鎌倉街道 を探そう! 古代東海道痕跡to鎌倉城と    

古代東海道は、鎌倉城を作る為に頼朝に封印された! 地図、写真で紹介。

鎌倉に城は無い!大宰府 4

2016年04月12日 | 鎌倉に城は無い!


  元寇の有った鎌倉時代に、どの様な戦い方をしたのか?
  絵に描かれた様に、土手の上から弓矢で射る。
  騎馬を使う。
  ご覧の通り、、、の戦法です。

〉「八幡ノ蒙古記」
〉「日本の軍の如く、相互に名のりあひ、高名せすんは、一命かきり
〉勝負とおもふ処に」武士同士が名乗り合う一騎打ちの状況を蒙古と
〉戦う時にもやっていた訳です。
〉功名心と先駆けで、褒章目当ての戦い方が、この時の戦い方です。
〉一騎だけで元軍に飛び込んだ結果、集団で囲まれ返り討ちにされた
〉武将が多かった様です。

第七回使節が来日したのは、文永の役(1274年)後の1275年でしたが、元軍が負けて逃げ帰ったなら、一年後に(日本は元に服属する様に!)と言う使節は送らないでしょう。
これが、元軍は負けて博多を引き揚げたわけではない根拠です。

その後、第八回使節が送られたが斬首され、家来を元に送り返したのでビライ・ハンは怒り「弘安の役」となる。
元寇防塁を造ったのは、文永の役(1274年)から、弘安の役(1281年)の間であり、
鎌倉城が作られたのも、同じ時期とかんがえるのです。

 元寇防塁(石築地)の高さは2m前後。総延長は、約20kmと言われる大工事を作り上げる力を関西の武士団は持って居た訳です。

鎌倉幕府の権力の末端で、これだけの大工事をやるだけの資産と人力と計画性があり、中枢の鎌倉で、これより貧弱なハズは無い! っと私は憶測するのですが、、、、
関東武士団は、攻めてくる元軍に対処する石築地を造るのに手を貸さず何をやっていたのか?? の疑問の回答で憶測ですが、
鎌倉に元寇に対抗する城を造っており「博多に手を貸す余裕が無かった!」
と考えれば 説得力が有るでしょ?
日本中の武士を鎌倉に集めて元寇に対抗する城です。
それが、大き過ぎる城の正体と考えるのです。

写真は、(ウィキペヂアより引用)

コメント
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