「日本書紀」の続きの他、「吉野宮」についての話と「益田池」の話も聞いた。
なかなか理解には至らないけど、こんなことだったかなあぐらいのつもりで書いてみた。 あてにはなりません。
*「吉野宮」会員のお1人からのお話
吉野は古来より、神泉境、不老不死の神仙の住む理想的な場所とされ、豊かな自然に恵まれたところであった。
「吉野宮」が日本書紀に初出するのは応神天皇の行幸。
雄略天皇の行幸の記載もあるそうだが・・
離宮として確かに存在したと言えるのは「斉明天皇の2年、吉野に作られた離宮」の記事以降らしい。
斉明天皇以後、天智 天武 持統 文武 元正 聖武天皇がしばしば行幸された「吉野宮」。
天智天皇がなくなった後、大海人皇子は妃の鵜野皇女・子の草壁皇子とともに隠棲した「吉野宮」。
壬申の乱で勝利して天武天皇となり、6人の皇子たちと「吉野の盟約」をかわした「吉野宮」。
天武天皇亡き後、鵜野皇女が持統天皇となった後、30回以上も行幸した「吉野宮」
吉野には何か特別な力?があったのか?
「吉野宮」の正確な所在地や範囲ははっきりしないが、長年の発掘調査の結果、飛鳥時代~奈良時代の掘立柱建物や石敷・苑池遺構が見つかった宮滝遺跡が「吉野宮」ではないかと言われている。
縄文・弥生時代の遺跡も見つかっているそうだ。
吉野宮(宮滝)へのルートは、芋峠越え・細峠越え・壷坂峠・芦原峠・車坂峠の5つの峠越えの道が良く知られている。
飛鳥時代、奈良時代によってもよく使われるルートは変わってくるのかな?
*「日本書紀」いつもの講師会員からのお話
ちょうど、天武天皇と6人の皇子達との「吉野の盟約」の場面
将来皇位継承で争いを起こさないようにと皇子たちと吉野の地で誓約させた。
6人の皇子の内、4人は天武天皇の子。母はみな違う。
2人は天武の兄、天智天皇の子。複雑な親子関係・・
王子達も「灼然(いやちこ)なり」と誓う。皇后も同様に誓いをたてる。
(灼然とは、はっきりしている。あきらかなどの意味 初めて聞いた言葉だ)
「それぞれ違う母から生まれているが、同じ母から生まれた如くに慈しもう」と6皇子を胸に抱いた。ちょっとドラマチックな場面だ。
天皇・皇后、皇子たちも都へ戻る。 今日はここで終わり。
*「益田池」もう一人の講師からのお話。
橿原市にかつてあったという益田池。
平安時代の初期に高取川をせき止めて作られた灌漑用の溜池。
「益田池」の名の由来は「旱魃といえども田を益すの功ありし」より。
すっかり消滅して、跡地に橿原ニュータウンができた。
今は堤跡が少し残っているだけだ。
いつ頃まで池があったのかも不明だそうだ。(1説に織田信長・・・)
古代でもないのに、記録がないのは不思議に思う。
川底改修工事で、木製の樋管が2個出土したそうだ。
(橿原考古学博物館で保存展示されているという)
益田池の跡地に橿原ニュータウンができたというから、どんなに大きい池だったかがわかる。
出来た当時、空海が揮毫した碑文「大和州(やまとしゅう)益田池碑銘并(ならびに)序 」があったそうだ。
碑文の文字は「破体書」という変わった書体で書かれているらしい。
破体書・・初めて聞いた。
例を見せてくださったが、絵のような模様のような・・想像できる字もあるが、全く想像もできないようなくねくねの字体だ。