チタンの素晴らしさと、使い方や感想、
そして、「よくある質問とその回答」などを書き綴って行きたいと思います。
ミラクルチタン(チタンオンラインショップ 店長日記)
2012.10.06 90代の元職場の上司のこと(第3話=衝撃的な話)
この90代のHさんは、原爆投下から3時間後に広島市へ到着し、この世とも思え
ない惨状の中、部下と共に全力で救援活動をしていたことは、前に述べました。
1週間程経ってから、兵隊を交代させる為、一旦廣島から岩国へ戻りました。
それは、8月13日のことでした。
すると、岩国の空は米機が飛び交っており不穏なものを感じました。これは危ない。
岩国には飛行場もあるし、次はやられるのではないか?岩国が危ない。
そう思ったHさんは、すでに夜中になっていたのもかまわず、小学校の校庭に
部下を集めました。
120名の部下のうち、あちこちに小隊を差し向けていたので、残っている人数は
40~50名ぐらいでした。
荷車に、あるだけの食料を積み込みました。
その時、部下の隊員達がブーブー文句を言っているのが聞こえました。
「何も、こんな真夜中に招集をかけなくても!」「明日で良いではないか?」と
あちこちから聞こえました。夜中はよく聞こえるものだそうです。
上官と言えども、Hさんは若い青年将校です。
一方、部下は道路敷設と駅舎建設の専門家達で、年の頃なら40代以上です。
爆撃では主要な設備を集中的に攻撃されますので、まず交通の要所がやられます。
しかし、駅舎と鉄道路線をたちどころに復旧しないと、緊急に医薬品を運んだり、
病人を搬送しなければならないので、鉄道は生命線なのです。
Hさんの部下は、その任務を負った専門家達でした。
若造が一体何を考えているのか?と思ったのでしょう。疲れて眠いのに…。
しかし、手分けして近所の家々を廻り、「岩国が危ない。山へ避難しませんか?
一緒に行きませんか?食料はあります。」と誘って廻りました。
そして、参加した子供や母親、お年寄りなど、総勢200名余りで移動して山の方
へ向かいました。
田舎の山の中に着き、夜食(かんぱん)を配って、お寺などに分宿させました。
まさにその日が明けた14日に岩国は大空襲を受けたのです。
Hさん達が、山奥から岩国の街へ駆けつけた時の惨状はすさまじいものでした。
岩国駅の警備に当らせていた1個小隊12名の内の、1名の上体のみが飛ばされて、
焼け爛れた瓦礫の上に立っていたが、その他の11名はこっぱみじんになっていて、
遺体さえなかった。
駅はもちろん、宿舎であった小学校、そして街全体が壊滅した。
それを見たあの年輩の兵士達は、打って変わってHさんを神か仏の様に崇めた。
一日違いの決断で、200名の命が助かりました。明日では遅かったのです。
そして、その翌日の8月15日、日本は敗戦したのです。
信じられない話でした。
Hさんはこのことを、今迄一度も口にしたことがなかったそうです。
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(追記)
私のネット友人のヒラノさん(実際にもお会いしています)から、コメントがありました。
彼女は岩国生まれで、岩国で育ち、今はアメリカ人と結婚して、ロスアンゼルスに住んで
おられます。
コメント欄は隠れていて分かり難いですので、下に転記させて頂きました。
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岩国におられたので山口弁なのでしょうか。
広島の原爆では、私の母は16歳で爆心地から2,3キロのところで被爆しました。
私は母に当時のことを聞いてみたことがありますが(「語り部」のかたがたの仕事をテレビ
で紹介していたからだと思います)母は「父親が岩国から(岩国に実家がありました)
来れるところまで電車で来て、それからは歩いて迎えに来てくれた」「いろんなものを見たよ」
と言ったきり、話してくれませんでした。
母が認知症になってしまった最近になって母の妹から聞いたのですが、母は看護学校の学生
だったせいか、父親が迎えに行ったとき、原爆で亡くなった人々の遺体を焼いていたそうです。
おそらく、きちんとした葬儀用の焼却場ではなく、野焼きのような光景だったのではないで
しょうか・・・
私には話してくれない、話せない悲惨なものものを母は見たのでしょうね。
90代のこのかたは、わが身を病みながら語り部として尽くされて、ほんとうに勇気のある
立派なかたですね。
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ヒラノさんの疑問は、廣島の原爆のことでしたが、今回のお話は、ヒラノさんの故郷の岩国
の大空襲のことでした。
戦争の終末期には、日本中が壊滅的な爆撃を受け、東京大空襲では一面の焼け野原だった
そうで、大阪大空襲でも同様、他の日本の各地が地獄となりました。
私は今年8月に、淡路島へ予科練少年兵の墓参に行きましたが、当時の淡路島及び四国の人々が
連日の襲撃に怯えていたと聞き(人が亡くなっても荼毘に付すことは出来なかった。煙を見付けて
敵機が爆撃に来るからとのことでした)都会だけでなく島々まで恐怖に陥っていたことを知りました。
私は、敗戦迄上海にいましたが、子供だったのであまり覚えておりません。
(1回衝撃的な大爆撃があり、ドイツ人の肉屋さんのビルが爆撃され、後で見に行くと階段だけが
残っていました。それは記憶しております。夜中だったからか、隣家が爆撃を受けたと思いました。)
内地の方々の方が、連日恐怖と食料不足に苦労されていたのだということを、今更ながら思い知る
日々です。
「2012.09.29 90代の元職場の上司のこと(第1話)」
「2012.10.04 90代の元職場の上司のこと(第2話)」