鎌倉街道 を探そう! 古代東海道痕跡to鎌倉城と    

古代東海道は、鎌倉城を作る為に頼朝に封印された! 地図、写真で紹介。

鎌倉に城は無い!大宰府 3

2016年04月11日 | 鎌倉に城は無い!


    写真は「福岡市の文化財」の掲載より引用。
蒙古襲来で、鎌倉幕府はどの様に防衛を考えたのか?
それが問題です。
一回目の文永の役は、武力で簡単に追い返せると甘く見たのですが、
鎌倉幕府の立場では、追い返せずに攻め込まれ、挙句は海岸線より10㎞内陸の水城まで撤退する事になった。
元軍の立場では、日本軍の反撃が思う以上に強く、長引けば日本の援軍が増えて困難になるのでこの程度痛めつければ良いであろう!程度で引き揚げた。
戦いの勝敗の行方を知りたい方が大半ですが、、、
白黒を付けられる程、単純な話では無いと思います。
鎌倉幕府には、国の存亡に係る程強敵に思えた。
これが、石築地(いしついじ)と呼ばれる20km
に及ぶ大工事のを造った基にある恐怖です。

> とうとう元寇説に至ったか (怒れる鎌倉市民)
> なぜあれほどの大工事を幕府は突貫工事で作らせたのだ?
> だいたい、そんなに元寇が怖いなら、内陸に拠点を移すべきだろう。

(怒れる鎌倉市民)さんは、二重の間違えをしています。
内陸の拠点は、すでに白村江の戦いに敗れた日本軍が唐と新羅軍の侵略を恐れ、660年代に大宰府を守る城を10km内陸に造って在り、これで十分防げると考えた。
文永の役で元軍に追いやられて鎌倉幕府軍が撤退した水城が大宰府を守る「城」です。
戦う城では無く、大宰府の市街を外国の侵略から守る城で鎌倉以前に同様な考えの城が在った訳です。
憶測としては、、
そんな城では守り切れない元軍の攻撃を感じ、元軍を迎え撃つ為の仕掛けを考えた。
この元寇防塁と呼ばれる 膨大な工事の石築地を関西の兵力で造ったのが現実です。
何故 国の存亡が掛かる戦いに関東は力を貸さなかったのか??
元軍が鎌倉に攻めてきた時の築城で 余裕が無かったと憶測するのです。
結果は鎌倉城の切岸として、20kmを優に越える防御施設が作られた。
 >(怒れる鎌倉市民) そんなに元寇が怖いなら、内陸に拠点を移すべきだろう。
 ご指摘の通り、、鎌倉に拠点があり、防衛の補強をしたと考えるのです。

鎌倉に城は無いとする考え方は、戦う為の中世以降の城を基準に考えたのでしょう。
その見方で鎌倉城を考えるのは非常に視野が狭く、歴史や実在遺構を無視したのでしょう。
戦う城は『総構え』の小田原城でも江戸城でも、最終的には市街を捨て天守に武士が立て籠もる構造をしている。
総構えは市街を守る城では無い。

鎌倉以降の日本では、市街を守る為の城を私は知らない。

コメント
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