イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

加太沖釣行

2020年04月29日 | 2020釣り
場所:加太沖
条件:小潮 8:40満潮
潮流:6:04 下り1.3ノット最強 10:00転流
釣果:ハマチ 1匹 マアジ 3匹

今日まで3連休だ。しかし、週休4日だと本当に休みが多い。世間では家にいると退屈だというのが定説のようだが、僕は今のところそんなことがない。
僕は基本的にホームセンターとスーパーマーケットと100均が営業されていたら不便はない。おまけに和歌山市では県立図書館が貸し出しだけは通常通り続けてくれている。今日使おうとした黒い毛糸を探すのに近くの手芸用品店が休業していて不便したくらいだ。
しかし、そう思ってみると、ヒャッカテンという業界は人の生活には何の役にも立っていないということを実感する。

僕の奥さん曰く、あんたの生活はいつもと変わりがない・・。これは誉め言葉なのか、それとも呆れられてしまっているのか・・。
だから手持ち無沙汰になることもなく、昨日は山菜採りに行っていたし、おとといはいくつかのものを作っていた。

ひとつはいつも不便だと思っていた紀州釣り用のヌカ桶の足を作ってみた。クーラーの座面が高いのでダンゴを握る時にかなりかがまないといけない。これが結構つらいのだ。これも歳のせいだ。磯に乗り移る時邪魔になるので折り畳み式にしてみた。これを桶として使っているコンテナの側面にねじ止めすれば出来上がりというわけだ。



それと小舟で使っていたボートフックが折れてしまい、これも急いで作り直さないと着岸するときに不便だ。先っちょはまだまだ使えるので適当な柄になるものを探していた。柄の入る直径が小さいので細くて丈夫な棒が必要だ。アルミやステンレスの金属製の棒を考えたのだが錆や重さが気になる。これはきっとタモの柄が一番いいのではないかと考え釣具屋に行くと、中古で380円という値段で太めの釣竿があった。とりあえずこれを加工してやろうとしてレジに持っていくと、中が折れているというので100円にしてもらった。(消費税は取られたが・・)こんなことで喜んでいるくらいだからやっぱり僕は出世には縁がないのだろうとなんだか悲しくなる。



そして今年干した天草を煮出してみた。なんだか去年よりも少しもろくて透明感もない。採った場所は同じだが時期が少し早かった。そのせいなのか、干し方が悪かったのか、これも暖冬の影響なのか・・。これはもっと経験を積まなければわからない。




そして今日はいい天気。
潮が最強になる時刻が早いのでできるだけ早く出港したい。午前4時に家を出て4時半過ぎには出港の準備ができたが、すでに東の空はうっすらと明るくなっていた。

今日の課題はふたつ。ひとつはこの季節の定番、毛糸で粘ること。そしてもうひとつは苦手な下り潮を克服するため、あちこち行かずに1か所で粘り続けることだ。黒の毛糸がいいというのを聞いていたので手芸用品店をあちこち探していたというわけだ。



前回の下り潮では地の瀬戸周辺をやっていたけれども、今日はコイヅキからラピュタ前で粘ろうと決めていた。
加太に到着するころはまだ下り潮が速いので少しのあいだは大和堆ポイントでやってからと思い針路を決めていたけれども、その前方に船団ができていた。



記憶がないけれどもGPSにマーカーを入れていた場所だ。小さいけれどもシモリか漁礁があるところだ。船団はその上をピンポイントで狙っている。たしかにシモリのうえでは魚らしき反応がある。ほかの船をみてみると時たま小さなマアジを上げている。ここ1週間ほどはよく釣れていると聞いていたとおりだ。僕も早速高仕掛けを下すがアタリがない。操船が悪いか、仕掛けがマアジに合っていないか・・。
あまり密集したところもいやなのですぐに移動。
少しだけコイヅキで仕掛けを下し、今日もヒコーキを曳きながらラピュタ前へ。



僕が思っているのとはうらはらに全然船がいない。しかし、初心貫徹。今日はここで潮が緩くなるまで粘るのだ。ここは潮が速いときはまったく底を取れなくなるけれども、幸いにして今日の潮流は最強でも1.3ノット。底は取れている。
しかしアタリはない。ラピュタに近いところに行ってみたり少し深いところに行ってみたりしたけれどもダメだ。
そしていきなりアタリがあったのが午前8時半ごろ。水深50メートルくらいのところを流しているといきなりひったくるようなアタリがありハマチが上がってきた。仕掛けの一番上に付けた黒い毛糸に掛かっていた。やっぱり黒い毛糸もいいようだ。

そのころには僕の船の周りにはたくさんの船が集まってきていた。この辺りがやっぱりポイントのようだ。



その後も他の船の合間を縫って仕掛けを下し続ける。小さいながらもマアジが食ってくる。釣れた3匹はすべて仕掛けの下のほうに食っていた。相当下のほうに沈んでいるようだ。しかし、他の船はもっと数を上げているように見える。彼らはこのマアジを専門に狙って釣っているのだろうか。どうも高仕掛けでは不利のように思うがこんなに小さい魚をわざわざ仕掛けを変えてまでねらうというのもどうかと思うけれども、食べてみるとこれがかなり美味しい。みんな一所懸命狙うはずだ。しかし、僕にはどんな仕掛けで狙うのかという知識がない・・。10匹あれば超高級アジフライにすることができたのだが・・。
残念・・。
潮が止まり、まだ流れがあるであろうコイヅキを目指したがはやりほとんど動かず予定通り、午前10時に終了。

ニュースでは封鎖された海岸と同時に漁港にいっぱいいる釣り人の動画が映し出され、営業中のパチンコ屋に集まるギャンブラーの次くらいに批判をされているけれども、僕が釣りに行く場所は、港は無人。船の上も一人だけだ。



対して港の近くの護岸はこんな感じでやっぱりそこそこの人出だ。



だから感染しようにもできるはずがない。
だから世間に背を向けながら、釣りくらいやってもいいじゃないかとひとり心の中でこの不謹慎さに言い訳をするのである。


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山菜採り2回目

2020年04月28日 | Weblog
4月28日は生石山での山菜採りのベストの日と思っている。
標高の高い生石山ではワラビがやっと大きくなりコシアブラも少し紫がった葉っぱの軸を覗かせ、ヤマウドも少し地面から芽を出し見つけやすくなる頃だ。ゴールデンウイークに入るとドッと人が押し寄せるのでこの日がゆっくり採れる最後の日なのだ。
しかし、今年はどうも様子が変だ。この冬は暖冬だったが4月の中旬から気温がグッと下がった影響か山菜の生育具合が遅くなったようだ。
ワラビは前回の山行きからは大きくなっていたが、



今年見つけたコシアブラはまだプレミアムの一歩手前だ。この芽も連休中に刈り取られてしまうだろう。



山頂のコシアブラもひとつだけいい芽があったが他はまだまだ小さい。これらも連休中に刈り取られてしまうだろう。



ひまじんさんの庭にあるコシアブラもこの頃には食べ頃を迎えているけれどもやっぱり小さい。ひまじんさんも、「今年はおかしい。」とおっしゃっていた。

同じく今頃は大きなワラビが採れるはずの北の斜面では新芽が枯れてしまっている。



きっと突然訪れた低温にやられてしまったのだろう。

ヤマウドもまだ地面から芽を出していないので見つけるのが難しい。



それでも4時間ほどさまようとイタドリやフキを含めていいおみやげができた。

ここもコロナウイルスの影響で駐車場が閉鎖されていたのでできうるならば誰にも盗られずに連休を乗り越えてもらいたい。もうその頃にはコシアブラもヤマウドも大きくなりすぎて食べ頃を逃してしまっているけども他人に盗られるくらいなら誰にも盗られることなく来年のために活力を蓄えてもらいたいのだ。



全くのエゴではあるのだが、何年かに1回はそんな年もあっていいのではないかとも思うのである。
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「高野山」読了

2020年04月26日 | 2020読書
山本音也 「高野山」読了

タイトルだけを見て借りてみたのだが、タイムリーなことに明智光秀の本能寺の変をめぐる話であった。
そして、その裏には高野山がからんでいるというのがこの物語の大筋である。それには信長の高野攻めが大きくかかわっている。
あまり詳しく書いてしまうとこれから読もうとする人に申し訳ないのだが、ネットで調べてみると、「高野春秋編年輯録」では本能寺の変の直前から高野攻めが始まり、信長が死んだことにより高野山は助かったということになっている。史実かどうかはわからないらしいが、その結果は密教の加持祈祷の賜物であるというのが「高野春秋編年輯録」の書き方のようだ。小説でも密教の呪術と修験道を修めた刺客が登場する。
その棟梁は高野山の客僧、応其。高野山を守るため刺客に対しては信長の暗殺を指示し、古くから親交のあった明智光秀には信長に冷たくあしらわれていることを利用し謀反を勧める。秀吉にはそのことを事前に漏らし、光秀を謀反人として討ち取り天下を取ることをそそのかす。
暗殺には失敗したけれども応其からの逐一の情報のおかげで秀吉は素早く中国大返しに成功した。史実の裏にはこんなことがあったかもしれないという物語だ。

「軍師官兵衛」では黒田官兵衛が秀吉に天下取りをそそのかしたことになっていた。誰がどんなことを考えて行動していたかというのは様々なことを思いつけるから面白い。歴史小説を好んで読むほうではないけれどもたまたま手に取って読んでみると面白いものである。今年の大河ドラマでは光秀はどんな動機で謀反に思い至ったか、秀吉はどうして素早く行動できたのか、どうやって描かれるのだろう。ドラマはコロナウイルスがもとで撮影が延期になっているそうだからそもそも光秀は本能寺までたどり着けるのだろうか。

この物語では、明智光秀、織田信長、羽柴秀吉をそれぞれ「ミツヒデ」、「ノブナガ」、「ヒデヨシ」とカタカナの表記でまるで記号のような書き方をしている。作家の意図はどこにあるのだろうかと最後まで考えながら読んでいた。カタカナで書くことによってこの物語は架空の世界の物語であるということをことわりたかったのだろうか。それにしては応其上人という人は実在の人物らしいし、ほかにも信長に高野山に追放された佐久間信盛という実在の人物も登場する。ではほかに意図はあるのだろうか。
ノブナガについて、著者は冷徹、短気、恨み深い人物として表現している。そのパワハラに耐えられなかったのがミツヒデで、それを承知でうまく受け流したのがヒデヨシであったように物語を進める。
ヒデヨシの「上様の機嫌を窺うて粒々辛苦ただそれだけの生まれ性だったのよ。」というセリフにそれがよく表れている。パワハラ、理不尽と思える待遇、報われない努力、意にそぐわない左遷。こういうことを記号化することによっていつの時代でも、現代でもどこにでもありうる話だということを伝えているのだろうか。
だとしたら、昔はイチかバチか“謀反”によって逆転できる可能性があったけれども今はそんなことをしたら犯罪になってしまう。もっと生きづらい世界になってしまったということを伝えたかったのだろうか。前提には謀反を起こせるだけの実力と行動力を持っていなければなければならないけれども・・。
ただ、漢字で名前が出てくる佐久間信盛はカタカナの面々よりも長く生き延び、主人公の刺客のひとりと後年出会うことになる。
そうなると、長いものに巻かれずにさっさと逃げたほうが長く自由に生きられるということを言いたかったのだろうか。まるでアドラーの話のようだ。
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山菜採り1回目

2020年04月24日 | Weblog
4月の中旬から少し寒い日が続き、森に暮らすひまじんさんからも山菜の生育具合は例年よりも少し遅れていますとの便りが届いていたのだが、場所によってはコシアブラが採り頃になっていますよとのことだったのでそれを期待して生石山へ向かった。

いつものとおり夜明け前に家を出て山道を走る。去年は道中で鹿を見たので、今年は何か映るかもしれないとドライブレコーダーを購入してみた。僕の車のドライブレコーダーはあおり運転対策や事故の時の証拠のためというよりは運転中におこる何かおもしろいことの記録用なのである。
そして購入してからのはじめての山道、雉に遭遇した。ワラビを採っているときには谷の向こうの斜面に走り去ってゆく鹿の姿を見た。人の気配の少ない早朝に出かけていくから見ることのできる光景である。これも早起きは三文の得のひとつかもしれない。



山頂に到着するとやっぱり寒い。地面の下草にはうっすらと霜が降りているような感じだ。
そしてひまじんさんの話通りワラビはかなり小さい。



山頂のコシアブラもプレミアムな芽が一つあるだけでほかはちょっとだけ緑の先端を出しているにとどまっている。



もう少し日の当たっていそうなところを探そうと、王家の谷に行ってみた。今年も高原の山焼はやっていないようで、ススキは枯れたままになっているのだが、ここは刈り取りがされている。その上を歩いているとポツポツ大きなワラビを見つけることができる。しかし数はほんのわずかだ。
そこにあるいつも見つけるヤマウドの株は大きくなりすぎていた。少しの位置の違いで山菜の生育具合は大きな違いがあるようだ。



午前7時半ごろ、ひまじんさんから電話があって、山頂近くからすこし南に下ったあたりには必ずありますよという情報をもらった。
早速そちらに向かうと確かに最初に入った場所よりもかなり大きなワラビがある。そしてイタドリもいいものがあった。約10分ほどで一握りほどの量を採ることができた。



ススキの穂が残っているからではあるまいが、その先端にやたらと毛虫が止まっている。こんなにたくさんの毛虫を見るのははじめてだ。ぼくは毛虫と蜘蛛が大の苦手なのでこれには参った。これは暖冬の影響でもあるのだろうか。



その後ひまじんさんと合流し、ヤマウドのポイントへ移動。ここは北向きなのでヤマウドはまだまだ小さい。新芽は地上には顔を出していないので去年の枯れた茎を目当てに地面を掘る。うまく探り当てられると土の中には真っ白な若いヤマウドを見つけることができる。



これくらいのものを生で酢味噌で食べるのがヤマウドの醍醐味だ。
しかし、これを探すのがなかなか難しい。茎がその場所で倒れてくれていればすぐに見つかるのだが先客が先に場所を乱しているともうわからないのだ。結局僕は3株ほどしか採ることができなかった。それでは少ないだろうとひまじんさんの取った分と、自宅の庭で株分けして育てているぶんを持たせていただいた。

ひととおりポイントを捜索し、こんどはひまじんさんが新しく見つけたというコシアブラの木に案内をいただいた。
高原から少し下った場所にあるここの木は芽がほどよく大きくなっている。ひまじんさんが器用にロープをひっかけてくれて高いところにある枝を引き寄せてくれる。その間に僕と奥さんがホイホイと芽を摘む。
ことしもどっさり採らせていただいた。

家に帰って天ぷら、おひたし、酢味噌和えと山菜を堪能した。しかし、一番ありがかったのは、ひまじんさんからの、「新鮮な空気を満喫してください。」とおっしゃっていただく心遣いであったのだ。
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船底塗装

2020年04月23日 | Weblog
例年なら5月にやる船底塗装を休日が多い間にやってしまおうと大潮の今日、小船のほうをやってみた。

週休4日となるとほぼ各日に休日がやってくる。その間、釣りに行かない日にはいろいろやっていた。
包丁を研いだり、



ピーナッツの苗の出来具合を観察したり、(僕が栽培しているわけではないが・・)



小船のエンジンオイルを換えたり、



テングサの仕上げをしたり・・。



休みはいくらあっても足りないし、家でじっとなんかしていられない。大体、ひとり屋外にいるだけでは感染なんてまったく気にならない。
ある日の通勤電車はこんな感じ。帰りの電車はけっこう混んでいるがやっぱり感染なんてまったく気にならない。



世間の人はそうとうウイルスに警戒しているようだがあまりにもそれが小さすぎてなんだか実感がわかない。そんなことを思っていると僕も感染してしまうのだろうか。一番の危機はコンビニ店員をしていた頃だろうが、最終日から10日余り、今のところ呼吸器には問題がない。
港の渡船屋さんも今は書き入れ時の土日を休業にしているそうだ。ほとんどが大阪や奈良からの釣り客らしいから相当警戒している。同級生の船頭は奥さん手作りのマスクを船を出すたびに取り替えている。使い捨てのマスクをもう5日間も使いまわしをしている僕から見るとそこまで警戒せんでもいいのじゃないかと思うのだがどっちが正しいのだろうか?待合室にも客を入れてくれていないので進水の時間を待つ間は雑談もさせてもらえず、ひとり護岸の上で本を読んで待っていた。



前回は進水が午後4時頃になってしまったので今日は前回より1メートルほど後退した位置で干潮時刻を待った。スタートは午前8時40分。前回よりも40分遅い時間だ。潮の満ち引きを考えると約80分早く、午後2時ごろには進水できるはずだったが計算違いというかもともと計算能力がないのか、午後3時になってしまった。

確かに今日のタイドグラフを見てみると確かに3時くらいにやっと船のともが海水にひたるくらいの潮位だった。ちゃんとグラフを見ろよというところだ。



午前8時40分の小船はこんな感じ。



それから約2時間、船は完全に陸に揚がり、ちょうど干潮時刻を迎える頃にすべての作業が完了。



その時点の潮位はこんな感じだ。



それから家に帰って道具を片付け、午後2時過ぎに港へ到着。大きい方の船に燃料を給油して本を読みながら待つこと約50分。

しかし、これもコロナの影響というか、おかげというか、安くなった。1月にはリッター95円していた軽油が75円まで下がった。20リットル入れると400円お得だ。



潮位がこれくらいになったら舳先を持ち上げると重力に従って船が海面へと滑り出してゆく。



これで今日の作業は完了。少しだけ早く終わることができたがそれでも1日がかりだ。
この船にはできるだけお金をかけずに維持しようという方針があるのだが、“船をもつことは愛人を持つことと同じだ”という考えからいくと、小船のひとり言はこんな感じだろうか。
「私はいつも便利に扱われている日陰のような女なの・・どうして大きなお船とそんなに差をつけられるのかしら・・それでも私はイレグイ号からは離れることができないの・・」
ああ、可哀想だ・・。
5000円払ってきちんと上架してもらうとおそらく2時間くらいで作業を終えることができて、船体の錆取りもできたりするのだが、10万円もらったらちょっと奮発してあげようかしら。



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田辺湾釣行

2020年04月21日 | 2020釣り
場所:田辺湾 金谷
条件:大潮 5:09満潮 11:14干潮
釣果:チヌ 53センチ以下5匹(その他7匹リリース)、カスゴ、グレ各1匹

いろいろありすぎて、今年のチヌの乗っ込みに行くのはあきらめていたけれども、コロナショックのせいで休日が倍になったことで重くなりすぎていた腰を上げることができた。これも天の配剤だろうか、きっと神様が行ってこいと言ってくれているのだろう。
腰が重いから準備にも時間がかかる。3日ほど前から散在して置いている各種道具を揃え始めたら、ダンゴを投げる杓が見当たらない。僕は肩が弱いのでこれがなければ釣りにならない。どこを探しても見つからないので、前回、秋の釣行の際に置き忘れて帰ってきたに違いないとストックしていたパーツを集めて作らねばならなくなってしまった。僕はこんな時のためにというわけではないのだが、様々なパーツをストックしている。杓の頭は数種類の大きさのものを買ってあるし、柄は中古で買ったものや拾った釣竿を置いているので必要な長さと太さを切り出せる。グリップは袋竹で作れる。さて、拾った竿のガイドを外して柄を切り出そうとしたとき、洗った道具を乾かす場所を見ていないことに気づいた。案の定そこに置いたままになっていた。約5か月、そこに放りっぱなしになっていた。
これで事なきを得てすべての道具が揃った。去年はウキケースを探し回りと、僕はなんとも自堕落な人間だ。

去年よりも釣行時期が半月ほど遅くなったので出船が午前5時だ。今回はヌカの配合作業を餌屋さんでやろうと考えていたので少し早めの午前2時20分の出発にした。
時刻が早いせいか、これもコロナウイルスの影響か、高速道路はまったくスムーズで結局午前4時10分頃に到着してしまった。

船は予定通り午前5時に出船。ここはコロナショックとは全く無縁だ。大阪府からも越境して釣り客がやってきている。まあ、僕は県内の人間だから自粛要請にはあたるまいと勝手に解釈している。不要不急と言われても、行くと決めたら、チヌの乗っ込みは待ってくれない。これも急を要する案件なのだ。



昨日は相当な風で渡船屋は休業していて、今日の予報も北風が強いとなっていた。大潮なので本当は沖磯に渡って貝も捕りたいと思っていたけれども北風が強いと塔島はかなり釣りづらい。
結局、北風に強くて、3年前にそこそこ釣果のあった金谷を選んだ。
早朝はダンゴを放り込んでいたがまったく何のアタリもない。エサが残ったままなので多分仕掛けを回収しようとしたときのリアクションで交通事故のように食ってきたカスゴだけだ。
風も穏やかで沖磯に行けたのではないかと思いながらさらに1時間以上が経過した。やっとアタリがあったのは午前8時頃だった。40センチに満たない小さなチヌだが、これでとりあえずはボウズを免れた。しかし、乗っ込みにしてはサイズが小さすぎる。
それから1時間ほどが時合いだったようだ。立て続けに4匹を釣り上げた。

潮は引き潮だが、流れは沖から左に向かっている。磯の地形の関係か、ちょうど僕の釣り座の目の前に反転流ができて少し手前にダンゴを放り込むと右に流れる。ちょうどその境目に投げ込むとアタリが出るという感じだ。



それくらいから風が強くなってきた。やっぱり沖磯に行かなくて正解だった。



アタリはその後もポツポツとやってくる。水温が低いのか、昨日の荒れ模様のせいか、まったくエサ取りはない。アタるとチヌだ。

午前10時半頃、アクシデントが発生。インターラインの竿が詰まってしまった。なんでトップガイドを通り抜けた物体が竿の中で詰まるのか、この竿はおそらく20年くらい使っているけれども、こんなトラブルは初めてだ。
上から出ないのなら下から出さねばなるまいと尻栓を外して穂先を抜き出そうとしたけれども、本格的なトラブルはこの時からであった。
尻栓を外した時、手元からこぼれ落ち、コロコロと岩の割れ目に入りこんでしまった。風化が進んだ岩の割れ目は先のほうが見えないほど深い。すべてのものは一度転落し始めるとどこまでも落ちてゆくということを身をもって知らされることになるのである。そして、その異物を押し出してやろうと取り出したワイヤーもどうしたことか見当たらなくなってしまった。細いワイヤーといってもそこそこ長さがあるのだから見つからなくなるはずはないのだが、磯の表面をくまなく探しても見つからない。結局、このトラブル、トップガイドのねじを外してやればすぐに異物を取り出すことができるという簡単なものであった。それを理解することができず、尻栓とワイヤーの二つを失くす羽目になってしまった。
失くしたものは帰ってこない。なんともわが人生を見ているようではないか・・。情けない・・。

大体、こんなときはそのあとは意気消沈して投げやりになってグダグダになってしまうのであるけれども、今日の神様は僕には優しかった。30分ほどの釣竿との格闘の後には風が治まり仕掛けのなじみもよくなっていたのか、仕掛けを作り直して棚の調整をしたあとの1投目、アタリを合わすといままでにない引きだ。がっちり固めたドラグで竿がのされ、思わずベールを返して道糸を送り出した。大きい。浮き上がってきたチヌは間違いなく年なしだ。チヌという魚は“年なし”という先入観もあるだろうけれども、50センチを超えると一気に大きさ感が増す。



体高はいうに及ばす、厚みもすごく立派な魚体だ。久々の年なしチヌに巡り会えた。
その後もアタリはコンスタントに続く。今日は島には僕を含めて3人の釣り人がいたけれども、他のふたりはあまり竿を曲げていない。次々とチヌを釣り上げる僕を不思議そうに見ている。ちょっとだけ優越感に浸れるのだ。まあ、腕の差ではなく、ポイント選びだけの問題ではあるのだが・・・。

これだけ釣るとクーラーに収まりきらずに全部は持って帰れない。それに帰宅も遅くなるので捌くのも大変で、僕はおいしい魚だと思っているのだが世間ではあまり好まれないので近所に配るのも憚られる。
不本意だが、釣った魚の何匹かをリリースしなければならない。それを前提にチヌ鉤5号を使いなるべく飲み込まれないようにして、鉤を取り出せた魚はリリースしていたのだが、それでも魚は増えてゆく。スカリの大きさも僕の腕前のほうが勝ってしまったようだ。
逡巡はしたけれども、鉤を飲み込んだ魚もリリースすることにした。長くは生きられないかもしれないが、僕にナイフで頭をグリグリやられて殺されるよりもましだろうし、産卵期真っただ中だからひょっとしたら子孫を残すことができるかもしれない。また運よく鉤が外れて長生きできるかもしれない。
これはまったくの僕のエゴである。残酷な話だ。これでは神様の福音も何もあったものではない。
魚が釣れるのはうれしいが、何事もほどほどがよいということである。


魔法の白い粉について、今回はじめてオキアミにふりかけてみたけれども、効果のほどはほぼ確認できなかった。ふりかけなくても釣れるしふりかけても釣れた。エサ取りの具合も変わらずなのでこれはやっぱり料理に使っていたほうがいいのかもしれない・・。



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「地球は特別な惑星か? 地球外生命に迫る系外惑星の科学」読了

2020年04月20日 | 2020読書
成田憲保 「地球は特別な惑星か? 地球外生命に迫る系外惑星の科学」読了

NHK BSに、「コズミックフロント」というテレビ番組がある。そこでも何回か取り上げられていたけれども、惑星系というのは、地球がある太陽系だけでなく、ほかの恒星にもある。そういう惑星のことを「系外惑星」という。観測精度があがってきてそれらを見つけることができるようになってきた。
この本は、そういう系外惑星についての話だ。
はるかかなたにあって、むちゃくちゃ小さくておまけに自分で光っていない星をよくぞ見つけることができるものだと思う。人間の能力というのはすごい。

まずは発見方法だが、それには系外惑星を直接観測する直接法と様々な観測データから存在を確かめる間接法というものがある。
直接法とは、恒星の光っている部分を隠して、恒星の光を反射しながら周りを回っている惑星を観測するものだ。これには恒星を隠す「コロナグラフ」、大気による画像の乱れを補正するための「補償工学」というものを駆使しておこなわれる。あまりにも小さい星はさすがに見ることができず、木星くらいのかなり大きな惑星しかみつけることができないらしい。

間接法には4種類の観測方法がある。
アストロメトリ法は、恒星の位置の変化を観測するものだ。惑星にも引力があり、その影響で恒星も揺さぶられる。そこにできるわずかな位置の変化を観測して惑星の存在を確かめるものだ。
視線速度法とは、光のドップラー効果を観測する。惑星の引力に引かれて恒星が動くと地球に届く恒星の光にドップラー効果の影響が出る。それを観測する。
トランジット法とは、恒星の前を惑星が通過すると恒星の光が遮られることでわずかだが暗くなる。その暗くなり加減を観測して惑星の大きさやいくつあるかなどを観測する。
マイクロレンズ法は重力レンズの効果を利用する。観測したい恒星の真後ろにもうひとつ恒星があると重力レンズの効果で見えないはずの恒星が見えるのだが、惑星が存在する場合とない場合で見え方が異なる。
それぞれ一長一短があり、アストロメトリ法は主星から遠い重い星を見つけることができ、公転周期、軌道、質量がわかる。視線速度法は主星のそばにある重い星を見つけやすい。トランジット法は惑星の半径を測定できる唯一の方法である。マイクロレンズ法はスノーライン(水が凍る境目)付近の惑星を見つけやすい。

太陽系の星の並びは、内側に地球や火星のような岩石惑星が並び、その外側に木星や土星の岩石惑星、その外側にもう少し小さいガス惑星が並んでいる。これは太陽に近い内側の岩石惑星は大気のほとんどを太陽風で吹き飛ばされ、木星や土星はそれがなかったので惑星の種の周りに多くのガスを引き寄せることができた。それより外の海王星や天王星は原料となるガスが木星と土星に取られてしまってあまり大きくなれなかった。
惑星が大きくなれるかどうかはスノーラインの内側か外側かどちらで惑星の種ができたかどうかで決まる。氷があるところでは惑星の材料がたくさんあるということで大きくなれる。地球の10倍くらいまで大きくなれたら周りのガスを引き寄せて巨大ガス惑星に成長できるそうだ。
これは京都モデルと呼ばれ、日本人が考えたモデルだ。どの星でも大体こんな並びだと思われていたけれども観測結果からどうもそうではないということがわかってきた。
他の星系では、木星クラスの巨大な惑星が主星のすぐそばの軌道にあったりする。これは他の惑星とともに重力の影響を及ぼしあうことが原因だが、コズミックフロントでは太陽系でも木星はかつてはもっと内側の軌道を回っていたけれども、徐々に今の軌道まで移動したというようなことを言っていた。その過程で地球に害を及ぼすような隕石のもとになる小惑星を蹴散らし、大量絶滅につながるような隕石の衝突が少なかったそうだ。といっても、6500万年前の隕石衝突のようにないこともないのが宇宙である。

しかし、どれも光の点にしか見えないあまりにも遠い向こうの現象である。恒星の位置が変化するといっても、写真に撮ったとき、1ミクロンほどの動きくらいのものらしい。そんなものをよく観測できるなというのと、そもそも、そんなものを観測しようという気になったというのがすごいと思うのだ。そして、そんなことを知りたいと思う気持ちというのは人間の本能なのだろうか。
そして、精密な観測をしようとするとひとつのプロジェクトで数千億から1兆円規模の予算が必要らしい。
現在見つかっている、ハビタブルゾーン(水が液体でいられる範囲。内側だと温度が高すぎて気体に、低すぎると氷になる。生物が存在するためには水が液体でいられる環境が必須である。)に岩石惑星がありそうないちばん近い恒星系でも地球から40光年はなれているそうだ。(それは、トラピスト1と呼ばれ、ハビタブルゾーンに3個の惑星が存在し、合計7個あるそうだ。)
現在、一番地球に環境が似ているかもしれない系外惑星はケプラー452bという惑星で、1400光年も離れているそうだ(大きさは地球の1.6倍 公転周期は385日)
惑星が反射している光の成分を分析することで、大気があるかどうか、そしてその大気の成分まで知ることもできるらしい。酸素があるかどうかも。
多分、そういうことを知ったからといって、それを実際に見に行くというのは不可能に近い。それとも、遠い将来ではあるけれども、人間はそんな遠いところまで行くことができる技術力を獲得するのだろうか。
そしてその目的はやはり単なる知的欲求を超えて将来の移住先を見つけるための無意識な行動なのだろうか。しかし、技術が確立されたとしても、経済的な問題、人間の生物としての寿命を超えることはできるのだろうか。超時空要塞マクロスを作るにはいったいどれくらいのお金が要るのだろうか。ひょっとしたら世界中のGDPをすべてつぎ込んでも無理なんじゃないだろうか。もし、建造できたとして、地球が存亡の危機に陥った時、それに誰が乗るのかということころでもめにもめて出発前に大戦争が起こるのではないだろうか。
そして、ワープ航法はどうも物理的には実現が非常に無理そうだから40光年の旅といえば下手をすると数千年の旅になる。何世代も引き継いでの旅だ。ウイルス1個で右往左往する人類にそんな旅ができるのだろうか。
また、そんな星を見つけられたとして、先住生物がいたら、それらを駆逐して移り住むのだろうか。それが知的生物だったとしたらそこでも戦争ということになる。そんなことが許されるのだろうか。

これから先の系外惑星の捜索は宇宙に望遠鏡を打ち上げて赤色矮星という温度が低くて目立たない星を中心に探る計画だそうだ。そういう星は地球からもっと近いところにあり、岩石惑星を伴っている可能性も高いらしい。
ひょっとしたらそこまでは数十年で行けるようになるのかもしれない。しかし、その世界は薄暗くて赤い光線で満たされている世界らしい。
系外惑星がはじめて見つかったのが1995年、それからたった20数年でここまで観測技術が進歩したのだから十分高速で宇宙旅行をする技術も見つかるのかもしれない。特にやんごとなき人でなくても宇宙を旅する時代に生きることができたなら、一度はそんな世界を肉眼で見てみたいとは思うけれども、なんだかそんなところでは暮らしたくはないなと思うのである。

ちょっとしたトリビアであるが、こういった惑星の名前はどうやって付けられるかというと、主星には見つけた望遠鏡の名前の次に順番がつけられ、惑星は見つかった順にbからアルファベットが振られるらしい。だからaという名前の付く惑星は存在しないことになる。
トラピスト1はチリのトラピスト望遠鏡が最初に見つけた恒星系だからトラピスト1で、ケプラー452bはケプラー宇宙望遠鏡が452番目に見つけた恒星系で最初に見つけられた惑星ということになる。
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「困ったときは、トイレにかけこめ! アドラーが教える こころのクセのリセット術」読了

2020年04月17日 | 2020読書
星一郎 「困ったときは、トイレにかけこめ! アドラーが教える こころのクセのリセット術」読了

今のモヤモヤをなんとかうっちゃる方法はないものかと、あらためてアドラー心理学の本を探してみた。
この本は最初の1章がアドラー心理学の基本的な解説に使われ、第2章は読者(何かの連載だったようだ)からの悩みに答えるという形式でアドラー心理学をさらに具体的に解説している。第3章はその悩みを、「心のクセ」と表現して克服する方法を提案している。

アドラー心理学の構成をひとつひとつみてみると以下のようなものになる。
①認知論
 人間の知覚はあくまでも個人の主観によるものであり、同じ境遇におかれても、それをピンチと捉えるかチャンスと捉えるかは人によって異なる。
②ライフスタイル
 人生の目的や目標に向かう、人それぞれのパターンのことをライフスタイルという言葉で表現する。その人の考え方や感情、信念、心のクセが反映される。えてして子供の時の体験がこれを決める。
③目的論
 行動の理由は原因があるのではなく、何か目的があるからその行動をするのだと考える。原因があると考えると解決するのが難しいが、目的があると考えると解決策をみつけやすい。アドラーの心理学では「なぜ?」を考えるのではなく、「どうしたら?」ということを重視する。
「ハッピーな心」で過ごすためには、「原因を追究しないこと」というのがアドラー心理学の重要な考え方である。
また、感情の目的は、相手にこちらのメッセージを伝え、相手の行動に影響を与えることである。典型的なものは「怒り」であるが、怒りを通じて相手を支配し、強制的に自分に従わせようとするものである。
まずは悩んでいること、困っていること、怒りの元になっているものを相手(ヒト)のせいと考えるのではなく、コトの問題と捉え、そのコトを改善するために行動することが重要である。
④対人関係論
 人のあらゆる行動はその時発生している対人間の課題や問題を解決するために行われる。
 対人関係にはa.師匠と弟子の関係、b.教師と生徒の関係、c.友達の関係の3種類がある。
対人関係ではcの関係がのぞましい。それは人と人との関係は対等であるべきで、a、bの関係では支配関係となってしまう。
すべての悩みはこのなかのどれかである。
 「人は人間関係からは逃れることはできない。その中で成長するしかない。」これがアドラー心理学の中心をなすものである。
⑤共同体感覚
 人は、共同体の中でしか生きることができない。ひとりだけでは生きてゆくことはできない。そのなかで幸福感、満足感を得られる時というのは、ほかのひとのために何かができている、何かの役割をはたしていると思える時である。
ライフタスクにはa.愛のタスク、b.交友のタスク、c.仕事のタスクがある。それぞれ、家族の関係、学校、職場での関係、生きてゆくうえでの生産活動とどう向き合ってゆくかということである。その中でも「交友のタスク」が一番重要であるというのがアドラー心理学の考えである。
これを阻害するのは、「人目を気にする」ことであるという。相手が自分をどう見ているかが気になってスムーズな会話ができなくなる。健全な人間関係は「自己肯定感」があって初めて実現される。自己肯定感というのは、嫌なことがあったり失敗したりしたときに、「大丈夫、なんとかなる。」と自分を勇気づける感覚のことである。
⑥全体論
人間は体と心がセットで一つの個人を形成している。その人のしたいことは行動として現れたことがすべてであり体も心も同じ方向を向いている。
⑦自己決定主義
 人生は小さな決断の積み重ねである。自分は何もできない人間だと思っていてもなんらかの決断を繰り返している。それを思って自己肯定感を持てばよい。
自分自身を変えられないと悩む人は自分自身を変えないという決定をしているのかもしれない。

この本の最初の出だしが、人事異動があって環境が変わり、それに対してポジティブな感情と、ネガティブな感情を持った二人の人が認知論の説明のために例として挙げられている。
ひとりは新しい経験と知識を得ることができると考え、ひとりは今まで努力してきたことが全く認められておらず、評価もしてもらえていないと考える。

人事異動の理由なんて誰に聞いてもわからない。だれかのせいにしても今の環境は変えられない。というのは確かなことだ。それに対してクヨクヨしても仕方がない。
それならアドラーが言うように、『悩んだ時はヒト(心)とコト(出来事)に分割してものごとを考える。コトが問題なのであって人としての価値が下がるものではない。』と考えればどんな仕事をさせられようともあっけらかんとしていられるようなものだけれども、それの域にまで達するまではどれだけの時間を要するのだろうか。
悩んだときは、少しだけ普段の行動を変えるだけで気分が変わる時がある。トイレに駆け込むだけでも何かが変わるというのが著者の考えだ。
悩みなんて次から次へと湧いてくる。それを全部自分は悪くない、きっと解決法があるから大丈夫、なんとかなると言ってのけるのは難しい。
人の目も気にするなと言われても、さすがにコンビニの店員の服を着ている姿を同僚には見られたくないというのは誰に聞いてももっともだとなるのではないだろうか。
幸いにして、役職を離れると人間関係で悩むことはほとんどない。(メールも来ないが・・)自分にあてがわれたことを淡々とやるだけである。ただ、共同体感覚というものはまったく感じない。人の役に立って幸福感を得られるということもない。なんだか無味乾燥としている。イライラ、クヨクヨすることもないけれどもやりがいもない。というのが実感だ。
こんなことを考えてしまうのは、僕も自分が思っているほど無気力ではなく、目的論的に考えると意外とやりがいを求めているのかもしれない。そう、もうちょっとだけやりがいのある仕事をさせてくれ。というのが実感だ。
一方では、まあ、このご時世、こんなことをしているだけで給料をもらえるのを幸せと思わなければならないのかもしれない。(なんといっても僕は多分、日本で一番時給の高いコンビニの店員であったのだから)あと4年、ここで何とかやりがいを見つけたいものだ。
しかし、オークンの法則というものがあって、「成長率が悪化すれば、失業率は上がる」という経験上当たり前といえるものだが、ここ2か月の世間の様子を見ていると、あと4年持つだろうかという不安にも駆られる。やっぱりなかなか、「大丈夫、なんとかなる。」とは思えないのである。



結局、僕の最大の不安は経済的なものに落ち着くということだろうか。ということは、経済的なこと以外は案外幸福だと思っているのかもしれない。

アドラーは、『人間は三日もあれば、人生を変えることができる。』と言ったそうだが、とてもじゃないが、三日ではみつけることはできそうにないのである。

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加太沖釣行

2020年04月16日 | 2020釣り
場所:加太沖
条件:小潮 3:10満潮
潮流:5:32転流 8:25 下り1.4ノット最強 11:51転流
釣果:ハマチ 1匹

コンビニ店員の仕事が突然終了になり、いきなり週休4日の体制になってしまった。
コンビニ店員の仕事が僕みたいな何の関係もない部署の人間に回ってきたのは、コロナショックでフランチャイズ事業の業績が悪くなってきたので人件費の削減をしなければならないという理由だと思っていたら、この事業は元々赤字が止まらないらしく、かなり前からウチの会社のラスボスが、「みんな暇そうにしてるんだから働きに行かせればいいじゃないか。」というようなことを言っていたらしい。あの人の言いそうなことだ。(僕は一時期、この人と仕事をしていたことがあるのだ。)
周りの人たちはそれを聞き流していたかどうか知らないがそのまま放置されていたのがいよいよコロナでやばいとなり、発作的に人狩りが始まったということらしい。しかし、当のコンビニも観覧車のそばにある水族館の店舗がとうの昔に休業していてそこの人員が余り(僕はこの店の要員だったらしい。)、こんどは24時間営業を短縮したものだからもっと人が余ってきたというのだから幹部の方々はほんの一足先も見通せないらしい。そして本来僕が所属している部署も出勤率を7割減らせという指示が出て、コンビニ店員をやらせている人間だけがずっと勤務した状態だと不公平が出るということで元へ戻されたということのようだ。

僕がとりあえずの状態で勤務させられていた、真田幸村が夏の陣で最後の陣を構えた場所にあるコンビニの店長は僕に同じ匂いを嗅ぎつけたのか、しきりに僕に愚痴をこぼしてくれた。同じ社員としてはかなり過酷な状況の中で仕事をしているようでこんな僕でも店長のことがかわいそうになってきた。僕も今回のことで自分のことを棄民だと思ったが彼も同じくのようだった。
もとから無理がある事業で、そのうえ現場を顧みない経営者がいて、そんな状況だから業績が上がるはずはないというのは間違いがない。
まあ、この話を聞いてウチの会社らしいと改めて思った。行動が発作的であるということと上層部は現場をまったく見ていないというは本当に昔から変わっていない。ほかの会社はどうなのかしらといつも思うのである。

ということで今日も休日になってしまったので加太へ行ってみた。
今日は下弦の月。



潮はあまり動かず、おまけに僕の苦手な下り潮だ。
血の色をした朝日が今日の釣果を予告しているようだ。



ラピュタ前に行くか、非武装ポイントに行くかと迷ったが、やっぱり釣りをしやすい非武装ポイント付近を目指した。



潮は思ったよりもしっかり流れているがスラッジがすごい。



こんな日は釣れないというのが僕の経験則だ。しかし、魚探にはかなり反応が出ている。



でもアタリがない。春以降、ずっとこんな感じだ。
ポイント付近をあちこち移動を繰り返しているとポイントの一番北あたりで少しスラッジが薄くなってきた。
潮が最強になる時刻を少し過ぎた午前8時40分頃、アタリが出た。これは間違いなく真鯛だ。少し強めのドラグが走ったところをみるとフッキングしているとみて竿を持つ体勢を変えたとたんに軽くなってしまった。残念。バラシだ。こんな日に貴重なアタリをバラすなんてやっぱり血の色の朝日の予感のとおりだ。その後はまったくアタリがない。
潮は少しづつ緩くなっていくはずだが仕掛けがうまく安定してくれない。少し吹いてきた北風のせいか、道糸だけがどんどん流れていく。そんな感じなのでもう嫌になってきて終了。

帰り道、ジノセト付近から今日もヒコーキを流してみた。
1回だけアタリがあってなんとかボウズを逃れたが、実質はボウズの1日であった。


コロナウイルスの影響で大型小売店はほとんど休業状態で営業しているところも閑古鳥が鳴いているようだが、食品スーパーは学校や会社が休みで逆に盛況らしい。そのせいか、いつもはそこそこある半額の残り物のパンがほとんど残っていない。



休みが多くなるのはありがたいが、これはこれで困りものだ。




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「免疫、その驚異のメカニズム―人体と社会の危機管理 」読了

2020年04月13日 | 2020読書
谷口克 「免疫、その驚異のメカニズム―人体と社会の危機管理 」読了

このご時世なので免疫に関する本を読んでみた。
今までにも何冊か免疫の本を読んだがやっぱりよくわからない。これはかなり複雑なシステムだ。
人間の免疫は約1兆通りもの異物に対応しているそうだ。ひとつの異物に対してひとつの免疫が必要になるのでこれだけの数を揃えておかないと命を保てない。著者はこれだけの種類があれば地球上はおろか、宇宙からやってくる脅威にも対抗できるというけれども、今回のコロナウイルスには世界中が対応できなくなってしまっているのだから自然界はもっと脅威に満ちているということだろうか・・。
この異物には有機物だけではなく、無機物にも対応しているそうだ。金属アレルギーのような反応も、金属分子と結合したタンパク質に反応して起こるらしい。
人間は約60兆個の細胞でできているそうだが、その60分の1が免疫のために使われているということになる。いやいや、まさか1兆の異物に対して1個だけの免疫細胞が対応しているわけではないだろうからひょっとしたら半分以上の細胞が免疫にかかわっているのかもしれない。
それほど重要なものが免疫というのだろう。

免疫細胞は骨髄で作られる。免疫とは自己と非自己を明確に区別して非自己であるもの、すなわち自己に害を及ぼす可能性のあるものをことごとく排除しようとするものだが、骨髄を出た免疫細胞の卵はまだ自己と非自己を区別できない。それを教育するのは胸腺という臓器だ。フランス料理でいう、リードヴォーというところだ。
免疫細胞はここで自己を攻撃しそうな細胞を排除する。排除される細胞の数は実に95%もあるそうだ。ほとんどが廃棄される運命にある。
この胸腺は歳を取るにつれて小さくなる。ということは自己を攻撃しそうな免疫細胞が間違って体の中に出ていってしまう可能性ができてしまう。これが老化というものだ。
この本では60歳で半分くらいの大きさにまでなってしまうと書いているが、一説ではそのころには消滅してしまっているという話もある。
だから皮膚を攻撃したらしわになり、血管を攻撃したら動脈硬化になる。いっそのこと、胸腺の細胞を増殖させて移植したら若返ることができるんじゃないかと思うけれどもそんな話は聞いたことがないのできっとそういうわけではないのだろう。
そして胸腺という臓器は顎をもつ動物に特有の臓器だそうだ。魚にもある。ヤツメウナギのような無顎類には無い。これは顎を持つようになった動物はいろいろなものを食べるようになり体内に異物を取り込む可能性が高くなり、より強力な免疫システムが必要になったということらしい。しかし、魚の胸腺ってどこになるのだろう?大体、魚の胸ってどこなんだろうか・・。

その免疫細胞はT細胞とB細胞に分けられる。その役割分担は、T細胞は自己に由来する異物の排除、B細胞は非自己、バクテリアや細菌に対抗している。
免疫は非自己に対して排除するはずだが、“自己に由来する”とはどういうことか、それは例えば、ウイルスについて、新型コロナもそうだが、ウイルス自体は別に毒素を作り出して人間の体を攻撃するわけではない。免疫細胞がウイルスに感染した細胞を非自己と認識して免疫反応の攻撃が過剰になってしまうことが重篤な状態を引き起こすことが問題になるということだ。癌に対しても癌細胞の中には抗原があり、細胞が壊れることによってその抗原が体内に拡散し非自己と認識される。癌細胞も自己のはずだが、ここらへんが生物のうまくできているところなのだろう。

T細胞の免疫システムをもう少し詳しく書いてみるとこんな感じだ。
T細胞はそれ自体が異物を探知するわけではない。その前に樹状細胞というものがかかわってくる。まず、樹状細胞が異物(ウイルスや細菌)を食べる。食べられた異物はペプチドというアミノ酸が9個つながったものを細胞の中のMHC分子と結合させてT細胞に提示する。それを受け取ったT細胞がサイトカインを分泌し他のT細胞を活性化させて異物を積極的に攻撃できるようにする。
そんな数段階を経て免疫は発揮される。今、2週間我慢しろというのはこの期間が1週間ほどかかり、2週間経てばウイルスは消えているということらしい。

分子レベルで行われるこの作用、こんなに複雑なものが誰も設計図を書かずに出来上がっているというのがどう考えても不思議でならない。

この本は20年前に書かれたものなので当時はHIVウイルスが相当な脅威になっていたらしく、この話題にかなりのスペースを割いている。また、癌治療についても今、一番注目されているであろう免疫チェックポイント阻害剤についてはまったく書かれていない。たった20年でまったく新しい治療法が生まれてきたことになる。あと20年経てばどんなものが生まれてくるのだろうか。

最後の章では著者を含む三人の鼎談が掲載されている。免疫機能を人間の社会に当てはめて個人はどうあるべきかということが語られている。免疫というものは非自己をしっかり認識することによってはじめて自己を見つけることができる。だから樹状細胞が異物に晒されながらT細胞に免疫を作らせることになぞらえ、人、特に日本人はもっと他人、他国の文化、そういうものに触れることによって自己をしっかり持たなければならないと言う。
そうしないと多様化する世界の変化についてゆけなくなるというのだ。
何事からも逃げてきたわが身にとっては身につまされる。しかし、僕はそんな環境ではとうの昔に死に絶えていたのだとも思うのである。
ここらへんは20年後の今を的確に言い当てていると言えるのだろう。
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