イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

『地球に住めなくなる日: 「気候崩壊」の避けられない真実』読了

2023年10月29日 | 2023読書
デイビッド・ウォレス・ウェルズ/著 藤井 留美/訳 『地球に住めなくなる日: 「気候崩壊」の避けられない真実』読了

この本は図書館では自然科学の書架に並んでいたが、中身は社会科学のようなものだった。

地球温暖化という言葉が世間に知られ始めたのは31年前、国連で定められた「気候変動枠組条約」なのでその頃からだろうか。今年の夏も暑くて暑くて連日30度を軽く超えていたけれども、確かに、僕が小学生だったころには夏に気温が30度を超えると大ニュースという感じであったように思う。今では気温が30度を超えるのはあたり前になっているのを思うと確かに地球は、少なくとも日本は間違いなく温かくなっているのだと実感する。
加えて今年の夏は潮位が高かった。大潮近くなると水位はいつも港の護岸を越えていた。
ひょっとして北極海の氷が溶け始めているのではないかと思ってしまったりしたのである。

 

「気候変動枠組条約」で決定した「京都議定書」を受けた「パリ条約」では、『世界の平均気温上昇を産業革命前と比較して、2℃より充分低く抑え、1.5℃に抑える努力を追求すること』と決められたが、温暖化の原因となる二酸化炭素は目に見えない。どこで誰がどれだけ出しているかということも定かではないように思える。排出量を証券化して取引をしようなどという試みもあるようだがそんなことができるのだろうかと思える。
また、二酸化炭素の排出量が地球温暖化の本当の原因かどうかわからないというトランプ前大統領のような人もいる。

この本には地球温暖化が進むと、飢餓、都市の水没、山火事、感染症の蔓延、経済崩壊などが起こると書かれている。アメリカで出版されたのは2019年らしいのでコロナウイルスやハワイの山火事という事件が起こる前だが、なんとなくそれを予言しているようなところもある。
しかし、世界の経済発展はエネルギーを消費することのみで支えられている。いくらIT技術が進歩しようとそれは貢献していないらしい。産業革命当時から変わったことといえばエネルギー源が石炭から石油に変わっただけなのである。
右肩上がりの経済発展を望もうと思えば現時点ではひたすら石油を燃やすことしかない。
夢の核融合エネルギーも現状では35億ドルを投入してやっとヤカン数杯分の水を沸かす程度というのが現状だからやっぱり石油が頼りだ。ガンダムの世界のようにヘリウム3を木星から運んで核融合炉を稼働させるなどというのは夢のまた夢なのである。
グリーンエネルギーと呼ばれるものがあるが、多分これは現状維持かもしくは若干の経済後退を我慢しなければならないのだろうと僕は思っている。
それでは株価が上がらないので困る人がいっぱい出てくる。例えば、政治をやっている人たちも、「生活レベルが落ちるかもしれないけれども地球温暖化を食い止めて見せる。」と言って当選できる政治家はひとりもいないだろう。
投票する人がそう望まないだろうし、自分が生きている間はそんなにひどくはならないだろうと思っているのが大多数だろう。
僕もそのひとりだ。いくら長生きしてもあと20年だ。温暖化で地球に住めなくなる前に年金と貯金が無くなるほうが早いかもしれないのである。

だから、僕にとっての避けられない真実というのは、この本を読んでも僕の生活態度は変わることはないということなのである。

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紀ノ川河口~水軒沖釣行

2023年10月28日 | 2023釣り
場所:紀ノ川河口~水軒沖
条件:大潮5:33満潮
釣果:ボウズ

先週に続いて土曜日は荒れ模様だ。なんだか悪いローテーションに入ってしまったらしい。修理を終えた小船の試運転は絶対にやっておきたいので出港は無理かもしれないがとりあえず港に向かった。

風は思ったよりも吹いてはいない。これなら余裕で船を出せる。

エンジンを回してみると、これはまあ、不調の時からでも一発で始動するのだが、以前よりも甲高い音がして回転しはじめた。ちょっとアイドリングが高すぎるのではないかという感じだが、プロのチューニングだからこれはこれで信じておこう。
まずはタチウオを狙うべく紀ノ川河口方面へ。港に到着するのが遅れて午前5時半の出港になってしまった。すでに東の空は明るくなり始めている。



青岸の灯台の手前から流し始めるが、アタリはない。先週の状況からするとまだ釣れると思ったが、昨日の雨が悪いのか、それともすでにシーズンは過ぎ去ったか、まったくアタリはない。タチウオを狙いに来ている船も僕を含めて2艘のみであった。
今年はこれでタチウオは終了か・・。たしかに、あと三日で11月だ。タチウオが釣れなくなっても仕方がない。



エンジンは不機嫌になることもなく順調に回ってくれる。うまく修理が完了しているようである。今日は魚を取り込むことはなかったが、この分ならアイドリングを長く続けてもエンジンがストップすることはないだろう。

タチウオを早々に切り上げ、アオリイカのポイントへ。ここかから本格的にエンジンの回転を上げていくが、まずは音が変わった。例えていうなら、フェラーリのエンジンのような甲高い音だ。フェラーリというのはおこがましいので、ちょっとチューニングを加えたバイクのエンジンの音と言っておこうか。
出力はどうだろうか。そんなに変化はないような気もするが若干速度が上がったような気もする。
快適に海面を滑走したいところだが、一文字の切れ目を越えると波が高い。風がないのでなんとか走行ができるという感じだ。

前回、アオリイカを釣ったポイントに碇を下ろしてエギをキャストするがまったくアタリはない。



波が高いというのが悪いのか、これもすでにシーズンが過ぎ去ったか、すぐにいやになってしまって午前7時に終了。

まあ、今日は船外機の試運転のつもりだったのだからボウズでもなんとも思わないのである。

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「宇宙・0・無限大」読了

2023年10月27日 | 2023読書
谷口義明 「宇宙・0・無限大」読了

ものすごく読みやすい本だ。多分、凡人にはこんなことはわからないだろうということを前提にして書いているのだろう。かといって読者をバカにしているようなこともない。
そして、内容はもっとも素朴で根源的なものであるということが読みやすさと興味をそそるのだろう。
宇宙には『0(ぜロ)と無限大は存在するのか?』という疑問を解説している。
べつに、宇宙にこのふたつがあろうがなかろうが僕たちにはまったく何の関係も利害もないのだろうが、安易に使っているこのふたつの言葉の重さあらためて思い知らされる内容だ。
結論から書くと、この宇宙には0も無限大も存在しない。その根拠がいくつか述べられている。

まず、「0」が存在しない根拠からだ。
宇宙を動かしている力は四つある。重力、電磁気力、強い力、弱い力である。これらの力はすべて遠隔力である。接触力ではない。手のひらで壁を押したとき、手と壁の間の距離は0ではない。電磁気力で押しあっているのでその間隔は0になることはないのである。

絶対零度というものがある。摂氏マイナス273.15℃で、原子のエネルギーがゼロになり、普通は振動している原子がその運動を止めてしまうと言われる温度である。しかし、ミクロの世界では、位置、速度、エネルギー、時間などの物理量は常に揺らいでいる。観測した時点でなければそれぞれの値を確定できないという、不確定性原理というやつである。これがあるために原子などの粒子は静止することができないのである。これをゼロ点振動という。したがって、絶対零度も理論的には想像できても、この宇宙には実在しえないのである。

宇宙は、“無”の状態。すなわち、ゼロの状態からビッグバンによって誕生したと考えられるが、絶対零度の場合と同じ考え方で、“無”の状態というのは、すべての物理量が揺らいでいる状態であり、ある微小な幅を持っているとしか考えることができない。つまり、この宇宙の誕生の瞬間がいつであったかということは確定できないことになる。
この、宇宙の誕生と四つの力には密接な関係がある。この四つの力は、宇宙が生まれた瞬間にはひとつにまとまっていたものがほんの少し、1秒にも満たない時間の中で分かれていったという。10の-44乗秒後には重力と電磁気力、10の-36乗秒後には電磁気力と強い力、10の-11乗秒後には電磁気力と弱い力が分かれて、核子(電子や陽子)は10の-4条秒後に生まれたと考えられている。そのきっかけになったというのがその間におこった相転移というのである。
この四つの力を統一しようとするのが「大統一理論」である。
う~ん、わからない・・。

また、ゼロに似た言葉に、“瞬間”というものがあるが、これはどうだろう。瞬間を定義すると、「時間間隔がゼロになること」になるのだと思うが、ゼノンというひとが考えたパラドックス、「飛ぶ矢を、ある瞬間で見れば止まっている。止まっている矢を集めても、矢は飛ばない。」ということが証明できないことから、瞬間というものも存在はしないと考えることができる。ちなみに、ゼノンというひとは、「アキレスと亀」のパラドックスを提示したひとでもある。

次に「無限」は存在するかということであるが、無限の例として、宇宙の広さが考えられるが、これは“果てが見えるか見えないか”という意味で考えると無限ではない。宇宙は138億年前に誕生して以来膨張を続けているが、この膨張速度を考えると半径470億光年の広さまで広がっているという。相当大きいが無限の広さではないし、そもそも、われわれへ光の届く範囲は半径138億光年分しかないのでそこから先に宇宙が広がっていてもそれを見ることはできないのである。

無限の時間はどうか。素粒子の大統一理論が正しければ、陽子の寿命は10の34乗年だという。この時間が過ぎると、宇宙誕生の1の-4乗秒後に生まれた核子は崩壊して消えてしまうのである。だから、時間は無限に続くことはないと言える。
無限大というのは厄介なもので、どんなに物理量が小さな物でも、無限大を掛ければ無限大になってしまう。これを、「発散の困難」というそうだ。しかし、現実の世界ではその物理量が無限大になっているようには見えない。と、いうことで、現実と計算が矛盾してしまうことになる。
そんな中、無限大から無限大を引くという計算を考えてみると、この計算は破綻してしまう。(ゼロにはならなないらしい。)それを解消するために、このふたつの無限大を無限大とみなさないという考え方が出てきた。これを「繰り込み理論」といい、朝永振一郎がノーベル賞をもらった研究成果だそうだ。まったくわからない・・。
先に出てきた、「アキレスと亀」のパラドックスも無限大がないという証拠になっている。アキレスが亀に追いつけないというのは、時間を無限に分割できるという前提があるのだが、実際にはアキレスは簡単に亀を追い越してしまう。だからここでも無限大というものは無いという証拠になるのである。
ゼノンというひとはゼロと無限大のことばかり考えていたらしい。

最後に、「0」の不思議な計算を書いておく。
ゼロでの割り算をしてはいけないというのは小学生の時に習ったと思うのだが、それにはこんな理由がある。
5を0で割る計算をして、Aという値を得たとする。これは、
5÷0=A
で表される。そして、両辺に0を掛けてみる。
5÷0×0=A×0
と次のようになる。
5=0
5が0に等しいとなってしまうので有限な数を0で割ってはいけないというのである。
この本に説明はなかったが、有限な数を0で割ってはいけないが、有限じゃない数は0で割ってもいいのだろうか・・。
ということで、0を0で割る計算をしてみて、答えがBとなったとする。これを数式に表すと、
0÷0=B
となる。両辺に0を掛けてみる。
0÷0×0=B×0
0=0
となり、一見正しい計算に見えるが、Bはどんな数字でもよいとなってしまう。
これを数学では、「不定」というらしい。なんでもいいというのはダメらしい。
「何が食べたい?」「なんでもいい・・。」という会話は確かに不快だ。

ゼロの掛け算は何でもゼロになるというのは簡単に理解ができる。
しかし、ゼロの階乗は1になる。(0!=1)
なぜかはわからないが、高校時代に確かにこう習ったとうろ覚えの記憶がよみがえった。

きっと、どちらも人間が考えた概念だからこんなことがおこるのだろう。
どちらにしても数学がわからなくてもゼロと無限大は面白い。

著者は同じ新書版でもう1冊本を書いているそうだ。これもぜひ読んでみたいと思った。

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紀ノ川河口~加太沖釣行

2023年10月22日 | 2023釣り
場所:紀ノ川河口~加太沖
条件:小潮4:00干潮
潮流:5:57 下り2.2ノット最強 9:29転流
釣果:タチウオ2匹 カワハギ2匹 ハマチ1匹 真鯛1匹

昨日の土曜日は風が強くて釣りに出ることができなかった。1日しか釣りに出る機会がない中、小船のキャブレターのオーバーホールが終わったので運転してみたいとも思っているのだが、大きい方の船も船底塗装が終わったので加太にも行きたい。結局、加太への魅力が勝って大きい方の船で出ることにした。
しかし、修理代は思ったよりも高かった。



3時間の所要時間というのも、そんなにかかったのかなと思うし、試運転とプラグ交換にも工賃がかかっていたというのには驚いた。「1個500円くらいのものだからついでに換えとく?ついでに試運転もやっとくね。」って聞かれたのでキャブレターの取り付けのついでに部品代だけでやってくれるのだと思ってしまった。それなら自分でやればよかった。

1時間4000円の工賃だと、この人は8時間働いても32000円。毎日8時間の修理があるわけでもないだろうから必要経費を引くと月収としてはそれほどでもないのかもしれない。修理を依頼した時、「明日は雨だけど仕事ができた・・」みたいなことを言っていたので、僕はいいカモだったのだろう。18700円の修理代で700円を引いてくれたのはこの人のせめてもの良心だったのかもしれない。
腕はいいのかもしれないが、こういうことをやっていたら早晩廃業となってしまうだろう。すぐに動いてくれる感じの人だから頼もしい面もあるが、少しは警戒して付き合わなければならないと感じた。“すぐに動けるほど暇”、と言えるかもしれないが・・。

タチウオもそろそろ終盤だ。その最後を見届けるために今日も夜明け前に出港。



一段と寒くなって、今日はトレーナーとヤッケを着ての出港だ。それに合わせて日の出の時間も遅くなった。フェリーの出港が日の出の時間になっている。
いつものとおり、その頃にアタリが出始めた。しかし型は小さい。そして、仕掛けを入れている途中でアタってくる。これはシーズン最盛期の感じだ。やっぱり水温がまだまだ高いのだろうか。どちらにしても、こんなに小さくてはまったく話にならない。
多分、10匹くらいは掛かったがなんとか食べられそうなものを2匹だけ取り込み、最後にサゴシが掛かって加太へ向かった。



今日の予定は、カワハギを試してから高仕掛けでハマチか真鯛をと考えていた。
カワハギ仕掛けは、前回検証したように、自然にやさしい胴突き仕掛けを試してみる。
いつもの場所で仕掛けを下ろすが、アタリはない。



前回のようにエサ取りもない。仕掛けが悪いのかもしれないが、潮もほとんど流れていない。やっぱりこの仕掛けはダメかと思いながら転々と場所を移動してみる。最後にダメもとでもっと深いところを探ってみて終了しようと思ったが、これがよかった。水深40メートルのところでアタリがあった。20cmほどのカワハギだ。次にスレ掛かりで25cm。そして、エサが知らないうちに全部無くなったり、3本の枝素が全部食いちぎられてしまったりした。
アタリがわからないのと、合わせのタイミングもわからない。もっと練習が必要だが、無駄な殺生もなかった。(鉤を食いちぎっていった魚の安否は不明だが・・)これはこれでいいことなのである。

潮はどんどん緩くなってきたので少し上手、ジノセトの手前に移動。



ほんのわずか魚探には反応があるがアタリはない。もう少し流れのあるところに移動しようと考えて仕掛けを回収しているときに不意に大きなアタリがあった。かなり大きい。多分ハマチの大きいやつだ。周りには船がなかったのでゆっくりやり取りをして無事にタモ入れに成功。
この頃にはすでに潮は上り始めていたのでどこかに移動しようと思い、周りを見渡しながらどこがよいかと考えていると、ナカトシタにたくさんの船が見える。「オルバースのパラドックス」というものがあるが、これは空間が無限でなくてもおこるようで、ある特定の場所に船団ができていると錯覚してしまう。行ってみると広範囲にバラバラと点在しているだけであった。



しかし、魚探には少し反応が見える。試しに仕掛けを入れてみるとすぐにアタリがあった。痩せてはいるが40センチ足らずの真鯛であった。
今日はビニールに少し細工をしていたのだが、ハマチは細工をしたほう、真鯛は細工をしていないほうに喰ってきた。この細工も本当に効果を発揮しているのかどうかは怪しいがあと何度かは試してみたいと思う。
もう少し粘りたいとも思うが、完全に潮が止まってしまっているし、明日は会社に行かねばならない。魚も捌かねばならないのを考えるとこれ以上長くは居られないので、午前10時を前に終了とした。


港に戻って、ふと僕の隣の不動船のもうひとつ隣の船を見てみると、なんだか見たことのあるようなものがデッキの上に置かれていた。これは僕が友人のために作ってあげた神経締め用の器具だ。



この船もほとんど不動船状態だが、この友人の仲介で買い手が出てきたらしい。その餞別か粗品なのか知らないが、とにかく要らなくなったから処分してしまおうとしたのだろう。しかし、作った本人の目に付くところに放置をしておくというのはどうもデリカシーに欠けるような気がする。要らないのなら密かに捨ててしまうか、誰かにあげるのならこっそりそうしてほしかった。出来は悪いかもしれないが、それなりの時間をかけて作ったものだったのに・・。
そして、この船がいなくなると、隣の不動船はまったく支えを失ってしまうことになる。少し大きな台風や低気圧がやってくるとどうなるものかわからない。確実に巻き添えを喰らってしまうだろう。



それならいっそのこと、仲介などせずにこのままの形で置いていてくれたほうがましだったのに、余計なことをしてくれたものだと思う。反対側の隣の船は出て行ったはいいがそのロープを放置したままだ。



これは一体どういうことなんだろう・・。人のことは言えないが、みんな自分のことしか考えていないように見える。そんな人がぼくの両隣に集中しているというのは一体僕がどれだけ不運で不幸なのかと嘆いてしまう。
きっと、来年の台風シーズンが終わるころには僕のボートライフも終わっているのかもしれない。

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「近代民衆の記録 7 漁民」のうち、『魚の胎から生まれた男』読了

2023年10月19日 | 2023読書
岡本達明 「近代民衆の記録 7 漁民」のうち、『魚の胎から生まれた男』読了

菊版2段組み578ページもある本なのでなかなかすべてを読む勇気と根気がない。それなのにどうしてこの本を借りたかというと、この本に収録されている、「魚の胎から生まれた男」という作品を読みたかったからだ。

この本に登場する人が、スパンカーを発明した人だということを何かの本で知って、ぜひ一度読んでみたいと思った次第だ。ここに収録されているのはその中の一部抜粋して編集されたものだそうだ。52ページ分のボリュームがある。
この本の主人公(というか、語り部)は石橋宗吉という千葉県の夷隅(いすみ)地方というところに住む漁師である。日本でも1、2を争う水揚げ量で有名な勝浦漁港のそばである。この作品は石橋宗吉と高垣眸聞という作家との会話形式で書かれている。

ネットで石橋宗吉という人を調べてみると、『明治34(西暦1901)年7月27日生まれ。千葉県勝浦の網元弥惣兵衛(やそべえ)をつぐ。漁具や漁法の改良につとめ,1本の道糸に100本の擬餌鉤(ぎじばり)をつける「ハイカラ釣り」などを開発した。みずから「魚の胎(はら)から生まれた男」と称した。』と書かれていた。
漁業の技術については研究熱心な人だったらしく、日本全国から集まってくる漁師たちの漁法を学んで独自に改良を加えて、より効果のある漁法に作り上げてきたという。そして、それを特許も取らず、秘密にすることなく多くの人に広めたというのが石橋宗吉の功績だったということだ。黄綬褒章という勲章ももらっているそうである。まあ、ゼロから作り上げているというのではないというのはどうかとも思うが、世の中のほとんどのものが何かの模倣でもあるそうだからそれも仕方がない。

そして、その、スパンカーについてであるが、茨城県からやってきた20トンクラスの漁船が船尾に三角形の1枚帆を取り付けていたのを見て、もっと効果的な帆はないかと改良を試みた結果生まれたものだそうである。
船の釣りをする人ならスパンカーとは何かというのは当然知っているだろうが、知らない人もこのブログを読んでくれているのかもしれないのでちょっとだけ説明を書いておく。これがスパンカーというものだ。



この帆は、船の姿勢を安定させるために装備されている。この帆を立てることで船は、常に風上を向くようになる。これがないと、船は次第に舷から風を受けるようになりクルクル回り始めるのである。そうなってくると、長い仕掛けを使って魚を釣ることが難しくなる。スパンカーの無い船はエンジンをリバースに入れて風上に立てるような操作をするが船の姿勢はあまり安定しない。エンジンがなかった時代は、櫓の漕ぎ手を二人配して姿勢を保ったそうだ。
そんなことをしていると人手がかかって仕方がない。それを解消するための方法が茨城県の漁船が採用した三角帆だったのである。
ちなみに、スパンカーという名前は、西洋の帆船の船尾に取り付けられている三角形や台形の帆の名前だそうだ。くだんの茨城県の漁船は、この、西洋の帆船を参考にこの帆を開発したらしく、その名前が今でも使われているということだ。僕の父親なんかは、「艫帆(ともほ)」なんていう呼び方をしていたが・・。
石橋宗吉はこの帆をさらに改良し、2枚をV字型に配することによって風見鶏の原理で確実に船の向きを確実に風上に向けられるようにした。勝浦の測候所の風向計を見てひらめいたそうである。
ぼくはずっと外国語の名前がついているから、国外からもたらされたものだと思いながら、同時に、外国の漁港の映像を見ても日本の船のスパンカーをつけた船を見ることがないのでこれはどこから来たものだろうと思っていたのだが、これで謎が解けたという感じだ。
昭和の初めごろに発明されたというのだから、まだ100年も経っていない新しい技術だったのである。それが今ではほとんどの釣り船が同じ形のものを装備しているというのがすごいことである。

そのほかのエピソードについては、船の操船について、動力船のなかった時代、櫓を2丁取り付けた船で風が出てくると帆を張って船を走らせたという話などは、僕の父から聞いた話とまったく同じである。祖父と父も二人で櫓を漕いで、時には帆を張って田倉崎まで魚を獲りに行っていたらしい。こういうのも技術の交流が全国的におこなわれていたという証左だろう。
そして、そんな人たちに釣りの技が追いつけるはずがないと話を聞くたびに思ったものだ。海を知りつくしていないと、人力だけでそんな沖まで出てゆく勇気が湧いてこない。僕は90馬力のディーゼルエンジンをもってしてもいつも不安のなかで航海をしている・・。
船の維持についても、船底を焼いたりコールタールを塗ったりと、そういったことは僕が小学生のころでも雑賀崎や田ノ浦で見ることができたものだ。
そんなことを見たり聞いたりした世代というのは僕らくらいがきっと最後なのだろうなと、まあ、言い伝えるほどのことでもないがそういうことを知っているのだよとちょっと自慢もしたくなるし、僕の魚釣りはまったく垢抜けしないのはきっとそういう時代にあこがれを持っているからなのだろうなと納得もするのである。

その他、明治の終わりから戦後くらいまでの漁業事情やそこで暮らす人たちの生き方などが語られている。
伝説の漁師とも言われる人だから武勇伝ももっともなのだろうけれども、その辺は自慢しすぎで聞き手の側の作家もあまりにも持ち上げすぎではないだろうかと思えなくもないが、おそらく僕の祖父(父方の)も同じ時代を生きたひとであった。この人たちが味わった苦労と同じものを経験していたのかもしれないと思うと、なんだか他人の話ではないような気もしてくるのである。

夷隅地方と同じように、水軒の集落も半農半漁の集落であったというのはまったく同じだ。夷隅の地では嫁取りや入り婿で親戚関係を作ることで食料確保をしていたという。それも水軒とまったく同じだ。僕の父の妹は農家の叔父さんの家に嫁いで農家と漁師のつながりができた。これは夷隅や水軒だけでなく日本のどこでもそういったことで日本人は食べるものを確保してきたのだろう。網元からの搾取、地主からの搾取、仲買からの搾取に耐えながら生き延びてきたのである。叔父さんの家もかつては小作農で、戦後の農地解放でやっと自作農になれたのだというような話を聞いたことがある。
しかし、漁業に関しては、この時代のほうがはるかに魚は多かったという。漁業技術は現在に比べるとはるかに低いがそれをはるかに上回るほどの魚がいたというのだから、ある意味、うらやましい時代で、自分たちが食べてゆくくらいは楽に獲れたので搾取の中でも生き抜くことができたということだろう。
農業については栽培技術が高くなるほどに収量は増え、水軒に限って言うと地価が上がり土地は不動産としての価値がえらく上がってきて生活は楽というのを通り越してきたようである。しかし、漁業はというと、水軒浜の埋め立てと水質汚染が原因で漁師で生計を立てている人は皆無になった。漁業組合もすでに解散して久しい。
完全に負け組になったのだ。
我が一党はその負け組の一員であるのだが、ここで漁業が生活として成り立ってくれていたら、僕の人生もかなり変わったものになっていたのではないだろうかといつも残念に思うのである。そうは言っても、石橋宗吉のように創意工夫と情熱のかけらもないというのであれば僕自身は衰退するしかなかったのではないかというのは確かである。


以前、“自分のルーツは”ということを妄想したことがあったけれども漁業を生業としていた僕の一党は水軒の地で絶えてしまったのだろうかと、今の勤務先の顧客データベースをこっそり調べてみたことがあった。この会社は全国規模の会社なので同じ姓の人たちがどこに住んでいるのかということを国土全体のレベルで見ることができる。マツフサなんて相当特殊な名前だからその住所の分布を調べると意外とどこからどこへ行ったのかみたいなことがわかるのではないかと思った。
珍しい姓だから顧客名簿には20人程度しか出てこなかったが、そのうちの数人が千葉県の住所であった。そして和歌山県在住の人が圧倒的多数でもあった。
これはもう、妄想ではなく確信だが、この人たちの先祖(それもごく直近の)はきっと和歌山から渡っていった人たちではないだろうか。しかも僕の一族につながる人に違いない。
この作品にも書かれていたが、千葉の勝浦には全国から漁船が集まり、その中には紀州から来た人たちもいたというのだから我が一族の誰かも房総沖に魚を獲りにいってそのまま住み着いたひとがいたのだろうと考えてもあながち間違いではないだろう。
ご先祖さまの信州から紀州、房州への流転を考えると、半径10キロ以内でしか生きられない我が身が恥ずかしくなってくるのである・・。

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「超新星紀元」読了

2023年10月16日 | 2023読書
劉 慈欣/著 大森 望, 光吉 さくら, ワン チャイ/翻 「超新星紀元」読了

ヨハン・ホイジンガという歴史家は、人間のことをホモ・ルーデンス(遊ぶ人)と定義したが、このSF小説はそれを実践したらどうなるかというようなストーリーだった。

「遊ぶ人」の典型は子供である。太陽系から8光年の距離にある恒星が超新星爆発を起こした。未知の宇宙線が地球に降り注ぎ、人体細胞の染色体が破壊され、若くてDNAの自己修復能力をもった12歳以下の子供以外は1年に以内に死亡するということが分かった。
そして人類文明は子供たちに託され、“超新星紀元”が始まった。

というのがこの物語の基本設定である。


各国の指導者は子供であり、社会インフラを動かすのも子供である。まあ、そういった部分の描写というのはほとんどなく、“遊ぶ”ことしか生きる目的がない子供たちはどんな行動を起こしてゆくかというのが主なストーリーである。
やることは子供だが指導者たちの思考はなぜだか、達観していたり老成していたりでどうもピンと来ない。
果ては各国の軍事力を総動員して南極で戦争ゲームを始めてしまう。
そんなとんでもない世界だが、「後世の歴史家」が歴史書を残すことができるほど平和で文明として成熟した社会を築き上げ、エピローグを読むと、人類が月に移住することができるほどのテクノロジーも手にしている。
著者はこの物語に現代世界に対するアンチテーゼを込めているのかどうかはわからないが、大人の事情よりも子供の純粋な遊び心のほうが社会もテクノロジーも正しい方向に進化するのかもしれない。


ヨハン・ホイジンガは「遊ぶ」ということが人間を人間たらしめているのだということをこう説明している。
遊びは自由な行為であり、「ほんとのことではない」としてありきたりの生活の埒外にあると考えられる。にもかかわらず、それは遊ぶ人を完全にとりこにするが、だからといって何か物質的利益と結びつくわけでは全くなく、また他面、何かの効用を織り込まれているものでもない。それは自ら進んで限定した時間と空間の中で遂行され、一定の法則に従って秩序正しく進行し、しかも共同体的規範を作り出す。それは自らを好んで秘密で取り囲み、あるいは仮装をもってありきたりの世界とは別のものであることを強調する。
つまり、
① 自由な行為である
② 仮構の世界である
③ 場所的時間的限定性をもつ
④ 秩序を創造する
⑤ 秘密をもつ
これが遊びの5つの形式的特徴。さらに機能的特徴として「戦い(闘技)」と「演技」を挙げる。

「遊び」についてこんな風に考えてみたことはなかった。こうして定義されると「遊び」の概念がにわかに輪郭をあらわしはじめるが、確かに人は遊んでいるときが一番平和であり、斬新な発想も生まれてきそうな気がするのである。そういうことが小説の中にきちんと盛り込まれているのである。

しかし、こういう設定は著者独自のものではないらしい。過去には小松左京も子供たちだけの世界を書いているし、「蠅の王」という作品を書いたウイリアム・ゴールディングはのちにノーベル賞を受賞しているそうだ。これらの作品がどんなストーリーなのかは知らないが作家の想像力というのは果てがないようである。

著者の代表作は「三体」であるが、この小説は「三体」発表の30年前に書かれたものだそうだ。その頃の中国というと、天安門事件が起こる前、これからやっと驚異的な経済成長が始まるというときだった。
しかし、まったく古臭さを感じないというのが著者の先見性であるとも思う死し、SFとはこういうものだということを実感するのである。

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船底塗装

2023年10月14日 | Weblog
今日は大きい方の船の船底塗装だ。当初、来週19、20日に作業をするつもりで連休を取っていたのだが、先週の飲み会を企画した同僚が、僕が休みたいのでその日は出勤してくれなどと言ってきたのである。一応、先輩格の人だから反論もできずやむなく作業日を前倒しした。

気になるのは天気予報だが、台風15号の影響で天気が不安定だ。毎年この頃に船を上架しているが、確かに台風がよくやってくる。いつもうねりの中で帰投しているという印象だ。
当初の予報では雨が降ってくるのは夕方からであったが朝起きて予報を見てみると昼過ぎへと早まってきていた。いくつかのサイトを見てみてもどこも同じだ。間違いなく正午を過ぎた頃から降り始める。今日は時間との戦いになりそうだ。
なんでこういう緊迫した中で作業をせねばならないのだと同僚を恨んでも仕方がないが、他人に振り回されるほど心地の悪いものはないのである。

前回はanotherNさんに手助けをお願いしたが今回は叔父さんに助っ人を頼んだ。anotherNさんに毎回お願いするのも憚られるし、ウインチのスイッチ操作ならまったく経験のない人でも十分やってくれそうだ。おまけに百姓仕事に長けた叔父さんならすぐに機械の操作を理解してくれるだろう。

早朝、午前6時半に雑賀崎漁港に来てもらいひととおり作業手順を説明して上架開始。
途中、船の舳先の向きが歪んだりしてやり直しをしながら無事に上架完了。



叔父さんはきちんとそういう状況も指摘しながら作業を手伝ってくれた。さすがだ。
この時点で午前7時。一気に作業を進める。

舵の周りを見てみると、やっぱりすごいことになっていた。



船底のフジツボの密度も例年より多い気がする。



これは掻き落とすのにも時間がかかりそうだ。
舳先のほうから掻き始めたが、FRPの部分というのは碁石をパラパラと落とすように簡単に取れるが、舵やスクリューの部分はかなりやっかいだ。けれん棒を思いっきり突き刺してもびくともしない。それに加えて、ここは和歌浦漁港の船台に比べて背が高いのでけれん棒を上向きに突き上げるような形での作業になるので力が入らない。形状も複雑なので取りづらいことこの上ない。
亜鉛板を外して2度目の水洗いを終えた頃にはすでに2時間が経過していた。

一服する暇もなくスクリューのコーティングと船底塗料の塗り作業にとりかかる。こういう作業をするときには逆に船台の背が高いというのは作業をしやすい。一長一短があるというものだ。
この辺の作業は何度も繰り返してきたので手慣れたものになってきた。ほかの人にもそう見えてしまっているのか、揚場のそばに船を係留している人だろうか、「業者さんですか?」などと声をかけてきた。自分の係留場所に近いところで作業を肩代わりしてくれる業者でも探しているのだろうか・・。う~ん、僕は普段はスーツを着て給料をもらっている、一応はホワイトカラーという部類の労働者に属していたんだがな~と思いながらも、自分でも薄々はホワイトカラーという柄ではないよな~とも思っていたのでこれが本来の僕の姿なのだろう。きっと・・。
そのほか、老人会の集まりでこれから和歌浦まで歩いて行くという老人まで声をかけてくる。僕はけっこう目立っていたりするのだろうか?

ちょうど正午に作業を終え、代金を支払うために集金係のおじさんを待っているとポツっと雨が降り始めた。まったくギリギリのタイミングであった。終わりよければすべてよし。同僚への恨み言は言わないことにしておこう。

  


翌日、円卓会議の終了を待って叔父さんとともに港へ。船の転倒を防いでいるクサビが船台に絡まってしまうというちょっとしたトラブルがあったが無事に船を浮かべることができた。



航跡もきれいだ。ビフォーとアフターではこうも違う。

 

船が喜んでいるようにも思えてくるのである。



港に戻った頃には日差しが強くなりそれに合わせてかなり暑くもなってきた。昨日は作業中はずっと曇っていたので体力的にもかなり楽ができたので雨雲との競争もまあそれはそれでよかったのでないかとも思ったのである。

船の底を塗る作業の際は毎回、今回は体力が持つだろうかといつも心配をしながら作業を始める。まだそんな歳でもないはずだが、そこはなんちゃって頭脳労働者なものだから体力だけはホワイトカラー並みのものしか持っていない。そして作業が終わってから、あぁ、今回も無事に終えることができたと自分の体力の残量はまだいけるということを確認しているのである。
アキちゃんと忠兵衛さんは、北三陸がいちばんいいところだと確認をするためにそこを離れてゆくのだが、僕は自分の体力の残額を確認するために船底塗装に臨んでいたりもするのである。
と、言いながら、この文章を書いている翌日、僕は体中の痛みに呻いているのである・・。


ここ、雑賀崎という街は最近、なにかと話題を提供してくれる。前回の船底塗装の直前には現職の総理大臣が狙われるという大事件が起き、今回は映画のロケ地になっていた。



(公開は去年だが、僕が観たのはつい最近のことであった。)
この場所はまさに揚場の予約用のノートが置かれている箱のある場所である!
日本のアマルフィーとしてはいまだに知名度を誇っているし観光客を相手にした施設もたくさんオープンしているらしい。



どんなことでも人が集まるというのはいいことだと思う。
僕もここに集まってきたひとりだが・・。



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「にぎやかな天地(下)」読了

2023年10月09日 | 2023読書
宮本輝 「にぎやかな天地(下)」読了

下巻では登場人物の過去が明かされてゆく。
伝統的な製法とそれによって作られた食品が紹介された本の制作を依頼した謎の老人は過去に妻と長男夫婦、孫を一度に交通事故で亡くしていた。
重度のうつ病に陥り、事業も手放したけれども家族の思い出の残った不動産を手放すことはなかった。家族の死から得た教訓は狂乱的に札束が舞う世の中はまっとうではないということだった。ありきたりだが、おカネでは買えないものがあるということだろうか・・。そんなことは続くはずがないと考えバブル崩壊を切り抜けた。

ベーカリーの嫁の実父が作成を依頼した楽譜集は実父夫婦の不仲の元にもなっていた。実父は画家の楽譜を高価な1冊の本にしたのだが、夫婦と画家はちょっと風変わりな関係であり、後になって自分の嫁の仲を疑い始めたのではないかというのである。嫁はそのことがわだかまりとなり手元に置くことをためらっていたが、実母の死亡により娘がそれを持つことにわだかまりがなくなった。

料理人の父親と心中した女性は新進気鋭の詩人であった。その女性は自分の息子のために百数十編の詩を残していた。その詩は料理人の父親の元に残っており、夫の忌まわしい遺品として母が処分したはずの詩が土蔵の箪笥の中から見つかった。料理研究家は18歳の時に今では酒蔵を経営する息子に会いに行き、今も交流を続けている。母の死を卑下しながら生きているのではないかと考えている料理研究家は、息子を残して逝った母親の本当の思いを伝えるためその詩を集めた本の作成を主人公に依頼する。
この酒蔵は酢も造っていて、この小説のラストシーンの舞台ともなっている。
タイトルに「にぎやか」という言葉が入っている意味が明かされる。

主人公は父の死のきっかけになった男性の墓参を決意し、その家族に会うことになる。家族からは怒りを買うかもしれないと思ったけれども、そうはならなかった。むしろ、家族からは感謝をされることになる。また、男性の家族も、主人公たちの家族の本当の思いを知ることになる。
主人公はその家族の娘に好意を抱いたようだがその後の進展については語られない。

主人公はまた、ベーカリーの主人に対しては自分の祖母があなたの母親であったということを打ち明ける。そのことがきっかけとなり母とベーカリーの主人は兄妹としてはじめての対面を果たす。

それぞれの人たちは過去の厄災を、長い時間をかけたのちそれを乗り越え新たな幸福に転換して受け入れる。カタルシスとも少し違うのかもしれないが、著者があとがきで書いているように、『大きな悲しみが、五年後、十年後、二十年後に、思いもよらない幸福や人間的成長や福徳へと転換されていったとき、私たちは過去の不幸の意味について改めて深く思いを傾けるであろう。』ということを物語の中におおいに盛り込んでいる。

その過程を著者は、長い時間が必要とされる発酵食品の発酵過程にメタファーとして重ね合わせていたのである。しかし、人が自らに降りかかる厄災を転換しようとするときに必ず必要となってくるのが「勇気」であるとも語っている。それは、「ゆるし」=「世の中のいろんなことを大きく思いやる心」であるのだ。


本来なら憎むべき相手、悲しみの元になっているものを乗り越えてゆくには、相手を許す勇気が必要であり、そのためには長い時間を要するというのである。
もちろん、それには自分の心の本質が「不治の病」に罹っていないということが必須条件でもあるのである。
その心を「本物」と言いかえるのなら、本物の発酵食品を造り上げるのと同じように、それぞれに見合う時間が必要であるというのである。即席では無理なのであるということだ。
そう、ここに出てくるものの共通点はすべて「本物」だ。僕は自分の仕事を通してブランドというものの胡散臭さというものを思い知ったけれども、「本物」というのはラベルのみのものではないということだ。発酵食品もそれぞれの食材ごとに職人の本物の技とこだわりがある。主人公が携わっている豪華限定本もそうである。そこにも様々な工程を受け持つ職人の本物の技がなければ造りだすことはできない。そこにラベルは必要ない。ストーリーにはほとんど関係していないが、新宮の浮島の森の案内人のエピソードが盛り込まれているのはそういったことを強調したいという著者の思いなのだろうと理解した。


最近観た、「ラーゲリより愛をこめて」という映画の主人公はまさにそういう「勇気=本物の心」を持った人なのだったとこの本を読みながら思ったが、そんな人たちと自分を比べてみると、目下のところ、僕は発酵に失敗した方に入るのだと思ってしまう。腐った糠床は捨てるしかないそうだが、そんな状況なのである・・。
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紀ノ川河口~加太沖釣行

2023年10月07日 | 2023釣り
場所:紀ノ川河口~加太沖
条件:小潮 6:00干潮
潮流:5:36下り2.3ノット最強 9:10転流
釣果:タチウオ13匹


同僚がしきりに呑みに行きましょうと誘ってくる。この職場に流されてきた事情はお互い違うが、社会的な立場としては島流し、もしくは笑点の座布団運びのようなものなのだから、僕たちは堂々と居酒屋なんかでお酒を呑めるという身分ではないのである。日陰の身なのである。僕は静かに残りのサラリーマン人生をひっそりと生きたいと思っているのだが一応、先輩格の人だからむげに断るわけにもいかない。仕方がないので付き合ってみることにした。
この人、「和歌山に遊びに来たい。」とも言っているのでそれは絶対に阻止したいと思っている。何を好き好んでおっさんの案内役をしなければならないのだ。
勤務先から自宅までの所要時間は約2時間。なんとか午後8時半に振り切って駅に向かい、乗換案内によると午後10時8分に最寄りの駅に到着するはずが、日根野行の快速に乗って和歌山行きの各停に乗り換えねばならなかったのを、それをやり過ごしてその後に来る和歌山行きに乗ってしまったので帰宅が30分遅れてしまった。
まさか途中で乗り換えねばならない電車に乗らなければならないとは思いもよらず、念のためホームの上でダイヤを調べなおしてこれに乗らねばならないとわかったのが、その日根野行の快速の扉が閉まった瞬間だった・・。あと5秒早くチェックできていれば30分得をしていたのである。
自分の判断力の無さと世間の事情を読む能力の無さに思わずホームの上で膝をついてしまった。

家に帰って風呂だけ入ってすぐに就寝。
午前3時起床。午前5時過ぎにポイントに到着すればいいだろうとゆっくり出港。



港内を進んでゆくと、青岸の沖の方になんだか明るいものが浮かんでいる。かなり大きく、「未知との遭遇」に出てくる宇宙船のようだ。



さすがに僕も夢想家ではないのでUFOとは思わないので、かなり大きなクルーズ船が入港してきたのだなということはすぐに理解した。ひと月ほど前から港内を浚渫していたがこの船のためだったのだろう。
入港してきた船の横を通って仕掛けを流し始めたら、この船、全長315メートルもあるというのに、港内で方向転換をはじめた。

  

相手があまりにも大きく遠近感がなくなっていて、そんな行動をしているということがわからないでいると、タグボートがサーチライトをこちらに向け、そこをどけてくれという。まあ、それはそうだろうと仕掛けを回収して現場を離脱して仕掛けを入れ直す。こんなに大きくて喫水が深い船が入ってきたからだろうか、まったくアタリが出ない。やっとアタリが出たのは辺りが相当明るくなってきてからだった。なんとか3本取り込んで、今日はこれで終わりかと思ったら、そのあとからアタリが連発し始めた。しかし、ほとんどが指2本ほどしかない。5本の鉤に全部掛かってくることもあるが持って帰れる魚は1本あるかどうかという感じだ。
まだまだアタリは続きそうだが今日はこのあと加太に向かうつもりなのでいったん終了。



元々、風が強いというのはわかっていたけれども、想像していたよりも風が強い。船速も一段と遅くなっているので四国ポイントまでが限界だ。
僕のほかには2艘。釣れても釣れなくても今日はここだけで粘るつもりだ。



幸いというかなんというか、魚探にはたまに反応がある。しかし、アタリがあったと思ったら小さなアジだ。



鉤にかけたまま放っておくと大きな魚が喰いつくかと期待してもみるがそういうこともない。まったく魚がいないのかとそうでもなく、1艘の船はハマチらしき魚を取り込んでいた。
そういう光景をみていると、普通は、次は僕の番だと思うものだけれども、こんなに風が吹いていると逆に僕には無理だと逆に気持ちが萎えてくる。
ウサギの姿も目立ち始めたので午前8時過ぎに終了。



こんなことなら無理に来るんじゃなかったと悔やんでしまう。
昨日は乗り込むべき判断を間違い、今日は行かないべきだという判断を間違い、何もかも裏目に出てしまった2日間であった。


夕方、燃料を買いに行くついでに港に行き、その途中、先日知った修理屋さんを訪ねた。たまたま事務所に主人がいたので声をかけてみた次第だ。前回の釣行の時にFさんに指摘されたとおり、船外機のキャブレターを診てもらいたいとお願いしたら、じゃあ、これから行きましょうかとすぐに動いてくれた。初めて修理を依頼したのだが、すぐに動いてくれるとは頼りになりそうな人である。
早速キャブレターを分解してもらうと、ジェットという部分が詰まってしまっているとのことだった。ついでにプラグも診てくれたが、オーバーホールには数日かかるとのこと・・。



すぐには治らないのかと少し落胆・・。
これで翌日の釣行はできなくなってしまった・・。

まあ、まったく判断力のない時には変に動かないほうがいいだろうというのはそれはそれでなかなか的確な判断なのかもしれない。
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「にぎやかな天地(上)」読了

2023年10月02日 | 2023読書
宮本輝 「にぎやかな天地(上)」読了

何かの本でこの本の存在を知った。2005年に読売新聞に連載されていた小説だそうだ。その本は、何かの微生物か細胞について書かれた本であったのだろうと思うのだが、この小説は発酵食品について書かれたものであると解説されていたが、宮本輝がそんな科学読み物を書くはずもなく、いったいどんな内容だろうと思いながら読み始めた。

主人公は、豪華限定本の編集、制作を生業としている。元々、そういった本を扱う会社の社員であったが、その会社が倒産したあとは当時の社長に紹介してもらった奇妙な老人からの注文だけで生計を立てている。

主人公には様々なひとが関わりながら物語が進んでゆく。

主人公の家族であるが、祖母はすでに亡くなっているが、若い頃、嫁ぎ先に男児を残して離婚した後に再婚して主人公の母親を生む。
父親はひったくりに間違えられ、捕まえられそうになった時に駅の階段から落ちて死亡。主人公が生まれる2ヶ月前であった。
祖母は病弱に生まれた主人公のために隣町のベーカリーと輸入食品を扱う店でいくつかの種類のチーズを買って食べさせる。母親は家計を支えるために看護師として働きに出ていたのである。そのベーカリーは祖母が残していった男児が店主の店であったが、祖母はそれを知っていたかどうかは今となってはわからない。
楽譜を見ただけでそれがなんという楽曲かがわかるという主人公の姉。
姉の婚約者は勇気というものについてこう言う。「勇気は、自分の中から力ずくで、えいや!っと引きずり出す以外には、出しようがない。勇気を出そうと決めて、なにくそ、と自分に言い聞かせて、無理矢理、自分の心の中から絞り出したら、どんなに弱い人間のなかからでも勇気は出る。そして、その勇気は、その人のなかに眠っていた思いもよらないすごい知恵と、この世の中のいろんなことを大きく思いやる心のふたつが自然についてくる。」という。
父の死のきっかけになってしまった男性はその後32年間毎月2万円の金額を母親名義の銀行口座に振り込み続けて死んでしまった。

仕事関係の人々では、元いた会社の社長はたまたまヒットした出版物に気をよくして無理な投資をして会社を潰してしまうが、主人公のことをかわいがっていて、豪華限定本の制作ノウハウを教え込み奇妙な老人を紹介する。
奇妙な老人は行きつけの寿司屋では「理事長」と呼ばれているが、その素性はまったく謎である。
奇妙な老人は自分のために作りたいという、日本古来の発酵食品の伝統的な製法とそれによって作られた食品が紹介された本の制作を依頼する。その意図は今のところ謎である。
その仕事に力を貸すのは何度も本の制作を一緒にやってきた気心も知れているような写真家と少し女癖がわるい高級料亭も経営する料理研究家。

主人公のプライベート空間に現れる人物は、祖母が嫁ぎ先に残してきた息子が経営するベーカリーに関係する人たちだ。
そのベーカリーに嫁いできた嫁の実父は、主人公の元居た会社の社長に、ある画家の肉筆の楽譜を収めた豪華本の制作を依頼したが、その本は依頼主である父親の願いで社長に買い取られ主人公の手元にやってくる。しかし、家族には空き巣に盗まれたと説明されていた。
その画家は業界では評価はされなかったものの、一種独特の画風で見るものを魅了する。依頼主もそんな一人であったようだが、生涯最後の絵のモデルは、その嫁であったと本人から明かされる。

上巻では様々な人たちが何の脈絡もないようだが微妙に関係を持った状態で登場してくる。
この人たちがどういった収束を見せてゆくのか・・。
それはいくつかのキーワードに隠されているのかもしれない。
冒頭に出てくる、主人公が怪我で生死の境をさまよったときに思いついた言葉、『死というものは、生のひとつの形なのだ。昨日死んだ祖母も、道ばたのふたつに割れた石ころも、海岸で朽ちている流木も、砂漠の砂つぶも、畑の土も、・・・、その在り様を言葉にすれば「死」というしかないだけなのだ。それらはことごとく「生」がその現れ方を変えたにすぎない。』
豪華本の最後のページに残されている、画家が残したという古代ラテン語で書かれた5行の詩。元社長はそれを訳してもらっていたのだが、3行目と4行目だけを思い出すことができない。1行目は『私は死を怖がらない人間になることを願いつづけた。』2行目は『だが、そのような人間にはついになれなかった』5行目は『ならば、私は不死であるはずだ』という内容であった。その3行目と4行目に主人公はどういう言葉が入るのかということを思いながら自分の行く末と、生きるということはどういうことなのかということを考えてゆく。
そのほか、アラビアンナイトに出てくるという、『不治の病とは悪い性格』であるという箴言。
発酵食品の熟成過程を『妙なる調和』という言葉に例える主人公。そして、その調和を乱すもの、それらは「怒り、不安、恐怖、嘘、悲しみ、嫉妬、憎しみ、悪い政治、悪い思想・・・」であると思いを巡らす。

死ぬ前の5年間が満たされていれば人間は幸福であると考える料理研究家。この人も幼い頃に、父親を愛人との心中で亡くしている。

そもそも、この小説の通奏低音として語られる様々な発酵食品。取材のスタートは和歌山県からというのもこの本を手に取った何かの縁であったのかもしれないが、いったいどういったメタファーとして扱われているのか・・。
下巻の、伏線の回収が楽しみである。


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