやる。それが終身雇用につながっていったというのだ。
もうひとつ面白いのが、論語では「己の欲せざる所、人に施すことなかれ」というが、新約聖書マタイによる福音書 7章12節では、「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」と書かれている。よく似た意味の言葉に見えるが、確かに日本人とアメリカ人の違いを如実に表しているような気がする。僕もグァム島で確かにそういう体験をした
そうした、人の文化的背景は、遅くとも14.15歳までにどのような文化や環境に置かれていたかで決まるという。ならば日本人はやっぱり儒教的な文化的背景を背負って今を生きているといえるのかもしれない。
日本では道徳というのが教科として扱われるようになったそうだが、何を拠り所にしてどんな教育が行われているのだろうか。新渡戸稲造は外国人に日本に宗教教育が無いことをして,どのように道徳教育を行っているのかと問われ回答に苦慮したと言われるが、今でもそんな感じなのだろうか・・。

著者は最後に、「リベラルアーツ」という言葉を引き出している。簡単にいうと一般教養というような意味だが、人がリベラルアーツを学ぶ意味というのは、『自分を無意識に縛るものを知り、そこから自由になる。』ことができるようになるためであるという。論語を知るというのもそのひとつであるというのである。
僕もそれを知りたくて本を読むのだが、今だその答えは出てこない。死ぬまでにあと何冊の本を読むことができるのかは知らないが、最後の最後にはその答えを得たいと願っている・・。
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加太沖釣行

2023年05月21日 | 2023釣り
場所:加太沖
条件:大潮 6:21満潮
潮流:5:05転流 6:54上り0.5ノット最強 9:08転流

今日は昨日に対してすこぶる良い天気だ。船のローテーションだと小船での出船だが、近場でルアーを投げてもダメだと思い、今度は小船のほうが不機嫌になるかもしれないと思いながらも加太を目指すことにした。

風なし、無風状態なので天気を気にする必要もなく昨日よりもかなり早く港を出た。



来週に上架を予定しているが、その必要がないと思えるほどよく走る。明らかに今年の港の水質はよいということだろう。過剰な栄養が入っていないのだ。

今日の潮流は転流からスタートだ。四国ポイントで潮が流れ始めるのを待ってテッパンポイント~コイヅキ方面へと考えている。



どうも魚が釣れていないのか、日曜日なのに船が少ない。昨日は風が強かったから今日に集中していてもおかしくはないのだが・・。確かにそのとおりで、魚探の反応もまったくない。
これが原因なのかどうか、クラゲがやたらと多い。海面下はまるで水族館のようだ。



すぐに四国ポイントに見切りをつけ、テッパンポイントへ。ここも潮が動いていなくて反応もない。これが正しい行動かどうかはわからないが、少しでも潮の動く場所を求めてもう少し沖ノ島に近づいてみた。「便所前」という場所だ。しかし、逆にここは潮が流れすぎる。潮流は最強でも0.5ノットなのにそんな感じではない。それも、わずかな場所の違いでこれほど違うのかと全然加太を知らないのだと実感してしまう。
これはダメだとまたテッパンポイントに戻ることにした。相変わらずここでは潮が流れていない。そこで前々からやってみたいと考えていた手釣りをやってみることにした。
このビシマ糸は父親が残したものだ。実に20数年ぶりに海水に浸けることになる。



今朝の新聞の4コマ漫画の題材が手釣りだったからというのがその理由では決してない。いしいひさいちは釣りのことをよく知っているのかどうか、今ではプロしかやらないであろう釣法を繰り出してきた。絵を見てみると、船のほうもどうも木造船である感じがするが、一体これはいつの時代設定なのだろうか・・。



ののちゃんのお父さんは獲物を掛けるところまではいったみたいだが、僕にはまったくアタリはない。その前に底を取ることが困難極りない。もう少し潮が速くなるとまったく手に負えないだろう。プロの漁師というのは僕などは想像もできないほどの繊細な釣りをしているのか思うと、威嚇行動をされても仕方がないと思ってしまうのだ。
やっぱり、PEラインとGPS付きの魚探という文明の利器がないと僕などは釣りの端緒にもつけないようだ。

これはたまらないと手釣りはすぐにやめてしまい銅板ポイントへ。その後下り潮の時間になったのでコイヅキへ移動。



ここでもまったくアタリはないのだが魚がいないわけでもないようで、隣を流している船はタモ入れをしている。こういうのをみてしまうとどんどんやる気が失せてくる。しかも二日連続で早起きをしているので睡魔も襲ってくる。居眠りをしながら仕掛けを下ろしていたので道糸をバックラッシュさせてしまった。その瞬間を知ることがなかったので間違いなく寝落ちしてしまっていたのだろう。

もう、やる気もなくなり、しかもなぜだかわからないが、一向に潮が下ってこないのでコイヅキも諦め四国ポイントに戻り、少しだけやってみて午前10時15分終了。

港に戻って小船のご機嫌伺いのためエンジンを回してみる。小船を走らせるのも18日ぶりだ。小船の速度もそれほどは落ちていない。やっぱり間違いなく港の水質はよくなっているようだ。


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水軒沖釣行

2023年05月20日 | 2023釣り
場所:水軒沖
条件:大潮 5:53満潮
釣果:マルアジ 2匹

大きいほうの船での釣行はなんと42日ぶりである。
週末ごとに天気が悪く、やっと晴天になったゴールデンウイーク後半の初日、バッテリーが死んでいた。5連休の初日ではどこに電話をしてもつながらず、万事休すで力さんに頼んでバッテリーの手配をしてもらった。平日が休みでないというのは毎度のことながら不便で仕方がない。
先週、やっとバッテリーの交換を終え、なんとか動くようになった。しかし、この作業がけっこう大変だ。とにかくバッテリーが重い。1個30キログラム以上あるそうだ。それをエンジン場の奥から引きずり出して据えかえる。それも2本だ。



気合を入れる声を出さないと持ち上げることができないのである。人がいない早朝の港で苦悶の声が響き渡るのである。
まあ、据え付ければあとは端子を取り付けるだけだから作業としては簡単だ。

死んでしまったバッテリーはスクラップ屋へ持ってゆく。バイクも過積載で悲鳴をあげている。



少しでも経費を削減するためだ。キロあたり約50円で引き取ってくれる。家に置いていた車用の古いバッテリーも含めて3530円。少しは費用の回収ができた。




一応試走はしていたのだが、これだけの期間、船に乗らないとなんだか他人の船を操っているようだ。

船に乗れなかった42日間、夜明けの時間も早くなり、午前4時半に家を出た頃にはすでに明るくなっていて港を出た時には太陽が少し顔を出していた。もう少し早く出たかったのだが風の強さが気になってリアルタイム風速を見ていたら少しずつ風が強くなってきて躊躇していたのだ。
まあ、船を出せなければそれでいい。とりあえずは海に出ることができればいいのである。



遅くに港に到着したので渡船屋の船頭は一番船のお客を送り届けて帰ってきていた。沖の風の様子はどうだい?と聞くと、「まあ、行けんことないで。」とのこと。

船を出してみると、やっぱり風は吹いている。しかし、なぜだが一文字の切れ目を抜けたあとのほうが海は穏やかだ。



これに気をよくして沖を目指す。水深35メートルくらいのところで反応があったが、もう少し沖へと船を進める。44メートルのところまできたがこれ以上沖に出るのもなんだか危ないと思い、反応はないがここから仕掛けを入れ始めることにした。この時点で風も波も強くなってきていた。



風のわりには仕掛けはそれほど斜めにならずに釣りができる。風は強く吹いているが船の位置はそれほど流されていないようで、それでも仕掛けが立っているのはどうしてだろうかと、今日はよくわからない展開だ。
魚探の反応もアタリもなく時間だけが過ぎる。やっと反応を見た時最初のアタリがあった。慎重に道糸を巻き取るが途中でバレてしまった。きっとアジだったのだろう。その後も反応もアタリもなく過ごすが、2回目の反応が出てなんとか2匹を取り込むことができた。3回と4回目の反応はかなり大きかったがアタリが出ない。
これが潮時と午前7時半に終了。
例年ならアジサバがたくさん釣れる時期だが、今年は釣れないのか、チョクリ釣りをしている人は周りには1艘もいなかった。
今年もサバの燻製を作りたいと思っているのだが、食材が手に入るかどうかが怪しい感じだ。

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ひょっとして才能ある・・・?

2023年05月16日 | Weblog
定年退職まで1年を切り、“老後”というのも視野に入るどころか視界の半分以上を占めてきた。
やはり気になるのはおカネである。国を挙げて投資をしろという流れに乗って僕もチャレンジしてみた結果が出た。外貨預金というものに手を出したのだが、そのきっかけはチラシで見た「3か月だけ年利10%」という破格の利息だった。アメリカ$を買うことになるので$が安くなるとこんな利息なんて一気に吹っ飛んでしまう。リスクは当然あって、実際、預けていた期間、アメリカの銀行が倒産するというニュースがあり一時期は元金割れという事態に陥った。日銀総裁の交代のときは、頼むから利上げをするなんて言わないでくれと祈ったものだ。そして、3ヶ月の満期を迎える頃、再び円安が進んだ。購入した時からは3円以上の円安だ。これは、FRBが5月に開催した連邦公開市場委員会(FOMC)で政策金利を引き上げたことやアメリカの雇用情勢が改善したことが原因だったらしい。
結果、為替差益と利息を合わせて税金を引かれる前の利益が15万円を超えてしまった。税引き後の利益でも年利に換算するとなんと19%という成績だ。
同じ時期、ほぼ同じ金額でやっていた定期預金の利息が15円という通知が来ていたが、それと比較すると約1万倍の利益である。まあ、今回はたまたまうまくいっただけで、持っている株の大半は購入時点の価格を下回り塩漬け状態なので偉そうなことは言えないが、うまくいったときくらいはちょっと自慢をしたいのである・・。



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「ボタニカ」読了

2023年05月14日 | 2023読書
朝井まかて 「ボタニカ」読了

牧野富太郎の本は1冊読んだのでもう十分だろうと思ったのだが、予約していた本の順番が回ってきたのでとりあえずは読んでみた。
そして、朝井まかての本としても2冊目だ。前回の本も面白かったので今回も期待はしている。

前の本を読みながら、牧野富太郎の一生の明と暗の部分をどんな比率で盛り込んでゆくのだろうと思ったが、この人の場合、朝ドラの法則に則ると明の部分を目一杯、しかし暗の部分はほんの少しにしておかないと朝ドラらしくならないのではないかと思えてくるほど暗の部分が多い人に見えてくる。

明の部分はもちろん植物学(植物分類学)に対する情熱と大学教授も嫉妬するほどの知識だ。それを実現した集中力、そして天賦の才能である描画力だ。
暗の部分、それはこの人の本質の部分でもあるのだろうが、自分ほど優れた人物はいないという考え方、そして、植物学を極めるという自分が目指した使命のためには何をしても、何を犠牲にしてもかまわないのだという考え方。裕福な家庭で育ったため、欲しいと思ったものはどれだけ費用がかかろうとも手に入れる。自由民権運動に傾倒していたことがあり、権威主義には反感を感じているのか、大学のシステムにもなじめず、研究をすることに組織も肩書も必要ないという考え方。そういったことは一般的な人の価値観と常識に照らすと型破りすぎると思う。

実名が出てくる小説だから概ね事実が書かれていると思われるのだが、それぞれの登場人物の心情までが本当とは思えない。しかし、最初は好意的に手を差しのべた人でも最後は袂を分かつような結末になるというのは相手の側に非があったとばかりは言えないのではないだろう。それも1度だけではない。ということは、相当付き合いにくい相手であったのかとも思えてくる。
その原因が暗の部分であったとしたのならかなりやっかいな人であったとも見えてくる。

それでもこの人は一般の人たちにはかなり受けがよかったようだ。晩年は日本全国を回り講演や採集指導をすると多くの人が集まったらしい。いまでも高知に行くとかなり人気のある人らしい。世の中のしがらみ、アカデミズム、権威というものに縛られず、学位がなくともそういったものに立ち向かって堂々と渡り合ったというエピソードは痛快でもあったのだろう。だれでもそういう自由に憧れる。しかし、近くにいればいるほどそれに対して違和感を覚えざるを得なくなり、また振り回されてしまうというのが現実なのであったのだろう。

朝井まかてとは親類関係ではないようだが、朝井リョウという作家が、『信念を忘れたら人は迷う。迷いの中に倫理があるのである。逆に確信を持って書いた文章というのは怖い。暴力的な内容にもなる。』と書いている。ある意味、牧野富太郎には信念があまりにも強かったので「倫理」というものが欠落していたのかもしれない。ニュートンやアインシュタインも同じような生き方をしていたようで、両者はアスペルガー症候群だったと言われていたことを考えると富太郎もそうであったのかもしれない。並外れた集中力や描写力もそこから出てくるものだったのだろうか。それをなんとか実家の財力と名声でカバーしてきたというのがこの人の人生であったのかもしれない。

それでも、奥さんの寿衛子(寿衛ではなく、寿衛子が正しいそうだ)は富太郎を見下すことも見放すこともなく支え続ける。僕は逆に奥さんには本質的にはずっと見下されながらいままで来たように思うが、その違いは何なのだろうと思うのだ。
それはきっとその人が自分の仕事にどれほどの誇りを持って臨んでいるかということなのだと思い至る。それは社会貢献度が高くなくても、独りよがりの思い込みであっても、旦那がそう思っている限りはそれを支えようと借金や旦那のわがままを苦労とも思わず耐え続けることができるのだ。こういうところは確かに朝ドラっぽい。

こう書いてくると、やっぱりこの人には暗の部分、それはご本人も奥さんもそう感じてはいないのだろうけれども、その部分が相当大きいのではないかと思う。他人に対する批判もかなりのもので、仕事に協力してくれた人や、経済的な援助を受けてきた人にまで気に入らないことがあると容赦はしなかったそうだ。この後に書くが、南方熊楠に対しても批判的なことを書いているし、それを“天真爛漫”というひとことで終わらせてしまっては本当の牧野富太郎を描いたとことにはならないのではないだろうか。それとも、NHKは、最近の日本の科学研究の世界が成果主義、業績主義になってしまい、富太郎のように役立つか役立たぬかわからぬ基礎科学的なものに悠々と取り組み極め続けられなくなってしまったことへのアンチテーゼとしてドラマを仕立ててゆこうとしているのだろうか。

牧野富太郎の年譜を見ると、この人は南方熊楠より5歳年上なだけで、なおかつ同じような時期に東京大学に在籍していた(富太郎は正規の学生ではなかったが)。おなじ自然科学を目指した人たちだからどこかで接点があったのかもしれないと考えていたが前の本では熊楠との接点については何も書かれていなかった。
しかし、この本では、それについてちゃんと書かれていた。富太郎が日本の植物学会で名前が売れ始めた頃、手紙でのやりとりで採集した植物の同定の依頼があったり、熊楠の弟子によって熊楠が採集した標本が送られたりもしたそうだ。やっぱり接点があったのだ。
富太郎が和歌山に採集旅行をした際会談をする機会もあったそうだがそれは結局、熊楠がその場に来なかったことで実現しなかった。それが無礼だというので熊楠の没後、文藝春秋に寄せた文章はある意味熊楠を侮辱した内容であったようだ。やはり自分の気に入らない相手には容赦をしない人であった。熊楠もアスペルガー症候群のようなところがあったのだろうから、お互い様であったのだろう。
そして、牧野富太郎のルーツというのが紀州にあったということも興味深い。富太郎の先祖は紀州の貴志ノ荘から土佐に入ったという。今の貴志川町のことだろうか?当時の姓は鈴木で、岸屋という屋号は在所の貴志にちなんだものであると書かれていた。
熊楠とのエピソードや始祖の地が紀州であったという事実のようなものがドラマに盛り込まれたならばなんだかうれしくはなってくる。

まあ、これからの展開を楽しみにしておこう。
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「この世の喜びよ」読了

2023年05月08日 | 2023読書
井戸川射子 「この世の喜びよ」読了

タイトルの小説は今年の、第168回芥川賞の受賞作だ。
まったく記憶の中ではつながることがなかったが、この人の本を1冊読んだことがあった。プロフィールの中の著作歴を見たときにやっと思い出した。

ストーリーはすでによく知られているが、ショッピングセンターの喪服売り場に勤める主人公が、そこのイートインに繁く現れる女子高生や通路をはさんで向かいのゲームセンターの従業員との交流から自らの人生や家族を語るというものだ。
主人公を「あなた」と呼びながら三人称で物語を進める手法というのは初めて読んだが、これも詩人独特の表現方法なのだろうか。また、収録されている、「キャンプ」という作品は、意識的に読点を多用した文体だったがこれも詩人ならではの表現方法なのだろう。

芥川賞作品について感想を述べようなどというのは僕にとってはとんでもおこがましいことだというのは、読むたびにそう思う。特に今回の作品についてはそう思う。結局、行間というものが見えないのである。
ひとつこういうことなのかと思うことは、“人は自分のことを誰かに話したいのだ”ということだろうか。それを誰であれ聞いてくれるひとがいるということが「この世の喜びよ」なのかもしれない。これは収録されていた3作品に共通しているテーマではなかったのかと思うのだ。確かに僕自身もそう思う。このブログを書き続けているというのもきっと同じ本能だと思う。
純文学というのは、その作品を読んだ人が1万人いたとしたら1万通りの感想を抱くものがおそらく優秀というか、純文学とはそういうものだと思っているのだけれども、僕にはただ1行、そういう感想であった。

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『「美食地質学」入門~和食と日本列島の素敵な関係 』読了

2023年05月07日 | 2023読書
巽好幸 『「美食地質学」入門~和食と日本列島の素敵な関係 』読了

よく似た本を読んだことがあると思ったら著者は同じ人であった。
この人はよほど何か空想的はシチュエーションを作りたくなるらしく、以前の本は女子大生の姪に蘊蓄を話しながら美食を楽しむという設定であったが今回は自ら作り出した「美食地質学」という学問を解説するという設定になっている。テーマがすでに興味深くて面白いのだから変な外連味を出さなくてもよいと思うのである。

前の本でも日本各地の食材が取り上げられていたので、日本の地質と食材の関係についてはすでに書きつくされてしまっていたのかと思ったが、確かにダブっている部分もあるものの、新たな蘊蓄もしっかり盛り込まれている。
今回の注目は和歌山の醤油、豆腐と日本酒の微妙な関係、さらに「あまちゃん」と「おかえりモネ」の必然性についてであった。さらに、この本を読んでいる最中に石川県で大きな地震が起こったが、能登半島の成り立ちと美味しい食材についても書かれていた。
能登半島もしかりだが、地震の多い場所には美味しい食材が必ずあるというのが印象的だ。世界の地震の1割は日本で発生しているというのだから日本で地震が起きない場所はないのでそう見えてくるというのもあるのかもしれないが、この本を読んでいると、美食のある場所には必ず断層があるのである。

このエピソードは面白かったというものをいくつか列挙していこうと思う。
その前に、日本列島はどのようにして出来上がったかということを書いておこう。その始まりは今から約3000万年前。ユーラシア大陸の東でその一部を引き剥がす力が生まれた。そして2500万年前、とうとうそこに断裂が走り、分裂した地塊が日本列島となって太平洋へとせり出した。そして、1500万年前に日本列島は大移動を停止しほぼ現在の位置に留まるようになった。
その間にできたのが日本海なのであるが、その広がり方はお餅が伸びるようなのっぺりしたものではなく、ちょっと水分が少ない粘土を引っ張るときに割れ目ができるような「断裂帯」を作りながら拡大していった。割れ目ができなかったところは大和堆のような浅瀬になり、割れ目は大和海盆や富山湾のような深い地形になった。日本三深海湾というと相模湾、駿河湾、そして富山湾だが、前のふたつはプレートが沈み込んでできたものだが、富山湾だけは成り立ちが異なるのである。能登半島の付け根の砺波平野や邑知潟(おうちがた)平野などもその断裂帯の名残なのである。
そして、1500万年前からは日本列島の下にフィリピン海プレートが沈み込むようになった。その強烈な圧縮力によって能登半島周辺に存在していた断層が「逆断層」として活動をはじめ、断裂帯に挟まれていた能登半島が隆起し始めたのである。佐渡島も同じようなメカニズムで生まれた島である。
だからこの周辺では地殻のプレート運動がないにも関わらず巨大な地震がおこるのである。
そして、300万年前、フィリピン海プレートは太平洋プレートに押し負けて西45度に移動の向きを変えることになる。能登半島の隆起はさらに活発になったのである。
それでは、日本列島が生まれたおおもとになった力は何だったのであろうか。それはユーラシア大陸東縁部で起きていた火山活動であったあと言われる。これはプレートの沈み込みが原因となる火山活動とは異なる「大陸型」の火山活動だ。地球内部のマントルのうち、上部マントルと下部マントルの境界付近にあるプレートの軽い部分が浮き上がることでマグマが生まれ、その流れの一部が太平洋付近で沈み込む動きをしているプレートまで達する。その沈み込みの部分では上の部分と太平洋プレートに挟まれた部分が冷えてクサビ状の塊ができる。大陸で生まれた上昇流がこの塊を押すことによってその上に乗っかっている大陸の一部が分裂し移動を始めたのである。
そういうことから勘案すると、地殻の厚さも含めて、日本海というのは海洋というよりも陸地の延長線上あるものだそうである。そして、日本海というのは、日本列島が北の方から流れてくる冷たい海水をせき止めるので水温が低く、低水温を好むカニがたくさん獲れる要因となっている。

ここからが地質学と美食の関係に入るのだが、フィリピン海プレートとの沈み込む向きが変わったことによって瀬戸内海の「灘」と「瀬」が「皺」のように交互に出現する地形が生まれ、美味しい海産物が育つようになったというのは前の本でも紹介されていた。
まず、お酒と豆腐であるが、これもこの「皺」がかかわっている。このふたつの食材に共通することは、製造するときに大量の水を使うということだ。しかし、適した水質はかなり異なる。
豆腐を製造するときに適した水質は、硬度の少ない軟水だ。豆乳を造る際、硬度が高い水だと水にたんぱく質が溶けだす前に凝固が進み、おからの方に残ってしまって効率が悪くなるのだ。
一方で、日本酒を醸すときに適した水は中硬水で、カルシウムやカリウム成分を含む水が適している。カリウムは酵母菌の、カルシウムは麹菌の活性を高める。しかし、麹菌は極端に鉄分を嫌うので、鉄分が極力入っていないことが必須となる。
日本列島の誕生のきっかけはユーラシア大陸東縁部の火山活動であったと書いたが、その結果、日本列島のほとんどは花崗岩でできている。地殻を構成する岩石のうち、比重が軽い花崗岩は地表面に浮き出しやすいのである。岩石が浮くというのは想像ができないが、とにかくそうらしい。
花崗岩はほとんど鉄分を含まず、おまけに日本の川は急流であっというまに海に流れ出てしまう。だから日本の水はほとんどが軟水である。
京都は豆腐が有名だが、京都の地下には岩盤層が造る盆地状の構造があり、その中に堆積した新しい地層が帯水層となって地下水盆が形成されている。その水量は琵琶湖の湖水の胎生期に匹敵するという。そしてこの地下水の滞留時間はわずか数年しかない。この地盤も花崗岩であることから京都の水は超軟水であり豆腐作りに適している。京都の出汁文化もこの超軟水があればこそであるというのも前の本に書いてあった。
そんな日本の軟水の環境の中で灘五郷と呼ばれる地域は日本酒の産地として有名なのは、この地域の地下水(宮水)が日本では珍しい中硬水であるからだ。ここで中硬水が生まれる原因は、六甲山(ここも花崗岩山系である)に降った雨が伏流水となって灘に出てくる間、この地層に多く含まれる貝殻の成分を多く含んだ山麓の砂層でカルシウム成分を溶かし込むからだ。「灘」の部分は穏やかな海域なので貝殻の堆積が可能だったのである。
この京都と灘五郷の地形を生んだ要因は、瀬戸内海の地形を生んだフィリピン海プレートの進行方向の転換である。この転換が瀬戸内海に地形の「皺」を作り、「灘」と「瀬」を生みだしたのだが、このしわは琵琶湖を生み出す力にもなった。その力が、京都の地下に盆地状の構造を作り出したのである。
京都盆地の近くには伏見の銘酒があるが、ここに湧く「御香水」は灘五郷までではないが適度に硬度があって鉄分を含まない地下水らしい。灘の酒は「男酒」と言われるように辛口で力強い酒だが、伏見の酒はまろやかでやさしい味がする。おそらく、新宮の尾崎酒造が造る「太平洋」も硬度が低い水を使っていると思う。熊野地方には1400万年前に火山活動による超巨大カルデラが作られた。その名残が花崗岩の地質とまだ冷え切っていない地中の熱が勝浦温泉や白浜温泉の熱源になっている。だからきっと「太平洋」を醸す水は灘の酒に比べて硬度は低いはずだ。
対して、この後に書くが、「黒牛」や「長久」の醸造に使われる水は多分、硬度の高い水だ。だから、それほど酒に強いわけではない僕は伏見の酒や「太平洋」を美味しく感じるのである。

次に和歌山の醤油についてである。醤油の発祥の地は由良町の「興国寺」だが、現在、和歌山の醤油というと湯浅町が有名である。どうして発祥の地と現在の中心地が違うのはどうしてなのだろうという疑問は僕もずっと持っていた。これもそこで得られる水が関係していたのだ。
醤油も発酵食品で、麹菌と酵母菌を使うというのは酒造りに似ている。だから、鉄分がなく、カルシウムやカリウムを含んだ硬度の高い水を得られる場所のほうが生産に適している。
由良町周辺の地質を見てみると、およそ1億年前から数千万年前の「付加体」と地下深部から上昇してきた変成岩、それに加えてごく最近(約1万年前以降)に河川などが堆積させた砂や砂利が分布している。「付加体」というのは、大洋の海底に堆積した泥や微生物の死骸(チャート)、海底直下の地殻を形成する玄武岩、陸から海溝へ運ばれた泥や砂が海溝から沈み込むプレートによって陸側に掃き寄せられてできたものだ。要は、様々間な種類の岩石の吹き溜まりなので、興国寺周辺の水質はそれに含まれる玄武岩由来の鉄分が含まれていて麹菌の活動が制限されてしまうのである。対して湯浅の地下水は、鉄をほとんど含まない砂や泥の層を通り抜けてくるのでほとんど鉄分を含まない地下水なので麹菌の働きを最大限生かせることができるのである。
もっと詳しく興国寺周辺の地質を見てみると、これは必然であったのか偶然であったのか、興国寺のある場所だけは「付加体」が存在せず、きちんと醤油を作り出すことができたけれども、すぐ近くの場所は「付加体」のある場所だったので近所のひとが興国寺の製法をまねてみたけれどもうまくいかなかったのだ。なんとも地質と食材の関係というのは奥が深い。



そして、御坊市には僕の中では一番美味しい醤油だと思っている、堀河屋野村の「三ツ星醤油」の蔵があるが、ここも湯浅と同じく砂や泥の堆積層の地質なのである。



名手酒造店も中野BCも成り立ちは少しと違うようだが、炭酸カルシウムの成分が多い地質のところに立地しているのである。



最後に「あまちゃん」と「おかえりモネ」の必然についてである。
「あまちゃん」の舞台は北三陸、「おかえりモネ」の舞台は南三陸であるが、この隣り合った地域はその地形が出来上がった過程が真逆だそうだ。
東北地方全体は太平洋プレートに強烈に押されてことによって大きな断層ができ、出羽山地、奥羽山脈、北上山地が作られ、同じ力で東北地方の太平洋岸の海岸線も作られているのだが、北三陸は断崖絶壁、南三陸はリアス海岸と異なった地形が出来上がっている。
北三陸はそのメカニズムのとおり、断層面がむき出しになった崖が続いて、険しい磯場となっている。しかし、南三陸の沖には巨大地震の震源域が存在していて、そこで起こる巨大地震によって地殻が跳ね上がり隆起するのだが、その時、その隆起した場所の少し離れた地殻では質量欠損が起き、沈降域が現れる。マヨネーズのチューブを押すと押した場所がへっこんでそのほかの場所が盛り上がるのと同じ原理だ。その沈降域がリアス海岸になったのである。沈降によって地殻が薄くなるとマントルに浮かんでいる状態ではへっこんだ部分は重力のバランスを取るために浮かび上がって復元しようとするのだが、復元が完了する前にまた巨大地震が起きてまた沈降を繰り返すのでリアス海岸がどんどん発達してゆくのである。北三陸は隆起してできた海岸で、南三陸は沈降してできた海岸だったのである。
それぞれの地形ではどんなものが取れるかというと、北三陸のような険しい磯ではウニやアワビが生息している。対して、リアス海岸では、海岸に流れ込む河川が運ぶ栄養分で育つプランクトンと穏やかな海が牡蠣を育てるのである。だから、アキちゃんはウニを獲り、モネちゃんのお祖父さんは牡蠣の養殖をしているというわけだ。
ということは、夏さんが経営している喫茶店「リアス」とスナック「梨明日」の名前だけれども、そこはリアス海岸じゃないじゃないかと突っ込みたいところだが、聖書に書かれていることは何でもそのまま受け入れなければならないので「リアス」と「梨明日」でいいのである。

朝ドラつながりの話では、沖縄の島豆腐も特徴的である。軟水で豆腐を作るときにたんぱく質成分をよりたくさん抽出するために煮出しながら豆乳をつくるのだが、硬水ではそれをするとたんぱく質の凝固が進んでしまうので生搾りの豆乳を使う。代わりに生搾りでたんぱくしつを絞り出すのだが、その際、強い圧縮をおこなうので堅い豆腐ができるのである。「ちむどんどん」に登場する島豆腐は堅くて、固める前のゆし豆腐はおぼろ豆腐よりも食べ応えがあるのである(食べたことないけど・・)。大陸の水質は硬水が多いので日本に伝わった豆腐の製法は島豆腐のほうがその原型に近いということだ。

もうひとつ、これは地質学とはまったく関係がないのだが、赤酢についての話も面白い。江戸前寿司が生まれた当時、米酢はまだ高級品であった。酒粕を発行させて作る赤酢は米酢に比べると安かったのでそれを使うことで庶民の間に江戸前寿司を普及させることができたというのである。だから、正統江戸前寿司は米酢を使ったものなのだ。
著者は、豆腐は京豆腐に限るだとか、赤酢を使った寿司店が、「伝統的な赤酢を使った・・・」などと紹介されていることは商業主義に流されているとその風潮に異議を唱えている。島豆腐がないがしろにされているとは思わないが、確かに短絡的にそう思う人もたくさんいるのは確かだろう。純米酒は何も添加物を加えていない米だけで作った酒で、「純米酒=上等の酒」というのはこれも商業主義に陥っているのだという考えは僕も同感だ。純米酒は香りが強すぎてかえって料理の味を邪魔するのではないかと僕も思っているのである。
しかし、著者は、前の本では結構、各地の名産品以外はくだらない食材だというような表現をしていた。そこのところは批判を浴びたのか、かなり改心したような書き方になっていた。

まだまだたくさんの地質と食材の関係についての話題、蕎麦やうどん、日本海のカニなどの話題もあったのだが、僕にとってはちょっと遠い話なので感想文としては割愛するしかない。
断層やプレート運動は地震という大きな災いをもたらすが、同時にこの国独特の食文化を生み出した原動力ともなっているのだから、備えなければならないもの対しては備えを万全にして、先人たちが守り続けてきた食文化はしっかり守ってゆかねばならないのだと思うのである。
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