
鎌倉城の範囲をピンク色のラインで囲みました。
「コメントより 3」に投稿されたコメントですが、、、
> (英)さん
> (個人的には、初期の記事から貫かれていた、
> 頼朝による大規模な地形改変の話との整合性は気になりますが。)
頼朝時代にも要害遺構が有ったと考えますが、、、
対国内向けには、東海道や東山道の出入り口を塞ぎ、七口を囲む程度の城郭で事が足りたと思います。
新田義貞を迎え撃つ体制の時は、洲崎で戦ったとの話ですが、守勢に入った途端七口の防衛ラインに後退した。
「イザ!鎌倉。」の言葉の様に、七口の防衛ラインだけでも、巨大な城であり関東一円の武士が集まらないと守れない大きさです。(この時点で鎌倉城は元寇対策という考えは、ぼ輔に全く無かった訳です。)
現在の遺構は更に上回る土木工作をされた元寇対策の城遺構であり、頼朝時代の遺構はこの時点で大幅に改造され、頼朝時代の城郭痕跡は消えたと考えています。
頼朝時代にも要害遺構が有る と考えれば堰水橋から化粧坂に向かう途中の北鎌倉女子高のグランド上の土橋や、海蔵寺裏の大堀切の土橋等が考えられる。
不思議に思うのは、鎌倉の要害遺構の学術的調査をされていながら、、これ等の要害遺構の資料を無視して、、
何故? 「鎌倉には城が無い!」説がマカリ通ったのでしょうか??
更に、知っている者が何故反論をしないのでしょうか?
恐らく、、学者達に既知の戦国時代から江戸時代迄の城のイメージが有り、鎌倉の部分的な要害遺構が鎌倉の街を守り、「一貫した考えの巨大な城郭」とは考えていない結果だと想像します。
更に
鎌倉を守るのが七口の防衛ラインですが、元寇対策を考えた時、
三方の山と一方の海で守られているハズの海が、元寇が押し寄せる通り道となった訳ですから、、、
由比ガ浜に作った防衛遺構(鎌倉石で造られた石築地)が破れた時の対策で、
「鎌倉の街は守りを放棄して、」
それでも、元寇を打破するのが戦いという訳で鎌倉の街に向けた切岸は、この時点で造られたと考えるのです。
要害遺構の学術的調査をされていながら、反論しない元は、鎌倉の切岸を調べた資料が無い為です。資料が無ければ城郭遺構の全容は解らない訳で、何も言えないのが真面目な学者ですから。
それ以前の時代は、平安京,平城京伴にこの様な防衛遺構は無かったので日本史上初と言いたいが、
前例が有り、朝鮮半島の白村江で大敗した日本軍は、唐・新羅連合軍が日本を襲う事を恐れ、大宰府を守る水城を造った例が有ります。
負け戦の恐怖が 水城を造る動機で、元寇の時は水城に鎌倉幕府軍が逃げ込み、水城を造ってから600年後に役に立った訳です。
部外者には、根拠不明な理屈が多くて理解できない考古学の世界です。