箕面三中もと校長から〜教育関係者のつぶやき〜

2015年度から2018年度に大阪府の箕面三中の校長を務めました。おもに学校教育と子育てに関する情報をのせています。

平成をふりかえる

2019年01月16日 12時09分41秒 | 教育・子育てあれこれ


平成の時代が終わろうとしています。


「平成」とは、「和が達される」という意味だと聞きます。

この意味や願いにもかかわらず、この30年間は日本にとって、さまざまな変化があった時期だったと、考えています。

まず、インターネットが発達して、私たちの生活の中に入り込みました。

パソコンが、仕事に使われるようになり、いまではなくてはならないものとなりました。


私が初めて携帯電話を持ったのは、今からちょうど20年前でした。

当時は、ガラケーでもないハンディタイプのもので、カメラもついていない、電話の機能だけをもつものでした。

しかし、この携帯電話が役に立ったのが、阪神大震災のときでした。

固定電話がつながりませんでしたが、携帯電話がつながり、知り合いの人の安否を確かめることができました。

阪神淡路大震災、東日本大地震などは、人間の命の不確かさを私たちに突きつけました。

近代都市は、地震や津波の前ではひとたまりもない。

その突きつけにさらされ、私たちは傷が癒えないうちに、追い打ちをかけるように、台風や集中豪雨が襲いかかり、抗ってもどうしようもないという諦念、近い人間関係の人の死やふるさとの喪失感を感じてしまいました。

加えて、この30年間は、戦後の右肩上がりの経済成長が終わり、停滞から斜陽に向かう時期でもあり、それに自然災害が重なり、私たちに二重三重の喪失感、いや無常感が覆い尽くした時代が平成だったと思うのです。

夏には台風が来るかもしれない、豪雨に襲われるかもしれないという不安な気持ちを抱え、近い先に来るかもしれない南海トラフ地震におびえながら、「なんとかなるかも」と浮かれてみたりしながら、平成という時代が過ぎていこうとしています。

しかし、人と人が助けあうことに価値を見出したのが、阪神淡路大震災の災害ボランティアでした。

大勢の人たちが、「なんとか役に立てれば」と思い、被災地に向かったのです。

人の役に立つことに喜びを感じるのは、人間の根源的欲求だと思います。

新しい時代では、三中の子にとっても、他者に対して自分を生かすことができる、そのことが生き甲斐となる、人同士が助けあい、孤立しない人間関係を深める人生を送ってほしいと願います。

小さいことから始める

2019年01月15日 13時05分34秒 | 教育・子育てあれこれ



昨日の成人祭で、西川きよし師匠は、新成人の人たちに映像で語っておられました。

それは、おなじみの「小さなことからコツコツと」でした。


このやり方は、人が抱えるストレスの対策にも役立つと、私は考えます。

そもそも、現代社会を生きる私たちはストレスと無縁ではいられません。

経済的な不安、自分や家族な病気などは大きなストレスなるでしょう。

そうでなくとも、暑い、寒いなどは小さなストレスになります。

ケーキを食べたいのに、忙しくて買いに行けない。

なぜか、妻の機嫌がよくなくて、気をつかう。

美容室に行きたいのに、急用でいけななった。

このような小さなストレスが積もりたまったものを、専門的には「デイリーハッスルズ」(daily hassles)といいます。

このデイリーハッスルズがたまっているところに、責任の重い仕事や人間関係の大きな煩わしさ、解決の難しい困難を抱えたとき、ストレスの許容量を超えてしまう。

ちょうどコップに一定量の水が入っているところに大量の水が入り、コップから水が溢れてしまうようなものです。

学校の先生は、他の業種とくらべ、コップから水が溢れ出してしまう比率が高いと言われています。

さて、教師だけでなく、どの人にとってもですが、ストレスは許容量以内であれば、別に問題はないのです。

人が生活する上でストレスが溜まるのは当然です。溢れ出さなければいいのです。

だから、こうなる前に、小さなストレスを普段から汲み出しておくことが必要になります。

具体的には、小さいストレスを列挙して整理する。

これは小さい中でも、
・とるにたらないもの
・気持ちの持ち方、考え方次第でどうにでもなるもの
・放っておけば大きくなりそうなもの

などに分類するだけで、整理されていきます。

つまり、小さいことからコツコツと解決していくのです。

あわせて、相談する人をもち、協力を求め、一人でストレスを抱えこまないようにすることで、コップから水を溢れさせないようにするのがいいのだと思います。

成人を迎えた人たち

2019年01月14日 14時05分23秒 | 教育・子育てあれこれ









本日は、箕面市の成人祭が、11時よりメイプルホールで開催されましまた。

箕面市の約1480人が新成人となられます。


最近は、「ママ振り」もはやっていると聞きます。

「ママ振り」とは、新成人になる人のお母さんが成人式で着用した振袖を作り直して、娘が着るというものです。

これは、昨年、レンタルを約束していた振りそでレンタル業者が、振りそでを当日に用意できず、たくさんの新成人が振りそでを着れなかったというアクシデントも影響していると聞きます。

さて、箕面三中では、40期生の学年が、本日めでたく成人を祝われることになりました。現三中生の中にも、兄姉が成人を迎えられたご家庭もありました。


今の箕面市の成人祭は、あいさつをできるだけ短くして、内容の充実に傾注しています。

1部のあいさつは短く、2部は市役所の若手職員で実行委員会をつくり、進行を担当しました。

中学卒業時の3年担任の恩師からのメッセージが流されて、新成人からは歓声が上がり、梅花のチアリーディングがオープニングで2部を盛り上げました。

また、お楽しみ抽選会の品物が素晴らしく、豪華にしてあります。

松阪肉6万円分のギフト券、任天堂SWITCH(ソフト3本付き)、ワイヤレススピーカー、ディズニーリゾート2日間4人分、韓国旅行券、音羽山荘ランチ2万円分、トランペットなどでした。


これらは、すべて協賛企業が提供してくれています。


トランペットをもらった人が吹くと、市吹が出てきて演奏を始める、また、ガンバ大阪の選手からの応援メッセージ、西川きよし・ヘレン夫妻からの励ましメッセージなど、企画が飽きさせないように仕組まれていました。

成人になると、今まで守られていた立場を離れ、自分の責任が、重くなりますが、地域を大切に、社会人として活躍してほしいと願いました。


自分の強みを見極める

2019年01月13日 08時48分06秒 | 教育・子育てあれこれ




いま、日本食が外国人の間で、大きなブームになっています。

国内のレストランや食堂では、日本食を楽しむ外国人が多くいます。

また、海外の国にも日本食を食べさせるレストランが増えており、みんながおいしそうに食べ、上手におはしを使います。

中でも、いま、イギリスでは、寿司はもとより、カツカレーや親子丼が大人気だと聞きます。

日本では、人口減少、経済・工業技術・産業の停滞という重苦しい見通しが、私たちにのしかかり始めています。

しかし、そのなかで日本の食文化の世界への影響力は増大しています。

これほど、日本の食文化が注目される理由はどこにあるのでしょうか。

それは、調和させる点にあるのではないでしょうか。

カツカレーでも、親子丼でも、外国からの影響をうまく混ぜ合わせて、かたちにしています。

寿司も、さまざまなものを巻いたり、にぎりの上のネタとしてのせます。

このように、食べ物をハーモナイズするうまさが、 日本食の魅力であり、グローバル化した現代にふさわしい文化になっているのではないでしょうか。

ここ数年、普通のプリンだけでなく、マンゴープリン、カボチャプリンなどが生みだされ好評です。

つまり、「これは、こうするもの」ではなく、柔軟に吸い込み、ブレンドして新しいものを作り出すというチャンプルーに、日本の強みがあるのでしょう。

このように、中学生も自分を見つめ、得意なこと、自分の強みは何かを見極め、自分にないものをうまく取り込んでいき、調和させていくやり方が、これからの生き方として大切になります。

個人差を考えること

2019年01月12日 12時44分33秒 | 教育・子育てあれこれ



現役の方が、入学後の伸びしろがある。

女子の方が、コミュニケーション力があるので、男子を救う必要がある。

入試で浪人生、女子に不利な扱いをした大学関係者が行った釈明に驚きました。

とくに、女子受験について、こんな性差に基づくきめつけや偏見が、医学部入試でまかり通っていたとは・・・。

対人関係において、相手の気持ちや意図していることを推し量る力は、さまざまな意見はありますが、たしかに女性の方がまさっているという傾向はあるかもしれません。

しかし、だからといって、それは全般的な傾向であり、個人による違いがあります。


たとえば、「女より男の方が力がある」という全般的な傾向があるかもしれません。

ても、私の妻は敷きが下がってきてふすまが開きにくいときでも、私が敷きの上をグッと押し上げてもふすまは動かないですが、妻が持ち上げると動きます。

つまり、力があるかないかには、個人差があるのです。


だから、個人差を無視して「男の方が、女より力持ち」というのは、きめつけや固定的な見方です。

ジェンダーバイアスがかかっているのです。

同じように、女子の方がコミュニケーション力があるというのは、きめつけや偏見に基づいた考えで、それを理由に点数を調整したというのは、あきれるばかりなのです。

事実、一部の三中3年生は、今年も入試での面接練習をすでに始めていますが、女子生徒の方が男子生徒よりもコミュニケーション力があるとは、わたしの実感としてまったく感じません。

個人を評価する受験において、女性という集団をひとくくりにして、不利に扱うとはもってのほかです。

該当の大学関係者の意識改革が強く求められます。

たしかに生きている

2019年01月11日 11時49分48秒 | 教育・子育てあれこれ




「ボヘミアンラプソディー」の映画が、ヒットしています。

映画館には、わたしと同世代の人が多かったと思いましたが、なかには若い世代の人たちも観に来ていました。

つまり、ボヘミアンラプソディーの映画は、クィーンというバンドを知らない若い世代からも支持されています。

私は、フレディ・マーキュリーの生き方から、「このアーティストは、その時代をたしかに生きた」という印象を、クィーンを知らない世代にも与えているからだと考えます。



私たちが生きていく上では、「評価」がついてまわります。

背があの人よりも高い・低い、テストの点数があの子より高い・低い、私よりあの人の方がたくさんの貯金をもっている。

これらの数値になるもので、比較が生まれます。

しかし、これらは人の一部分を切り取った「条件」にすぎないのです。

そもそも、人の本質や価値は比較できないものです。

いいことも、よくないことも、すべてひっくるめて、「さあ、あなたはどうするか」と問われている。

だから、あなたはあなたで、あきらめず、投げ出さず、精一杯生きる。

そのなかには、「こんなに精一杯やったのに、結果が出せなかった」と、嘆く人もいますが、努力だけで結果を出せるものではないのです。

そのときの運や巡り合わせもあります。

だから、いまできることに精一杯励めばいい。

自分に都合のいいことばかりが起こってくれるなら、生きていくことだけならば簡単かもしれません。

逆に、困難や辛いことが起こっても、たしかに生きている人は、向き合おうとします。

その意思や態度だけでも、すごい力を与えられた存在なのです。


「今」を大切に

2019年01月10日 10時22分56秒 | 教育・子育てあれこれ




本日は、1・2年生は大阪府チャレンジテスト、3年生は第4回学力テストです。

三中の子らしく、真剣に答案に向き合っていました。


3年生は今回で最後の学力テスト(実力テスト)になります。

また、3年生は明日に私学入試の願書下書きをします。

また、18日と22日には、入試の面接練習をすることになっています。

2月に入ると私学入試、下旬には公立高校の「特別選抜」、3月には公立高校の「一般選抜」、そして卒業式というように、慌ただしく日々が過ぎていきます。

あと2ヶ月ちょっとで卒業という期間になると、3年生には、とくに「今」を大切にして、「今やらねければ」という言葉を使い、行動するとうまくいきます。

「いつか」という言葉を使っていると、ものごとは成就しにくいのです。



宇宙ときけば、ものすごく遠く感じますが、地上からわずか100キロ離れれば、そこはもう宇宙です。

車で2時間ほど走れば着いてしまう距離です。

宇宙へ行くのがたいへんだと言われるのは、遠いからではなく、重力という「しがらみ」から抜けるのがたいへんだからです。

卒業まであと2ヶ月ちょっとなった今、余計な「しがらみ」を捨てた子は突き抜けたようになり、度胸がすわります。

そのために、今の一歩をふみだしてほしいと思います。


習慣のちがい

2019年01月09日 10時08分18秒 | 教育・子育てあれこれ




わたしの妻は、愛媛県の出身で、結婚するまではずっと愛媛県で生まれ、生活していました。

一方、わたしは大阪で生まれ、大阪で育ちました。

そこで、まず当初は言葉の違いに、わたしは遭遇しました。

お菓子が「やむ」ってわかりますか?

わたしには、わかりませんでした。

聞くと、お菓子が「しっける」(=湿る)という意味だと、わかりました。

また、私がお葬式から帰ってくると、塩をわたしの服にかけました。

「わあ、何をするんや⁈」

聞くと、いわゆる清めの塩(これについては、いまはその是非についてさまざまな意見があります)は、足もとに撒き、脚で踏むのではなく、愛媛では全身にかけるのだと、初めて知りました。

これらは、ほんの一例です。国内でも、言葉や習慣は、これほど違うのです。

ふるさとの数だけ習慣のちがいがあるといってもいいでしょう。

まして、外国人と接する場合には、もっと文化や習慣のちがいがあります。

労働力不足を補うため、外国人を雇うことがいま話題になっています。

私たちは、当然のことながら、文化や習慣のちがいに出会うことになるのは必至です。

ですから、それぞれの人の習慣は、自分の習慣とは異なることをまず理解したいところです。

これからの社会で生きる三中の子には、ちがう習慣や文化を柔軟に受け入れるようになり、共に生きていく社会づくりにかかわる人になってほしいのです。

習慣を知ることは、相手を知ることです。



対話することを学ぶ

2019年01月08日 10時12分48秒 | 教育・子育てあれこれ




3学期が始まりました。


冬休みが明けて、生徒たちが校舎に戻ってきました。

体育館で、始業式を行いました。

私からの式辞は、「過去でも変えることができる」という内容で、本日配付の学校だよりに載せていますので、お読みください。

式辞のあと、表彰伝達と生徒指導担当からの話がありました。



さて、2019年が明けましたが、学級担任は概ね学年の締めの学期なので、しっかり過ごすようにという話を生徒たちにします。

とくに2年生は、3年生につながる学期だから大切にしなさいと、自覚を促します。

私も同感です。


ただ、私は今という時代を俯瞰して、学校教育全体という視点で考えていることを、ここで紹介します。


さて、これからの学校教育を展望するにも、ある程度は時代の流れを読むことが必要になります。


今の時代、教科の学力をつけることはもちろん必要ですが、さらには対話できる力を学校教育で身につけることが必要であるということが、私の考えです。

今、どうしても踏まえておかなければならない世界的な潮流がIT革命です。

インターネットが普及し始めた当初、人びとはIT(情報技術)は、多くの人に情報をいきわたらせることができるという利点を考えていました。

しかし、SNSは、「炎上」に示されるように、他者を攻撃したり、貶めたり、人びとの不満を増幅させて、人びとからつながりをなくす方向にはたらくという弊害が出てきています。

差別を助長する書き込みもあります。

また、インターネットは、人びとの思想や考えを誘導する情報を拡散する道具にもなり得ます。


このように、インターネットのマイナス面が大きな問題となってきました。

ても、そもそも人間は一人ひとり違うからこそ、対話をして、集団の共感を獲得して生きていくはずなのです。

学校教育の分野では、さまざまなな考えや意見をもつ子どもたちが対話することにより、「みんな、これでいこうよ」という合意ができていく過程を学ぶことができます。

将来、価値観や文化の違う人とも共生していく地道な積み上げをいとわない人に育っていってほしいのです。

学校には多様な生徒がいて、一人ひとりにちがいがあります。

だからこそ、学校生活はたいへんなこともありますが、おもしろいこともあるのです。

集団で生活を共にする、その中で行う対話の価値や方法は、将来社会に出ていく三中生にぜひとも身につけてほしいと思います。






教師の現場感覚

2019年01月07日 09時23分53秒 | 教育・子育てあれこれ




刺身をつくるにしても、焼物をつくるにしても、料理の良し悪しをきめるのは、その日の食材選びであると、板前さんは言います。

朝に市場へ行き、パッと見て、いい魚を買えるかどうかがプロの職人。

その「眼力」をつけるのが、板前修業の根本だという信念です。

このレベルまでにはいかなくとも、学校の教師なら、朝に子どもと会って、「あの子、今日は浮かないようすをしているな。家で何かあったのかな」と思えるまでには、教職の経験を積まなければなりません。

そんな時にすかさず、「何かあったの?」と、その子に声をかけることができる教師には、「先生は、わたしのことをよくみている」と生徒は感じます。

たくさんの情報の中から、いかに生徒を理解する素材を見つけるかは、経験を積むことはもちろんです。

ただし、何よりも教室に足を運び、生徒といっしょの時間を過ごし、感性で感じる習慣をつけてほしい。

私はそれが教師にとっての「現場感覚」だと考えます。

いじめといじり 2

2019年01月06日 09時55分39秒 | 教育・子育てあれこれ



(前号からの続き)

もとJリーガー前園真聖さんはTV番組の仕事で、自分が引き起こした過去の事件については、タブーの扱いをされることにしっくりとこない気持ちでした。

誰もが、あの事件のことには触れないでおこうという態度でした。

ところが、ダウンタウンの松本人志さんは違っていました。

テレビの番組で、松本さんが前園さんの失敗をいじってくれたことがきっかけで、タブーが解けました。

自分の殻を破ってくれた松本人志さんに、前園さんは感謝の気持ちしかないそうです。

それをきっかけに、あの失敗を自分の口で言えるようになりました。

いまでは、周りからもつっこんでもらえるようにもなりした。



ただし、前園さんは付け加えます。

「いじりはとても難しいのです。

一歩間違えば、いじめやパワハラになってしまいます。

いじりが楽しさとして成立するのは、いじられる当人が不快に感じないこと。

いじるほうといじられるほうの互いに信頼関係があることだと思います。

誰もがみな松本さんのように、高度なお笑いの技を持っているわけではありません。

いじりが行き過ぎないよう、注意が必要です。」


(『PHP No.848』の「ありのままのさ自分を出してみよう」の前園さんの体験談を引用)

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私は、この前園さんの経験談が、中学生のいじめといじりについて、深い示唆を与えてくれると考えています。

三中生にいじめの指導をすると、よく言うことがあります。

それは、
「いじっていただけ。相手も楽しんでいるように思ったもん」

しかし、相手はその行為により、とてもイヤがり、深く傷ついており、いじめになっていることに思いが届いていないのです。

相手を楽しませるようないじりは、前園さんの言うように簡単にはできることではありません。


いまのいじめの特徴は、相手に金品を要求したり、身体的危害を与える行為よりも、集団で無視したり、言葉で相手をからかったりする場合が多いのです。

三中1年生が2学期に「いじめといじり」を学習したように、とかくいじりはいじめにつながりやすいのです。

まだ十分な分別がつくとはいえない中学生であり、生徒と生徒の間に、信頼に基づく友人関係が築けていない現状があるなら、いじりはけっして許されない行為であることを、おとなもしっかりと胸に刻んでおきたいところです。




いじめといじり 1

2019年01月05日 11時02分39秒 | 教育・子育てあれこれ


私は本来、「いじめ」と「いじり」は似ていて、異なるものだと考えています。

しかし、中学生の場合は、「いじり」はとかく「いじめ」になります。

では、「いじめ」と「いじり」は、どのようにちがうのかを考えていきます。

そのために、次の例から考えてみます。


現在はサッカーの解説をしたり、タレント業をつとめる前園真聖さんは、ご存知の通り、サッカーJリーグ横浜フリューゲルスで活躍したもとサッカー選手です。

前園さんは、タクシーの運転手さんとトラブルを起こし、謝罪会見をしたのは2013年のことでした。

仕事が全くゼロになった前園さんは、このとき今まであたりまえのことだと思っていたことがあたりまえでなかったのだと思い知ったそうです。

事件のあとは、誰も声をかけてくれません。ファンの人たちがいるから、自分があるということが痛いほどわかったのです。

まったく先が見えず仕事がないなかで、初めて解説の仕事が一つきました。そのときの嬉しかった気持ちは忘れられない。

そして、最初は一本だった仕事が少しずつ増えてくることになりました。

ただ、どの仕事でも、過去の前園さんの事件については、誰も触れない、タブーになっているという雰囲気を、周りから感じていました。

腫れ物に触るがごとくの扱いをされることに、本人はモヤモヤした気持ちをもっていました。

(次号に続く)

※ 本文は『PHP No.848』の「ありのままのさ自分を出してみよう」を引用しました。




正しく鉛筆をもつ

2019年01月04日 16時40分46秒 | 教育・子育てあれこれ





閉校日が昨日まででした。今日から学校は開いています。


今日は、筆記具の持ち方についての話題です。


私の子どもの頃は、学習や授業では、鉛筆を使うのが普通でした。

大阪万博の前の頃、シャーペンが普及しだしました。

電車を一駅乗った文具店で、シャーペンを売っていて、買いに行って嬉しかったのを覚えています。

そのシャーペンは0.9ミリでした。

その後は0.5ミリが主流になりました。

さて、そのシャーペンについてですが、小学校では、シャーペンをあまり使いません。

シャーペンの使用を認めていない学校もあります。

しかし、データでは、小学生の約半数が日常的にシャーペンを使っています。

でも、学校での使用は約9パーセントにとどまっています。

学校では使わず、家や塾で使っていることがわかります。


ところで、三中の生徒を見て思います。

正しく鉛筆やシャーペンを持って字を書く子が思うほど多くありません。

つまり、先から1センチぐらいの部分を親指と人差し指でつまみ、その鉛筆の裏側に中指を当てがい、字を書く子が減っています。

親指と人差し指の付け根の間に鉛筆をはさみ、こぶしを握り、字を書く子がけっこう多いのです。

ぎこちない手つきで鉛筆やシャーペンを握り、丁寧に字を書かない子が増えています。

スマホやパソコンが、私たちの生活に浸透して、文字を手で書かないことも多くなりました。

私もこのブログを書くのに、手で文字を書いていません。

今後も手で文字を書く機会は減っていくのかもしれません。

だからこそ、鉛筆やシャーペンを正しく持ち、しっかりとした字(うまい字でなくても、丁寧な字)を書く力は維持してほしいと思います。

箕面市の出初式

2019年01月03日 12時58分08秒 | 教育・子育てあれこれ


今日は、萱野東小学校を会場に、冬の青空が広がるもと、平成31年度箕面市消防出初式が開催されました。

三中1年生の図画が、消防長賞を受賞して、本日の式で表彰されました。



彼の作品は、秋の交通安全運動のポスターの絵になり、すでに市内各所に貼ってあります。

三中にも掲示しています。受賞おめでとうございます。

なお、図画の部では、三中2年生女子生徒の図画が消防長賞に入選しています。

また、習字の部でも三中2年生女子生徒の作品も、消防長賞に入選しています。


消防訓練の披露では、ビルの屋上に取り残され、逃げ遅れた人を救出するという仮定の訓練でした。

レスキュー隊が、閉まったシャッターを金切りカッターで切り、建物の中に入りました。

屋上からグランドにロープを張り、ロープをつたって、無事に脱出すると、大勢集まった市民から拍手が起こりました。



自由に絵を描く

2019年01月02日 09時05分47秒 | 教育・子育てあれこれ





小さな子どもは自由に絵を描きます。

どの子も夢中になり、「素晴らしい絵」になります。

しかし、小学生になり、中学生に、そして大人になるにしたがい、絵を描かなくなります。

それはたぶん、「うまく描かないと」という思いが強くなり、恥ずかしい気持ちになりたくないという緊張感などが影響するのではないでしょうか。

うまく描こうというとらわれから解放されると、ほかの人の眼を気にすることなく、自分らしく自由に描けます。



思えば、人の生き方も同じです。小さな頃思い描いた夢は自由でした。

ところが、学校へ通い出し、成績を人と比べ、できるできないを友達と比較したり、社会のなかでの価値観に合わせなければならなくなると、せせこましく考えてしまいます。

しかし、自分の人生を描くことができるのは自分だけです。

自分を卑下せず、自分は自分。それだけで尊い存在です。

2019年の冒頭にあたり、三中の生徒たちよ、夢がつまった絵を描いてみましょう。