前回は、箱根の山中では江戸東海道でも、道幅が狭くて当然かも、、、
なんて思われた方も居るでしょうね!
そんな訳でダメ押しです。
場所は、横浜の保土谷宿と戸塚宿の間に江戸東海道が残っているのです。
その景観は土地開発で跡形もない状態ですがその道幅が見所です。
場所は権太坂や品濃一理塚という名の場所です。
真ん中に大型車侵入禁止の標識がある道が江戸東海道です。
普通車一台が通れる道ですが、、、これですら、普通車が通れるように道幅を拡張したと考えられる訳です。
この権太坂は、江戸を立ってから最初の難所と言われた坂で、、、
現在でも、箱根駅伝で「権太坂」の難所として有名ですが、、、
箱根駅伝の道は明治時代に権太坂(江戸東海道)を避ける東海道(現国道一号線)を作りました。
理由は、江戸東海道の権田坂が急過ぎで、ルートを変えて作ったのが現在の国道一号となり、江戸時代の東海道が手付かずに残ったのです。
写真は、保土谷宿の出口で権太坂へ向かう場所で戦前の写真と現在です。
とは言え一間幅(1.8m)では、普通乗用車は通過できませんから、微妙に拡張されている様です。
国道一号線現東海道の300m程西に寄った場所に旧東海道が有ります。
その様な訳で、、、
江戸時代の一級街道の東海道でもこの狭さであり、、戦国時代には街道を作る余裕は無く、鎌倉時代の道は、広くて3m程の道であり、大半は馬一頭が駆け抜ける幅の道が鎌倉街道と言う訳です。
結果は、広くて立派な道は平安時代又はそれ以前の道と考えられるのです。
地方で見受けられる道幅6m程の立派な鎌倉街道は、古代駅路の視点で再考する必要が有ると考えます。
(鎌倉幕府の周囲で幹線の鎌倉道が3m程度なのに、、何故地方だと6mの道に成るのか?理屈が理解できず、更に古代駅路の知識が有って述べているのか?疑問です。)
その様な訳で明治維新後の街道は、道を拡張しないとバスは通せない状態であり、
バスを通しても一車線が当たり前!
すれ違いに、退避場所で対向車が過ぎ去るのを待つ道路事情が50年前でした。
2車線は神奈川県でも60年前は国道一号線(東海道)だけでした。
さて、、問題は秦野市周辺の山中に在る一間幅の街道と、古代東海道の関連が問題なのです。
なんて思われた方も居るでしょうね!
そんな訳でダメ押しです。
場所は、横浜の保土谷宿と戸塚宿の間に江戸東海道が残っているのです。
その景観は土地開発で跡形もない状態ですがその道幅が見所です。
場所は権太坂や品濃一理塚という名の場所です。
真ん中に大型車侵入禁止の標識がある道が江戸東海道です。
普通車一台が通れる道ですが、、、これですら、普通車が通れるように道幅を拡張したと考えられる訳です。
この権太坂は、江戸を立ってから最初の難所と言われた坂で、、、
現在でも、箱根駅伝で「権太坂」の難所として有名ですが、、、
箱根駅伝の道は明治時代に権太坂(江戸東海道)を避ける東海道(現国道一号線)を作りました。
理由は、江戸東海道の権田坂が急過ぎで、ルートを変えて作ったのが現在の国道一号となり、江戸時代の東海道が手付かずに残ったのです。
写真は、保土谷宿の出口で権太坂へ向かう場所で戦前の写真と現在です。
とは言え一間幅(1.8m)では、普通乗用車は通過できませんから、微妙に拡張されている様です。
国道一号線現東海道の300m程西に寄った場所に旧東海道が有ります。
その様な訳で、、、
江戸時代の一級街道の東海道でもこの狭さであり、、戦国時代には街道を作る余裕は無く、鎌倉時代の道は、広くて3m程の道であり、大半は馬一頭が駆け抜ける幅の道が鎌倉街道と言う訳です。
結果は、広くて立派な道は平安時代又はそれ以前の道と考えられるのです。
地方で見受けられる道幅6m程の立派な鎌倉街道は、古代駅路の視点で再考する必要が有ると考えます。
(鎌倉幕府の周囲で幹線の鎌倉道が3m程度なのに、、何故地方だと6mの道に成るのか?理屈が理解できず、更に古代駅路の知識が有って述べているのか?疑問です。)
その様な訳で明治維新後の街道は、道を拡張しないとバスは通せない状態であり、
バスを通しても一車線が当たり前!
すれ違いに、退避場所で対向車が過ぎ去るのを待つ道路事情が50年前でした。
2車線は神奈川県でも60年前は国道一号線(東海道)だけでした。
さて、、問題は秦野市周辺の山中に在る一間幅の街道と、古代東海道の関連が問題なのです。