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鎌倉街道 を探そう! 古代東海道痕跡to鎌倉城と    

古代東海道は、鎌倉城を作る為に頼朝に封印された! 地図、写真で紹介。

鎌倉城と蒙古襲来5

2017年03月13日 | 巨城対モンゴル

   鎌倉市内に向けた切岸の例
   (中央にある峰は、見越しヶ嶽と言われる鎌倉文学館の在る峰)
鎌倉城は、国内の勢力争いに使う目的では、大きすぎる。
国中の兵士が終結し、砦に配置されて機能する城です。
この様に巨大な城郭が有りながら、調査も無く資料も無い。
地方の氏族が勢力争いで造ったローカルで小規模の城跡が総て(日本城郭大系で書かれたモノについて、)ですから、
専門的に調べる研究者程、この鎌倉の巨大な城郭は想像外で有った訳です。
最大の城は、江戸城と考えています。
江戸城でも、国内の勢力を抑える城で、外国へ向けた城では無い。
良く解釈して、七口を結んだラインが城と解釈されている。

元寇と呼ばれる世界最大の国が日本を攻めて来た。
当然それに対抗するのは、世界的巨大な城が必要となる。
鎌倉城がそれ程大きい城とは誰も考えなかった。

『吾妻鏡』で千葉介常胤は、
『当時の御居所はさしたる、要害な地にあらず、また、御嚢跡(先祖由縁の地)にもあらず。速やかに、相模国鎌倉に出てしめ給う可し』と勧めたと言います。
この言葉の暗示は現代まで生続け常識となっている。
現実の遺構を見ないで、文献に頼った机上論が現代まで続いている訳です
更に、
白村江で敗戦し、唐・新羅軍の脅威から水城を造り、国を挙げて防衛を考えた。
万葉集に防人の歌が有り、鎌倉からも防人に九州まで出向いた訳です。
この様に鎌倉以前に大宰府に前例が在ります。

九条兼実が日記『玉葉』の中で源頼朝の本拠地を「鎌倉城」と記している件でを研究され
 城=戦闘用ではなく、住居であると解釈する話がある。
平安の時代以前から在る大宰府を守る水城は無視して結論は出された。
コメント
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