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大川小“証言”続けた少年

2016-03-24 07:30:00 | 報道/ニュース

3月11日 おはよう日本


東日本大震災で70人を超える子どもたちが亡くなった宮城県石巻市の大川小学校。
そのなかで奇跡的に助かった当時小学5年生の少年は
被災直後 学校が津波に襲われる様子を証言し
悲劇が広く伝わった。
しかしこの5年間は少年にとって苦しく厳しいものだった。

只野哲也さんは数多くの国際会議や会合に招かれ震災当日の様子を証言している。
「私は大川小が津波や地震の恐ろしさを後世の人々に伝えていくきっかけになってほしいと思っています。」
5年前の3月11日 大川小は津波に襲われた。
108人の全校児童のうち74人が犠牲となった。
只野さんは当時小学5年生だった。
奇跡的に助かった1人として震災直後インタビューに応じた。
(平成23年5月 只野哲也さん 当時小学5年生)
「津波がメキメキメキと来ててやばいと思って
 前向いて山の斜面をちょっと登った時津波にのまれた。」
学校が津波に襲われた時の状況を語り
大川小学校の悲劇が広く伝わるきっかけになった。
それから5年 只野さんは使命感から求めに応じて証言を続けてきた。
(只野哲也さん)
「自分のあの時に死んでいたかもしれないし
 なぜ生き残ったのか
 死ななかったのかと考えると
 一生懸命伝えなきゃいけない。
 伝えなきゃいけないというのが一番大きいですね。」
しかしいま高校では震災の話題を自分から話すことなないという。
証言を続けることは只野さんにとって少しずつ重荷となっていた。
震災直後から只野さんの心のケアにあたってきたNPOここねっと。
去年3月 会議で発表した後に開かれたNPOのメンバーを交えた慰労会で
只野さんは突然涙を流し始めた。
只野さんは証言する度に津波の記憶をよみがえらせていたのである。
(NPOのメンバー)
「俺だって全然回復していないのに
 回復しているとみられるのがとってもつらいんだ
 という話をしてくれた。」
「震災後 小学生らしい時間を過ごしていなかった。
 小学生の時のことは封印していた部分もあるし
 我慢していたところもある。」
さらに只野さんは周囲の声にも心を痛めていた。
NPOのメンバーが只野さんとのやりとりを記録したもの。
壁があるのに話しても通じるのか
否定する声が聞こえてくるとつらい
遺族の中には小学校で起きたことを思い出したくないという人も多く
証言しないで欲しいという声もあがっていた。
また被害の実態を知らない人の中には証言すること自体をからかうような声もあったという。
(只野哲也さん)
「『有名人だね』とか言われると
 いや別にそういうつもりで出ていない。
 人それぞれ捉え方があるし感じ方もあるからしょうがないけど
 あまりそう捉えてほしくない。」
只野さんはいまも定期的に大川小学校を訪れている。
傷んだ校舎をていねいに掃除している。
(只野哲也さん)
「ここの黒板 小学校のときは大きく感じたけど今はすごく小さく感じる。」
「昔の楽しかった震災前の思い出を思い出したりとか
 震災のときのつらい悲しい思い出を思い出したりする。」
決して消えることがない悲しみと恐怖。
それでもその体験を“みんなの代わりに発信し続ける”。
震災から5年
只野さんの決意である。
(只野哲也さん)
「慰霊碑の同級生の名前を見つけたときに
 『俺はちゃんと頑張ってるのかな』とか
 みんなができないことを俺が今してるから
 その1つ1つを大切に思い
 かみしめて生きていかないといけない。
 つらいのもあるけど
 伝えなければ。」
只野さんは今後も活動を続けながら
将来は消防士を目指して
災害から人を守る仕事に就きたいと話している。

 

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