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鎌倉街道 を探そう! 古代東海道痕跡to鎌倉城と    

古代東海道は、鎌倉城を作る為に頼朝に封印された! 地図、写真で紹介。

旧東海道の道幅1

2018年07月13日 | 古代東海道
街道の道幅
例えば、江戸の東海道ですが、、、
街中は道幅が広く作られていた様子です。
今では街中の道路は車を通す為に更に広げられ一部例外を除き、調べようが在りません。
木曽路の妻籠宿や馬籠宿。東北の大内宿などを見ると結構な広さが有ります。
その一部例外の大内宿は、下図の通り!(大内宿観光協会チラシ)

しかし、
箱根の例をあげますと、宿場を外れると、、、
写真のごとくの両手を広げた程度の幅です。
当時の考えからすれば、一間(180㎝)の幅が定番のようです。

湯本方面より登り、畑宿に出た場所。

白いガードレールの脇の茶色い柱が江戸東海道の標識で、一間ほどの幅です。

更に関所に向かい登る畑宿の出口です。

やはり、石段と茶店の間は、一間ほどの幅の道でこれが江戸東海道です。

秦野市渋沢から川音川に降りる矢倉沢街道の道幅は、

この様に車止めから先の道がオリジナルの様で、昔を知る古老は矢倉沢街道の道幅は「一間幅」と言っています。
江戸東海道の戸塚宿より分岐する大山街道も同様に戦前は一間の道幅となっています。
同様に、篠窪の富士見塚の脇の道も昔は「一間」の道幅と言われている。
さて、
古代の東海道ですが、
十里木峠から足柄峠を越え秦野大道へ向かう道は「五間」(9m)の道幅の中路規格で、下大槻道路遺構でも平塚の道路遺構で証明済です。
この辺りを通過したハズですが、
目に見える「一間」の道幅と古代東海道の「五間ー9m」の道幅は違いが大きすぎる。
どの様なカラクリなのでしょうか??


現代の道路事情しか知らない人間には、感覚的には理解できない街道幅の狭さであり、、
昭和初期の人間には、古代東海道の9m幅の道の巨大な広さは驚愕で有った訳です。
戦後の国道一号線は、コンクリート舗装にして2車線(上りと下りの区別にセンターラインを引いてある2車線です)その舗装部位は6m程の道で有った。
それが、近代的な戦後の国道一号東海道で有った訳です。

処が、掘り出した東山道武蔵路や古代東海道は、道幅9mで両側側溝を含めると12mの道で有り、尚且つ舗装がしてあったのです。
それも、奈良から神奈川県の平塚まで9m幅の古代東海道が確認されている。
江戸東海道など、貧弱の極みで比較するのも、、ハバカル巨大さで有った訳です
コメント (1)
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