イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

「バースト! 人間行動を支配するパターン」読了

2022年06月09日 | 2022読書
アルバート=ラズロ・バラバシ/著 青木薫他/訳 「バースト! 人間行動を支配するパターン」読了

なんだか不思議な本だ。人間力学というそうだが、人間の行動は一見ランダムに見えるけれども、じつは何らかの法則に支配されているというのがテーマだ。ランダムというとむちゃくちゃというように思えるが、本当にランダムならその動きは確率的に数学で予測できるのだが人間の行動はそうではないというのだ。
そして、人間が支配されているというその法則というのが、タイトル通り、「burst(バースト)」というものなのである。この意味は、「短時間に何かが集中的におこなわれ、その前後に長い沈黙の時間が存在する。」ということである。
例えば、電子メールの送信や電話、手紙のやりとりという行為を例にあげ、人間の行動はいつも平均的、もしくはランダムにおこなわれるのではなく、爆発的に行動する時期と、まったくそれをやらない時期が繰り返されるというものだ。それがレヴィ軌跡というものやベキ法則という僕にはまったく意味のわからない数学で表されるというのである。

その説明が、ローマ教皇がレオ10世という人であった時代の十字軍遠征の画策についてのエピソードと交互に進められていく。一体、十字軍の遠征と人間の行動パターンにどういう関係があるのかということが中ほどくらいまで読み続けてもわからないのである。

著者の肩書からしてよくわからない。この本が発刊された当時の2012年現在、ノートルダム大学コンピューターサイエンス&エンジニアリング特任教授、ノースイースタン大学物理学部・生物学部・およびコンピューター&情報科学部特別教授、同校で複雑ネットワーク研究センター長を務め、またハーヴァード大学医学部講師も務めているというのである。一体どんな学問をやっている科学者であるのかというのがさっぱりわからない。

ブラウン運動に代表される物質の動きでは、アインシュタインの拡散理論やポアソン分布という、これまた何のことだかさっぱりわからない理論だが、ランダムだけれどもこういった数学的法則の基に物質は動いている。しかし、人や生物が関わる動きというものにはそういった法則性はないものだと思われるが、著者がburstという発想を得たというのは、アメリカで行われた紙幣の動きを調べた実験からである。紙幣にQRコードが入ったスタンプが押されてあり、それを手にした人が読み込んで送信すると、その紙幣がいつ、どこにあったかというログが記録される。それを調べてみると、この紙幣はある一定の期間狭い場所に留まるがその後は一気に遠いところに移動する。この、一気に動きが活発になることをburstと呼んだわけだ。例はそれだけではない。人の動きも先に書いたとおり、電話や手紙、メールの発信作業などもburstな動きをしているという。
また、こういう動きは人間だけではなく、動物が餌を求めて行動する場合にも当てはまるという。例えば、アホウドリが餌を探す場合、探し始めと終わりの頃に大きく移動する習性があるという。サルが餌を探す場合も同じような動きをするそうだ。これを、レヴィ飛行(軌跡)というそうだ。
著者は、人間がメールや電話、手紙などでburst的な動きをしてしまうのは、作業の重要度に応じて優先順位をつけるからだと予想した。しかし、優先順位などは関係ない自然界の動物たちも同じような動きをするというからには、やはり、きっと、生物が持っている何らかの普遍的な法則があるに違いないと考えたのである。

と、こういった説明をしておきながら、実は、アホウドリのレヴィ飛行というのは観察上の誤りであったとか、人間の行動が予測できるのは、大概の人は1日の行動パターンがほぼ決まっているので、過去の行動データを記録しておくとその後の行動もある程度予測がつくのだという、なんだか落語のオチのような結論が導き出されるのである。

中世の十字軍にまつわる物語は、ジョルジュ・ドージャ・セーケイという騎士が主人公として語れるのであるが、どうもこの人の行軍もburstに従った行動であったというのだけれども、どうもピンと来ないのである。もともと歴史が好きではないので興味がわかないというのが一番の原因であるとは思うのだが・・。

ただ、読み物としてはかなり面白い。一見何のつながりもない事象が僕の理解を超えながらも関連性をもって収束してゆく展開は科学読み物というよりも、推理物のような感があったのである。

様々な伏線の回収についてだが、人間の行動については、個人々々ではburstという現象は見ることができないが、ある一定規模の集団、それはおそらく国家レベルくらいでの集団なのだろうが、時々規格外の人が現れる。大冒険をする人だ。そういう人をひっくるめるとやはりburstであるというのだ。
ジョルジュ・ドージャ・セーケイという人物については、もともと盗賊であった人が十字軍の総指揮者にまで上り詰め、オスマン帝国に対し戦いを挑むはずが、味方の貴族たちに反旗を翻し処刑されるまでの期間がわずか3ヶ月ほどしかなかったという。そんなわずかな期間で人生を大転換させてしまったことがburstであるというのだ。この人物の盛衰の過程には著者の先祖も関わっていたというのであるが、それだけで400ページあまりの半分を費やすということにどういう意味があったのであろうか・・。ただ、この物語が挿入されていることで読み物としての面白さを醸し出しているのは間違いがない。
この下りの中に、『イシュテン・ネム・アカリア』という言葉が出てくる。これは、『神はこれをお望みではない。』という意味だそうだが、ネットで調べても語源やどの国の言葉かということが調べられないのだが、「神がお望みではない」というのは何かのおりに使えそうだ。

ほかにもburstの例として、病気の進行やうつ病の発症もそうだと書かれていたり、また、伝染するはずのない病気、例えば肥満などでも連鎖的に発症するものだということが書かれている。
しかし、何かの病気が発症すると連鎖的に他の病気が発症する例が多いのがburstだというが、それはきっと免疫力が落ちてきているから他の病気を発症するのであってベキ法則が原因ではないと素人としては思ってしまうし、うつ病についても、起きている時間に症状が集中するのがburstだというものの、寝ながらはうつ病の症状は出てこないだろうと思うのである。
肥満の伝染という現象が事実であったとしても、それがburstだというのもちょっと解せない・・。

まあ、発刊から10年を経た今はどこまで確立されているのかはわからないが、この当時の時点では人間力学という分野はまだ研究が始まったばかりだということだろう。著者曰く、いつかは様々な物理法則のように人間の行動や思考が数式で表される時代が来るのだというけれどもそこはどうなのだろう。確かに、人間の思考は神経線維の中を走り回っている電気信号とシナプス間の神経伝達物質の交錯から生まれてくるのだからそれは化学と電気力学の数式で記述できるというのかもしれないが、2000億個あるという脳細胞と数兆個と言われるシナプスを数式化し、それを人間一般に当てはめるためにはどれほどの性能のコンピューターが必要なのだろうか・・。
そこまでいけると、本当にコンピューターの上に人の意識が再現できるのかもしれないと思うのである。

確かに、統計学では人間の行動はある程度予測できるらしく、携帯電話の電波基地を設置する場所などはそういった統計から人の動きを読んで決めているらしいし、アマゾンのリコメンド機能を見ていると、僕の心はすでに読まれているのかもしれないと思うこともある。グーグルで僕が何を検索しているかということがばれるのは裸で街を歩いているのと等しいかもしれない。
しかし、これはあくまでもデータの蓄積の結果の予想であって数式ではないのだ。ただ、ある意味、そんなデータが自分のあずかり知らぬところで独り歩きしているというのも恐ろしい限りであるとあらためて思ったのがこの本を読んだ感想である。

また、個人的には発作的にドバ~っと集中して何かをやってしまわないよう(この本ではそれをburstというので、そういう意味ではburstしないように)に年中同じ行動をまんべんなくやるように心がけてはいる。なぜかメリハリをつけたくないのだ。釣りに行くにしても本を読むにしても、年がら年中、穴をあけず、かといって集中しないように継続するというのが自分のモットーだ。
ということは、僕も心の底の方では実は人はburstしやすいものだと思っていたのかもしれないから、直感的にでも著者の考え方というのはやはり正しいのかもしれない。
そしてもし、burstするのが人間だとしたら、僕は相当人間的ではないということになるのかもしれないなどとも思ったりしたのである。

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水軒沖釣行

2022年06月03日 | 2022釣り
場所:水軒沖
条件:中潮 7:17満潮
釣果:ハマチ1匹 サバ26匹 マルアジ2匹 禁断の魚1匹
※禁断の魚は諸事情により名前を伏せることにする・・。

いよいよチョクリの季節がやってきた。先週、菊新丸さんから魚の群れは初島沖くらいまでやってきていますよという情報をもらっていた。そこからは距離にして7、8kmくらいだろうか、1週間待てば水軒沖まで到達してくれるのではないだろうかと今日、調査に出てみた。

夜は扇風機を回して寝るとほどよい気持ちよさになってしまう室内温度なので、目覚まし時計が鳴ったのは気付いたもののそのあと不覚にもまた眠ってしまっていて、次に目が覚めた時には午前3時を回っていた。暗いうちから船を出したいと思っていたのでこれではかなり出遅れる。今日も出すべきものが出せない状態で家を出た。

出港時刻は午前4時半。辺りはすでに薄明るくなってしまっていた。



沖に出る前に、紀ノ川河口でハマチが釣れるのなら一文字の沖でも釣れるのではないかと思い禁断の仕掛けを流してみることにしていた。そしてこれは予感が的中し、仕掛けを出し終わりスロットルを入れた瞬間に魚が掛かった。
おそらく、一度沈んだ仕掛けが浮き上がり始めたときに喰ったのだろう。とりあえず、これでボウズはなくなった。少し気が楽だ。
少し先で魚がボイルしているのを見たのでそこまで移動したがアタリはなく、元に戻って同じ場所をもう一度流してから沖へ向かった。

船底塗装をしてからの最初の釣行だ。船が海面に乗って滑っていくような感触がよくわかる。これが気持ちいい。



さて、どこ辺りまで出てみようかと思案するのだが、まあ、シーズンの始めだし水深50メートルくらいのラインまで出張らなければならないという覚悟はしている。その間に魚探の反応が出てほしいものだ。
そうは思っていたのだが、まったく反応はない。これ以上沖に出て何もなければ燃料が無駄だと判断し予定通り水深50メートルのところでギアをニュートラルにした。ここも反応がない。うわ~、これはまずいのではないかと思い始めた時、もっとわるいことに、同じような場所に停まっていたチョクリ船らしき船がこっちに近づいてきた。



この釣りは、当たり前の話だが魚が船の下にいなければまったく釣れない。広大な海域に漁礁のようなポイントがあるわけでもなく、自分が釣れていないとほかの誰かを頼りたくなる。遠くに見えているあの船はすでに魚を釣っているのではないか、あそこには魚がいるのではないかと無駄な衝動を抑えきれずに近づいてくるのだ。だから、こっちが釣れていないのにもかかわらずほかの船が近づいてくるということは間違いなくその船も釣れていないということを意味する。
ということは、その船が元いた場所と僕の船の間には魚はまったくいないということになるのだ。2回目のうわ~、これはまずいということになった。

そうはいってもほかに行く当てもない。置き竿は浅め、手持ちの竿は海底付近と探る場所を分けて釣りを始めた。

最初のアタリは手持ちの竿だった。魚探の反応はなかったが魚はいるようだとほっとしたのもつかの間、魚が水面から出た途端、ポチャンと目の前で海に帰っていった。マルアジであったが食いが悪いようだ。最初の魚を落とすと気持ちも落ち込む。これで3回目のうわ~、これはまずいなということになった。

しかし、「うわ~」はこの3回で終わりだった。
しばらくして置き竿のほうにアタリがあった。嬉しいサバだ。棚はかなり浅いようだ。確かに魚探をよく見ると、水深の浅いところに出ているノイズの中にわずかだが赤い線が見えている。これがサバの群れなのだろう。
手持ちの竿も浅い棚に合わせると、その後は忙しいくらいにアタリが出始めた。椅子に座る間もなく前後の竿にアタリが出る。生け簀の中もどんどんにぎやかになっていく。

そして、手持ちの竿の魚を回収している時にまた、置き竿にアタリがあった。いそいでこっちの魚を回収し、置き竿を持つとかなりの引きだ。これは大サバが掛かったかと思ったがそれにしてはよく引く。おまけに水面に向かって走り始めた。道糸はほぼ水平の角度になっている。これはサバでもない。シイラならとうに糸を切られている。それともサワラだろうか・・・。いろいろ想像を巡らせながら仕掛けに手をかけるまところまで来たけれども引きの強さは変わらない。ここで糸を引き出されると僕の指に鉤が刺さってしまう。強引なことをすると糸を切られてしまうがそこは仕方がない。幹糸が滑り出さないように指に巻き付けながら引き上げてゆく。そして姿を現した魚は諸事情により名前は書かない方がよい魚であった。現状では資源保護のために捕獲禁止となっている魚かもしれないのである。
まあ、釣れたものは仕方がない。それに、この魚は美味しいのだ。ここまで書いてしまうと善意の第三者でもいられないのだが、この場では僕はこの魚をルール通り放流したことにしておこうと思う。

禁断の仕掛けといい、禁断の魚といい、最近はやたらと禁断のものが多い。それだけ世の中規制だらけということなのだろうけれども、僕が禁断の仕掛けで魚を釣ろうが、禁断の魚を1匹釣ろうが世界の海の漁業資源の変化に何の影響も及ぼさないのは確かだ。それとも、こんなところにバタフライエフェクトが存在しているとでもいうのだろうか・・。
そんなくだらないルールはとっとと廃止しようというような立候補者が今度の参院選で出馬してくれないものだろうか。僕は迷わず一票を投じるのだが・・。

その魚はなんとか水面まで引き寄せてタモ入れすることに成功したのだが、よく6号の糸で切れなかったものだ。それに加えて、チョクリ釣りの時はそんなに大きな魚も釣れないので普通ならタモを用意していないのだが、たまたま、今朝は禁断の仕掛けを流してみようと思ってタモを用意していたというのは幸運だった。
そう、今日は幸運の日だったのだ。今朝、急いで港まで来る途中、絶対に通過しなければならない三つの交差点の信号機がすべて青であったのだ。おそらくその時から、この魚は僕の懐に抱かれていたのである。

その後、数匹のサバを釣り上げ、生け簀の中を見てみるとそろそろクーラーに入りきらなくなるのではないかというほどになってきていた。
ハマチがけっこうかさばるのだ。これだけあれば燻製と水煮の材料としては十分だ。まだ1日は始まったばかりだが午前6時半で終了とした。

家に帰ってソミュール液を作りながらサバを捌いてゆく。小さいものは水煮用に筒切りに、中くらいから大きいものにかけては燻製用に3枚におろす。一番大きいものはサバサンド用だ。
円卓会議に参加していたとはいえ、これだけのことをすると気がつけば午前11時になってしまっていた。



水煮が出来上がる時間を利用して庭の植木の剪定。



剪定と言っても、ただ、庭がジャングルにならないように茂り始めた葉を刈り取るだけだ。誰も愛でることがない庭でも植物は勝手に葉を伸ばす。そして、夏前の剪定は毎年、チョクリの釣りが始まったときがタイミングだ。すでに汚れてもよい服を着ているのと、釣れても釣れなくても世間では早朝と呼ばれる時間帯には家に帰っている。まだ涼しい時刻に剪定をすることができるのである。



ここ数年、いや、10年くらいだろうか、自分の生活のなかで、この時期にはこれをやるということがほぼ定着してしまっている。要は何か新しいことを始めようとしないということだ。旅行に行って見たことのない景色を見るということもない。
まあ、そういう予定をこなしているだけで1年は十分暇にならない程度に過ぎてゆくのではあるが、何も冒険をすることもなくひたすら時だけがすぎてゆくのだと考える時、あぁ、このまま知らない間にもっと歳を取って知らない間にこの世から消えてゆくのだろうなとなんだか一粒の虚しさを感じてしまったりもするのである・・。

先日のニュースでは、堀江謙一が太平洋横断の航海のゴール目前で、ちょうど今日くらいがゴールかもしれないというニュースが流れていた。うまくいくと僚船に曳航されたマーメード号を見ることができるかもしれないと思ったが、黒潮の蛇行に阻まれて、このブログを書いている翌日になったそうだ。この人は現在83歳だそうだが、そんな歳になっても何かに挑み続けている。そのモチベーションは一体どこから湧いてくるのだろうかとそのニュースを読みながら僕には無理と首を垂れるのである。


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「反哲学入門」読了

2022年06月02日 | 2022読書
木田元 「反哲学入門」読了

以前に読んだ、「哲学の名著50冊が1冊でざっと学べる」の著者が、「自分の知る限り一番わかりやすい哲学の入門書である。」と紹介していた本だ。

著者はユニークな哲学者で、終戦直後は闇屋をやっていたそうだ。儲けたお金で大学に入ったというのだからすごい。
さて、「一番わかりやすい・・」とはいえ、元々が難解であるのが哲学であるのでそんなにすぐに哲学がわかるわけがない。最後は著者の研究の本山であるハイデッカーについて書かれているのだが、到底そこまで理解できるわけがなく、この感想文ではソクラテス、プラトン、アリストテレスと哲学の世界の転換点になったことくらいまでを追いかけたいと思う。

まず、タイトルであるが、哲学の入門書なのになぜ、”反”という言葉を入れたかという説明から入っている。
日本ではその歴史を通して、哲学がなかったと言われている。そういう日本人からは哲学というものは西洋という文化圏に特有の不自然なものの考え方だと著者は考えている。日本人が哲学を理解することはそうした「哲学」を批判し、そうしたものの考え方を乗り越えようとする作業ではないかと考えたことから、それを「反哲学」と呼ぶようになったと述べている。(この本は基本的に、著者の口述記録を編集者が文章に起こしたものである。だから文章自体は会話調になっていてそれが意外と読みやすい。)
この本は、そういう立場から哲学の歴史をふりかえって、哲学とは何であったのかということを考える試みであるとしている。
哲学は何を考える学問なのかというのは、「哲学の名著50冊が・・」では、「存在」について考えることであると書かれていた。この本ではもう少し詳しく、『「ありとしあらゆるもの(存在するものの全体)が何か」ということを問うて答えるような思考様式であり、しかもその際、何らかの超自然的原理を設定し、それを参照しながら、存在するものの全体を見るようなかなり特定の思考様式である。』と解説されている。
ありとしあらゆるものがどうしてこの世界に存在するかということを考える時、「つくる」「うむ」「なる」という三つの動詞にその発想が集約されるという。これは世界中のはじまりの神話の数々を分類すると見えてくるのだが、例えば、日本神話では国はイザナギ・イザナミの二神が生んだということになっているし、旧約聖書では神が世界を「つくる」ことになったし、メラネシアの神話では、世界に内在する神秘的な霊力の作用で具現化した(なった)ということになっている。そういうところから「イデア」というような観念が生まれてきた。

西洋哲学の大きな特徴は、自然は世界を形作るための無機的な材料、質料にすぎないもの、すなわち物質になってしまっているということである。自然とは、もともと文字どおりおのずから生成してゆくもの、生きて生成してゆくものであるが、それが超自然的原理を設定し、それに準拠してものを考える哲学のもとでは、死せる制作の材料になってしまう。そういう意味では哲学は自然の性格を限定し否定して見る反自然的で不自然なものの考え方ということになる。超自然的な存在が自由自在に操ることができるのが自然だったのである。

しかし、ソクラテス以前の思想家、アナクシマンドロスやヘラクレイトスが活躍した時代のギリシア人はそんな反自然的な考え方はしていなかったが、ソクラテスやプラトンの時代に、たとえばプラトンのいう、「イデア」のような自然を超えた原理軸にする発想法に転換した。それ以来、西洋という文化圏では、超自然的な原理を参照にして自然を見るという特異な思考様式が伝統になったのである。
19世紀後半、ニーチェはこのことに気付いた。この時代というのは産業革命が起き、大量生産、大量消費の時代で、植民地政策が破綻し始める時代でもあった。人々が次第に工業化、資本主義に呑み込まれていくという行き詰まりの原因を、超自然的原理を立て、自然を生命のない、無機的な材料と見る反自然的な考え方自体にあると見抜き、「神は死せり」という言葉で宣言し、形而上学的な思考から脱却しようした。著者の専門である、ハイデッカーなどもそれに追随する考えを持った。こういう人たちの思考は「脱構築」と呼ばれる。
だから、西洋哲学の世界ではニーチェの考えが大きな転換点になっていると言われているのである。

ここで、哲学の世界で使われる言葉について書いておこうと思う。これは西洋哲学を知るうえでも、その転換点について知るうえでも大きく関わることである。

●そもそも、「哲学」という言葉の語源について
「哲学」の直接の語源は、英語のphilosophyあるいはそれに当たるオランダ語で、これは古代ギリシア語のphilosophia(フィロソフィア)の音をそのまま移したものである。この言葉は、philein(フィレイン:愛する)という動詞とsophia(ソフィア:知恵ないし知識)という名詞を組み合わせてつくられた合成語であり、「知を愛すること」つまり「愛知」という意味になる。「愛知」というのは地名にもあるからというのかどうかは知らないが、それを江戸時代の最後の時期に活躍した西周という学者が「哲学」という訳を当てたのである。
もともとは「希哲学」という訳し方をしていたそうだ。儒教で語られる「士希ㇾ賢」(士は賢を希う(ねがう)と同じだろうということで「希賢」としたがこれでは儒教臭が強いというので「賢」とほとんど同義の「哲」という言葉を当てたが、明治になって書かれた著作では「希」が抜けてしまって「哲学」になっていたという。「愛」の部分がすっぽりと抜けてしまっているので著者はこれは誤訳だろうと言っている。
●「形而上学」という言葉について
英語ではmetaphysics、ギリシア語のta meta ta physika(タ・メタ・タ・フィジカ)の訳語として造語されたものである。もともとはアリストテレスがリュケイオンでおこなった講義ノートを250年後に整理編纂した際に生まれた言葉だそうだ。
アリストテレスはプラトンの弟子であるが、この講義の順番で最後に受講するのが「形而上学」というものであった。その順番というのは、まず具体的な科学研究(動物学、植物学、心理学など)や理論思考の訓練を受けて、次に、自然学(運動論や時間論などを含めた物理学)を学び、最後にイデアのような超自然的原理を学ぶ、「第一哲学(プローティー・フィロソフィー)を学ぶことになっていた。これは「自然学の後の書」と呼ばれていて、「自然を超えた事がらに関する学」という意味で、「超自然学」という意味で定着した。
これが日本に入ってきたとき、「超自然学」と訳さず、「易経」の繋辞伝にある、「「形而上者謂之道、形而下者謂之器(形より上なるもの、これを道と謂い、形より下なるもの、これを器と謂う)」という言葉から訳された。
●「理性」という言葉について
哲学でよく語られる、「理性」という言葉だが、これは普通に語られる意味では使われない。日本人が「理性」と呼ぶものは、人間の持っている認知能力の比較的高級な部分であるので、人によって理性的であったりそうでなかったりするものである。しかし、哲学の世界では、「理性」とは人間のうちにはあるものだがそれは神によって与えられたもの、つまり神の出張所ないし派出所のようなもので、したがってそれを正しく使えばすべての人が同じように考えることができるし、世界創造の設計図である神的理性の幾分かを分かちもっているようなものだから、世界の存在構造も知ることができる、つまり普遍的で客観的に妥当する認識ができるということになるのである。

では、哲学はどうして発生する必要があったかということであるが、プラトンの時代、彼はポリス間の闘争に敗れた祖国アテナイの政治をなんとかしたいと考えた。
スパルタとの戦いに敗れた要因となった、ある意味民主的な「なりゆきまかせの政治哲学」から、正義の理念を目指して「つくられるべき」ものに変革しなければならないのだという政治哲学を主張しようと考え、それを基礎づけるための「つくる」理論に立つ一般的存在論を「イデア論」というかたちで構想した。目差す道を指し示す超自然的存在が必要であったのである。
また、キリスト教では、キリスト教の教義体系を構築するための下敷きとして利用された。教義のなかで自然的な事象に関わるものを整理するにはアリストテレスの「自然学」を使い、神の恩寵や奇跡のような超自然的な事象に関わるものを整理するのには「自然学の後の書」すなわち、形而上学を使った。
これらは、真に、「存在するということの理由」を解明するというよりも、政治や宗教を効率よく進めたり広めたりするツールでしかなかったと言えなくもない。もとあった哲学的思考を政治や宗教のほうが都合よく利用したのか、それとも哲学自体が政治や宗教のために生まれたのかは定かではないけれども、どちらにしても思考の変化というのはえてして自分たちの都合の良い方向に向かっていく傾向にあるものだ。そう考えてしまうとなんだか、真理を求めているはずがそれに関わる人たちの心のバイアスが時間の経過とともにいっぱい盛り込まれてしまっているような感じになってくる。

結局、宗教も政治も宇宙が開闢したときから存在していたものではなく、それを補完するために哲学が存在するのなら哲学も宇宙や世界の真理を語っているものではないとなってしまうのだろうか。しかし、哲学から生まれた自然科学が宇宙や世界の真理を解き明かそうとしているのも事実である。となると、やはり哲学は、宇宙が開闢したと同時に存在し、人間はひたすらその姿を解明するために埋もれた土の中から掘り起こす作業をしてきたのだということになるのだろうか。どちらにしても、自らの存在理由を解明するためには、世界を俯瞰的に見るという、ある意味、神の位置、すなわち超自然的な位置というものが必要であったのだろう。

こういう複雑な思考というものもありなのだろうが、東洋思想の根幹のひとつである仏教の考え方である、自らは無から現れてまた無に帰っていく存在で、現世というのはその間に現れたコブのようなものなのであるという考え方のほうがよほどスッキリしていると思えるのである。

この本にはまだまだ理解をしなければならない哲学が満載されている。図書館で借りるだけでは追いつかないと思い、同じ本を買ってしまった。とりあえず手元に置いて暇なときにはパラパラとページをめくりながら理解を深めたいと願っているのである。


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