みどりの野原

野原の便り

10月29日 木津~玉水 旧大和街道 泉大橋 上狛環濠集落 湧出宮 蟹満寺 玉川

2016年10月29日 | Weblog
京都・奈良を結ぶ旧大和街道を歩く。
大和街道と言われるルートは複数あったらしいが、私はよく理解できていない。

JR木津駅から町を抜けて木津川に出た。
          
 
木津川にかかる「泉大橋」 横は車がビュンビュン走る。

 
「泉大橋」は行基によって架けられたのが始まりと言われるが、何度も流された後、明治までは渡し舟で渡っていたそうだ。「あのあたりを渡し船が行き来していました」と下流を指さされた。
      右)砂州の多い川だ。木津川は暴れ川で上流で削られた石が流されて下流に白い砂が溜まるらしい。

近くにある「泉橋寺」
 
木津川に架けられた橋を守護・管理するために建てられた寺院「泉橋寺」
 右)門前の「地蔵石仏」は13年もかけて造られた。地蔵堂や光背は応仁の乱で焼け、それ以来露座のまま。
地蔵も損傷を受け、頭部と両腕は元禄3年に修復されているそうだ。


さっき、泉橋寺へ下る時、お茶の香ばしい香りがしてきたが、茶問屋の並ぶ街並みがあった。
『周辺各地で栽培されたお茶は川と街道によって山城に運ばれ、加工精製されてここ上狛港から木津川・淀川を経て、神戸に至った。茶の集積地として大正・昭和繁栄した』(公園にあった山城茶業の碑より抜粋)

上狛(かみこま)は中世以来の環濠集落がある。

 
大黒という地域の環濠
堀の中には土塁・雑木林・竹藪などを巡らせ、人々は郷とか垣内とか呼ばれる単位で共同生活をしていたという。

 
「郷井戸」と呼ばれる共同井戸が民家の庭先に残っていた。
       右)分厚い板でフタをしてあったが、端の1枚をそっと上げて覗くと、下に水面が見えた。

椿井大塚古墳
3世紀、古墳時代初期築造の前方後円墳で、丘陵地を利用して造られた、

  
・・が整地された空き地に碑が立ち、奥にそれかと思える小高い所が見えるだけで、あまり感動はなかったのだが、帰ってから調べてみると三角縁神獣鏡他鏡36面以上、その他副葬品も多数あるという。
山城地方最大の古墳とのこと。
漁具なども出土していることから被葬者は津(港)の管理者との見方もあるらしい。周濠はないそうだ。

通称「湧出宮(わきでのみや)」和岐座天乃夫岐売神社(わきにいますあめのふきめじんじゃ)

 
「和岐神社」とも言われる延期式神名帳に記される古社で、祈雨の神
奈良時代、旧地に天乃夫岐売命を勧請した時、一夜にして森ができ神域となり湧出宮と言われた。

宮座という組織によって営々と受け継がれている「居籠祭」という古式ゆかしい祭は「氏神祭祀の古風な儀礼をよく保存する」として、国の重要無形文化財に指定されているそうだ。 

午後は蟹満寺へ。

 
白鳳時代に国家かそれに準じる豪族によって建てられたといわれ、平安時代以降、今昔物語に出てくる「蟹の恩返し」の説話によって有名になった。

本尊、釈迦如来は創建当時(奈良時代以前)の姿で、国宝に指定されている。 
同様の初期丈六金銅仏は他には飛鳥大仏や現興福寺の仏塔や薬師如来坐像のみだそうだ。


本堂には説話の図絵やカニも描かれた涅槃図などもありテープで説明あり。(聞こえず)

 
       静かな道                   生駒山が見えた。

 
山道で「井手火山灰層」の露出したところがあった。
150万年前に長野で起きた大規模火山噴火による降灰が堆積したものとか。粒子の細かい白土で、地元の人は磨き粉や精米に使っていたという。すべすべした手触りだった。

その近くに橘諸兄公の墓所と言われる丘があった。

 
竹林に囲まれた頂上部に石碑と供養塔が建つ。
橘諸兄は奈良時代、聖武天皇を補助し、恭仁京遷都や大仏建立に力を尽くしたそうだ。
井出左大臣と言われ、井手町には別荘や寺院を建て、近くの玉川にもヤマブキを植えたと言われる。

玉川

山城水害で大きな被害があったが、地元の人たちによって復旧。サクラも植えられ玉川は今は桜の名所になっているそうだ。

今日の終点JR玉川駅。
電車を待っている時、向かいのホームの大石に気づいた。


説明版があり、この石は、昭和28年の山城水害の時、500m離れた玉川から押し流されてきた6トンの大石で、107人の犠牲者を出す大惨事だった。玉水駅の駅舎やホームも河原と化したとのことだった。

木津川市、たくさんの見どころがあった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする