イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

「枕草子」読了

2024年12月31日 | 2024読書
清少納言/著 佐々木和歌子/口語訳 「枕草子」読了

以前に、ダイジェスト版のような枕草子を詠んだことがあったけれども、これは完全版ともいえる枕草子だ。特に、佐々木和歌子というひとが口語訳をしたこの本は人気があるらしい。
学者ではなく、京都市内の広告会社で働く会社員で、仕事と家事の合間に訳者として古典文学の現代語訳をやっているという人だそうだ。

よくよく思い出しても、枕草子というと清少納言が仮名文字で書いた日本初の女流エッセイというくらいしか知識がない。清少納言は“セイ・ショウナゴン”であって“セイショウ・ナゴン”ではないというのも、「光る君へ」の番宣ではじめて知ったほどだ。
この本にはそんな知識のない僕にとって解説の部分が貴重であった。
まず、このエッセイが書かれたきっかけであるが、枕草子本体の最後に書かれているということを知った。清少納言は当時の一条天皇の中宮である定子に仕えた女房であるが、その中宮定子が兄である藤原伊周から献上された和紙を使って何をしようかと考えていた時、側近中の側近となっていた清少納言が「枕」を書きましょうと提案したことが始まりだったそうだ。
“枕”を集めた草子だから枕草子ということになるのだが、その“枕”というのは何を指しているかということは今もいろいろな説があり定まっていないそうだ。当たり前すぎて疑問にもならないように思うがそこからして謎に包まれているのである。
残された文章から分かるのは、この草子は不特定多数の人たちに読ませるのではなく、ごく私的な記録として始まったようで、だからそこ相当赤裸々な宮廷の生活が書き残されている。たまたま清少納言の元を訪れた源経房が差し出された敷物の上に乗っていた書付を持ち出したことによって世に出たというのである。(かなりわざとらしいが・・)そういうことが書かれているということは、少なくとも2回は漏れ出るということがあったということだ。
清少納言は現代の人たちがSNSで呟いているのと変わらない視線と感性で書いているように見える。よいものはよい、悪いものは悪い。私の好きなものはこれだ。気に入らないものは気に入らないとはっきり書いている。これは訳者の力というのもあるのだろうが、その表現が小気味よい。1000年前のひとが書いたとは思えないのである。というか、きっと1000年前の人も今の人も基本的な物事の考え方というのは何ら変わっていないということなのかもしれない。それを紙の上に書くかキーボードに打ち込むかの違いに過ぎないように思う。

枕草子の原本はすでに残っておらず、何系統化の写本が残されているのみである。もともとバラバラに漏出したようなものだったので順序だてて綴られているものもなかったようなのである。
枕草子は、その構成が3種類に分類されている。
「類聚的章段」 “~は”、“~もの”で始まる物事の列挙。歌語便覧タイプ 
『随想的章段』 一つのテーマを主観的に掘り下げた文章
「日記(回想)的章段」 定子サロンの日々やちょっとした出来事を記録、回想した文章
これらの章段がごちゃまぜに編まれているものと、形式ごとに整理されているものが現代に伝わっていて、前者を雑纂形態、後者を類纂形式と呼ぶ。だから、章段の区切りは数字で示されず、章段冒頭の言葉を章段名に使うというのが一般的となっている。
この本は、「三巻本系統」といわれる雑纂形態を基本にした小学館の「新編日本古典文学全集」に収録されているものを口語訳しているとのことである。

そして、解説の中で僕が最も興味を持ったのは紫式部との関係だった。紫式部も一条天皇の中宮である彰子に仕えた女房である。
歴史上に残っている記録では紫式部は清少納言に対してライバル心とも嫉妬心とも言える感情を持っていたというのは確からしい。自分なりに年譜を作ってみたのだが、それを眺めてみるとなかなか興味深い。
清少納言は紫式部よりも15年ほど早く中宮に入っている。「源氏物語」は紫式部が中宮に上がる前から書き始められている。
のちに摂政となる藤原道長の娘である彰子は12歳で定子に遅れること10年後に中宮となった。元々摂政の家系は道長の兄である道隆・道兼が受け継ぎ、その子供である伊周が引き継ぐはずであったが伊周との政争に勝利した道長が彰子を無理やり中宮に立てた。定子の不運はこれに始まるのだが、年譜を眺めてみると枕草子が書かれ始めたのは伊周が破れ、定子が中宮として力を失ってゆく頃からなのである。所どころには昔の栄華を懐かしむような記述があるのはそういった理由があるからでありそういった哀愁が枕草子に深みを与えているようにも思える。
それでも定子サロンは宮廷の中では新しい文化を発信してゆく場を維持しており、対して彰子は浮ついたやり取りを軽蔑した上に、道長が娘のサロンに高貴な家の姫君ばかりを女房に取り立てたため、相当保守的なものとなり公卿方からも人気がなかったらしい。
紫式部としてはもっとトレンドに乗っかったサロンのなかで自分の実力を発揮したかったのかもしれないがそれが叶えられず、それが嫉妬の根源となったのではないかと僕は思った。
いつかは清少納言を追い越してやろうと思っても、源氏物語を書き始める前に清少納言は中宮を辞し、どうだまいったかと言いたくても、追い越す前に目の前からいなくなってしまうのである。
「光る君へ」はそういった紫式部の嫉妬心と満たされない優越感をどんなに表現しているのか、僕は本編を観ていなかったが、この本を読みながら俄然「光る君へ」の興味が湧いてきて総集編を録画してしまった。明らかに紫式部のほうが後手に回ってしまっている感じであるがそこをどうやって主役らしく演出しているのだろうか・・。
そして、枕草子全編に渡って感じたことは、色彩が豊富ということだ。自然界の彩もしかりだが、衣服、建物、調度、すべてがカラフルだ。1000年以上前に今よりももっとカラフルな世界があったのだというのは全編を詠まねばわからないことであった。それもドラマの楽しみである。

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「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」読了

2024年12月19日 | 2024読書
三宅香帆 「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」読了

よく読まれている本らしい。自分が本を読まないことに対する言い訳を見つけるために読もうというのだろうか・・。でもそのおかげで1冊読めたというのであればそれはそれでいいのではないかという、いい意味でちょっと矛盾している本である。

この本の論点とは逆で、僕の読書タイムは通勤電車の中がほとんどなので連休などをしていると逆に本を読まなくなってしまう。しかし、著者の経験では、仕事が忙しくなるとゆっくり本を読めるような精神状態ではなくなりそれが読書量の減衰につながったというのである。著者自身も就職をしてみたものの本が読めなくなり会社を辞めてしまったそうである。そんな経験からこの本を書いたそうだ。

この本で語られる“本が読めなくなる人”というのは一般的なサラリーマン(労働者)のことである。僕なんかは単純に、サラリーマンが本を読まなくなったのはスマホが原因だろうと思うのだが日本のサラリーマンの読書習慣の変遷を覗いてみるとどうもそうではないらしいということがわかってくる。確かに、活字離れ(この本では「読書離れ」と表現されているが・・)はスマホが普及するもっと前、この本によるとすでに1980年代から言われていたらしい。加えて、仕事が忙しいというのは今に限ったわけではなく、明治維新以降、日本のサラリーマンの労働時間は例えば1937年(要は戦前の頃)ですでに1日当たりの残業時間は平均2時間、休日も日曜日だけというはるかに長時間の労働時間であった。そんな中でも昔は本は読まれていた。それが現代になって人はどうして本が読めなくなったのか・・。
そのキーワードは「ノイズ」だという。
読書から情報を得ようとすると、必ず目的以外の情報も入ってくる。これを著者は「ノイズ」呼ぶ。1980年以降、それをムダと考えた出版社は今でいうともっとタイパがよい、おそらく読者が欲している情報はこれだけだと思えるようなことだけが書かれている本を量産しはじめた。社会的地位を得るために必要なものは教養ではなく知識になったのである。
読者もそれに乗って自己啓発本というものがベストセラーとなってゆく。
それ以前、読書から得られる「ノイズ」をひっくるめた情報を著者は「教養」と定義している。
その後インターネットが普及してくるとそれを自分でできるようになってくる。自分が欲している情報はブラウザのアルゴリズムが自動的に提供してくれるようになったのである。
だから本を読む必要が無くなったというのがこの本の途中まで書かれている主張である。
本のタイトルに沿えば、この結論でよかったのかもしれないが、著者はさらに「ノイズ」をムダと感じるようにさせたのは何かということに切り込んでゆく。
「読書離れ」を加速させたのは、バブル崩壊以降、規制緩和が進められたことによるというのである。この本では「新自由主義」と書かれているが、企業間の競争が高まり、それは個人間でも競争が高まるということであった。
一方では会社での社員教育の機会は減り自己啓発は自分でという流れが生まれ、限られた時間の中で効率よく知識を得なければならなくなる。さらにノイズが邪魔になってくるのである。それは、教養では賃金は上がらず、知識のみが世間の荒波を乗りこなすことができる手段と考えられるようになったからでもある。

しかし、自分に必要なもの以外はすべて排除するという考え方は、『他者の文脈をシャットアウトする』ことでもある。著者は、『仕事のノイズになるようなことをあえて受け入れる。仕事以外の文脈を思い出すこと。そのノイズを受け入れること。それこそが私たちが働きながら本を読む第一歩なのではないだろうか。』と提案する。
そのためには『半身で働く』ことが必要であると著者は考える。逆説的なようにも見えるが、全身全霊で働くということは何も考えなくていいから楽だと著者はいう。頑張ったという疲労すら称賛されやすい。しかし、それは自分の文脈でのみ生きることと同じだという。
だから「半身」で働くことが大事なのだというのである。
『仕事や家事や趣味や――さまざまな場所に居場所を作る。さまざまな文脈のなかで生きている自分を自覚する。他者の文脈を手に入れる余裕をつくる。その末に、読書という、ノイズ込みの文脈を頭に入れる作業を楽しむことができるはずだ。』
著者は、これが本当の人間らしい生き方なのだと言っているのだと思う。著者も、このノイズを受け入れる余裕を失くしてしまった。そんな生き方ができない現代をどこかで方向転換しなければならないというのが著者の結論だ。
タイトルを見ていると読書論のように見えるが、本当は、日本人に対して、労働というものの価値観とは何であるかを問う内容の本であった。

著者は、「ノイズ」の重要さを「花束みたいな恋をした」という映画を例えに使っている。僕も以前にこの映画を観たけれども、労働に対する価値観をフィルターとして観てはいなかった。ストーリーはほとんど思い出せなかったけれども、言われてみれば、主人公同士のすれ違いを生んでいくのはこの本でいう「ノイズ」であったように思う。「ノイズ」をムダと思うようになった男と、「ノイズ」こそが生きてゆく上で必要なものであると考える女は離れてゆくしかなかったのである・・。

この本に倣うと、僕は「半身」で働いてきた人のように見える。う~ん、確かにその通りだったかもしれない。ファッションビジネスなどには興味を持つことができず、全身全霊で仕事に打ち込んできたなどとはお世辞にも言えなかった。しかし、リストラもされず定年まで会社に残れたというのはよほどチョロい会社であったということかもしれない。まあ、最後の1年半はリストラされたも同然の状態であったが・・。
“休まない”ということが昇進の必要条件で人事考課も情意考課のウエイトが大半を占めているような会社で働いていたということを考えるとその1年半は妥当な仕打ちであったのだ。それでもちゃんと給料は支払ってくれていたのだから、やっぱりチョロい会社であった。
しかし、そうやって昇進したであろう人たちは自分を棚に上げてのことだが、確かにまったく教養がないように見えた。月に1回なり、数十名の社員を集めて講話のようなことをやっていた人たちは、自分自身が恥ずかしくないのかと思うほど教養のかけらもなく、とりあえずどこかでこの話題を拾ってきましたというような薄っぺらい話をする人ばかりであった。よほどノイズが嫌いであったのだろう。そして、ずっと感じていた会社に対する違和感のひとつはこれであったかと思い至った。
この社会が変わる前に「半身」で生きたいと思っている人にはぜひあの会社に勤めることをお勧めしたい。

最後に、明治以降、日本のサラリーマンが何を読んできたのかということを書き残しておきたいと思う。
日本の近代の歴史の中では、読書は自己啓発を目的として始まった。自分磨きのための情報収集のために本を読み始めたのである。それを踏まえて時代別の読書の変遷を追ってみたいと思う。

明治時代:立身出世を目指す時代。
日本の近代の歴史の中では、読書は自己啓発を目的として始まった。自分磨きのための情報収集のために本を読み始めたのである。職業の自由を得た労働者は、「修養」を必要とした。「修養」とは、“人格を磨くこと”を意味するが、この言葉を初めて用いたのは、「西国立志編」という雑誌であった。その後、修養を説く雑誌、「実業之日本」「成功」が創刊される。「実業之日本」を創刊した出版社はいまでも存在しているらしい。
この時代は黙読をする習慣が誕生した時代でもあった。それは句読点が導入され、朗読が主体的であった江戸時代から本を個人で読むことができる時代になった時代でもあった。
加えて、活版印刷の技術が導入され、大量の書籍が市場に出回るようになった。図書館も各地で作られ、学生主体であったが好きな本を好きなだけ読むことができる環境が整ってきた時代でもあった。

大正時代:「教養」が隔てたサラリーマンと労働者階級
「中央公論」が創刊された時代。この雑誌はいわゆるエリート層に読まれた雑誌である。生まれながらに「修養」を身に付けていたエリート層はさらにその上をいく「教養」を身につけたいと考えた時代であった。そして、労働者階級では、「修養」が自分の価値を上げるための自己啓発の思想として浸透していった。
一方では、日露戦争が終わり、巨額の外債を抱え、戦後恐慌による不景気が社会を襲い、社会主義、宗教的な書籍がベストセラーとなった。
「出家とその弟子」「地上」「死線を超えて」というような書籍である。
その不景気の中で、サラリーマンは物価高や失業に苦しんだ。そんな疲れたサラリーマンに読まれたのは谷崎潤一郎の「痴人の愛」であった。叶えられない妄想を読書の世界で叶えたいと思う読者に支持された。

昭和戦前、戦中:「円本」の時代
1923年の関東大震災は出版の世界にも打撃を与えた。紙の値段も上がり本の価格も上がり出版界はどん底にあったが、改造社が創刊した「現代日本文学全集」が革命を起こした。1冊1円なので「円本」と呼ばれた(現代の価格にすると2000円くらいになるらしい。当時の単行本はその倍以上の2円~2円50銭というのが一般的であった。)。全集で揃えて応接にインテリアとして飾っておくという文化が生まれた。昭和初期、本を読んでいるということは、教育を受け学歴がある。すなわち、社会的階層が高いことの象徴であった。そして、円本は古書として出回り、農村部にまで読書の習慣を育んでゆく。
教養の象徴としての読書の反動として大衆向けの週刊誌の創刊もこの頃であった。「キング」「平凡」が「中央公論」のアンチテーゼとして存在し、連載されていた小説は「大衆小説」「エンタメ小説」として「純文学」とは一線を画すジャンルに成長してゆく。

昭和戦後1950年~1960年代
1950年代、ブルーカラー層とホワイトカラー層が共通に読んでいたのは雑誌であった。大正時代から戦前、教養はエリートのためのものであったが、この時代、中学卒業の労働者にも教養を身につけたいという需要があった。定時制高校に通いながら読んだのは「葦」、「人生手帳」などの「人生雑誌」と呼ばれるような雑誌であった。
同時に娯楽小説というジャンルも人気を博してきた。いわゆるサラリーマン小説というもので、その筆頭は「源氏鶏太」であった。
1960年代に入ると、新書が相次いで創刊される。書籍が「教養」から「知識」志向に転向してゆく形がはっきりしてくる。その最たるものが「カッパ・ブックス」であった。今でも古本屋に行くとたくさんのタイトルが売られていて、確かにタイトルにはそそられるがあまりにも胡散臭くて読む気にはならないというのが僕のカッパ・ブックスに対する印象である。

1970年代
この時代の人気作家は司馬遼太郎であった。ビジネスマンに偏って読まれていたそうだ。歴史という教養を学ぶことで、ビジネスマンとしても人間としても、優れた存在にのし上がることができる。」という感覚の帰結であったと考えられている。
同時に、テレビがベストセラーを生むという現象も生まれてくる。大河ドラマの原作、欽ドンのコント本。テレビとは違うが、僕の思い出として残っている、「鶴光のオールナイトニッポン」の本をギラギラしながら読んでいたのも1970年代の終わりごろであったと思う。

1980年代
この頃から、「読書離れ」ということが言われ始める。しかし、ミリオンセラーとなる書籍も生まれていた。「サラダ記念日」「窓際のトットちゃん」「TUGUMI」「ノルウェイの森」などだ。
著者の分析によると、当時のベストセラーはすべて1人称、すなわち、自分視点で書かれていたということが特徴であった。この時代、コミュニケーションの問題が最も重要視され、他人とうまくつながることができないという密かなコンプレックスが1人称視点の物語を欲し、それはまた、労働市場において、学歴ではなくコミュニケーション能力が最も重視されるようになったということを意味していたのではないかという。

1990年代
この本でいう、自己啓発は自分でという流れの時代である。同時にバブル崩壊後の不安な時代でもあり、スピリチュアルな一面を持った作品がベストセラーとなる。さくらももこの作品群、「パラサイト・イヴ」「脳内革命」・・。あまり共通点はなさそうだが、いずれも、自分の内側の在り方というものがテーマとなっていた。そこから自己啓発へ仕向けてゆくという流れであった。

2000年代
「自己実現」という言葉がクローズアップされてきた時代である。そういえば僕も会社でそういうことをよく言われていた。ここには僕が自己実現できる場所はないとずっと思っていたが・・。
その象徴が、「13歳のハローワーク」であったという。自己実現はなにも仕事を通してでなくてもよいのだが、やはり仕事の存在抜きにしては語れないというところが大きい。
もうひとつの特徴は、インターネットがベストセラーを生むという現象だ。1970年代はテレビがその主役であったが、「電車男」はインターネットが生んだ小説の代表であった。

2010年代
この時代も、この本でいう「ノイズ」が排除された書籍が人気を博していた。僕はすでにこのころには「ノイズ」がないと読めなかったのか、「人生の勝算」「多動力」「めんどくさがる自分を動かす技術」などというタイトルの本はこの本を読むまで知りもしなかった。

1970年以降のベストセラーを眺めてみると、確かに僕もそれは読んだという本がいくつかある。途中までは僕も時代の流れの中で自己啓発でもやってみようかと思っていたようである。「ノイズ」を払しょくできない僕が自己啓発から脱落したのが2010年代であったというのは、確かにそのとおりである。きっと著者の分析は正しいというのは僕の読書歴からも覗えそうだ。
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「ナカスイ!海なし県の水産列車 」読了

2024年12月10日 | 2024読書
村崎なぎこ 「ナカスイ!海なし県の水産列車 」読了

こういうタイプの小説はライトノベルと言われるそうである。ネットで調べてみると、『小説の分類の一つ。SFやホラー、ミステリー、ファンタジー、恋愛などの要素を、軽い文体でわかりやすく書いた若者向けの娯楽小説をいうが、明確な定義はない。英語のlight(軽い)とnovel(小説)を組み合わせた和製英語であるが、「軽い」という訳については異論もある。略してラノベともいう。文庫版や新書版の判型をとった比較的安価な本が多いことが特徴の一つで、アニメのような絵が表紙や挿絵にふんだんに使われていることが多い。』
と説明されている。
要するに、僕のような年齢の人間が読む本ではないのである。表紙を見た時、そんな予感はしていた・・。
しかし、小説の舞台が水産高校というので読んでみることにした。海のない栃木県に水産高校ではないが水産科がある高校というのは本当にあるらしく、著者はここでたくさんの取材をしてプロットを作ったらしい。

ライトノベルというくらいのライトさの故か、老人界に片足を突っ込んでいる人間には何の感動もなかった。クライマックスくらいには少しくらい涙するかと思ったがそれもなかった。
代わりに、自らの高校時代のことを思い出していた。近眼、肥満、頭悪いという三重苦のなか、どうしたことか県内トップの進学校に合格してしまったことで僕の青春時代は劣等感の塊であった。だから満喫どころではなかった。ダラダラと過ごした三年後、迎えた共通一次試験は得点率が50%程度。ギリギリ地元の国立大学に行けるかどうか、それも二次試験で高得点を取らねばならないという条件付きであった。自分の得点で合格できそうな大学はあるのだろうかと調べてみると三重大学の農学部水産学科というところがあった。理系だし、この本の扉に書かれていたマークトゥエインの名言『今から20年後 君は「やったこと」よりも「やらなかったこと」に後悔するだろう 舫を解き放ち 安穏な港から旅立とう 航路への風を君の帆でつかんで 探し求め 夢を見て そして見つけ出すのだ』というような心持はみじんもなく、地元を離れる勇気はまったくなかった。

今思えば、釣りが好きならこんな選択肢もあったのかもしれなかった。しかし、その先、何をしたいということがなにもなければそんな選択をしても意味がなかったであろう。
主人公のように夢を持つためにはどんなきっかけが必要なのか、今もってそれがわからない。

この小説の最後にはサムエル・ウルマンの「青春」という詩が出てくる。
 『青春とは人生のある期間ではなく、
 心の持ちかたを言う。
 薔薇の面差し、紅の唇、しなやかな手足ではなく、
 たくましい意思、ゆたかな想像力、炎える情熱をさす。
 青春とは人生の深い泉の清新さをいう。
 青春とは臆病さを退ける勇気、
 安きにつく気持ちを振り捨てる冒険心を意味する。
 ときには、20歳の成年より60歳の人に青春がある。
 年を重ねただけで人は老いない。
 理想を失うとき初めて老いる。』
僕はすでにあの時から老いていた・・。

きっとライトノベルに感動できないのは、年齢のためではなくそのきっかけを見つけられなかったのが原因であるに違いない・・。





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「タネまく動物:体長150センチメートルのクマから1センチメートルのワラジムシまで」読了

2024年12月07日 | 2024読書
小池伸介、北村俊平/著, 編 きのした ちひろ/イラスト「タネまく動物:体長150センチメートルのクマから1センチメートルのワラジムシまで」読了

「タネをまく」ではなく、「タネまく」動物というタイトルだったので読んでみようと思った。そこにはなんとなく意図のない自然への愛おしさが漂っている気がしたのである。

動物は意図してタネを撒いているわけではないがいろいろな方法で植物の種を運ぶことで植物の分布を広げることに貢献している。

動物が植物の種を散布するから動物散布と言われる種撒きであるが、細かく分けると被食散布、貯食散布、付着散布に分けられる。文字通りの散布方法である。

種が地面に落ちるだけではダメなのかと思ったのだが、確かにそれでは次の世代もそこに留まるだけだから勢力を広げることができない。風に乗せて運ぶ手法を持たない植物は誰かに運んでもらうしかなく、動物に食べてもらったり引っ付いたり体毛や羽毛に潜りこんだりしながら数メートルから数百メートル、時には数百キロメートルも離れたところに着地するのである。
植物の種はそのために、あるものは果実を膨らませ、あるものは棘や粘液を纏う。またあるものはエライオソームという栄養物質を装備した。

しかし、こういうことを専門的に研究しているひとがいるというのにも驚かされる。対象の動物が何時間でどれだけの範囲を行動するのかとか、食べてから排泄されるまでどれくらいの時間がかかるかとかを調べて、種が運ばれる距離を推算してゆくのである。

果実や種は動物にとっては食料である。動物にとってはただそれだけであるが、植物にとっては結果として勢力拡大の手段となっている。自然の巧妙なシステムがそこにあったということである。
そこには“を”という文字はないということだ。
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「青い絵本」読了

2024年12月06日 | 2024読書
桜木紫乃 「青い絵本」読了

タイトルが面白そうな小説だったので借りてみた。著者は直木賞作家だそうだ。
5編の短編が収録されていて、すべての物語のキーアイテムとして絵本が出てくる。主人公は50歳を少し越えたくらいの女性たちと共通している。人生の中で苦悩しながらも一区切りがつき、新たな道に出てゆくきっかけを絵本に求めたり絵本が作り出す。

卒婚旅行
定年退職を迎えた夫。それを機に卒婚しようと考えていた妻は絵本セラピストの資格を取っていた。夫が抽選で当てた七つ星の豪華旅行の途中、卒婚を切り出す妻。夫は驚くかと思いきや、以前からの少しの予感からそれもありうるかと諦めと安堵にも似た返答が帰ってくる。
夫は妻に1冊の絵本を読んでほしいと差し出す。その本は妻が絵本セラピストになろうと思うきっかけになった絵本であった。
どうして夫はこの本を選んだのか・・・。確かめる時間はまだある。と妻は考えるようになる。

なにもない一日
水産会社を経営する夫。妻は夫の道楽として引き継いだ地元FM局でパーソナリティを務める番組を持っている。その番組のひとつに本の朗読番組がある。FM局の引き継ぎに反対した病気療養中の姑は今ではそのラジオ番組を楽しみにしている。
夫と妻の間には子供ができなかったが、夫は外に婚外子がいる。先がなさそうな姑はうすうすそのことに感づいていて、子供ができなかった妻は少しの後ろめたさから、それなら会わせてあげたほうがよいと夫に提案する。
妻は日記帳にその日のことを書き留めながら1冊の絵本を手に取る。絵本は読者に、大好きな場所、大好きなもの、大好きな人は何かと問いかける。妻はそこで姑が亡くなったところで夫と別れようと決断する。
妻の育った環境は母のいない環境で父も祖父母からもそれほど熱い愛情を注いでもらうことはなかった。
妻は次に朗読しようと考えている本を読み始める。そのタイトルは「なにもない一日」。ここにも複雑な家庭の親子が登場する。そしてここにも1冊の絵本が取り上げられ、朗読の中の主人公に大好きなものはなに?と問いかける。物語の主人公はなにも起きない一日と答える。
離婚後の生活を贅沢な日々だと思いを馳せる主人公の裡には凪いだ海が広がっていた。

鍵 Key
主人公は札幌駅ビルの小さな書店のパート社員。夫が亡くなって以来15年この書店に勤めていた。夫は新進気鋭の小説家であったがデビューから5年の後、執筆への重圧と焦りからか自殺をしていた。
その書店は今日、50年の歴史に幕を下ろす。最後の日に買った絵本のタイトルは「鍵 Key」。最後の日の出がけに配達されたのは夫の最後の編集者が差出人であった。自宅で読む気にはなれないと考えた主人公は評判のよいホテルのスパに向かう。その手紙には編集者の当時の後悔と苦悩が書かれていた。
翌日、ふと思い立ち、遠く離れて暮らす息子のところを尋ねてみることにした。立派に育ち、自分の苦しみを受け止めてくれる息子。彼もまた苦しい時を過ごしてきたはずである。息子に向かって声にならない問いを差し出す。「ねえ、お前が過ごした一五年を、ゆっくり聞かせて--」
絵本に出てくる鍵は、喜びの部屋の鍵、いかりの部屋の鍵、かなしかったこと、たのしかったことの部屋の鍵へと続き、最後は、「あの扉を開ける鍵です。開けたいときに、どうぞ ずっと開けなくてもいいのです 開けたいときに、どうぞ」と括られていた。

いつもどおり
主人公は人気に少し陰りが見え始めた小説家。その小説家をデビューさせた編集者が五年ぶりに会いたいと求めてきた。編集者は病でそう長くはないと悟っていて、小説家に一冊の絵本の執筆を依頼する。その絵本のタイトルは「今際」。すべての絵は、限りなくリアルな絵を描くので時間がかかり、新聞や週刊誌の連載は任せられないと言われる気難しいイラストレーターが描いた、人の今際の際が描かれたものであった。
小説家は言葉を絞り今際の際に立った人はどんなことを思うのだろうかと考える。そしてたどり着いたその答えは、「いつもどおり」。編集者がかつて語った、「フィクションで現実を透視するのです」という言葉を頼りに言葉を紡いでゆく。
編集者が描かれているというその絵の最後の絵に付けた言葉は、「なにも こわくない」であった。「こわくない」、なのか、「こわくはない」なのか、一週間かけて一文字削った。
それが、編集者が語った、「フィクションで現実を透視するのです」という意味であると主人公は思い至ったのであった。

青い絵本
本のタイトルにもなっている短編である。
主人公は無名のイラストレーター。生い立ちは複雑で、父は北海道で演劇集団を主宰する独裁者。
そんな独裁者のような父を嫌いまったく縁を切っていたが三番目の母となった女性とは手紙のやりとりからメールのやりとりへと縁は続いてきた。その女性は描き溜めていた絵本が認められ、それに嫉妬した夫から妻の座を追われていた。
久しぶりに送られてきたメールは贅沢なホテルへの誘いと一緒に絵本を作りたいというものであった。病に侵されていた人気の絵本作家には文章は書けても絵を描く力は残されていなかった。その代わりとして作画を主人公に依頼をしてきたのであった。その絵本のタイトルは「あお」。
残された時間は三ヶ月。主人公は何もかもを忘れて作画に没頭する。
三番目の母の最期に間に合った絵本の最後のページには、「あなたは しっている こころと こころの まじりあう こうふくな しゅんかんを」と書かれていた。


主人公がすべて女性なのでなかなか共感ができないけれども、ただ、すべての主人公はそれまでも頑張っていきてきたうえでさらにその先に新しい道を見つけようとする。自分の人生をまるで他人事であるように生きてきた僕にとって、新しい道を見つけるなどという資格はないのだと言われているようであった。
「いつもどおり」というタイトルの一編があるが、僕にとっては「これまでどおり」でしか生きていゆく方法を見つけられない。ただ、「これまでどおり」でも意外と面白そうであると思っている事実もある。まあ、50歳と60歳ではこれから先の自由度の幅もかなり違うのだからすでに遅し、この辺で手打ちにしておくしかないというのも事実である。

主人公たちとまったく同じ節目を迎えているウチの奥さんが読んだらどんな感想を抱くだろうか。いっそのこと、卒婚でもなんでもやってくれたら僕はもっと自由になれるのにと思ったりもしてしまうのである・・。僕はこれまでどおり以上に自由になりたいと思っている・・。

この本は、著者の本来の作風とは少し違っているそうだ。実家がラブホテルの経営をしていたという経験から、「新官能派」というキャッチコピーでデビューしたとおり、あまり過激ではない官能小説というのがこの作家の特徴であるらしい。
本来がどんな文体かは知らないが、この小説には官能という雰囲気はまったく感じられない。むしろ、官能とは真逆の、諦観にも似た趣がある。
読んでいても、何の高揚感も湧いてこないけれども、かといって退屈というのでもない。絵本に書かれるような単純だが純粋な文章が所々に使われているからかもしれないが、人生の区切りなり境目という時には多くの人がそんな感じを抱くのかもしれないと思える1冊であった。
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「料理の日本史」読了

2024年11月29日 | 2024読書
五味文彦 「料理の日本史」読了

新着図書の書架に並んでいて、タイトルが面白そうだったので借りてみた。食にまつわる本ならとりあえず読んでみようというわけだ。

著者も書いているとおり、「食の歴史」がテーマの本というのは世の中にゴマンとある。まあ、何か差別化をしておかないと出版する意味がないというので、この本は、『どのような料理があり、どんなシチュエーションで食事が行われたのか、いかなる階層の人々の料理で、食材は何で、どう流通していたのか、料理がどう持ち運ばれたのか、いかに料理を求めたのか、食べた人の感想はどんなものか、料理がいかにつくられたのか等々、それぞれの社会との関わりに注目する。』というフレームで食の歴史に切り込んでいくわけだが、読んでみたところ、このフレームの通りに書かれていたのかというとそれはよくわからない。とりあえずはいろいろな古文書や残された絵画などから日本の食の歴史を追いかけている。

この本を通して分かることは、日本人はとにかくたくさんの種類の食材を食べてきたということだ。この本に出てくる主要な人というのは、上流階級の人たち(古文書に詳しく記録される人たちというのはこういう人だから仕方がない。)だから全国から多種多様な食材を集めてきて味わっていたのだから当たり前なのだろうが、下層階級の人たちは別の意味、それは食べられるものは何でも食べないと生き残れないという背に腹は代えられない事情があったはずだ。
例えば、鳥でいうと、雉、雁、鴨、くぐい(白鳥)、とう(とき・鴇)うずら、ひばり、山鳥などなど、獣では兎、鹿、猪、熊の手のひら、江豚(イルカ)、猿の木取(サルの手足)魚介類では烏賊辛螺(淡水産の巻貝のこと)、栄螺、蛤などなど。(これらは鎌倉時代の古文書からの情報である。)
食べられると知ってはいても今ではなかなかお目にかかることができないか、ひょっとしたら食べてはいけないかもしれないものも多い。
今の時代、食材といえばスーパーかデパ地下に行かないと調達することはできない。肉といえば鶏肉を合わせても3種類、魚でも5~6種類くらいしか普通は売っていないのではないのだろうか。貝といえばアサリくらいでちょっと高級なスーパーにいくとハマグリと牡蠣が置いてあるくらいじゃないのだろうか。ちなみにこれはディスカウントスーパーにしか買い物に行かない僕の感想である・・
そういうことを考えていると、今の僕たちは配合飼料だけを食べさせられて太らされている家畜とあまり変わらないのではないかと思えてくる。
古の人々に倣って山菜を採り、魚を獲ってきて食べたいと思っても、家に持って帰ってくるとダニだらけだと蔑まれ忌み嫌われている我が家は家畜以下なのかもしれない。おカネがあれば山海の珍味を食べるために外食もできるだろうが、それも無理な話でそうなってくると家畜以下のさらにもっと以下なのである。地獄か餓鬼の世界しか残っていない。

食べられないときは飢えて死ぬかもしれないほど食べられないというのが日本の食の歴史の期間のほとんどを占めていたのかもしれないが、どちらかというとそういう時代のほうが食生活としては豊かであったと言えるのではないだろうか。
衣食足りても何かが足りない・・という感じだろうか。

職場の近くのスーパーでこんな看板が出ている。



トレイにパックされていなくて氷の上に乗ったままの魚がこの下に並んでいるのだが、それを自分で捌いてみろと促している。こういう啓蒙をしても売れ残ってしまうのではないかという心配もあるがなかなかいいのではないかと思う。ちなみに、この日の夕方は並んでいる魚が無くなってしまっていたのでそれは僕の杞憂でしかなかったようだ。以前は、天然の真鯛が860円という破格値で売られているほどこのコーナーの魚介類は相当安い値段だからみんな買っていくのも当然なのかもしれない。それに加えて、ニュータウンとはいえ、僕の親世代のひとたちが最初に入居したという古い街だから二世帯で暮らす人たちなら親に教えてもらいながらでも下ごしらえもできるのかもしれない。
自分で捌けるようになればスーパーの魚以外にも興味が出てくるであろうから家畜生活を脱出できる人たちが現れるかもしれない。僕はもうあきらめきってしまっているけれども、これからの人には本当の豊かさを取り戻すために頑張ってもらいたいものである。


人は生きている限りずっと食べて続ける。高貴な人も一般庶民もそれは同じだ。日本中を網羅して縄文時代から現代まで、それを230ページにまとめるというのはやっぱりちょっと無理があったのではないだろうか・・。
著者は家政学や料理の研究者ではなく日本史の研究者だそうである。そう思うとこの本の内容にも納得してしまうのである。
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「新版 蔦屋重三郎  江戸芸術の演出者」読了

2024年11月27日 | 2024読書
松木寛 「新版 蔦屋重三郎  江戸芸術の演出者」読了

蔦屋重三郎という人は、来年の大河ドラマの主人公だそうだ。大河ドラマや朝の連ドラの主人公に選ばれると、にわかにその人に関連した本が出版される。この本も、元本は1988年に発刊されたものを2回目の文庫化として発刊したものだそうだ。
大河ドラマで蔦屋重三郎役を演じるのは横浜流星だ。この俳優、初めて見たのはBSの「二度目のOO ちょっとディープな海外旅行」という番組であった。実際に海外旅行をする方の役柄で、結構イケメンの役者さんだけど、芝居の仕事がないんだな~などと思っていたら、あれよあれよという間に人気俳優にのし上がってきた。「春に散る」という映画はかなりよかった。そして、この人もやっぱり仮面ライダーと戦隊ヒーローの両方をやっていたそうだ。

蔦屋重三郎という名前を知っていたかどうかというとかなり怪しい。歴史の授業はまったく面白くなかったのでそこで知ることはなはずだし、何か、テレビか雑誌かですれ違っていたのかもしれないが、やはりTSUTAYAの存在だったのかもしれない。この会社と蔦屋重三郎とはまったく関係がないそうだが、もし記憶の片隅に残っていたとしたのなら、その名前から、江戸時代に蔦屋重三郎という今でいうメディア王がいたということを知ったのだろうと思う。
浮世絵で有名な喜多川歌麿や東洲斎写楽をプロデュースしたのがこの人なのである。

この本は、蔦屋重三郎は何をした人か、そして江戸時代の文化の中でどのような役割を果たしたかということを解説している。
活躍した時代は天明年間から寛政年間だそうだ。西暦でいうと1781年~1801年がこの元号の時代だ。
どんな時代であったかというのは、田沼意次の重商政策から松平定信の寛政の改革へ移行していった時代だというとよくわかる。全然関係ないが天明4年2月23日(1784年4月12日)には、金印(漢委奴国王印)が発見されている。
田沼意次の時代は、重商政策として株仲間や専売制を敷いたことで幕府と都市部の町人・商人には恩恵があったが、農村部では困窮が続き、加えて天明の大飢饉などの天災による社会不安が高まった。その反動で松平定信の寛政の改革では倹約、農村政策としての帰農政策、災害対策として米の備蓄と米価調整をやったという、まったく現在と似ている社会情勢と問題点を抱えた時代であった。
今はSNSを中心にした主力メディアの変化が総選挙や兵庫県知事選挙でも注目されていたが、蔦屋重三郎は、現代と同じようないびつな時代にメディア革命を起こした人として大河ドラマで取り上げられることになったのだろう。

簡単に書くと、蔦屋重三郎という人は江戸の吉原で育ち、大衆の文化をけん引した人ということになる。
出版物の版元として活躍した人であるが、当時の出版物というのは大きく分けて「物(もの)の本」と「地本」というものに分かれていた。「物(もの)の本」とは堅い内容で儒学書、仏教関係、歴史、医学書などであり、地本とは草双紙、絵双紙など、今でいう大衆週刊誌のようなものである。蔦屋重三郎は地本の書肆としてのし上がってゆく。
蔦屋重三郎が活躍した時代の前、元禄(1688年~1704年)のころまでは文化的には江戸という町は上方文化の植民地のようなもので版元である書物問屋も京都系資本が優勢を占めていたが、宝暦(1751年~1764年)の頃には江戸の出版物が上方を上回るようになってきた。蔦屋重三郎が活躍したのは、先に書いた通り、天明(1781年~1789年)~寛政(1789年~1801年)時代になるのであるが、その頃には「黄表紙」と呼ばれる挿絵入りの読み物である草双紙が人気を博していた。

蔦屋重三郎は寛延3年(1750年)江戸の吉原に生まれた。そして、安永2年(1773年)その吉原で鱗形屋という当時の有力版元が発行する吉原細見という吉原のガイドブックの卸と小売りを始めた。そして翌年の7月には版元として「一目千本」という遊女の評判記を発行、その翌年の安永4年には最初の吉原細見「籬(まがき)の花」を出版するに至った。このガイドブックを発刊することができれば一応、一人前の版元と認められたそうである。
その後安永10年には黄表紙本の有力版元としての一角を占めるようになる。しかし、黄表紙本というのはいまでいう週刊文春のようなものであり、封建制政治の世の中、それを当局が黙ってみているはずがない。幕府をおちょくりすぎて寛政3年3月、財産を半分没収されてしまう。
しかし、蔦屋重三郎はくじけなかった。今度は喜多川歌麿を擁して美人画の浮世絵へ進出する。これも相当当たったようで、喜多川歌麿は他の版元から引く手あまたとなりふたりの中は悪くなってゆく。
新たな流行を作るべく蔦屋重三郎は役者絵の出版へ針路をとる。この時、葛飾北斎(当時の名前は勝川春朗)にも目をつけたけれどもおめがねにはかなわず、東洲斎写楽を選ぶ。そして、寛政6年5月写楽の役者絵を出版することになる。意図的に美化しようとした概念的な画風を超えた表現力はその役者の生きざまさえも写し取り脚光をあびることになる。著者は写楽の研究者でもあるらしく、この辺のことは詳しく書いている。例えば、勝川春英という画家(この人も当代一流と言われた浮世絵画家だったそうだ)と写楽が描いた三世瀬川菊之丞という歌舞伎役者の絵を比べてみると、43歳の役者がそれまで経験した人生をそのまま写し取っているかのようである。

 

東洲斎写楽はひとりではなかったという説は有名であるが、著者の説では、歌麿同様人気が出た写楽はひとりでは仕事が回らなくなり、他人に描かせたものに自分の落款を押したり、観たこともない上方の役者の絵を想像で描いたりしてしまったことで写楽本来の画風ではないものが生まれることになったというのである。
様々な人気者を生み出した蔦屋重三郎であったが、財産を半分没収されたということは相当な痛手だったらしく、歌麿、写楽の投入でも版元としての財政状況は改善せず、過去の出版物の再販や版権の譲渡などでしのいでいた。
その間にも滝沢馬琴、十返舎一九などの新しい才能の発掘にも取り組んだけれどもその活躍を見ることなく寛政9年5月、48歳で没することになる。


作家や芸術家というのはおそらくひとりの力で大成するというひとはほとんどいない。そこには必ず編集者やパトロンという後ろ盾、もしくは仕掛け人がいる。編集者は、今売れるテーマは何か、受ける書き方は何かをつかんでそれを書かせる。パトロンはその芸術家が日の目を見るまで資金提供をしたり養ってやったりする。
蔦屋重三郎は編集者兼パトロンとして時代を読み新人を発掘してきた。それは、新参の版元であるがゆえに当代人気の作家や絵師を起用できないという理由もあったのだが、やはり時代を読む目が確かであったということが大きかったのだろう。
そして、その目は江戸の文化サロンの役目も果たしていた吉原で生まれ育ったことと、そこで培った人脈が大きかった。大田南畝、朋誠喜三二、山東京伝など、文化人、芸術家としてすでに有名であった戯作者たちから信用を勝ち得た人脈は歌麿、写楽へとつながってゆく。

蔦屋重三郎の版元として活躍した期間はわずか13年であった。今の時代になぞらえるとバブル崩壊前後の期間に似ていたのだろうか。いけいけどんどんの時代から一転して先の見えない不安が蔓延した時代をどう乗りこなしていったか。そういったことが大河ドラマでは描かれるのだろう。横浜流星がどんな演技を見せるのかということを観てみたい気持ちもあるが1年間見続ける根気はないだろう。しかし、この本を読んでいたら、年末に放送されるであろう総集編だけでも十分楽しめそうである。




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 「覚悟の磨き方 超訳 吉田松陰」読了

2024年11月18日 | 2024読書
池田貴将/編訳 「覚悟の磨き方 超訳 吉田松陰」読了

何かの本を探しているときに見つけた本でタイトルが面白そうだったので借りてみた。
「覚悟の磨き方」というタイトルだけを見ていたので、外国人が書いた本かと思ったら吉田松陰の言葉を今風に書き換えたものであった。
2013年に初版が出版されているが、借りた本がそうとうくたびれているのを見ると、かなり人気のあった本ように見える。

そもそも吉田松陰という人がどんな人であったかということも実はよく知らない。日本史という教科が大嫌いであったこと、人の名前を覚えるのが大の苦手であったこと、それに加えて、高校の日本史の授業というのは幕末から近代の頃になると学年末になっていて授業の進め方も適当になる。だからまったくこの人の偉業というものを知らない。この本を読んで初めて吉田松陰は安政の大獄の時に処刑されたということを知ったほどだ。

まずは吉田松陰という人はどんなひとであったかということを勉強してみた。
「吉田松陰は、1830年、長州藩の下級武士の家に生まれました。幼くして叔父の養子となるが、叔父が病死し。僅か5歳で吉田家の当主となる。
9歳のときには、長州藩の藩校明倫館(めいりんかん)で教師の見習いとなるなど、その秀才ぶりは藩主毛利敬親(もうりたかちか)をも驚かせた。
15歳のころ、アヘン戦争で清国がイギリスに負けたことなどを知り、日本も危ないのでは、と危機感を募らせ、日本の状況を確かめるべく、20歳の頃には長崎や平戸を旅する。
長崎では停泊中のオランダ船に乗り込み、西洋文明の質の高さを知ることになる。
その後も、水戸や会津、佐渡を経てロシア船が出没した津軽半島を巡り、『東北遊日記』などを書いた。
1854年、24歳のとき、ペリー艦隊が2度目に日本に来たのを機会に、進んだ海外の文化に触れようと、下田に停泊中の軍艦に小舟で乗りつけ、海外に連れて行ってほしいと懇願。しかし、この密航の申し出はペリーに受け入れられず、陸に戻った松陰らは牢に入ることになった。
江戸の牢屋から長州藩の「野山獄(のやまごく)」という牢屋に移された松陰は、1年間に約600冊もの本を読み、また黒船への密航を振り返った『幽囚録』をこの時に書いた。
翌年免獄となり実家杉家に幽閉の身となった。その間松下村塾を開き、高杉晋作、伊藤博文ら約80人の門人を集め、幕末から明治にかけて活躍した人材を育成した。
松陰は諸国を遍歴して見たことや、歴史書などを読んで得た知識などから、50冊以上の著作を書き残した。1859年、29歳のときに安政の大獄により、江戸で処刑された。処刑前日に書いたのが『留魂録』である。
松下村塾はたった2年10ヶ月しか開かれていなかった。
松陰に教えを受けた人びとは、その後の明治維新や日本の近代化で活躍することになるのである。」

本の内容に戻るが、「超訳」と書かれているように、本当に松陰が語ったり書いたりしたものというにはかかり怪しいように見える。各章の最初に書かれているのだけが本物で、それ以外は編者が残された書物を元に、松陰なら多分こんなことを言うんじゃないかという想像のみで書いたものではないだろうか。ひとつひとつは100文字前後でまとめられていて、日めくり名言集のような構成だ。例えば、こんな感じである。
『人である意味
 人は「なんのために生きているか」で決まるのです。
 心に決めた目標のない人間は、もはや「人間」とは呼びません。
もし思い出せないなら、今すぐ思い出す時間を作るべきです。』

もう、どれも前向きな言葉ばかりである。吉田松陰の覚悟とは、国家のためにもしくは他人のためにどう生きるか、どう働くのかということと、その自分の意志を後世に伝えねばならないのだという二つのことに集約されているのだと思う。
自分のことだけしか考えず、とにかく人生をどうやって逃げ切るかということ、そして人知れずこの世からフェードアウトしようとしか思っていない僕にとってはあまりにも眩しすぎる。眩しすぎて何も見えないのである。

吉田松陰はもともと処刑されるはずではなかったという。松陰は老中の間部詮勝の暗殺を企図した自分を投獄して外界との接触を断った長州藩に失望しており、自らの死と引き換えに幕府要路に訴えて姦人を排除しようと、幕府の詮議の際に自ら進んで自白したことが原因となったという説が有力であるそうだ。
それが門下生たちの発奮と決起を促し明治維新につながっていったというのである。
自分の命と引き換えに自分の意志を貫くという行為はまさしく「覚悟」の極みといえる。その覚悟のすさまじさのとおりに明治維新という革命を起こしそれが現代までずっと続き、総理大臣経験者のなかで山口県出身者が多いのはこの人の存在があったというほどの影響力を及ぼしているというのはさらにすごいことである。

やっぱりこの本は眩しすぎるのである・・。
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「図だけでわかる!天気と気象 ( 超効率30分間の教養講座 3 )」読了

2024年11月11日 | 2024読書
荒木健太郎/監修 「図だけでわかる!天気と気象 ( 超効率30分間の教養講座 3 )」読了

「30分」と書いてはいるけれどもとても30分では読み切れなかった。あしかけ3日もかかってしまった。ルビがたくさん振られているので小学生や中学生が読むような本なのかもしれないが内容はかなり濃かった。
様々な天気のメカニズムを図解で説明してくれているのだが、天気のメカニズムというのは複雑である。極地的な天気も大陸レベルの気候もすべては風の流れがキモであるというのだけは理解ができた。やはりここでも記憶力のなさが災いしてその場で理解ができてもいざ空を眺めると何にもわからない。
しかし、ここ数年の天気予報というのは100%以上じゃないかというほど的中率がすごい。そして情報量も多くなって、天気のメカニズムなんか知らなくても予報サイトをいくつか眺めるだけで今日は風が吹きそうとか波が高そうだとかいうのはすぐにわかってしまう。日常生活はもちろん、釣りに行くにしても十分信頼できるので何の支障もない。
インターネットがなかった30年以上前は和歌山と田辺の気象台に電話をして風はどうですか?波はどうですか?と釣りに行く前の日に問い合わせをするくらいしかなかった。それでも通り一遍の回答しかしてもらえず、新聞の天気図を見ても何が何だかわからなくてすさみに行ってみたら渡船屋が休業していたなんていうこともあった。その頃、見老津の渡船屋の船頭から、日本海に等圧線が3本出てたら磯には渡れないということを聞き、それを基準にするようになった。これが唯一の僕の自己予報の判断となった。
それが今では地名を打ち込むだけでピンポイントの1時間ごとの風と波の予報を見ることができて、これがよく当たる。午前9時から風が強くなるとなっていたら本当に風が吹いてくる。雨雲レーダーを見ていると出勤時刻に駅まで雨に遭うか遭わないかということが確実にわかってしまう。

こんなに精度が上がったというのはスーパーコンピューターを駆使した気象モデルの演算の賜物らしい。
どんなことをやっているのかということもこの本には書かれていた。それは、コンピューター上に仮想の地球と大気を設定し、その大気を格子に区切り、その格子に現実の温度や湿度といった大気の状態をあらわす値を割り当ててから予報のプログラムを用いて少し先までの大気の状態を繰り返し求めていくということをしているそうだ。
一番基本になるのは「全球モデル」というもので、格子の水平間隔は約13km、鉛直層数は128層でその格子数は約1億7000万個もあるそうだ。これをもとに地域を絞り格子の大きさも小さくしながら「メソモデル」、「局地モデル」と詳細な予報をやっていくらしい。

う~ん、すごいことをやっている。ここまでやってくれたら自分で天気図を見る必要もなければそれをハッタリと勘で分析する必要もない。車の運転と同じで自動運転任せだといざという時に適切な動きと予想ができないということもあるのだろうが、僕が生きているあいだにはそんないざということが起こるはずもないので予報サイトだけに頼る生活を続けるのが一番楽ちんで確かなのである。

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「現代思想入門」読了

2024年11月08日 | 2024読書
千葉雅也 「現代思想入門」読了

以前に読んだ、「センスの哲学」の著者である。
「現代思想入門」のほうが先に出版された本であり、著者の専門分野らしい。
この本に書かれている、「現代思想」とは「脱構築」という考えである。哲学の思想の歴史では「構造主義」の次に出てくる思想である
著者は、ジャック・デリタ、ジル・ドゥルーズ、ミシェル・フーコーの3名の哲学者をその代表として登場させている。この3人の哲学者の著作や考え方を統合すると現代を生きる人たちの思想の原点と言えるものが見えてくるというのである。

しかし、哲学を知るにはその部分だけを読んでもダメで、その流れというか、歴史を知らなければならない。だから、結局、この本を読んでみてもリンクに書いている感想文のところまでしか理解ができない。
要は、何冊読んでも頭の中には何も残らないので知識の蓄積ができていないのである・・。

この本の位置付けとしては入門書のためのさらに入門書ということだそうだ。初歩の初歩ということになるがそれでも1回読んだだけではよくわからない。
著者は最後に現代思想の読み方として哲学書の攻略法というものを書いてくれている。
それによると、哲学の本というのは1回読んだだけではわからないものだという。たしかにその通りだと思うが、だから、1冊の本を何度も読み返したり、同じような本を何冊も読み継ぐということが必要となる。理解の薄皮を1枚ずつ重ねていくと、その途中で、突然それがわかるときがくるらしい。
だから、僕のような本の読み方をしているかぎり哲学を理解することはできないということだ・・。
そもそも、哲学書というのはわざとわかりにくく書いているという。難解だということが著者のステイタスでもあるというのである。そのわかりにくさの元になっているのが「レトリック」と「カマし」だそうだ。本題とは関係のないところで複雑な言い回しを使うことでわかりにくくなった文章をかいくぐっていくと著者が言いたいことが浮かび上がってくるというのだ。

本題の、「脱構築」というのを簡単にいうと古くからある二項対立的な思考を壊して多様性を生み出そうという思考だ。1960年代から90年代に生まれた思想であるが、それは今の時代を予測していたかのようである。いや、予測していたというのではなく、様々な分野で人の生き方の多様性を引っぱってきた人たちはこういう思想をよすがにして新たな世界を切り開いてきたのだというほうが当たっているのかもしれない。

二項対立の成立は、キリストとアウグスティヌスが人民に罪の意識を植え付けたことから始まったという。それ以来、2000年の時を経て人の心が変わっていく時代をわれわれは今生きているということになる。
しかし、日本の政治はある意味、野党の躍進によって多様性に舵を切ったかに見えるが、自由や多様性の象徴であるはずのアメリカはどうもそうでもなさそうである。
二項対立の果てというのは勝者と敗者、もしくは支配者と被支配者が明確に分かれるマッドマックスのような終末世界を想像してしまうが、かといって、多様性の世界というのは泥のような混沌としたなかで何も生まれてこない世界にも見えてしまう。
人は自由を求めることを忘れない。しかし、人は自由よりも支配された方が生きやすいともいう。しかし、そうなってくると、今回のアメリカ大統領選挙の結果というのは、早くも脱構築から、別の新たなフェーズに入ってきたことを表しているのかもしれない。


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