どうして『われから』なのか? 2003年07月21日 | 大学院修士2年(通学) 修論が12月と、徐々に迫ってきました。 しかし、自分の中では、これといってテーマがみつからず どうしてこんな状態なんだろう?と不安を抱えていました。 修論が書けるのかすら、不安になってきたのです。 けれど、その不安はある言葉をきっかけに一瞬にして吹き飛びました。 指導教授に挨拶へ行ったとき、修論に手がつかないことを話しました。 すると 「どうして『われから』なの?」 と聞かれ 「女性の自我の解放をテーマとした 一葉晩年の作品だからです。 『裏紫』にはない魅力があり、 作品が完結しており、研究もまだまだだからです」 と伝えました。 しかし、ふっと思ったのです。 なんであんなに『裏紫』で書いたときは頑張れたんだろう? (書いたもののレベルは別として) 追っていくと、『裏紫』は、お律の情熱的な部分が前面に出ていて、私的には気持ちいいくらい好感の持てる論文でした。 しかし、『われから』は、どこか情熱めいた女の部分があまり出てこない感じなのです。 かけない原因はここでした。 すると、見えてきました。 『われから』の情熱的な「これを伝えたい」 はどこにあるのか? また、そこに何を感じ、私は何を解き明かしたいのか? さぁ、一歩前進です。 指導教授に感謝です。 初心に戻ることの大切さを改めて実感しました。