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2012.07.18 NHK「世界ふれあい街歩き 上海四川北路編」スクリーンショットと今昔の思い(その2)

<「世界ふれあい街歩き 上海四川北路編」スクリーンショットと今昔の思い(その2)>の
始まり!始まり~!です。

(2-1)
ここは、四川北路への入り口とのことですが、我が家からは遠いので、子供の私は覚えていません。
この道は、今は「四川北路」となっていますが、私が子供の頃は「北四川路」と言う名称で
したから「キタシセンロ」と言っていました。
私達の住んでいた「麦拿里(マグノリ」は、この道沿いのずっと先の左側にあります。

(2-2)
魯迅公園です。私は赤ん坊の頃に連れて行って貰ったと思いますが、覚えていません。
私が幼い頃、大人がいつも「新公園、新公園」と言っていた所はここかと兄に聞き、そうだ
とわかりました。今は、魯迅公園となったのですね。
他にもいろいろ名前があって「虹口(ホンキュウ)公園」とも言われていたとのことです。

(2-3)
ここは知っています~~! 市場です。虹口市場といったのか~? 懐かし~い!
私は母に手を引かれて、この市場に来たことが、覚えているだけで数回あります。

この写真では人が溢れていますね。こんな光景は始めて見ました。
この光景はおそらく早朝で、飲食の店を商っている人達や、露店で野菜や果物を売る商売の
人達が、食材を仕入れに来てごった返しているのではないかと想像します。
よく見ると、大八車の様なもので食材を運んで来てその上で売っている人や、道に拡げて売っ
ている人も居る様で、市場の外でも市が立っている模様ですね。活気を感じます。
今、ふと気付きましたが、元々ここは、卸売り市場だったようですね。

私が母と行くときは、広い市場の中は整然としていて、食材が豊富に並べられていて、人ごみ
はなく、すいすいと歩けました。
天井には、毛をむしられた鶏が脚を上にして大量に吊り下げられていたのが、壮観でした。
(語弊がありますが…)
食材はさまざまで大量に並べられていました。
私は高菜の漬け物と豚肉を炒めたものが好きだったので、高菜の漬け物が山ほど並んでいる前
を通る時は、「アレ作ってね」と母にせがんだものです。

(私が覚えているのは、もっと家から近い市場だったかもしれません。旅行後に、私のブログ
を見た方から送って頂いた昔の上海の地図を見て、ふとそんな風に思いました。
ただ、上の写真の市場にも母は幼い私を抱いて、よく行っていたようで、いろいろな逸話を
聞いています。(ロシア人のパン屋の主人が赤ちゃんだった私をとても可愛がってくれたこと
など)それは、この市場だと思うのです。

 

(2-4)
病院です。福民病院という有名な病院です。私と妹は、ここで生まれたはずです。
見たことは無いと思われるのに、この写真を見て、あ!と懐かしく思うのはなぜでしょうか?
この道は何度か母と一緒に甘い物屋に行った時に通っている筈ですのでその記憶でしょうか?
(日本人経営のあのお店は、美味しかったな~! 時々思い出します。甘好きの母はあんこ物を、
私は甘くない物を食べました。豚ミンチを片栗粉?の皮で包んで茹でて、茹で汁毎ちりれんげで
掬って食べるのです。それが無茶苦茶美味しかった。忘れられません。^^母は同じ物で中が
こしあんのものを食べていました。これは中華料理ですよね。日本人経営でも上海の甘い物屋では、
こんなものもあったのですね。)

話がそれましたが、この病院は1924年に小豆島出身の日本人医師・頓宮寛(とんぐうゆたか)
が開いた総合病院で、日本語が堪能な魯迅が中国人の知人や親戚などが診察を受けるとき通訳を
していたそうです。魯迅の妻も1929年にここで出産している由。
同病院は当時、東洋一の個人総合病院と称されたといいます。
(「奇跡の医師」←頓宮寛の伝記が最近出版されたことを知りました。ぜひ読みたいと思います。)

このすぐ近くにあった日本人医師の石井病院と協力しながら、地域の医療に尽力したと聞いた
ことがあります。
志高く未知の地へと羽ばたき、献身的な治療に身を捧げた日本人達も居たことを忘れたくない
と思います。

(2-5)
福民病院は、今は隣の建物を併せて拡張し、「上海市第一人民病院」となっていました。

                     

                    (2-番外編)
                    昨年7月、上海を訪れた時、病院前で記念写真を撮りました。
                    題して、「72年前ここで生まれた?」です。^^

                                          (続く)

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