鎌倉城の巨大な理由は、蒙古襲来にある!
コメントより『とうとう元寇説に至ったか (怒れる鎌倉市民)』
> その説は古いのだよ。すでに論破され過去のものだ。
>博多湾の元寇防塁をご存じだろう。
> なぜあれほどの大工事を(疑問)幕府は突貫工事で作らせたのだ?
歴史の流れ(経過)を追えば、赤マークの答えは出るのですが、
(怒れる)さんは 何故(?)を付けたのか、、、
その様な歴史の理解や、自分で調べたり考える事が苦手ですか??
蒙古襲来のダイジェスト前半
第一回使節1266年「大蒙古國皇帝奉書」を作成し、使節団を日本へ派遣
1271年 鎌倉幕府は鎮西に所領を持つ東国御家人を向かわせ、蒙古襲来に備えた。
第六回使節1272年使節団を日本へ派遣したが服属しない為、武力侵攻を決断する。
1272年 鎌倉幕府は元軍襲来が予想される筑前・肥前・博多津の沿岸を警固させた。
1273年 幕命で、戦時に備えて豊前・筑前・肥前・壱岐・対馬の御家人領の把握のため、御家人領に対して名字や身のほど・領主の人名を列記するなどした証文を持参して大宰府に到るように、これらの地域に動員令を発した
■文永の役 1274年10月3日『蒙古襲来』
戦艦300隻を含む726〜900艘の軍船が総員27,000〜40,000人を載せて、朝鮮半島を出発。
対馬侵攻 10月5日
壱岐侵攻 10月14日
肥前沿岸襲来 10月16-17日
博多湾上陸 10月20日
赤坂の戦い
鳥飼潟の戦い
百道原・姪浜の戦い
日本側の史料『金剛仏子叡尊感身学正記』は「十月五日、二十日、博多に着き、即退散に畢わる」
1266年の第一回使節から六の使節があり、その間十分な期間が在ったのですが、元寇防塁等、造らなかったのです。
文献より、10月20日に博多で戦い翌朝には船団の影は消えていた。
幕府軍は、大宰府の水城まで撤退させられていた。
翌日の攻撃に怯えていたら、博多湾から船団は消えていた! ッと書かれている。
『安国論私抄』には、
元軍の損害は捕虜27人、首級39個その他の損害を数知れず。
日本人の損害については戦死者195人、下郎は数を知れず
この文で、幕府軍が勝利をしたと考えられるでしょうか?
文献を調べれば、日本軍が苦戦している文章が多いのです。
結果は元軍を甘く見た為に、シタタカ攻め込まれ損害を受けた!
その証拠に直後から石築地を造りはじめ、弘安の役には博多湾に20kmの元寇防塁となった。
これは膨大な距離と大工事で、元軍に対する恐怖の証と言う訳です。
「元寇」「対馬侵攻」「壱岐侵攻」「肥前沿岸襲来」をキーワードに惨状を調べれば、何が恐怖であるか理解できるでしょう。