イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

この1年を振り返る・・・。

2020年12月31日 | Weblog
今年もあとわずかになったけれども、この1年を振り返ると、なんといってもコロナウイルスにつきるだろう。
日常的にマスクをつけるようになってすでに10ヶ月以上になろうとしている。しかし、コロナウイルスに対する恐怖心は世間ではいまだに消えていないようだ。というよりももっとひどくなりつつある感もある。
ワクチンも開発されつつあるができたとしてももう遅いのではないだろうか。人々は次に現れるかもしれないウイルスにおびえ続けなければならない。そしてそのウイルスを克服してもまた次のウイルスの出現におびえ続けることになる。
それが「新しい生活様式」というのならなんだか哀れで滑稽に見えてしまう。道を歩く人が全員マスクをつけているなどという光景はどうも変だ。人類があと十数回世代交代すると、口の両側から皮膚のひだみたいなものが飛び出してきて鼻と口を覆い隠すような進化が起こるのではないかと考えてしまう。それとも遺伝子操作で希望があればそんなひだを作ってあげますよとなるのかもしれない。その時は、ユ○クロのひだは安いけど、ル○・ヴィ○ンのひだはむちゃくちゃ値段が高いというふうになるのだろうか・・。

そういいながら、僕は世界中でもおそらくまれなコロナウイルスに助けられた人間といえるだろう。
3月にこの職場に来て事実上格下げ。その上に屈辱的なコンビニ店員をやらされていた時、くしくもコロナウイルスの恐怖が日本中に蔓延しはじめた。
コンビニも営業時間を短縮し人手が余ったというので元の職場に戻されることになったのだが、もともとそのコンビニでも人が余っていて、どうしてそんな中に応援として放り込まれるのか、やはり制裁か見せしめにしか思えなかった。それがとりあえず釣りに行く服装をせずに通勤できるようになったのだからやはりコロナウイルスに救われたと言っていいだろう。(コンビニでは釣りに行く服装そのままで働いていた。)
そして、マスクはその落胆した表情を隠すにはもってこいだ。ドリカムの名曲に、「眼鏡越しの空」という歌があって、主人公は失恋した悲しい表情を眼鏡で覆い隠そうとするのだが、僕はマスクで覆い隠すのだ。これもコロナウイルスに救われたと言えるだろう。
もうひとつ、休日が増えた。最初の1か月半ほどは週休4日だったものだから釣りにもよく行ったし山菜取りにもよく行った。大きな台風も来なかったのも釣行回数が増えた要因だ。それが落ち込んだ僕の心に少しだけ小さな灯りを灯してくれたくれたことは確かだ。魚釣りは僕にとっては神聖なものであってストレスを解消する手立てでは決してなかったはずなのであるが、悲しいかな、そんな手段に堕ちてしまった。普通は何もかも嫌になって家に引きこもってしまうのかもしれないが、幸か不幸か僕にはそんな繊細な部分は存在しないのかもしれない。
師のなつかしいドキュメントを見ていると、師も、「仕掛けを下してアタリを待っている間は、日常の嫌なことやあれこれがいつも頭の中を行ったり来たりしている。しかし、いざ、魚がヒットした瞬間にそれらのすべてが消え去ってしまうのだ。」と言っていた。「釣り師は心に傷があるから釣りに行く。しかし、彼はそれを知らないでいる。」と言うが師でさえも魚が釣れる瞬間まで悩み続けていたのだから僕みたいな人間があれこれ悩み考え込んでしまうのは仕方のないことなのかもしれない。

しかし、魚の方はというと、行けば行くほどボウズが積み重なり、これについてはコロナウイルスは救ってはくれなかった。

数えてみると、今年はなんと70回以上も釣行をしてしまった。ついでだが、読んだ本の数も100冊に達してしまった。しかし、ほとんど頭の中には残っているものがない。釣りも読書もだが、乱釣、乱読はよくない、もっと腰を落ち着け、気持ちを落ち着けて臨むというのを来年の課題にしたい。
ちなみにボウズは21回、3回に1回はボウズであった。


年初から振り返っていくと・・。
この頃は、「正しく恐れろ」なんていう感じで、中国で流行っているだけだから対岸の火事くらいにしか思っていなかった。会社も釣りも普通に行っていた。しかし、加太での釣果は大したことがなく、コウイカは年が明けてアタリがぱったりなくなってしまった。

3月に入り、人事異動があり、このブログも泣き言と不満ばかりが増え、それに伴って釣果はますます下り坂になってきた。



ワカメも暖冬の影響か、まったく採れなかった。



この時期にコンビニ店員の仕事をやらされていた。



もう、何もやる気が起こらないとはいえ、釣りには相変わらず行っていたけれども、さすがに気持ちが入らず釣果もさらにボロボロになった。

緊急事態宣言が出され、そのあおり(恩恵?)を受けて4月の中旬からやたらと休日が増えた。通常の休日に加え、「休業日」というものが設けられた。そして大阪の街からも電車からも人が消えた。ちょっと異常な光景だったが、もともと人の多いところが嫌いな僕にとってはなんとも快適な空間に思えた。



包丁もいっぱい砥いだ。



休みが多くなると必然的に釣行回数が多くなる。海の上は密とは無関係だ。ただ釣果は相変わらず厳しく、救いは田辺で久々に年なしを釣ったことだろうか。



「新しい生活様式」という言葉が生まれたころ、生石山からも人が消え、ゆっくり山菜採りを楽しめた。

 

ここも、3密とは限りなく無縁だと思うのだがそこまで警戒する必要が本当にあったのだろうかと今にしても思う。また来年も怪しいウイルスが流行してくれたら生石山を独占できるのにと思うのはきっと不謹慎なんだろうな・・。

チョクリの季節になり少し息を吹き返した。

 

しかし、それもつかの間、サバの釣果は長く続かず、同時期に始まる初島も、あたらしい飲ませ釣りのロッドを買ったもののそのロッドではとうとう魚を釣り上げることができなかった。



例年必ず釣っていたホウボウも今年はゼロだった。
ついでに紀ノ川河口のスズキもまったく釣れず、期待のタチウオも大したことがなく夏が終わった。




キスもサッパリだった。



「わかやま〇しぇ」がオープンしたのはこの頃。



ここでもらった謎の調味料たちはまだ半分も消化できていない・・。



とくにタチウオは、行くたびに貧果で、釣れていると聞いてはせ参じるとその時の活況はすでに終わっていたといういたちごっこばかりを繰り返していた。加太の沖のタチウオも同じだ。今年はきっと不調なのだと完全に行く気を失くしたらそれから盛況になったようだ。

そして秋の遠足は2年連続してほぼボウズ。なんとかボラを釣りたいのだが全然ダメだ。来年もう1回、挑戦してみたと考えている。



冬になり、加太の海は青物が少し釣れたけれども、真鯛はそれほど大した釣果はなかった。釣り人が増えたので真鯛が減ったというのを聞くけれどもそれは本当だろうか。SNSのメンバーさんたちはアジやサバを大量に釣っているが、真似をしてもいっこうに釣果が上がらない。そこそこ釣れたのはただの1回だけだ。
その中にあって、カワハギの釣果が上がったのはうれしいことだ。去年のシーズン終わりにNさんから釣り方を教えてもらい1年越しでの挑戦であったが、確かに釣れる。今までの苦戦はいったい何だったんだろうというほどの破壊的な釣法だ。これまで使っていた胴突き仕掛けが完全に無力化されてしまった。今年は肝和えをたらふく食べることができたのだ。



そしてもうひとつ、禁断の仕掛けにも幾度となく助けられた。数年前にTさんから教えてもらったのだが、もともと同じ港のイトウさんが引退するときにもらって持ってはいたし、祖父が残したであろう仕掛けも持っていた。昔からある伝統的な釣法だ。しかし、どうしてもこの仕掛けで魚が釣れるとは思えず使ったことがなかったのを身近な人が使っていると聞くと、俄然信ぴょう性が高まる。それ以来、本命の釣りを始める前に少しやってみたり、なぶらを見つけたら急遽やってみたりでその日の釣果はそれだけということもあった。
もちろん伝統的な釣法だから釣れるのは確かのはずだが、先入観はよくないとあらためて思うのだ。

 



釣りの振り返りはこのくらいで、修理や手作りの部分ではうれしいことがあった。
磯釣り用に使っているふたつのリールが両方ともローターのロックが効かなくなってしまっていたのを直すことができたのだ。もう、数年間ロックが効いたり効かなかったりする状態で使っていたが、春の年なしを釣った時にこれではだめだとそれからずっと考えていた。しかし、新しく買い替えるのは磯釣り引退までの残りの釣行回数を案が得るとまことにもったいない。
ネットで調べてみると不調の解消方法が書かれていた。単にロックの部分にオイルが回っているだけだとわかりそれを除去するとなんとなく直った感じがする。その勢いでレバーブレーキ付きのリールも見てみたがこっちはもっと重症でバネひとつ折れていた。それもなんとか直すことができて両方とも自力で直すことができたことで来年の楽しみがひとつふたつ増えたのである。
UVレジンの活躍も発見だ。100均にも売っている紫外線で硬化する樹脂なのだが、これは便利だ。試しに、タチウオを釣るテンヤに夜光パウダーを混ぜて塗ってみたのだが、今シーズンの使用には十分耐えてくれた。紫外線を当てると一瞬で硬化するので乾燥させる時間がいらないというのが楽だ。壊れたガイドの補修に使ってみたが、見た目はきちんと直っている。
リールの修理もUVレジンもどれくらいの耐久性があるのかはこれからの検証が必要だが、とにかく自分でできたということはうれしい。

 

 

小船の船底塗装のために復活させたウインチもいい使い心地だった。これもうれしい。

 


思えば嫌なことばかりの1年であったが、よく考えれば、今の職場というのは定時に出勤して定時に帰ることができ、休日も100%消化できる。そういう意味ではこのご時世、恵まれているのかもしれない。自分がどんどんアホになっていくのを実感しなければならないが・・・。
評価はどんなことをしても上がることがないということもよくわかったので上からの指示を適当にうっちゃることができれば1日が過ぎてゆく。お金をもらうためだと割り切ればそれでいいのかもしれない。いまさら自己実現ということもないだろう。実現したいこともない。
この会社にも65歳までの再雇用制度があるけれども、定年延長に応じたとしてここで継続して働かねばならないのならそこはもう耐えられない。お前は考えが甘いというのが世間一般の意見であろうが、人生の残り時間がどんどん少なくなってきているのだから自分の中で不本意なことだと思うことを続けるの時間がもったいないと思う。再雇用の勤務先がコンビニだったという人にも出会ったが、その人は京都から大阪まで通勤していたけれども、そんな長距離を通勤するほどコンビニの店員の仕事は魅力的なのだろうかと理解できなかった。不安定な仕事でもいいから、自分の心の中で、“やってる感”のある仕事に巡り合いたい。
入社してからずっと、売れるものは何か、それをどうやったら買ってもらえるかということを考えてきた。もちろんそれがことごく失敗に終わったのでこんな職場に流されてきているのだが、ここはどんなことを考えているかというと、「5000エンクライノハンバーグナラカッテクレルヒトガイルダロウ。デンワヲシテカッテモライナサイ。」というマーケティングの「マ」の字も存在しないようなことをしている。他人に押し付けられることが一番嫌いだと思っている僕が他人に押し付け販売をしている。(正確には“ふり”をしているだけだが・・)
押し売りだ。電話をする先の95%は75歳以上の人たちだから相手もこれはきっとオレオレ詐欺だと思っているのか、かなり警戒しているのが手に取るようにわかる。これはこれで滑稽で面白い。

だから最長であと3年。そこまで我慢できるかどうかはわからないが、いくところまでいってみようとみようと思うのだ。そういうぼくはパンと釣りのみに生きているということになるのだろう。

最後の休日は悪天候で停滞。松飾りだけを取りつけて帰宅した。

 

さて、今年もとわずか、例年通り、今年の潮時表と潮流表を処分して新しい年を迎えよう。

愚痴と貧果ばかりのこのブログを我慢強くご覧いただいた皆さまこの1年ありがとうございました。また来年も愚痴と貧果ばかりが続きますがなにとぞ、どうぞよろしくお願いいたします。
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「不機嫌な作詞家 阿久悠日記を読む」読了

2020年12月29日 | 2020読書
三田完 「不機嫌な作詞家 阿久悠日記を読む」読了

阿久悠というと、「スター誕生」でいつも怖い顔をしてオーデションを受けに来た人たちに厳しい言葉を投げかけているという印象の人であった。当時、小学生だった僕はこの人がいったいどんな人なのかということはまったく知らなかった。
もう少し大きくなってあの歌もこの歌も作詞をした人だということを知った。僕が加太へ向かう道中いつも口ずさんでいる「宇宙戦艦ヤマト」の主題歌もこの人が作詞したものだ。

阿久悠の詩というのは歌がなくても詩を読んでいるだけでひとつの物語が浮かび上がってくる。日本語がちゃんと存在している。
父親の仕事の関係で淡路島の学校を転々としていた関係で、故郷に対する感覚は薄いというか、父親からは別れる時に悲しくならない程度に友達と付き合えと言われ、そのことからか、叙情的ではあっても郷愁はない、常に通りすがりの人の立場で作詞している。そういうところがまたひとりよがりにならずに物語が広がっていく要因にもなっている。
そして、この頃ひたすら通った映画館が後の創作活動に大きく影響しているという。僕も、「ニューシネマパラダイス」を観てみたくなった。

この本は、阿久悠が昭和56年(1981年)元旦から亡くなる半月前(2007年=平成19年8月)までの26年7か月毎日書いていた日記をもとにして作詞家の人生に迫ろうというものだ。著者は元NHKのディレクターで、後に阿久悠をマネジメントする会社に就職した人だ。
阿久悠の全盛期というのは、1973年(昭和48年)から1978年(昭和53年)の6年間ほどだったそうだ。この日記は全盛期を過ぎたあとに書かれたということになる。全盛期を過ぎたと言っても、日記を書き始める直前、昭和55年の日本レコード大賞は八代亜紀の「舟歌」だったのであるが・・。
この6年間に発表された歌は、主だったものを挙げるだけでもこれほどある。「狙いうち」「ジョニィへの伝言」「絹の靴下」「わたしの青い鳥」「コーヒーショップで」「恋のダイヤル6700」「ひまわり娘」「学園天国」「宇宙戦艦ヤマト」「ロマンス」「北の宿から」「嫁に来ないか」「ペッパー警部」「津軽海峡・冬景色」「渚のシンドバッド」「UFO」「ウオンテッド」「ブーメランストリート」「勝手にしやがれ」「能登半島」「サウスポー」「透明人間」「狼なんて怖くない」「林檎殺人事件」
このブログを読んでくれている人たちも、これらの歌を誰が歌っていたのかというこを全部思い出せるのではないだろうか。

阿久悠の日記の書き方は独特で、毎日気になったことを次々と小さなメモに書き、1日の終わりにそれらを眺め日記にまとめていた。世界情勢であろうと政治経済であろうと自分の考えや行動までも同格に扱っていた。とくに重要だと思うことや印象に残ったものは赤いサインペンで強調して書いていた。創作を生業とする人だから自分が死んだあと、この日記は他人の目に触れることもあると想定して書かれているかのようであったというのが著者の印象だ。

阿久悠は昭和12年に淡路島に生まれた。生まれたのは美空ひばりと同じ年だったそうだ。小学生の頃、自分が死んで新聞に載っても「少年死亡」の4文字だが、美空ひばりが死んだら4万文字くらいの記事になるのだろうなと考えていたというのだからやっぱり普通の人とは違う。この頃から何かをして世に出ようという野望のようなものがあったようだ。
小学生の頃に先生から作文を褒められたことがあったという回想録からも、文章を書くことで身を立てたいという願望がこの頃から芽生えていたのだろう。
もとは作家か脚本家志望だったらしく、広告代理店で働きながら2足のわらじを履いて放送作家をしていたそうだ。会社にばれないように作ったペンネームが、「阿久悠」であった。「スター誕生」しかり、「ニュースステーション」も企画段階から阿久悠が関わっていたそうだ。

作詞家になるきっかけというのは、テレビの台本を書く中で番組のテーマソングの作詞をしたことであった。
その後は3年連続でレコード大賞を取り、破竹の勢いが続く。しかし、全盛期が6年間とは思えないくらい、あの歌もこの歌も阿久悠だったのかという曲ばかりだ。

この本では阿久悠が作詞家として成功した要因は何だったのかというようなものは特に書かれていないが、過去に語った言葉として、『100メートル走で100メートル先をゴールとして走るのと、103メートル先をゴールとして100メートルを走り切るのではゴールを切る時の速度は違うのだ。』というのもが紹介されている。もちろん元から才能があったということは大前提だが、こういう貪欲さというか、努力というか、そういうものがなければ大成することはないのだろう。常に自分を高みに登らせようというエネルギーがすごい。
何事に対してもなんとか逃げ切ろうととしか考えていないような人間にはゴールどころか横の溝に落ちるのが関の山ということだろう。耳が痛い。

そして、作詞をする上でのモットーと挑戦は、「怨念と自虐に頼らず書く。」「どうせ、しょせんという言葉を使わない。」ということであったそうだ。日本の文学で認められようとすれば怨念と自虐が必要というのが通説で、かつ歌謡曲のなかには「どうせ」「しょせん」という言葉や意味が頻繁に使われてきた。それにとらわれずに新しい作詞の形を作り上げようとし、その後の小説の創作活動もその考えのもとに続けられた。

そして、この日記は昭和から平成に時代が変わる頃に書かれているのだが、それは日本人の価値観も大きく変わった時代だ。高度経済成長からバブル崩壊~デフレの時代を見つめた作詞家はさらに時代の波に乗り続けるために新しい作詞の形に挑戦する。時代はシンガーソングライターが全盛で、職業作詞家という人たちは時代に合わないと考えられ始めたころだ。歌詞は日本人の機微を歌わなくなり、桑田佳祐は一体何を言いたいのかわからない。(でも、僕はそれも好きだが・・・。)AKBの歌詞はいい内容だと思うがあの歌唱にはついてゆけない。病に斃れそれは実現しなかったが、阿久悠が今を生きていれば一体どんな歌を創り出していたのだろう。
また、美空ひばりや山口百恵に対する思い(ふたりとも阿久悠の歌は歌っていないそうだ)や、それぞれの時代の様々な出来事に対する阿久悠の思いが日記に書いていることがそのまま掲載されている。
僕も同じ時代を子供時代から成人するまで過ごしていたのであらためてひとつの大きな時代の流れの中にいたのだと感じさせられた。

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「令和版 全訳小説 伊勢物語」読了

2020年12月28日 | 2020読書
服部真澄 「令和版 全訳小説 伊勢物語」読了

伊勢物語が最近流行っているというのを聞いたことがあって、読みやすい本を探していた。この本は、完全口語訳でときおり注釈が挟み込まれているという構成だ。口語訳の部分と注釈として挟み込まれた部分が判別しづらいという部分を除けばものすごく読みやすい。文語がまったくわからない僕としてはありがたい構成だ。
原文は、ほとんどが仮名文字で書かれているらしく、浪人時代の古文の講師の先生が全部ひらがなで書かれた和歌を虫食い形式で出題して、文法や単語の説明をしてくれたことを思い出した。
高校時代の古文の先生に比べるとはるかによくわかる説明をしてくれたので2年目の共通一次試験の古文と漢文はほぼ満点を取れたのはこの先生のおかげだったといまでも感謝している。けっこうスケベなことも教えてくれて、平安時代はフリーセックスと通い婚だったというのを浪人時代にはじめて知った。刺激的すぎた・・。
料理屋の店先に塩を盛るのは、当時の上流階級は牛車に乗っていて、牛は塩を見つけると舐めたくなるのでそこで立ち止まる。だから男を引き込みたい女性は玄関先に塩を盛っていたのだということも教えてくれた。
今ではまったく文語なんてわからないけれども、当時はそこそこ読めたのにと思うと残念だ。

伊勢物語とは、『平安時代初期に実在した貴族である在原業平を思わせる男を主人公とした和歌にまつわる短編歌物語集で、主人公の恋愛を中心とする一代記的物語でもある。』とウイキペディアには書かれている。作者は不詳。125段ある章のほとんどが「むかし、おとこありけり」という文章で始まるというのが特徴だ。『源氏物語』と双璧をなしており、『古今和歌集』を加えて平安時代の三大文学とも呼ばれているそうだ。使われている和歌のほとんどは実際に在原業平が詠んだ和歌だそうだ。

内容はというと、在原業平らしき人の恋愛遍歴が満載という感じだ。下世話な書籍紹介を読むと、業平のスーパープレイボーイぶりがエロチックに書かれているみたいなことを書かれているが、むしろ、しっとりとした男女の機微が書かれているといったほうがいいように思う。
男女のコミュニケーションのほとんどが和歌のやりとりで成り立ち、その36文字にいく重にも隠された掛詞が使われ、無限の意味を持ってくる。そして手紙のやりとりというゆったりした時間の流れがその想像力をいっそう膨らませるというのがこの時代のコミュニケーションだったのだろう。

瞬時にメールが届いてしかも画像付きという今の時代はそういう意味では想像力が働かない。今、この時代にこういう文学が注目されるというのはたしかによくわかるような気がする。

在原業平と言う人は、平城天皇の孫にあたる人で政争に敗れ在原姓を名乗ることになったけれども運がよければ天皇になっていた人だ。だから物語のそこここになんだか悲哀のようなものが隠れているような気がする。(実らぬ恋の場面が多いというところもあるのだろうが・・)
有頂天の物語よりもこういったものの方が長く語り継がれるというのも徒然草や方丈記、平家物語と同じような雰囲気をかもし出しているのかもしれない。

六歌仙・三十六歌仙の一人というくらいで、掲載されている和歌にはたくさんの掛詞が入っていて、解説が付いていなければまったくその意味を解せない。この時代の人たちはこういった和歌を相手の気持ちと一緒に理解できたというのは相当な教養とひとの機微をわかっている人たちであったのだと感心させられる。これもきっと今のように安直に情報を伝えられない時代ならではの能力であったにちがいないと思うのだ。

きっとこういう生き方の方が人間らしいんだろうなと読みながらずっと思っていた。


桜の季節になると必ず頭の中をめぐる
『世の中にたえて桜のなかりせば 春の心はのどけからまし』
という歌は伊勢物語に収録されていた歌だということもこの本を読んでははじめて知ったことであった。
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加太沖釣行

2020年12月27日 | 2020釣り
場所:加太沖
条件:中潮 5:18満潮 10:36干潮
潮流:5:19 上り3.0ノット最強 9:19転流 11:48 下り1.9ノット最強
釣果:ハマチ 4匹 真鯛1匹 カワハギ1匹


今日も日の出の時刻は午前7時台。出港は午前6時過ぎごろと考えていたので目覚まし時計を午前4時50分にセットしていたのだが目が覚めたのは午前5時半頃だった。目覚まし時計を見てみると、時間が遅れている。電池が切れかけいるのか、それとももう40年近く使い続けているのでそろそろ壊れかけているのか・・。この時計、確かに日によって音の大きさが違ったりもするのだ。定年退職まであと3年、そこまでなんとか壊れないでくれ・・。新聞も読まず、ウ○コもひねらず急いで家を出た。

しかし、天気は上々でほぼ無風だ。快調に加太を目指す。



今日の予定は、上りの潮の途中まで大和堆ポイントに行き、そこからテッパンポイント、下り潮で非武装ポイントへ行こうと考えている。前回の釣行の反省も甲斐なくまたしても途中でカワハギを狙うつもりだ・・。

今日は年末の日曜日ということもあり、田倉崎から見る加太の海域はかなりの船が出ている。船団はテッパンポイント付近、ジノセト付近にできている。僕が目指す大和堆ポイントはまばらだ。
しかし、当初の予定通り大和堆ポイントに入る。



潮はすでに最強に近づいている頃だがそれほどの流れはない。魚探の反応もまばらである。小さな山になっているところを丹念に行ったり来たりしていると間もなくアタリがあった。小さいながら真鯛だ。とりあえずボウズじゃなくなったのがうれしい。これは叔父さんの家に正月の鯛として持って行こう。
その後も同じラインを流すがアタリがないので転流前にテッパンポイントに移動。ここも反応があまりないのでも少し北上。今日は同盟軍が優勢なので相当入り込んでもロックオンされないだろう。せっかく奥まで入ってみたがここでもアタリが無く、完全に潮が止まるまでにカワハギをやってみようといつものポイントへ移動。
途中魚探を眺めていると、かなり反応があるところがあった。急遽仕掛けを取り換え下してみるとアタリが出た。ハマチだ。これで自分の家の分のおかずもできた。
ここら辺りの水深が30メートルだったのでひょっとしてここでもカワハギが釣れるのではないかと仕掛けを下してみると確かにアタリがあった。今日もカワハギゲットだ。カワハギがいるところは水深30メートルが基準なのだろうか。もう少し検証が必要だが・・。
その後、エサ取りばかりなのでいつものポイントに移動。しかしここもエサが取られるばかりでエサが無くなって終了。カワハギについてはここ数回、決まったように1匹だけだ。まるで割り当てが決まっているかのようだ。最初のうちそこそこ釣れたのはフロックだったのだろうか・・。
せめて3匹は釣りたいものだ。

そこから船団できているジノセトに移動。アタリがないのでそのまま非武装ポイントへ。



地ノ島の陰で見えなかったがここにも大きな船団ができている。期待が持てるのだろうか。
海底が盛り上がっているところまで行くと結構な反応がある。しかし、仕掛けを下すもアタリがない。これは間違いなくアタリが出る反応だと思うものに遭遇してもダメだ。
そんなことを繰り返しているとやっとアタリが出た。多分真鯛の反応ではないと思っていたので、反応がある棚まで仕掛けを移動させて竿をあおってやったら鉤に乗った。けっこう引くと思ったらハマチが2匹ついていた。これでハマチが3匹。釣果としては十分だ。同じような釣り方でもう1匹釣り上げて午後0時。ロスタイムを過ごしたいところだが釣りはお昼までと決めているので今日はここまで。

同じように今日出ていた人たちの情報を聞くと、大和堆ポイントで粘っていたTさんはハマチ多数とサゴシを釣ったらしい。サゴシは多かったようで仕掛けをいっぱい切られたということだ。
また、去年ちょうどこの時期、コウイカ狙いで同船していただいたKさんは銅板ポイントで真鯛を釣ったそうだ。
どうも僕みたいに大移動をしなくても沖ノ島の南側でみなさんたくさん釣っていたようだ。
次回の参考にしたい。

年内の休日は今日を含めて2日、次の休日は冬型の気圧配置が強そうなのでおそらく今日が今年最後の釣行になる。とりあえずボウズでなくてよかった・・。
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紀ノ川河口~水軒沖釣行

2020年12月24日 | 2020釣り
場所:紀ノ川河口~水軒沖
条件:長潮 7:32干潮
釣果:ハマチ1匹 コウイカ6匹 マゴチ1匹

今日は午後から雨が降るという予報なので空はどんよりと曇っている。その分風がないので小船でも釣りがしやすそうだ。

今日もブリを狙うべく、紀ノ川河口からスタート。
確かに釣れているらしく、僕以外に3隻の船が出ていた。



Mさんに教えてもらったとおり、紀ノ川右岸からスタート。住金の高炉の前から上流に向かって移動してゆく。
Mさんの指示ではできるだけ岸際を流せということだったので小船の利点を生かしてテトラ帯から10メートルほどのところをネチネチやってみる。
土入川を越えて少し上流まで行って引き返す。他の3隻は左岸の前をウロウロしているので下りは僕もそれに加わる。エネルギーセンター前のテトラ帯を越えてから再び右岸へ移動。
青岸の灯台くらいのところまでやってきたがアタリは無く、ここで時間を使うとコウイカを釣る時間が少なくなると思い、仕掛けを回収し始めたところにアタリがあった。これは幸運というか、フロックというか、とりあえずボウズは逃れた。ブリではなくハマチだった。ここのハマチも脂が乗っていて美味しかった。加太のハマチと遜色ない。海はつながっているのだし・・。

コウイカのほうは、潮は長潮だし少しでも潮のあるところがいいのではないかと考え、この場所から最短の新々波止の先端、赤灯台のそばからスタートした。こっちは好調で、ひと流しめからアタリがあった。ここにイカが集まっていたらしく、3連続でイカを取ることができた。そして型もすべてが大きい。
続いて同じ場所を流すとまた2匹。少し地方に戻って流してみるがここはアタリがない。
また同じところに戻ってみたがアタリはなく、群れはどこかに行ってしまったようだ。
しかし、そろそろ飽きてきたところでまたアタリ。最初はイカかと思ったがどうも魚のようだ。それほど型は大きくはないがマゴチだ。今回もアシストフックがいい働きをしてくれた。がっちり掛かっている。



移動するのも面倒なのでそのまま流し続けるとまたアタリ。今日の6匹目だ。
これだけ釣れれば十分だし、やっぱり去年よりもアタリは少ないのでこれ以上やっても大して数は増えないだろうと思い午前9時すぎに終了。その後新々波止から沖の波止に添って再びブリを狙うべく仕掛けを流し続けたがやっぱりアタリはなく、午前10時前に港へ帰投。
船のデッキの上を掃除してから魚の保存用に持ってきた麻袋を洗い、仕掛けを片付けてエンジンの掃除をして家に帰り、イカと魚を捌いたらちょうどお昼前。寒いと何をするにしても動きが鈍くなる。思った以上に何もかもに時間がかかってしまうのでこれくらいに釣りを切り上げて帰ってくるというのがちょうどよかったようだ。



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「いのち愛づる生命誌〔38億年から学ぶ新しい知の探究〕」読了

2020年12月23日 | 2020読書
中村桂子 「いのち愛づる生命誌〔38億年から学ぶ新しい知の探究〕」読了

この本が今年100冊目の読書になった。

著者は分子生物学者で、執筆当時はJTが運営する、「生命誌研究所」の副館長という立場であった。生物はDNAの情報を基にして作られた機械のようなものであるという現代主流になりつつある生命観に異を唱え、『DNAまで還元せずに、細胞のDNAの総体であるゲノムを単位にすれば生物の多様性が見えてくる』という生命観=生命誌を提唱した人だそうだ。
ゲノムが作り出す様々なタンパク質はかなりの部分で各生物に共通している。生命誌の世界ではすべての生物がつながっていて、それは時間の流れによってつながっているのだというのが著者の考えだ。
38億年前、ひとつの細胞が生まれ、分裂を始めた。それが多細胞化し、性が生まれその果てに人間が生まれた。僕の先祖をどんどんさかのぼっていくと必ずその単細胞までいきつくことができる、はずだ。ある日突然、どこかからワープしてきた宇宙人が先祖だということはまずあるまい。
こういう、どちらかというと哲学的なことが科学としてどんな形を作っていくのかというのには興味がある。科学の世界では法則性、論理性、客観性、再現性という考えが基本だが、生命誌の考えでは同じ種でも個別に持っているゲノムを尊重して考えねばならないという理念もある。こういう部分も哲学的である。
ただ、この本に書かれている「生命誌研究所」が研究している内容が紹介された部分では、そういった理念がどのような場所に反映されているのかということがよくわからない。生物の遺伝情報を解析してそれがそれがどんな祖先から由来してきたということを調べることは普通の生物の分類学と変わらないのではないだろうか・・。

ただ、著者の考えでは、かつて哲学の中から科学が生まれてきたのだからそれをまたひとつにするのだというのがなかなか素晴らしい考えなのだろうなと思う。
物質的な部分の科学が進歩し続けてもそこに心が追い付かなければ悲劇を生むだけだというのが今のこの時代に当てはまっているような気がする。

著者は生命の進化の中で、ふたつの場面が非常に重要だと書いている。最初の重要な場面は、細胞が生まれた時。ふたつめは真核細胞が生まれた時である。
生物というのは、宇宙の中で唯一、外部からエネルギーを得て代謝をして自らの複製をつくることを繰り返すことができるものだ。ただの物質がどのようなきっかけでそんな活動を始めることができたのはいまだもって謎なのだそうだ。
人は必ず、どんなものに対しても必然を求めるものだけれども、はたして生命が生まれる必然というものはあったのだろうか。
そして核を持った細胞は、その構造を複雑化しその先で性を持った。その延長線上に意識であったり感情であったりというものが生まれるのだが、はたししてそれも必然であったのだろうか。

宇宙戦艦ヤマトの続編では、彗星帝国の帝王が、「人類は性を持ったゆえに“愛”をもった。そしてその愛は憎しみや争い、そして苦しみの根源である。真実の愛というのはそれを抹殺することだ。」と言う。人類とは、『オスとメスが愛を育まねば繁殖もできない不合理な生き物。奪い、憎み、殺し合う。この宇宙の調和を乱す、ヒトという混沌。』であるという。
これが真実の一面を持つのかどうかは知らないが、この地球上でおこっている、格差や偏見、差別、妬みも、自分たちの仲間への愛の強さゆえの反動と捉えれば納得のいくところもある。
それが必然であったというならば、なんと神様は非情なお人であったことか。
かつて神は自分の似姿として人間を創ったという。神様も意外と嫉妬深かったりするのかもしれない。
生命誌という学問が目指す究極の心理というのは、この、「必然」を探し求めるものだったりするのだろうか。


掲載されているエッセイは、2000年前後のものが多い。1900年代というのは科学の世界は大発見が続いた。放射性物質やDNA発見、宇宙の膨張の証拠が見つかったなどなどは1900年代の前半であったそうだ。技術的にも機械文明が急激に発達したのが1900年代だ。
2000年というと、国際宇宙ステーションの運用が始まった頃だそうだが、その後の科学の発展は驚異的なものではなかったような気がする。人類はいまだに地上から400キロしか飛び出していない。
技術の進歩の加速度というものはゆっくりと低くなっていくというのは間違いないことであり、そして、もう、これ以上そんなに科学技術の進歩が必要なのだろうかとも思ったりする。
僕の中では、ボタンひとつで注文した商品が翌日に届くような便利な世界になればそれ以上は望まなくてもいいのではないかと思っている。それよりも、僕の身には直接押し寄せてきているわけではないけれども、これ以上ゴミが増えて自然環境が壊されて魚が釣れなくならないようにしてくれればそれでいい。(ついでに山菜も採らせてくれ。)長生きをするといっても、どうだろう。ずっとお金の心配をしながらならそれも面倒くさい。
今年のノーベル賞は遺伝情報を自在に書き換えることができるゲノム編集技術を作り出した人たちがもらったけれども、その編集した先には何があるのだろうか。やっぱり神と似たものとなってその必然を探し出そうとしているのだろうか・・・。

生物を機械と捉えると効率を追いかけるという考えしか生まれてこない。しかし、生命誌的な世界観を中心に据えるとあらゆる社会の底にある普遍的な価値が見えてくる。
著者はそれをもとに、「ライフステージ社会」というものを提唱した。
「ライフ・シフト」と「里山資本主義」をミックスしたような考え方のようだが、著者は大平内閣時代、実際に「田園都市構想」というものの中で実際にブレーンとして提案し、小渕内閣でも同じような構想が提案されたが、両内閣とも総理の急死でこの構想が消えてしまった。
多分、お金ですべてを計るのではない社会の実現というところであったのだと思うが、僕も、必要じゃないものを売りつけないし買わない、そんな社会で一度暮らしてみたかった。

著者は最後の章で生命誌を「曼荼羅」に例える。
これには納得させられた。密教の曼荼羅は中心に大日如来がいて、周囲の如来、菩薩たちはそれぞれが関係しあって全体世界を作り上げている。著者が作った生命誌の曼荼羅は、中心に受精卵がある。受精卵はすべての生命の根幹でありすべての細胞は受精卵と同じDNAを持ちながら異なる器官を作り、その生物たちが関係しあって世界を作っている。そのすべてが同じ遺伝子情報でつながっているというものだ。

最初は生命誌というものの考えというのがいまひとつよくわからなかったけれども、ライフステージ社会、生命誌曼荼羅というふたつの考え方を読んだ時に、著者の考えていることがおぼろげながらわかったような気がした。

そんな100冊目であった。
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加太沖釣行

2020年12月22日 | 2020釣り
場所:加太沖
条件:小潮 5:16干潮 12:35満潮
潮流:5:52 下り2.0ノット最強 9:07転流 12:51 上り2.6ノット最強
釣果:ハマチ1匹 カワハギ1匹

今日も禁断の仕掛けに助けられた。この前、Tさんから、紀ノ川河口で大きなスズキやブリが釣れると教えてもらった。ブリとは相当な大物だ。この釣り方に詳しいのは、以前に高仕掛け用のビニールを託してくれたMさんだとTさんから教えてもらっていたので、SNSを通してMさんから情報を教えてもらっていた。
そして、叔父さんの家での円卓会議でも同じような議題が議論されていて、これは間違いなく本物だ。加太へ向かう前に一度試してみようと水軒一文字周辺で仕掛けを下してみた。



本命ポイントは紀ノ川河口だが、加太への最短距離だとここになる。環境的にはそれほど変わることはないだろう。
すると、仕掛けをおろして間もなくアタリが出た。すわ、ブリかと思ったがそれほどは引かずハマチが上がってきた。この釣り方で大丈夫のようだ。
引き続き仕掛けを流したが、そんなに甘くなく1匹で終了。そのまま加太を目指したが結局、このハマチがボウズを逃れる救いとなった。

昨日は冬至だったので今日の日の出は午前7時2分だ。少し明るくなってから出港しようとしたら午前6時半まで待たなければならない。港を出たところで釣りをしていたので加太への到着は午前7時半を回っていた。転流時刻まではカワハギを狙ってみて潮が上りに変わってから高仕掛けをやってみようと考えた。

いつものポイントに入ってみると、潮流はそれほど早くはないのに底をうまく取れない。風も大したことがないのにおかしい。錘が底を打った感じがわからなくて道糸だけがどんどん出てゆく。それだからか、エサも取られない。今までは簡単に釣れていたがとうとう運も尽きたかという感じだ。1時間ほどやってみたが埒が明かない。そして、魚探にはなにやら魚の反応が頻繁に出る。いっそのこと、ここで高仕掛けをやってみたら何か釣れるのではないかと素早く仕掛けを取り換えて投入。アタリはすぐに出た。小さなチャリコだ。



しかし、こんなに小さければダメだと思い、当初考えていたとおり、潮が速くなるまでは大和堆ポイントでと移動したけれども、ここにここに留まっていたほうがチャンスはあったのかもしれない。
大和堆ポイントでは潮が上りになる時間くらいからかなりの船が集まり始めていた。



期待を込めて僕もその船団に加わったがアタリは1回だけ。鉤には掛かったがおそらくサゴシだったのだろう、竿が絞めこまれた直後にハリスが切れてしまった。その後はアタリが無くなったのでテッパンポイントへ移動。魚探には反応がなく、そのせいか、この海域には僕しかいない。ここで真鯛でも釣りあげればしてやったりというところだがそうは甘くない。そのままナカトシタに移動するも小潮のせいかほとんど潮が動かない。このままではハマチが1匹、加太の海域ではボウズだと思うと残りのゴカイでなんとかカワハギを釣らねばという気持ちが首を持ち上げてくる。
同じ場所で仕掛けを下してみるとアタリがある。2回目のアタリでなんとか1匹ゲット。型は大きい。
それに気をよくして朝一のポイントに移動するがすべてエサを取られてカワハギは終了。残った時間、ジノセトの船団に加わるがまったくアタリがなく、正午まで頑張ったがここで力が尽きてしまった。



約1週間ぶりの上天気であったが作戦の甘さがあだになった。あとで聞いたら、テッパンポイントで朝いちハマチとサバが釣れたそうだ。もちろん、僕がそこにいて同じように釣り上げることができたどうかというのはまったくの疑問だが、カワハギに押されて朝いちのチャンスを逃してしまったのかもしれない。

無意識のうちなのだろうが、どうもカワハギ中心に計画を立ててしまっているきらいがある。カワハギはあくまでも保険だ。食べると美味しくて、生き餌を使っているから確実性があるというところに引き込まれてしまっているようだ。(確かに今日の肝和えも絶品であった。)
年内に釣りに行ける回数は限られている。今度は高仕掛け一本で勝負に臨みたい。

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「NHKラジオ深夜便 絶望名言2 」読了

2020年12月17日 | 2020読書
頭木弘樹、 NHK〈ラジオ深夜便〉制作班 「NHKラジオ深夜便 絶望名言2 」読了

以前に読んだ、「絶望名言」の続編だ。「文豪たちの憂鬱語録」よりもこっちのほうがひとりひとりの人物について深く書き込まれているので共感を得やすい。

そして最初から僕の心の内を見透かされてしまったかのような名言が紹介されている。
その人物は中島敦だ。「山月記」という小説の作家だということしか知らないし、山月記の内容がどんなものかさえも知らないが、この作家は若いころから体が弱く、作家として名声を得たのはなくなる前の数か月だけであったそうだ。
そんな人物が心の奥底に抱えていた闇が、『臆病な自尊心と尊大な羞恥心』であった。中島敦は詩人を志してはいたが、はたしで自分がそれで大成することができるかどうかが不安であったために、誰かに師事したり、求めて詩友とまじわったりすることはなかった。それは、自ら努力をして失敗することで自尊心が傷つかいないように、あらかじめ失敗しそうなふうに自分を持って行くという行為であった。
何かをしようとしたとき、常にそういう気持ちがあったように思う。これをやってみてもうまくできることはないのだから最初からやらないでおこうと言い訳を作って結局やらない。いまではこういう心理行動を、セルフ・ハンディキャッピングと言うらしい。
だからたいした資格も取ることもなく、大きな仕事も成し遂げたことがなかった。ひとから見られると、それは“逃げている”と受け取られる。そう、いつも何かから逃げている人生だった。
それでも中島敦は死の直前、たくさんの傑作をこの世に残すわけだが、ぼくの方はというと、あと何年でここから逃げ出すことができるのか・・。そればかりを考えている。

次はベートーベンの名言が紹介されている。
ベートーベンは難聴で苦しむのであるが、偶然襲われた不幸に対してどんな気持ちで臨んだかそんなことが書かれている。「ハイリゲンシュタットの遺書」という書簡集が残されているそうだがそこにはベートーベンの様々な心の葛藤の跡が残っているそうだ。
偶然襲った不幸に対して人は必然を求めるものだが、ベートーベンはそうはしなかった。運命を乗り越えたいと思う一方で、『あきらめとは何と悲しい隠れ家だろう。』といいながら、希望に別れを告げる道を選ぶ。仏教では欲望を捨て去るためには諦観というものが必要と説くけれども、ベートーベンもそうした諦観を見つけることができたのか、その時期は「傑作の森の時代」と呼ばれ、「英雄」「運命」「田園」などの作品が生まれたときと一致する。
しかし、その諦めとはうらはらに、こんな言葉も残している。
『ああ、神様、歓喜の一日を私にお与えください。心の底から喜ぶということがもう、ずっとありません。』そういえば僕も心の底から喜んだことがないなと、ベートーベンでもそうなのだから仕方がないと思うわけだが、やはり、偉人は違う。自分の仕事に対しては、『自分が使命を感じている仕事を成しとげないでこの世を見捨ててはいけないように思われるのだ。』と言っている。やはり逃げの一手の僕とはまったくちがうのだと当たり前だが思ってしまうのだ。

その次は、向田邦子の名言が紹介されている。
向田邦子のドラマの脚本「家族熱」のなかに家族とは何なのかという問いかけがある。
『昔の暮し、すっかり忘れたつもりでいるでしょ。そうはいかないのよ。体の中に残ってるのよ。』別れた家族の思い出が無意識の中にこびりついていることを魚屋で買う切り身の数に見てしまうのであるが、著者とアシスタントはこんな会話をする。『家族っていう言葉はですね、あたたかとかぬくもりとか、かけがえのないものというふうにとらえられていまして、現実にそうでしょうけれども、しかし、うっとうしいもの、そこからのがれたいと思っている人もけっこういる。そういう存在でもありますね。家族というのは、なかなか一筋縄ではいかない。完全無欠の健康体というものがないように、完全な家庭というものもあるはずがない。』
きっとそれもそういうことなのかもしれないと思うのだ。家族って、何なのだろうと思わせられる。

また、“食べる”ということについて、別のドラマのこういうセリフを紹介している。
『じいちゃんは悲しかったのだ。生き残った人間は、生きなくてはならない。そのことが浅ましく口惜しかったのだ。』
どんなに苦しくても人は食べてしまう。食べなければ死ぬ。今でも奥さんは毎日弁当を持たせてくれるが、どんなにクズみたいな仕事をしていてもお昼になれば弁当を食べる。メシなんか食う資格があるのだろうかと思いながらも食べている。たしかに、浅ましく、口惜しいといつも思っているのだ。向田邦子の言っていることは正しい。

そしてゴッホ。
このひとは存命中にはまったく絵が売れずに苦労したというのだから、たしかに絶望のひとであったのかもしれない。
努力しても報われない自分を、『怠惰と性格の無気力、本性の下劣さなどからくるのらくら者』などではなく、『心の中では活力への大きな欲求にさいなまれながらもなにもしていない不本意なのらくら者』なのだと言っている。
ゴッホは、何をしても一所懸命になりすぎ、から回りするきらいがあったらしい。そして常に誰かを助けたいという気持ちを持ち続けていたという。そのひとつの手段として絵を描くことがあったそうだ。画家として活動したのは晩年の10年間だけ。それまでは伝道師をしたり、職を転々としていたらしい。

“炎の画家”と呼ばれているが、春に対する感情は、『春なのだ、しかし、なんと沢山な、沢山な人々が悲しげに歩いていることか。』であった。これも、内に秘めたるものはあるけれども、やりたくてもうまくできないという気持ちの現れであるというが、僕の春に対する毎年の感覚とよく似ている。
春は山菜やワカメ、チヌも大型が釣れるといううれしい季節なのだが、反面いつも憂鬱な気分を抱えている。なにか悪いことが起こる(人事異動を含めて・・)のはいつも春だという印象が大学受験を失敗したころからずっと続いているからだろう。
ゴッホの感じ方とはまったく違うとは思うのだが、春は何か暗いイメージがつきまとう。

何人かの著名人の絶望名言が紹介されているわけだが、絶望名言というよりも、これらすべては自分の望みをかなえるためのもがきの言葉であるように思える。すべてのひとたちは最後にはそれぞれの立ち位置で立派な業績をあげているではないか。
この人たちは、きっと、失望はしていても絶望はしていなかったのだと思う。絶えたものは生まれ変わることはないけれども失ったものはまた見つければいい。この本の登場人物はみんな、再びまたそれを見つけたのに違いない。

僕はどうだろうか。すでに見つけ直すための気力が枯渇してしまっている。『ため息をつくのは強制的な深呼吸である』そうだが、強制的に酸素を注入しても、再び燃え出すものは何も残っていないのだ・・。やはり絶望している・・。
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「文豪たちの憂鬱語録 」読了

2020年12月15日 | 2020読書
豊岡 昭彦、高見澤 秀/編集 「文豪たちの憂鬱語録 」読了

この本は、前向きにさせてくれる力強い名言とは真逆の、『文豪たちのいわば、「本音」ともいえる「憂鬱」、「絶望」。「悲哀」、「慟哭」などに満ちた言葉をすくい取ったもの』である。
『どんなにがんばってm、人生には失敗や挫折、災難はつきものだ。そんなときに「もっとがんばれ」とか「あきらめなければ道は開ける」とか言われても本人にとってはつらいだけということも多いだろう。がんばったからといって、解決できない問題があるのも人生なのだから。そんな残念な人生に必要なのは、じっと黙って傷ついた心に寄り添ってくれる言葉』なのである。

最初から太宰治のこんな文章が出てくる。
『生きてゆくから、叱らないでください。』
確かに苦悩と悲哀に満ちている。もう、そのあとにかけてあげる言葉が見つからないほどだ。
そのほか、芥川龍之介、石川啄木、島崎藤村、坂口安吾などの作品からネガティブな文章をピックアップしているのだが、一連の文章の中からそこだけ取り出してみても実際それがどんな意味で書かれたかということがわからない。そこが残念である。もっとそれそれの言葉を深く掘り下げて読み解いてほしかった。
宮沢賢治でさえ闇の部分があったのだということで童話の中から集められた言葉が並べられているが、これもやっぱり前後のつながりで違った意味を持っていたりもするのじゃないかと思うのである。

掲載されている大半の作家は若くして自殺したり薬に溺れたりはたまた女性で失敗したりした人たちだ。心の闇の中に闇を抱えていたの確かだろうがここまで破天荒に生きることができればそれはそれ本望であったのではないだろうか。
いっそそうしてやろうかと思ってもそこまで踏み込めない。当時とは生きてゆくのに必要な固定費が違いすぎる。ぼくの家なんか、携帯電話とインターネットのプロバイダに払うお金だけで毎月2万円近く払っている。破滅するにも先立つものがいるということだ。作家という仕事はそれなりに金回りがいいのだろうからそんなに家族に迷惑をかけなくてもひとり破滅できたのかもしれない。

それさえもできないそんな境遇が悲しい・・・。

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「和食はなぜ美味しい ― 日本列島の贈りもの 」読了

2020年12月14日 | 2020読書
巽好幸 「和食はなぜ美味しい ― 日本列島の贈りもの 」読了

日本列島の地形や地質がおいしい日本食を生み出したという内容の本だ。去年か一昨年、まったく同じような内容のテレビ番組をNHKで放送していて、この本が元になっており、番組の解説も著者がおこなっていたようだ。
この本に登場する地球物理学者は多分著者の分身なのであろうが、各地の名産品以外はくだらない食材だというような表現や、当然だが自分で獲ってくるわけでもなく、自分で調理をするわけでもないとこころが鼻持ちならなくて共感を得ないけれどもそれ以外はなかなか面白い内容だ。
いつもの通りで、テレビを見ても次の日にはその内容を忘れてしまっているのでまた新たな気持ちで読みたい。
しかし、大学の教授ともなると、こんなにグルメな生活が送れるのだなと思うとうらやましい。

まずは日本食の基礎になるだしの話からとなっている。日本食のだしというと昆布とかつおぶしだが、これにもわけがある。欧米では動物質の材料でスープを取るが、それは欧米の水質というのは硬水が多くて日本のそれは軟水が多いというところにあるという。
硬水はミネラルの成分が多いのだがそのなかのカルシウム分が動物の臭み成分である血液や脂と反応して取り除いてくれる。対して、ミネラルの少ない軟水が主な日本ではそれができないので臭みが残る。だから魚介類を使ってだしを取る。日本はもともと海産物が多い国だということもあるが、水質にも要因があるということだ。逆に、カルシウム分が多いと、昆布のアルギン酸と反応して表面に沈殿物ができ、水の吸収を妨げ、いいだしが取れないらしい。京都の水は超軟水らしく、京都が日本食のメッカになったというのもうなずけるとなる。
そして、その軟水を生むのが、急峻な日本の地形である。山から海まで一気に流れ落ちるので水がミネラル分を含有する時間がないので軟水になる。

その他、日本海のなりたちから富山のブリ、駿河湾の急峻な深海ではボタンエビなどが紹介されていた。しかし、やっぱり興味を引くのは瀬戸内海、それも淡路島、紀淡海峡辺りのなりたちに興味がある。

瀬戸内海と紀伊半島はこうして出来上がった。
紀伊半島、四国地方は1400万年前にここで起きた火山活動が収束し、地下に大きな花崗岩の塊が残ったことに始まる。花崗岩は地殻の中では軽い部類にはいるのでそれが浮き上がって隆起したという。それが陸地になった。岩が浮かび上がるということが想像ができない・・。この頃、フィリピン海プレートがユーラシアプレートに陥入をはじめ、その地殻の温度が高かったことで巨大な火山ができたらしい。その隆起した部分ともとからあった本州(本州は大陸、今の朝鮮半島の北の方から大陸から引きはがされてできたそうだ。その間にできたのが日本海ということになる。)に囲まれたところが瀬戸内海になった。
ちなみに、紀伊半島にはその頃、大峰山・大台ヶ原と熊野の2か所に火山がありそれが巨大なカルデラを形成したそうだ。地下にあった花崗岩の塊が隆起し、その周辺に今でも温泉地が点在している。温泉は当時の余熱で温まっているので火山がないのに紀伊半島には温泉があるのだ。
そして、瀬戸内海は、淡路島、小豆島などの島しょ部とその間に大きな灘と呼ばれる海域が交互に存在しているのが特徴だ。
その理由は、フィリピン海プレートは西南日本(中国、四国、九州地方)を乗せたユーラシアプレートの下に潜り込んでいっている。この方向が少し西に振れているため、ユーラシアプレートの断層面である中央構造線と南海トラフとの間の部分(四国の下の部分)、これが小さなプレートなって、中央構造線の北の部分を押すことになり、その北側が隆起と沈降を繰り返す。隆起した部分が淡路島や小豆島、しまなみ海道で、沈降した部分が大阪湾、播磨灘、燧(ひうち)灘である。
淡路島は急流を生み美味しい真鯛が育まれ、浅いところではタコやアナゴが獲れるということになる。
紀伊半島の北の方から徳島県にかけて帯のように三波川帯と呼ばれる地帯がある。これが泥の海底を作る。ここにできる変成岩は縞模様があり崩れやすいという特徴を持つ。これが泥の素になって淡路島の南側では泥底の海域ができる。だから沼島の南の方ではそこで美味しいハモが取れるのだ。ハモは泥底に穴を掘って潜むからこういう土質がいいそうだ。和歌山市内で家の塀や庭石によく使われている青石はまさにこれだ。だから、三波川帯に属する僕たちの港がある紀ノ川河口一帯も同じく泥底だ。これは紀ノ川が運んでくる泥かと思っていたら、もともとの地質がそうであったというのを初めて知った。ハモやアナゴは少ないがコウイカはきっとこういうところで釣れるのだ。

確かに、友ヶ島の岩肌を見ているとものすごい力を受けたような褶曲の地層が見られ、僕の港の回りはだだっ広い泥底が広がっているからまったく違う地勢といっていい。そして友ヶ島の島の色と、双子島の島の色は明らかに異なる。



そしてその境目こそが中央構造線なのである。
友ヶ島付近の海底は想像以上の起伏がある複雑な地形をしているが、これもフィリピン海プレートのなせる業だと思うと地球の息吹がものすごく身近になる。
この本には紹介されてはいないものの、その境目に当たる加太の海があんなに魚がたくさんいるというのも納得だ。
僕がホームグラウンドとしている海域にはふたつの異なった特徴を持つ地質が存在していたのだ。
もっと釣りの腕がよければその違いを利用してもっとたくさんの種類の魚を釣ることができるのだろうが、そこはまあ、この本には関係ない・・。

そのほか、様々な陸地の動き方が様々な地形を生み、そこに様々な生物が生息しそれが多彩な食文化を生んだのだという。それのすべてはプレートテクトニクスという地殻の移動がもたらした結果だ。そのプレートの動きを地球規模で見てみると、日本がある一帯はたくさんの地殻の切れ目があり、いろいろな方向に沈み込んでいったり浮き上がって行ったりしているという地球上でもまれにみる複雑な場所だ。
しかし、タケノコやサツマイモがその生育に適した土壌がこういう地球の活動で生み出されたというのは確かにわかるけれども、海産物については一部を除いてどれほどの部分が地殻の変動によっているのかというのは疑問に思うところもある。ただ、瀬戸内の魚やウナギなどは確かにこの地形がなければ生育環境が整わなかったかもしれないし急峻な深海はプレートの移動がもたらしたものだとおもうとやっぱり著者のいうことには確かな根拠があるのかもしれないと思うのがこの本の内容だ。





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