鎌倉街道 を探そう! 古代東海道痕跡to鎌倉城と    

古代東海道は、鎌倉城を作る為に頼朝に封印された! 地図、写真で紹介。

大鎌倉城 台峰上(化粧坂の砦)

2014年10月17日 | 切通し
■ 記 2014年09月01日
> 待ってました! (isana)
> 土橋(?)上の道が、頼朝以前にまで逆上ることのできる古道である
 > のは、考古学調査の結果からも、どうやら間違いないようですよね。
 あのグランド周辺を掘り返して3m程の道路遺構が出土した話が有りますが、、
ご存知でしたら詳細を知りたいのですが、、、

> また、臥龍峡へ向かう台峰上も、平場っぽい地形の連続です
> (戦中は畑でもあったようですが)。
> ということで、グラウンド周辺の防衛遺構の配置について、お考えを
 > もう少しご教示願えませんか?
 
 話は、「臥龍峡」より北西の台峰先端です。
青いラインは、化粧坂より北鎌女子グランドを通り、先端の赤丸地点迄が台峰で、その南側の谷は「倉久保の谷戸」と呼ばれる場所です。
この倉久保の谷戸には、北大路魯山人が魯山人窯芸研究所・星岡窯を作り、現在は、山崎小学校の脇で「臥龍峡」の名を付けたのも魯山人です。
この「臥龍峡」は、山崎小学校を作る際に東側の壁を破壊し、車が通行出来る様に道幅を拡張された。どの様な切通しで在ったかと言えば、似た様なのは長窪の切通しです。
途中の細いピンクのラインは「臥龍峡」の切通し。
更に先の赤丸が今回の問題にした砦跡です。
「臥龍峡」に切り裂かれた独峰で峰の先端まで600mあります。
これが、砦と想定して、、地方に在る山城と比較しても中程度の大きさですから、、
この事から、鎌倉城の巨大さを考えて欲しいと思います。
現在は単なる住宅の山に成っていますが、、、

上の写真を立体視して頂きたいのですが、、赤点の間が、自身の両目の幅より狭くなるように「ブラウザー」の表示を調節して下さい。(インターネットエキスプローラですと、ギヤマークより拡大縮小を使う)
これを砦だと主張する訳です。  根拠は????次回へ

国土地理院 アーカイブ空中写真を使用。
地図はgoogle地図を使用。

■ 記 2014年09月02日
如何ですか?平地から峰まで人工的な傾斜でしょ? 長さ600mは地方の山城の規模が在ります。
山を加工したのは、必要な処だけではなく、全山人手を使い加工された事が伺われる。

それでも「砦の証明にはなら無い?」そうお考えなら、、、、
この山の平地(峰)に上がる事を考えて下さい。
質問は「貴方は何処から峰に上がりますか?」
         その答えは「上がる場所は一箇所しかないでしょ?」
その上がる場所でも、下に居る敵を上り道から攻撃し易く、上り口から進入する敵を更に上から攻撃しやすい構造をしている。
その様な場所が砦とか城の構造です。
鎌倉は三方を山に囲まれた天然の要害ではなく『三方の山を利用して、鎌倉幕府は人工的な砦を作った。』
鎌倉城は人手を使って作り上げた人工的な要塞で自然地形は極めて少ない低山です。
自分で詳細を調べた事の無い人が『鎌倉は、三方を山に囲まれた要害の地』を基に伝言ゲームを始め、「三方山に囲まれた天然の要害」と成り、挙句は『鎌倉に城は無かった!』と言う話が始まった。
 物的否定根拠が無く鎌倉城は無かった論が展開されている。最初から科学的に切岸の全容すら調査されていない。
鎌倉城が有る派も無い派も資料が無く論議が始まった非科学的論争です。
 その資料の無さをイコモスから指摘され、、、
>> イコモスから「武家の古都・鎌倉」は都市全体、鎌倉の市街地全体を
> 含めた構成資産とみなされた結果、物的証拠がないか、不足している
> か、あったにしても薄弱で「非常に物証にむらがある」との評価に
 > なってしまいました。
この切岸データすら無い調査不足が「武家の古都・鎌倉」が一番大きな登録敗因で、関係者自体が鎌倉城の知識の無さと調べる興味の無さが根底の問題。

自分の考えが無いと、、肩書きの有る人が講習会で話すと信用してしまうのですね、、、
自分の見た目を基に、自分の考えを組み立てる人は少なく、知識が教養と思う方が大半のようで、鎌倉を守ろうとするボランテティアの方まで、城は無い派に成りつつある。
目の前の山を散策すれば、実感で普通の山とは違う事を感じると思いますが、、、
『文献が無いから鎌倉城は無い!』とするのは、非科学的な思考法で現実の山を見れば城壁遺構を確認できる話です。
それでも理解できなければ、その切岸を墜落覚悟で登ってみるが良い。
草木に掴まって登れても、当時は禿げ山状態であったはずです。
私は丹沢の沢登りが趣味でしたが、、鎌倉の切岸は丹沢の沢より数段怖い!

谷戸の平地に畑の跡を見てこれは切岸では無く、「畑の跡です。」っとコメントした指導者(本を出版)が居たそうです。第二次世界大戦のときに甲子園のグランドに畑を作ったのですが、『甲子園野球場では無く、畑の跡です』なんていう屁理屈が成り立つ。不要の平地には畑を作るのが通常です。
この手のクダラナイ反論で無ければ、お受けします。
ただし、最低限立体視をマスターして下さい。

■ 記 2014年09月10日
取り合えず、、、
臥竜峡から化粧坂へ向けての峰を北鎌女子グラウンド迄の状態です。
極端に違うのは、
自然保護の名の下に、木を切るのは法律違反!
その結果、
里山として管理され燃料で使われた樹林は放置されて800年間の管理がこの70年間で途絶え、木の根が破壊を起こし始め、歴史のある景観は樹林に隠された。
峰に上がるのを阻止する切岸は樹林で観察を出来なくなった。
観察出来ないから、鎌倉城は無かった事にはならないし、そんな遺構が在ったなど知らなかったでは文化人の名が廃る。
世界遺産登録に際し山間部の調査と提示出来ない基です。
800年続いた歴史的景観を数十年で消し去ったのは写真の比較で証明できる。

この場所を、
大手が安く買占め住宅地にする訳ですが、鎌倉市政はこれが世界遺産に絡む鎌倉城跡では、困るでしょうね、、、
 結果は「鎌倉城は無い事」に動き出したようですが、、、
ご要望があれば、もっと画像が鮮明な物も用意が有ります。
写真は、国土交通省のアーカイブ空中写真。

■ 記 2014年09月12日
「台峰の臥龍峡先」の砦の大手に当たる場所です。
入り口が2箇所あり、赤淡色のラインで書いてあります。
更に峰に上がる時は、登り道は一つです。
後世(戦国時代)の城作りの原点にある形態と思います。
この砦は工作の規模と人手の掛け方が地方より数段中身が濃いと思います。
明確な砦構造であるが、資料は一切残されず住宅になっています。
これは、鎌倉城の極一部です。国土地理院の情報開示の条件が良くなり高画質画像がダウンロードできる様に成った成果です。

砦の言葉は同じでも、この場所は、攻め込む敵を排除する構造であり、、、
北鎌倉女子グランドの砦は、攻め込ませてワザと敵に不利な場所に誘い込み、攻めて来る敵を抹殺する罠としての構造が在ります。
鎌倉市内に攻め込む敵を、効率よく抹殺する為に、敵を中央に大勢集める広場を作り、馬蹄形の一段上から弓矢で狙い撃ちするわけです。
それには、攻め手が烏合の衆的に大勢集まって欲しいので、攻撃態勢を整えられる広場を作った!
周囲が敵の真ん中に、タッタ一人で踏み込むのは幾ら「先陣争いで功を挙げたくても死んだら嫌でしょ!」仲間が居れば心強いし、勝てるかも、、なんて思うわけです。
罠は、敵が入り込んでくれないと罠の効力が働かない。
砦の形に思うのは以上の理屈です。
このパターンはこの周囲に幾つも在るのです。
この台峰先端の砦は守る一方の砦で、無視して通過し化粧坂方面を攻撃すると、この砦から兵や騎馬隊が出て化粧坂を攻撃する敵の背後を襲う事が考えられる。
新田義貞が「化粧坂を攻撃した!」とは、水堰橋から化粧板へ向かう鎌倉城の大手道のある台峰の砦を攻撃し、化粧坂に入り込む作戦を示すわけです。
今言われる化粧坂で戦いが起きた訳ではない。

PCの場合。Webブラウザーの幅を狭くすると、写真も狭くなり立体視がし易くなります。
国土交通省のアーカイブ空中写真。
コメント (4)
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