三門駅を出て左折すると、じきに国道128号線との交差点へでました。国道を横切って、その交差点を直進し、左手に自動修理工場がある辺りの先の路地から、海岸へ下りました。
文学とか文化人とか、まったくよく解らないのですが、多くの人が名作と評価したり、すごい業績だと認めたことをやり遂げた人は、すごい人なんだろうなぁという程度は最近解るようになりました。
今回は、そういう人たちが好んだ風景とか空気をちょっと感じてみたいというノリの徘徊で、当てもなくふらふら歩きがら雰囲気をたのしみました。
梅屋庄吉(日活創業者)の別荘跡に建つ顕彰碑に出合いました。森鴎外の別荘もこの周辺にあったようです。
明治、昭和初期、東京から蒸気機関車にひかれた列車で、土気のトンネルで真っ黒になりながら、海・山両方の自然がある三門の駅に降り立つ。
そこに住む人は、純朴そのもの。
人の雑踏からは距離を置け、両脇は江場土(長者町)、大原の商圏があり便利。
広い砂、松並木、潮騒がまじかに聞こえる癒しの空間は、海岸浸食、住宅開発でだいぶ失われていますが、静かな時間を過ごすにはきっと良い所だったのでしょうね。
日在浦にでました。
現在の九十九里浜の砂浜は、どこも消波ブロックがゴロゴロしていています。
昭和40年頃までは、ペットボトルも缶もなく、100m近くもきれいな砂浜が広がっていたのですが、いつの頃からか、こんなになってしまいました。
そして、その時間帯は、私が社会人現役として自分の生活の事ばかりを考えて過ごしてきた時間です。無力な個人ですが、なぜか反省しきりです。
時間というのは、ほんとうに取り返しがつかないですね。
大原海水浴場に近くなってきたあたりの自転車道路(遊歩道)です。
日在浦周辺では、完全に砂で埋まっており、画像右側のコンクリート壁の上を歩きました。
これも、発想はすばらしくても、結果として間違った施策で、早期に改める(中止す)べき施策かもしれません。
莫大な資金で道を作る。
自然の力で埋もれてしまう道を維持しようとすれば、無限大で税金を投入し続けなければいけない。
今どこをどうたたいても、そんな利権事業のようなことを続けられる余裕はないですよね。
この頃は、たいぶ疲れて来て、考えることも攻撃的です(笑)
大原海水浴場(塩田川河口)着き、一路橋を渡りました。
昭和初期にあった橋は、昭和44年に架け替えられ、更にあたらしい大きな橋ができていました。
現在の一路橋は、車道を主とした新しい橋の脇に、生活道として残っていましたが、素人の私の目から見ても、老朽化が進んでいました。
ちょうど日が傾いた時間でした。
こういう風景も、近い将来、橋の取り崩しと共に忘れ去られていく。
仕方のないことですが、少し寂しですね。
近く故に今まで行ったことがなかった、見学最終地、大原小浜八幡岬に向かいまいした。
漁港手前に、元禄地震の津波の高さを記録した表示物がありました。
ここ大原でも、2m近い津波があがったことが分かりました。
大原漁港です。
大原は、イセエビの水揚げ量は日本一だとか。
港を左手に進み、正面に見えるのが、大原小浜八幡岬です。
岬には、中世に土岐氏一族の小浜城があり、今は、小浜八幡神社が祭られていました。
また若山放水の歌碑など過去にこの大原の地を愛した文化人の歌碑などがみられました。
岬からの眺めです。
今は穏やかな綺麗な景色ですが、この八幡岬にも、終戦間際、六名の二〇歳前後の若者で組織された第7特攻戦隊第12突撃隊特攻「回天」基地跡があったことが伝えられています。
出撃することなく、終戦をむかえたとのことですが、敗戦色が濃くなってきた頃は、九十九里沖には航空母艦が接近し、連日のように機銃掃射と爆撃があったようです。
今日の最終目的地、JR大原駅に17時過ぎ到着。
ここは、いすみ鉄道の起点で、いすみ鉄道の大原駅が併設されています。
次回は、この大原を出発し、次の浪花(なみはな)駅を目指します。
三門―大原(営業キロ3.5Km) 2015年3月17日
実際に歩いた歩数 14,701歩(10.4Km)
上総一ノ宮―大原 トータル 45,479歩(32.3Km)