■ 記 2014年09月26日
皆さんは気付かれて居ると思いますが、、、
北鎌倉女子学園のグランドは、化粧坂から台峰、 鎌倉城の中の道、台峰、などの場面に出てきます。
煩雑なので記事を一貫性のある書き方にマトメようと考えました。しかしそれは無理な事に気がつきました。
単なる自然な山を頼朝が城を作ったなら話は単純で、鎌倉は「武家の古都鎌倉」と単純に一括りできるのだが、、、
その様な歴史の浅い土地では無いのです。
古代では東海道と東山道が鎌倉を貫き、、平安時代に道筋を変えた変遷があり、その上に防衛に害がある大道を塞ぐ工作をして鎌倉城に成る複雑さがある。古来の道筋は道幅が広く、防衛の害に成る大問題があります。
この防衛の害を取り除く事から城造りは始まるわけです。
戦後間もない時期までこの鎌倉城遺構は鮮明に存在したのは、今回の1946年後に撮影された空中写真でご理解いただけるでしょう。
各時代の為政者が、各々の考えで鎌倉の山を改造した結果、痕跡は一貫した考えでマトメラレナイ底の深さとなったのです。
そして、この60年間で800年維持された鎌倉城遺構は現状の土地開発で破壊されたのです。
例えば、この写真を解説すると、
大鎌倉城が前提の話であり、上の細いくぼ地(倉久保の谷戸・武蔵大路の痕跡とも考えられる)から峰を目指して攻め上がる新田軍をこの階段状の砦で迎え撃つ鎌倉軍。
戦法は、鎌倉軍は取り合えず砦を守る訳ですが、、、
攻勢が強く、一段上に退却する。新田軍は更に勢いに乗り一段上に、、、
それが鎌倉軍が仕組んだトラップ(罠)で馬蹄形の広場に新田軍が攻め込んだ処で一段高い三方から弓で狙い撃ちと言う訳です。
でも、これを道跡とすれば、、、朝比奈切通しより数段規模の大きな切通しと成る訳です。
その上鎌倉武士が城作りの為に作り上げた大道隠蔽工作の巨大さを実感できる場所です。
その切通しの道は、武蔵国衙・町田野津田・座間の星谷寺・水道道仮想伝路を通る武蔵大路の痕跡と考えるのですが、、、、
更に一番上の峰は土橋と成り隊列を組めずに堰水橋から攻め込む敵を一人ずつ始末できる仕掛けです。
頼朝が鎌倉市内に凱旋する時、堰水橋で隊列を整えた話があります。鎌倉大手の堰水橋・北鎌女学校グランドの土橋・化粧坂までの鎌倉大手道の話でもあります。
そして、この60年前の写真と現代の写真を見比べると、その城遺構はとても曖昧な状態と成りつつある。
世界一大きな城遺構の現状は「鎌倉城など何処に在るのだ!」と世界遺産を担当した内部から湧き上がった言葉です。そこまでは良いのですが、、、
最低な話として「鎌倉城は在る!」と反論をした人は無かった様子。
考古学者(埋蔵遺跡専門)と鎌倉市役所指導の資料で自分の考えが無い文化人が「武士の古都鎌倉」を推進した役員だったと想像する訳です。
教養というのは、物の見方考え方を確立し大所高所から話をできる人。専門外でも提出された資料に切り口の違う視点で論評できる方の筈ですが、、、
私は、専門家ではなく、鎌倉城に興味があった訳ではありません。
古代東海道の痕跡を求めて書いているだけです。その痕跡が不自然な消え方をしているので、その基に頼朝の鎌倉城作りが絡み謎解きを始めただけです。
古代東海道の痕跡を求めて書いているだけです。その痕跡が不自然な消え方をしているので、その基に頼朝の鎌倉城作りが絡み謎解きを始めただけです。
これは、既に此処で書かれたダイジェストですが、一本の話にマトメルのは年代、考え方の根本が違い無理です。
写真は、国土地理院の空中写真アーカイブより。
こんな鮮明で条件が良い写真は稀で、国土地理院の情報公開の賜物です。
樹木が無く、地形をダイレクトに観察でき、鮮明な画像も稀で少ないのです。
撮影機材の良否、時代による樹木状況、撮影時間の陰影、季節の樹木、撮影現像テクニック、フィルムの保管状況など色々な要素が影響し良い写真は少ない。
海蔵時裏の大堀切と幾多の共通点があり、工作方も定番の様です。
他の場所に幾つもこの大道を埋めたパターンと、戦う砦パターンがあり、紹介をする必要を感じています。
■ 記 2014-10-15
1、天神山
2、化粧坂
3、葛原ヶ岡神社
4、北鎌倉女子学園グランド
5、北鎌倉女子学園校舎
6、武蔵大路痕跡と考えられる
7、武蔵大路を塞ぐ土橋
8、海蔵寺土橋
化粧坂は鎌倉の大手とされているのが定番です。
しかし、化粧坂は、鎌倉城七口の防衛ラインの内側です。
では、外部から鎌倉へ入るには何処が入り口でしょう。
それを誰も書かないのです。
書かない理由はキット、、
○文献が無い。
○化粧坂に相当する道幅が無い道ばかり!
しかし、
大鎌倉城は守りが固く構造から通れる場所は限られ、ヒントさえ有れば、出入り道は特定できる。
しかし痕跡は新田軍鎌倉攻めで封鎖され、大正時代まで通行不可で廃道であった事が伺える。
脇に回り込める道が作れたら、本道は破棄される例は、大仏切通しにある。
どの様な封鎖なのか? 大仏切通や朝比奈の切通でも書いた。敵が攻込んでも越えられない土壁で、大仏切通の藤沢側は脇道を造り、本道が破棄されて鎌倉落城の切通し封鎖のままの生々しい土壁姿が残った。現物を見て実感されると良いのですが、、、
決して、太平記の極楽寺坂で書かれた、「木戸を固めて」と言う生易しい守りでは無く、数メートルの土壁を作り道路封鎖をした。
所詮 戦闘に加わった人間の記述とは違う、、数十年後の又聞きの記述です。
半端な文献を信奉するより、現実が在りますからご覧ください。
緊急の七口封鎖とは別に、時間を掛けた工事ならば、海蔵寺裏の大堀切と称する封鎖があります。
今回の話は、海蔵寺裏の大堀切の封鎖が基になります。
これらの隠された切通し痕跡は、現地を調べても、、、巨大過ぎて人工の土壁とは思えないほどの巨大さです。
上空から巨視的な目で見て初めて理解できる場所です。
それには、木が少なく地表が観察できる戦後間も無い航空写真の鎌倉の存在と、それを解析する立体視が必要となる。
梅松論より
>「陸奥守貞通(北条氏)は中の道の大将として葛原にて相戦い、、、」
この葛原が、新田義貞が化粧坂を目指して兵を進め実際の攻防を行った場所であり、鎌倉軍の守りは強固で新田軍は攻め込む事が出来ず、稲村に向かった訳です。(梅松論と太平記を比較してもこの部分は矛盾しない。)
問題は、化粧坂を攻めている新田軍は、何故葛原で戦ったのか?
その先に在るのは化粧坂です。
恐らく、鎌倉幕府も「鎌倉攻め」はこの場所から攻撃されるで有ろうと予測していたと遺構から考えられるのです。
新田義貞は、この台峰の砦を攻撃し、激しく戦った場所は台峰の付け根に当たる「葛原」で有ったと古文献にある。