不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

みどりの野原

野原の便り

10月11日 京街道~奈良坂 なつかしい・・奈良少年刑務所 般若寺

2016年10月11日 | Weblog

京街道を奈良坂方面へ。

「○○八景」聞いたことがあるが、奈良にも室町時代、足利義正のお供で春日詣でをした室町時代の僧 蔭涼軒真蘂が風光明媚な奈良の景色を日記「蔭涼軒日録」に書き残した「南都八景」といわれる景色があるそうだ。

奈良から京都へ至る街道を「京街道」と言うらしい。
(ネットによると京街道というのは平安遷都後の言い方で ”大和から京へ上る街道”ということらしい。
”奈良街道”と言う方が一般的との記述もあるが、今日は京街道としておく)
東大寺と興福寺の境にもなり、東七坊大路とも言われる。

道沿いには奈良八景と言われた跡が残る。
平城京の東の端にあたり都の周囲には広い側溝がめぐらされ、その外と平城京をつなぐ「轟橋」は人や馬が行き交ったことは想像できる。

奈良八景その七「轟橋の行人」橋の石の名残が見られた。

その六「雲井坂の雨」の碑もあった。京都から奈良への旅人が行きかう街道に降る雨。東海道五十三次の浮世絵にある雨の景色を想像する。
他には「東大寺の鐘」「春日野の鹿」「三笠山の雪」「猿沢池の月」「佐保川の蛍」「南円堂の藤」が八景に選ばれている。今の景色と違って、昔はもっと風情があったのだろうな。

東大寺の西大門跡を示す礎石も残っていた。
今は南大門を正門としているが、昔は街道に沿った西大門が重要視されたらしい。

弘法大師が掘ったいわれる威徳井は道路工事で井戸枠のみここへ移されたもの。小さくてびっくり。
名水の出る井戸だったそうだ。
奈良はきれいな水を利用した奈良晒作りが盛んだった。

転害門(てがいもん)
東大寺西面にあった3つの門の1つ。(西大門跡・ 中門跡を通ってきた)
 
東大寺西北にある三間一戸の八脚門 大仏建立の時の守り神として九州の宇佐八幡宮から八幡神を勧請し東大寺の鎮守としたが、八幡神は一条通から転害門を通って東大寺に入ったそうで、それを由来とする転害会(てがいえ)が毎年10月に行われ、手向山八幡宮から転害門まで神輿の御渡りがあるそうだ。
昔は「おん祭り」をしのぐ大規模な祭だったらしい。

正倉院と共に、治承・永禄の二回の兵火にも燃えず、創建当時のまま残っている貴重な建造物で国宝となっている。(改修はされている)

ボランティアの方の説明を聞く。

 
何気なく見ていた柱の節も「その木が生えていた(方向)のままに使ってある」
捻じれた柱が1本あるのも「まっすぐな木ばかりより強く」どちらもそれが建物を長持ちさせるやり方と知る。
う~ん。うなるなあ。     右)言われて気づいたが、基壇の石にはたくさんの穴ぼこがあった。
雨だれが穿った穴ではなく何かお祀りと関係があるらしい。盃状穴という。
また、平家一門の恨みを晴らそうと源頼朝の暗殺を謀るため悪七兵衛景清がこの門に隠れたことからまたの名を景清門ともいわれる。他にもいろいろな呼称をもつ。


道路(京街道)の西側には古い家並みが残る。
東側は昔は東大寺の塀がめぐらされていたのが兵火などでいつかなくなってしまったらしい。

佐保川に架かる石橋
 
       橋そのものだけではなく、橋げたまで石造りとは・・

 
北山十八軒戸 鎌倉時代につくられたハンセン氏病などの重病者の保護施設であり隔離施設だったらしい。
18の部屋に区切られた長屋(仏間もあった) ハンセン氏病は不治の病とおそれられ患者はと差別されていた
そんな中で病気で歩けない患者をおぶって町に連れて行ったという忍性というお坊さんの話が残っている。
                      右)近くにあった夕日地蔵

 
旧奈良市水道計量器室 大正11年、奈良市の水道創設時に建てられたレンガ造りの建物。

懐かしい奈良少年刑務所が見えてきた。
 
     旧奈良県監獄所 奈良少年刑務所             正門(表門)


今日は、守衛さんが警護する正門から中を覗くだけ。 広い前庭の向こうにこれもレンガ造りの本館が見えた。
もう30年ほども前、1回中へ入ったことがある。(受刑者としてではありません。念のため)
補導員というお役目を何年かした時に見学させてもらったもの。

忘れられないのは廊下のところどころに鉄扉があり、私たちが通るたびに開け閉めするのだが、通った後、ガッシャーン(音の表現ができない)と重い鉄扉の閉まる音が響き渡る。
この音を聞いた時、入所者は後悔の気持ちに打ちひしがれたのではと思う。

そして、放射状に延びた廊下の左右に部屋があり、その扇の要の所に立つとすべての通路が見渡せるのだ。
刑の重さによってテレビを見る時間も変わり、番組も決められたものしか見ることができない。
受刑者の人たちのまるで軍隊のように足並みそろえて運動場へ走っていく光景。
社会に出た時のための技術訓練の場。
殺風景な狭い部屋に椅子を兼ねた蓋つき便器がむき出しで置かれていた部屋。
見学は重苦しい気持ちに包まれた時間だった。


敷地は広く、周りは高い煉瓦塀で取り囲まれている。ぐるりとまわる形で鴻池運動場の公園へ移動。

午後からは般若寺へ。

創建は古く、平城京の鬼門を鎮守する寺だったらしいが焼き討ちなどで廃寺のようになっていたのを鎌倉時代に再建が進められた。

 
     京街道に面する楼門(国宝)               十三重の石塔(重文)

十三重の石塔から発見された白鳳秘仏金銅阿弥陀如来立像(重文)と体内仏3尊(重文)が公開されていて見学した。体内仏は極小だ。

 
般若寺はコスモスの寺としても有名だ。石仏も絵になる。
今年は夏の高温と後の長雨で生育が悪く、蒔きなおして「これで3度目です」とおっしゃってた。
                          右)境内の隅に「平和の火」が燃え続けている。
これは原爆の火を分火されたもので、原爆の恐ろしさや平和の大切さを後世に伝えるために「平和の火」として燃やし続けていると聞いた。

最後に奈良豆比古神(ナラズヒコジンジャ)へ。
 
 ここには重要無形文化財の「翁舞」が伝わる。 
          右)クスノキの巨樹 樹齢1000年を超えるらしく、奈良県天然記念物に指定されている。
木肌に触れると、今日の疲れが飛んでいきそうだ。

ここで解散。それぞれの道へ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする