大仏切通しの様子は、次のホームページが詳しい。
http://www.kcn-net.org/kiritosi/daibutu.htm
有島生馬が明治十八年の大仏切通の様子を述べているので紹介する。
「初めて私が横浜から鎌倉材木座海岸、海岸橋近い砂丘のかげに新築された小さな別荘へ来た事は妙にそこだけ覚えている。
明治十八年初夏で私は数え年四歳だった。
藤沢まで鉄道、藤沢からは人力四五台を連ね手広、笛田、大仏切通しと揺られ、長谷に着いた。云々」
っとあります。
鎌倉図書館の記録に、切通しは人力一台を通すのがやっとなので、2台すれ違えるように幅を広げたと書いてありました。
広げた切通しは、下にトンネルがある峠の切通しの様です。
藤沢側にある切通しは、使えずに脇道を作った様です。
その代わり、藤沢側の切通しは、鎌倉幕府が崩壊した後、手付かずで残ったと考えられる。
鎌倉へ西から入る事を考えたときに、
1、稲村ガ崎の波打ち際、
2、稲村ガ崎山中の仏法寺際の道、
3、極楽寺坂、
4、大仏切通し、
5、化粧坂、
6、亀返し坂、
7、小袋坂
があります。
しかし、まともに人力で通れるのは、明治18年の時点で大仏坂だけだったと考えるのです。
他の道は、山道同様で、人力車すら通せなかった事が想像できます。
もし、亀返し坂や、小袋坂が通れれば、大船から入ったほうが楽で、距離も短い。
私が知る限りは、
40年前の亀返し坂は、坂が急過ぎて、自転車で乗って降りれる状態ではなく、
人力車で降りようものなら、押さえが効かず事故を起こす。
昔は、更に上に坂が有ったようです。
50年前の建長寺前は、自動車一台を通すのがやっと、
昔の道の痕跡が、八幡様の方から行くと、左側を気にして歩けば見つかります。
化粧坂の梶原団地へ下る道は、私が自転車を降りて引いて下った程細い道でした。
では、大仏の道は、どれ程立派な道か?
ぜひ歩いてください。
http://www.kcn-net.org/kiritosi/daibutu.htm
このホームページは、とてもわかり易く書いてあります。
鎌倉七口については、是非このページを参照してください。
写真は火の見下のバス停と入り口。
http://www.kcn-net.org/kiritosi/daibutu.htm
有島生馬が明治十八年の大仏切通の様子を述べているので紹介する。
「初めて私が横浜から鎌倉材木座海岸、海岸橋近い砂丘のかげに新築された小さな別荘へ来た事は妙にそこだけ覚えている。
明治十八年初夏で私は数え年四歳だった。
藤沢まで鉄道、藤沢からは人力四五台を連ね手広、笛田、大仏切通しと揺られ、長谷に着いた。云々」
っとあります。
鎌倉図書館の記録に、切通しは人力一台を通すのがやっとなので、2台すれ違えるように幅を広げたと書いてありました。
広げた切通しは、下にトンネルがある峠の切通しの様です。
藤沢側にある切通しは、使えずに脇道を作った様です。
その代わり、藤沢側の切通しは、鎌倉幕府が崩壊した後、手付かずで残ったと考えられる。
鎌倉へ西から入る事を考えたときに、
1、稲村ガ崎の波打ち際、
2、稲村ガ崎山中の仏法寺際の道、
3、極楽寺坂、
4、大仏切通し、
5、化粧坂、
6、亀返し坂、
7、小袋坂
があります。
しかし、まともに人力で通れるのは、明治18年の時点で大仏坂だけだったと考えるのです。
他の道は、山道同様で、人力車すら通せなかった事が想像できます。
もし、亀返し坂や、小袋坂が通れれば、大船から入ったほうが楽で、距離も短い。
私が知る限りは、
40年前の亀返し坂は、坂が急過ぎて、自転車で乗って降りれる状態ではなく、
人力車で降りようものなら、押さえが効かず事故を起こす。
昔は、更に上に坂が有ったようです。
50年前の建長寺前は、自動車一台を通すのがやっと、
昔の道の痕跡が、八幡様の方から行くと、左側を気にして歩けば見つかります。
化粧坂の梶原団地へ下る道は、私が自転車を降りて引いて下った程細い道でした。
では、大仏の道は、どれ程立派な道か?
ぜひ歩いてください。
http://www.kcn-net.org/kiritosi/daibutu.htm
このホームページは、とてもわかり易く書いてあります。
鎌倉七口については、是非このページを参照してください。
写真は火の見下のバス停と入り口。