御宿を過ぎると、一番海側の道は国道128号のような感じになってきました。
海は直ぐ左側にひらけている(景色はいい)のですが、御宿~勝浦間は、『歩く人』にはとても怖い道でした。
特に、トンネルの中が怖い!
歩くスパースが狭く、車がぎりぎりの所を走り抜けていきます。
もう十分GGになり、なんとなく心も落ち着いてきている今、真っ暗だとか、幽霊が出そうだとかいうのはあまり怖いと思いません。
天寿、寿命のようなものであれば、それも受け入れる覚悟もできてきました。特に、子供の頃やり残したことで、今できる(思い残している)ことを後数年、できるだけやって、最期は、皆さんに助けられて、生保でも、孤独死でもいい。
そんな思いでのこのこ歩いているんですが、トンネルの中で車にひかれて死んじまったんじゃ、自分としても、事半ばだし、車の人の人生にとっても、大迷惑です!
国道とは別に、おそらく旧道が生活道としてあるのではないかと思います。そちらに迂回して歩けば良かったと事後反省です。
国道128号線をとぼとぼと歩いている内に、夷隅郡御宿町を抜け、勝浦市に入りました。
上の画像は、旧国道とバイパス(以前有料だっだ)の分岐点です。JR外房線も、この分岐点、画像でいうと右側に上っているバイパスの下を走っています。
房総には、紀伊半島などと同じ地名が残っている所がありますが、ここ勝浦も、徳島県勝浦郡勝浦町、和歌山県東牟婁郡那智勝浦町と同じ地名です。
ちょっと調べてみたら、そうとう昔の神代の時代、神武天皇の側近、天富命(あめのとみのみこと)とともに阿波国から房総半島に移住した勝占(かつうら)の忌部(いんべし=朝廷の祭祀を司る名門氏族)氏の名が由来だという伝説があるそうです。また、他の地の勝浦も同じく忌部氏に由来するようです。
昔々の実力者が、徳島(阿波)を開拓、平定した。更に勢力拡大のため、紀伊半島あたりを開拓、そこも上手く収まったので、黒潮の流れに乗って、房総半島へ流れ着き、海岸線を統治したノウハウで平定。白浜、勝浦などコピーで名前を付けた。
そんなところでしょうか。
4月から県立大原高校若潮キャンパスに変わった旧勝浦若潮高校前までくると、官軍塚、勝浦灯台の案内板がありました。
国道を直進すれば、駅へは近道なのですが、御宿駅へ入った時同様、左に折れ、海岸線を歩いて勝浦駅を目指すことにしました。
標識を左折すると、結構な上り道です。勝浦市役所、武道大学のみなさんのアパートが並ぶ中を、尾根づたいに歩いていくと、官軍塚がありました。
この場所は、戊辰戦争で新政府軍の援軍のため、横浜から函館へと出港した熊本藩士約350名が、勝浦沖で暴風雨に遭い船は沈没。勝浦の住民が救助にあたったが、乗員のうち約130名が犠牲になった。その慰霊の場所だそうです。
この話も、150年近く前の話ではありますが、まだかなり温度を感じる話ですね。
全国の海沿いの街には、こんな話はたくさんあるのかもしれませんが、近くに住んでいたもなかなか現地を訪ねることがなかった場所でした。
今回訪れた、3件目の遭難地点です。
官軍塚の展望台から臨んだ太平洋です。この辺りでトラブルにあったのでしょうか?
官軍塚から下りてきて、八幡岬公園へもまわる予定でいたのですが、ちょっと息切れ。朝市となっている方向(漁港)へ折れて、駅に向かいました。
勝浦漁港は日本有数のカツオの水揚げ港で、大型トラックが忙しく動いていました。
漁港脇を通って、朝市会場周辺を歩き、駅に入りました。
国際武道大学などがあり、若者も多い街なでの、無人駅も点在する中にあって、駅も活気のようなものを感じました。
JR勝浦駅で少し休憩して、今回の目標駅鵜原(うばら)駅に向け歩き出しました。この頃になると、カラ元気もカツカツになり、お疲れモード全開でした。
勝浦~鵜原間の国道には、画像左に見えるような歩道トンネルが併設されている所が多く、徒歩でも安心して通行できました。
最初に書いた、国道と併行しているであろう旧道ですが、上のような生活道がある場所が多く、国道を車といっしょに歩くよりは、こちらの方がウォーキングには安全だし、楽しいですね。
上を走っているのが、国道128号、左の少し高い所が外房線の線路です。
17時過ぎ、鵜原駅に到着しました。お疲れモードで到着のため、駅舎を撮影するのを忘れてしまいました。
人気のない駅に入り、上り電車で、車を置いた大原駅まで移動。今日のウォークも無事終了です。
次回は、駅舎を撮って、鵜原理想郷という景勝地を歩き、上総興津(かずさおきつ)方面に向かいたいと思っています。安房鴨川駅まで頑張って、外房線沿線ウォークゴールの予定。
御宿(おんじゅく)―鵜原(いばら)(営業キロ9.1Km) 2015年4月16日
実際に歩いた歩数 23,294歩(16.5Km)
大原―鵜原 トータル歩数 46,400歩(32.9 Km)