まがりかどの先に

まがりかどの先にはきっと良いことがあると信じ、目の前の人生の小路をてくてく歩き続ける日々の雑記です。

津波を実感した日

2015年03月10日 | 日記

明日で東日本大震災発生からまる4年が経つ。                     

4年前のあの日、私は房総半島の太平洋側の小さな町の畑が続く道を車で移動していた。15時少し前、車ごと道がふわふわ揺られ、電線が大きく上下に波打った。
農道に車を止めて様子をみていると、ラジオから東北で大きな地震が発生し、津波の恐れがあるという警報が流れてきた。
まさか、こんな大被害になるとは夢にも思わず、「大きかったなぁ」と呑気に構えていたように思う。

私の住んでいる地域周辺では、関東大震災(大正)、元禄地震(江戸)などで数mの津波があったようだが、私の生きてきた時間軸の中では、津波は言葉の上の知識でしかなく、「今回も、だいじょうぶだろう」とたかをくくっていた。

ところが、情報網の混乱は予想外に急速に広がり、拠点の安否確認をしようにも、携帯電話はまったく役に立たず、とにかくその現場へ行って確認するしかなかった。
その後対策は進んでいるようだが、いざとなれば、また同じような混乱が起こるのだろう。便利さは脆弱なものだと思う。

このとき、家では、認知症が進んだ母がまだ一人で留守をしていた。
職場は、他の担当もいるが、家はどうなっているか見てくれる人はいない!
物の下敷きになっていないか、失火して火事でも発生させていないか、そんな事を考えながら自宅へ駆けつけ、無事を確認し、ひと安心した。

会社から「どこにいるのか?」という連絡が入り、「家に帰っている」といったら、(こんなときよく家に帰れるな的な)失笑をかった。
私は今でも、自分の立場からしか物が見られないその人の態度が忘れられない。

海辺の拠点へ駆け戻り、連絡がとれずに、帰店していない者を探しにでかけた。
その時、川の底が見えるくらい水が引き、しばらくすると川に沿って水が押し寄せてきた。

始めて目の当たりした津波だった。

河口付近では川の土手を超えて冠水したようだが、幸い私のいた場所は、土手を超えることはなく、ただただ自然の力の大きさに驚いていた。

20mもの津波のあった宮城県のある街では、津波対策の巨大な防護壁を作るのはやめ、自然の力に対抗するのではなく、地震があったら危険を察知して、速やかに逃げるシステムを街づくりの中心にしたという話を聞いたが、私も今はそれが正しい道だと思うようになった。

城壁のような巨大な防護壁に巨額を使うより、地震の発生を早急に周知できるシステム、高台へ速やかに避難できる道の整備・確保、高齢者、病人が避難しなくても良いように住宅地の高台開発など、長いスパンで街を作り直すことが大切なのだろう。

この数年間で三回ほど東北を旅してみたが、3.11での津波という天災部分は復興に動き始めているのではないかと感じた。

悲惨なのが人類史上最大級の原発事故だろう。

いまだ自宅に戻れず、仮に親世代は戻れても若い世代は放射能の影響を恐れて都市暮らしを続けているようだ。若い世代がいなければ、いずれは限界集落化し、故郷は消滅する。

除染しても除染物質のやり場はなく、袋に入った放射能物質の中で生活するしかない。

福島原発では、今も汚染水の海への漏水など、不祥事が続き、「影響はない」と発表はしているが、自然に与える影響は「わからない」というのが本当ではないだろうか。

地震は歴史上何度も繰り返され、その都度人は乗り越えてきた。
そして、これからも必ず発生する。

原発は安全神話の中で運転され、日本の原発事故はおきないとされてきたが、これは作り上げられた幻想だった。
地震・津波という想定外の自然の力が設備を破壊し、事故は起き、想定外が故のマニュアルにのっていない人災が重なり被害は拡大した。

最近では、事故の全容、放射性物質の処理方法などもまだはっきりしていない中で、休止中の原発再稼働に向けたニュースが流れている。

電気を使った便利で豊かな生活をするために、一部の普通に、穏やかに暮らしている人たちの生活の場を奪ってまで、原子力発電は本当に必要なのだろうか。
最終処理方法も確立できていない原子力発電でなければダメなのだろうか。
そんなにも電力はたらないのか。
私には解らないことばかりだ。

3.11は、津波を実感した日であるとともに、災害時の非日常生活を思い、生活スタイルを見直しす日にしている。

 

 

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