須藤靖 「人生一般ニ相対論」読了
頭の固い人が書く柔らかい文章か、それとも頭の柔らかい人が書く固い文章か。そんな本だ。
ここで言う「頭の固い」や、「頭の柔らかい」は、頑固者でどうしようもないとか、脳細胞がジュクジュクで危険なことを考えているという意味ではなく、論理的な思考をするひととか、ユーモアに富んだ思考をする人とかいう意味である。
著者は、前にも読んでこの人の文章は面白いなと思った人だ。東大で宇宙物理学を研究しているそうだ。そのシリーズ(この本を含めて2冊だけなのかもしれないが・・)の一番最初に出版されたものだ。
同じように注釈がやたらと多い。そしてやっぱり理科的なことには程遠いというか、しかし、身の回りのことについて書かれたその中に、しっかり理科的な要素がちりばめられている。
そもそも、科学というものは古代ギリシャ時代の哲学から派生した学問だ。だから科学から理科的なことを取り除くと生きることとは、とか、人生とは、という、純粋な哲学が残る(はずな)のである。
タイトルにもなっている、相対論については、ガリレオからニュートン、アインシュタインに続く相対論とはほとんど関係がない国ごとに異なるマナーや〇×のつけかた、善悪の判断などに絶対的なものはないのだという話が続く。しかし、それがいつの間にかダークエネルギーの話に変わっていく。そういった話の作り方いうのが、この人はすごい文章を書くなと感心し、また納得してしまう。
その裏には、ダークエネルギーというのは、今や宇宙空間に満ちあふれている、いまだ確認はされていないものの間違いなく存在するとされているものだが、この世界の空間を満たすものとは、ギリシャ時代からニュートンの時代までエーテルというものだとされてきた。しかしニュートンは真空という概念を持ち出した。実は何もなかったのだとしたのだ。しかし、アインシュタインから量子力学の時代になるとそこはダークエネルギーというものに満たされているとなった。
絶対的なものは何もない。時代や立場が変わることで何もかもが変わっていくのだという諸行無常ともいうべき人生観に繋がっていくのだ。
すべての章がこんな感じで何気ない日常やちょっとした不思議なことが物理学と結びついていく。そこにはやっぱり科学というよりも哲学を感じるのだ。
この不思議さが心地よいエッセイなのである。
ひとつの章で、「ニュートン算」というものが紹介されている。
こんな問題だ。
これがなぜニュートン算と呼ばれるかというのには諸説あるらしいが、ニュートンが講義した代数学の講義録に牛が牧草を食べるという問題があったとか、プリンキピアを書いたあと、王立造幣局長官を務めるのだが、この問題が複利でのローン返済日数を求める問題と同じであるのでおカネと関係があるということからきていると言われている。(これをヒントに回答に挑んでください。答えは書きません・。)
この問題は中学入試に出てくる問題なのだそうだが、著者は、こんな問題が入試に出題されることの功罪についても語っている。
これが将来大学で学ぶ学問について何の役にも立たないのに、無意味と思える事項を暗記する羽目に陥っている小学生たちを憂いている。
こういう部分でも人生に必要なものは何であるか、そうなってくると、著者が専門としている天文学や宇宙物理学というのはどういった功罪があるのかということを自虐的に書いている。
そのこころは、「だって面白いんだもん。」はたまた、「役に立つことは役に立たないことをするために役立つ」という結論になる。そう、役に立つことは他人にやってもらっておいて、「役に立たないことをするため。」ということが人で生では大切なのだということがこの本には満たされているのである。
頭の固い人が書く柔らかい文章か、それとも頭の柔らかい人が書く固い文章か。そんな本だ。
ここで言う「頭の固い」や、「頭の柔らかい」は、頑固者でどうしようもないとか、脳細胞がジュクジュクで危険なことを考えているという意味ではなく、論理的な思考をするひととか、ユーモアに富んだ思考をする人とかいう意味である。
著者は、前にも読んでこの人の文章は面白いなと思った人だ。東大で宇宙物理学を研究しているそうだ。そのシリーズ(この本を含めて2冊だけなのかもしれないが・・)の一番最初に出版されたものだ。
同じように注釈がやたらと多い。そしてやっぱり理科的なことには程遠いというか、しかし、身の回りのことについて書かれたその中に、しっかり理科的な要素がちりばめられている。
そもそも、科学というものは古代ギリシャ時代の哲学から派生した学問だ。だから科学から理科的なことを取り除くと生きることとは、とか、人生とは、という、純粋な哲学が残る(はずな)のである。
タイトルにもなっている、相対論については、ガリレオからニュートン、アインシュタインに続く相対論とはほとんど関係がない国ごとに異なるマナーや〇×のつけかた、善悪の判断などに絶対的なものはないのだという話が続く。しかし、それがいつの間にかダークエネルギーの話に変わっていく。そういった話の作り方いうのが、この人はすごい文章を書くなと感心し、また納得してしまう。
その裏には、ダークエネルギーというのは、今や宇宙空間に満ちあふれている、いまだ確認はされていないものの間違いなく存在するとされているものだが、この世界の空間を満たすものとは、ギリシャ時代からニュートンの時代までエーテルというものだとされてきた。しかしニュートンは真空という概念を持ち出した。実は何もなかったのだとしたのだ。しかし、アインシュタインから量子力学の時代になるとそこはダークエネルギーというものに満たされているとなった。
絶対的なものは何もない。時代や立場が変わることで何もかもが変わっていくのだという諸行無常ともいうべき人生観に繋がっていくのだ。
すべての章がこんな感じで何気ない日常やちょっとした不思議なことが物理学と結びついていく。そこにはやっぱり科学というよりも哲学を感じるのだ。
この不思議さが心地よいエッセイなのである。
ひとつの章で、「ニュートン算」というものが紹介されている。
こんな問題だ。
これがなぜニュートン算と呼ばれるかというのには諸説あるらしいが、ニュートンが講義した代数学の講義録に牛が牧草を食べるという問題があったとか、プリンキピアを書いたあと、王立造幣局長官を務めるのだが、この問題が複利でのローン返済日数を求める問題と同じであるのでおカネと関係があるということからきていると言われている。(これをヒントに回答に挑んでください。答えは書きません・。)
この問題は中学入試に出てくる問題なのだそうだが、著者は、こんな問題が入試に出題されることの功罪についても語っている。
これが将来大学で学ぶ学問について何の役にも立たないのに、無意味と思える事項を暗記する羽目に陥っている小学生たちを憂いている。
こういう部分でも人生に必要なものは何であるか、そうなってくると、著者が専門としている天文学や宇宙物理学というのはどういった功罪があるのかということを自虐的に書いている。
そのこころは、「だって面白いんだもん。」はたまた、「役に立つことは役に立たないことをするために役立つ」という結論になる。そう、役に立つことは他人にやってもらっておいて、「役に立たないことをするため。」ということが人で生では大切なのだということがこの本には満たされているのである。