息子娘とウォーキング。
行きやすいところはたいてい行っているので新たな行き先は決めにくい。
・・とはいえ、行ったことがあるところもまだまだ知らないことがある。
左の方に古墳らしいものが見えた。行ってみることにする。
いつも行き当たりばったりだ。
「平野古墳群」の説明板があった。これは平野1号墳(平野車塚古墳)
3基確認されていて、他3基は消滅しているそうだ。
すぐそばに、2号墳、もう少し西の方に平野塚穴山古墳(国指定史跡)
があるようだ。
全く知らなかった。回ってみたいが、今日はパスする。
小学校の近くなど何カ所かに「サルに出会ったら、絶対に近づかずその場を離れてください・・・」看板があった。
山に近い、とまでは言えないところなのにサルが出没するのか。
「太子葬送の道」と言われる、斑鳩から大阪、上の太子 への道がこの辺りを通っていたらしい。
道標・燈籠・太子道の石標などがところどころにあった。
尼寺厨神社(にんじくりやじんじゃ)
祭神は御饌都大神(みけつおおかみ)
(天照大神の御饌(みけ=神饌)を調える神)
山道を抜けると・・。
白山姫神社(しらやまひめじんじゃ)に出た。
修験道の白山信仰に関係する神社らしい。
階段を下る。
「石の鳥居」は、天理の住民や大坂の商家などが「送迎(ひるめ)太神宮」に奉納したもので、送迎太神宮撤去後、ここに移転されたものらしい。
上の写真の黒い印をつけた石段は「送迎太神宮」の道標を半分に割って階段に転用したもの。
「送迎太神宮道」「すぐよしの 大みね・・」などが読める。
来たことがあるのに、鳥居や階段のことは知らなかった。
「送迎(ひるめ)大神宮」というのは明神山の上にかってあった神社。
伊勢神宮へのおかげ参りの風習が全国的に大流行した文政13年頃、大阪と大和の国境の明神山はその通り道だった。
そこに突然、社殿ができ神域が造成され、ここが「大和の皇大神宮」として近郷近在からの送迎太神宮参りが大流行したそうだ。
しかし、翌年、郡山領主柳澤家が、ここはニセの皇大神宮だとして取り壊してしまったという。
明神山山頂にはその説明板がある。
下れば、尼寺廃寺跡公園。塔跡や金堂跡が残る。
回廊で囲まれた法隆寺式伽藍配置だったそうだ。
通りかかった畠田郵便局の前に立派なタラヨウの木。
赤い実をたくさんつけていた。
正面に乳垂れ地蔵(ままたれじぞう)・右に役行者のお堂。
乳母の乳の出が少なかったので、推古天皇がこの地蔵に祈願されたところ、よく乳がでるようになったとの伝説が残る。
乳垂れ地蔵の敷地の一角に、道標があるのを教えてもらった。
言われなければ気がつかない。
車道から1段高い造成宅地のフェンス沿いに倒れているのは道標だ。
こんなとこ、どうやって見つけたん。
ここに家が建ったら道標はどうなるのか・・
「こうやってだんだん道標がなくなっていくんや」と息子。
芦田池 『推古天皇が、607年の冬、大和に造った4つの溜池(片岡池・高市池・藤原池・菅原池)の1つ「片岡池」のことで、官立の溜池である‥』と日本書紀に架かれているらしい。(説明板)
池は水が抜かれている(かいぼり 池干し中)
車道沿いに、孝霊天皇御陵・武烈天皇御陵への道標
あれっ?孝霊天皇は「田原本」、武烈天皇は「初瀬」に宮の伝承地があるのに?
御陵は王寺や香芝に御陵があるとは知らなかった。
(知らないことばかり・・)
今日の目的地?折り返し点?達磨寺についた。
達磨寺本堂 H16(2002)に建替えられた。立派なお寺だ。
本堂は、達磨寺3号墳という円墳の上に建っているそうだ。
建て替えの時に、石の蓋をした石室が見つかり、中に合子、その中に水晶の五輪塔、その中に仏舎利が入っていたという。
境内には・・
「達磨寺旧本堂の瓦製露盤」
なかなか間近で見ることのない露盤が目の前で見れた。
この露盤が乗っていたということは・・旧本堂は今の本堂とは屋根の形が違っていたということかな?
「一夜竹」
達磨大師が竹の杖を挿したところ、1夜で芽が出た、という。
熱帯性の株立ちの竹、ホウライチクだ。
「石像雪丸像」
「雪丸」は、聖徳太子の愛犬で、人の言葉も理解でき、お経が読め、達磨の墓を守るために本堂の近くに葬るように遺言したのだとか。
王寺町のマスコットにもなっている。
「薬師石」は、大和名所図会の、達磨寺境内図にも描かれているという。
目を閉じて近寄り、両手で抱けば、病気が全癒すると伝えられている霊石。
今は特に病気はないが・・念のために(笑)やっておいた。
他にも見どころがたくさんあり、見切れなかった。
帰路、途中までバスに乗ることにしたが、少し待ち時間がある。
1駅歩こうと言ったが、娘は村の中をひと回りしようという。
民家の庭に花が終わったばかりのイチゴノキがあった。
王寺本町の集落内をぐるっと巡る。立派な旧家が多い。
中でも目を引いた避雷針のある旧家。
ネットによると「谷家住宅」のようだ。
江戸時代後期に7年がかりで建てられたとのこと。
バスの時間に合わせて戻る。
途中のバス停で降りて、車を停めた所まで歩いて戻った。
6キロ余りのウォーキングだった。